第二十四話 掲げるもの、抱くもの

第六編 北条義時

第四話


「さて、宇治川の戦いにおける両軍の戦力だが、数で言えばそこには大きな隔たりがあった」


上洛を試みる希義は弟である範頼と義経に兵2万5000を預けて先遣隊とし、自らは1万5000を率いて出立した。先遣隊の内訳は騎馬隊が2500、大槍隊が7500、弓隊が4000、迫撃隊が7500、歩兵隊が3500と言われている。3割が火薬兵器というのは極端な火力偏重主義に近いものがあると言えるだろう、この規模の火薬兵器を使用する軍を整えることが出来たのは、世界広しと言えども間違いなく彼らのみであった」


しかもこれは陸軍だ。元来、河内源氏は栄光の二代目頼義からその主力は水軍と相場が決まっている。希義が書いた極めて貴重な文が現存しているのだが、それによれば1182年の頃から既に上洛に伴って船を本拠地である横須賀から淀川河口...今の渡辺津の付近へと移して平家との戦いに備えるということを検討していたようだ」


実際彼らが都入りした時に船がそこへ集められたことは事実だ。だが、それだけではなく院や尊成親王、幼き日の後鳥羽天皇らを招いてその前で大々的に船を走らせ、喜ばせたらしい。これは日本で確認できる中で最初の、軍艦による観艦式と言えるだろうな」


4万の軍勢に100近い船舶とそれに乗り込む水兵1万、これを派遣してもなお北の抑えとして2万が残る。関東九国の覇者は伊達では無い」


これに対して義仲軍は1183年閏10月の水島の戦いで大敗し、その兵力と武威を落としてしまっていた。そこに人心掌握の失敗だ、数万とも言われた兵はわずか1000余騎にまで減ってしまったと伝えられている。瀬戸内と九州を制覇して戦力を回復させた平氏が再度上洛を考えるくらいには弱体化しており、焦った義仲は院を幽閉するという最悪の手段に出る」


この時既に近江国には先遣隊が到着していた。加えてそこに至るまでの道に当たる東海道と東山道の支配を認める宣旨を院が出しており、義仲は本拠地を失って窮地に陥る。対して希義は討伐の大義と、東北を除く東国ほぼ全ての管轄権を得たと言って良かった」


四面楚歌の義仲は一時は平氏との和平すら交渉しようとしたが、これも失敗。北陸から抜けて包囲網を脱出しようとしたものの、この絶妙な瞬間にが流れてきた」


『近江国の兵は1000を少し超えた程度。なぜなら関東は飢饉で兵が集められていないから。そしてそのわずかな戦力も長旅と兵糧の乏しさから士気が低い』...本来ならば明らかに罠だと訝しんだだろうが、焦燥していた義仲はその判断力すら鈍っていた。箔をつけて多少なりとも兵を集めるのが目的だったか、あるいは自身の戦争指導には自信があったのか...今となっては定かでは無いが、彼は誤った情報に乗せられたことに気付かぬまま、北陸への逃亡を中止して迎撃を画策した」


現在ではこれもまた「隠密衆」の前身が関わっていた可能性が高いと言われているな。創設時の中枢の人員から考えるに葛原泰勢だけではなく、義経の郎党であった伊勢義盛らもその噂の流布に協力していたと見るべきだろう」


義仲が引っかかったとの情報を得た先遣隊は軍を1万5000と1万に割り、1万5000率いる範頼が瀬田川方面から、1万率いる義経が宇治川方面から進撃を開始。ようやく義仲が敵の兵力を把握した時には渡河をして南へ逃げることも、瀬田の唐橋を渡って北へと逃げることも出来なくなっていた」


圧倒的とも言える兵力差を背景に、上洛を果たした先遣隊は義仲を賊軍と断じて士気を落とすためにあるものを使用したんだが、何か分かるか?」


おや、清岡君から聞いてたか。そう、義経の発案で皇室を尊び忠義の人と称された菅原道真の遺告、『北野殿遺誡』の中のある一文を旗にして掲げたんだな」


すなわち、『臨者為護皇国須滅朝敵』の十文字。日本海海戦において初めて訓示され、以後戦闘中は常にこの意を顕すZ旗をマストに掲揚するようになった例の文もここから採られたと言われているな」


これを見た後白河院は狂喜し、由来を知った義仲は深く絶望した。兵の統率もまた極めて困難な状態になり、ただでさえ少なかった義仲軍は数騎を残して溶けるように崩壊した」


義仲はわずかな供を連れて落ち延びようとしたものの、最終的には粟津で討ち取られた。義仲の討伐、院の救出、京への上洛と全てを果たした先遣隊はそこで一度停止。ついに皇軍の総括者、東国の覇者として君臨するに至った希義とその参謀たる義時を含めた本軍を迎え入れた。宇治川の戦いから5日後のことだ」


「義仲という予定外の敵の出現があったものの、残るは仇敵平家のみ。伊勢平氏もまた元来水上戦は得意としているため、以降の戦闘は海戦が多発することが予測された。しかし、まずは安徳天皇を奉じて福原、今の神戸に陣取っているのをどうにかせにゃならんかった。可能であれば、帝を立てているというその正当性も排除したかった。義時はこの双方を叶えるべく、その智謀を駆使して策を講じることとなる。」

































-寿永3年(1184年) 1月25日 平安京-


京よ、私は帰ってきたぞ!


...なんて言っても伊豆や相模や江戸田舎と二十一世紀から見ればどちらもそう対して変わらん、愛着というほどのものも無い。見知った景色が目の前に広がっているのに多少感動はしたが。


義仲との戦闘に勝利した。兵糧も輸送ルートが構築出来ているから問題ない。中部から関東は我々の勢力下に収まり、畿内もまた同様に保護対象となった。略奪は厳しく禁じてある、多分しばらくすれば市井の支持もある程度は得られるようになるだろう。


『戻ったぞ』


義兄上が院との会談を終えて帰ってきた。茶を勧め、一息つく。


『首尾は如何でございましたか』


『うむ、上洛の前に正五位を頂いているから脈はあったと思っていたが、考えていた以上であった。その方の策を全て採用するとのことだ』


よし、これで尊成親王殿下後の後鳥羽帝との不和は避けられる目処が立った! そして公武両政権の並立もほぼ立ち消えになった! ようやくだ、ようやく目標を達成することが出来た...


『それでは、平家を討伐した暁には』


『うむ、この日ノ本は統一されような。武田太郎信義ら甲斐の者達の賛同も得られたが...陸奥守藤原秀衡の一族だけは気がかりよな...』


『...最悪は討伐もやむを得ませんな』


『仕方あるまい。我らは天下の統一を目指すのだからな、それに従わない者は斬らねばならん』


私が幼少期に武家政権の消滅と民主主義の芽生え、そして内戦に終止符を打つための乾坤一擲の策として絵を描いたのは、「源希義あにを旗として坂東をまとめ、上洛して平家を討つ。そして天下統一を達成した後に武士を令外官ではなく朝廷、帝を中心とした新たなる政の府の中に国家の武力による守護者、治安の維持者として組み込む」というものであった。元寇という海外の脅威も既に残り100年を切っている状況で、国内で壮絶な権力争いなどやっていられない。そして破綻が見えてきている荘園制度や律令制を打破し、統一国家を創るためにはこの人生が最後のチャンスであった。


ここまでが非常に長かった。戦は運頼みな部分も多々あったし、正直に言ってこの構想が受け入れられるかどうかも怪しかった。だが、院に賛成して頂いたのだ。実現可能性は一気に高まってきた。戦闘もここまで上手くいっているばかりか、武田氏を“史実”以上に従属的性格に抑え込めている気配がある。なあなあで何も取り決めはしていないが、信義はこちらに引け目を感じているようだ。これなら武士勢力の旗頭に河内源氏を...希義義兄上を名実共に据え、新たな行政組織を構築出来る。


政の府の名は、政務まつりごとのつかさ議閣のはかりのおおどの源高明三周目の構想をようやく反映し、なりはひのまつりごとのつかさを追加した八省改め九省を束ねて国の意思決定を行う、言わば陣定の強化版だ。人員は太政大臣を含めた公卿と省の長で、官僚はここで決定されたことに従って政務を行う。最終決定権は帝にあるので明治の天皇親政がその構図としては一番近いと言えるだろう。


宮内省は儀式と儀礼の場とし、国政を司るこちらとは分離させたが、評議には出席させる。他の者は、当然その立場に相応しいだけの政務能力が無ければ務まらないため、不適格と見なされればあっという間に降格、解任もありうる。政務議閣を統率するのがいわゆる太政官で、彼らの組織は太政閣だじょうのおおどのと名を改めた。公卿の連中のやることは大して変わっていないようにも見えるが、ここで注目するべきなのは兵部省の扱いである。


天下統一を達成し、武士を一つにまとめて兵部省管轄とし、国軍を創設するというのがミソだ。各国の国司に分散されていた軍事力を兵部省...つまり帝の下で一本化する。つまり最高司令官は帝だ。反乱は即賊軍と断じられて鎮圧される。それだけで内向きには抑止力として十分に発揮されるだろう。それに今の兵は農兵だが、それも止める。傭兵業を営む人間を召抱えて軍の根幹とするのだ。彼らを統率するのが今の武家と呼ばれる者たちになる。銭が大量にいるだろうが、経済発展の奨励で解決の見込みはある。この歴史では関所というものは存在が消えることになるだろう。有事には農民からも徴兵を行って軍備を増強する必要があるだろうが、まぁ後の問題だな。


それと、蔵人所は帝直属のままになっている。政務議閣内部での不正監視は中務省の仕事に割り振ったが、その中務省を含めた全体を監視させることを提案した。現在の政治体制よりもさらに中央集権的性格が強まるのがお気に召されたのか、院は二つ返事で賛成したようだ。律令も現状に適さない以上、新たに制定し直した方がいいというのには流石に驚いていたようだが。しかし過去前例のない程の大改革だ、達成するためにもまずは平氏を倒して全国の統一を成し遂げねば...


『しかし、神器を奪われているままなのは痛いな...木曽次郎源義仲め、政と戦は一体であるということを考えていないから死んだ後も我らが尻拭いをする羽目になる』


義仲が上洛したまではよかったが、安徳帝は平氏に連れ去られて神器も一緒だ。院がいるとは言っても国の中枢は法的に見れば京では無いことになる。だからこそ院は早く親王殿下を践祚させたがっていたのだが、これは無理を言って待ってもらっていた。神器奪還は容易ではないが、既に衛門の部下が何年も前から潜んでいる。福原まで拠点を再進出させている平家を陸海から圧をかけて郊外までおびき出し、宮中の警護が手薄になったタイミングを突いて奪還する予定だ。


『真に、厄介なことで...ところで、福原攻略は何時程を目処に致しますか?』


『なるべく早い時期をと考えておる。一週間したら範頼九郎義経、それと伯耆守多田行綱を中心にした追討軍の結成だ』


『承知致しました。それと福原にございまするが、彼の地は平氏の本拠地、壕や逆茂木を配備して火車や火筒をも含めた飛び道具が十分な効果が望めない可能性を考えるべきかと』


“史実”では弓では大勢を決することが出来ず、随分と激戦になっていたはずだ。侮ることは出来ない。


『さらば鉄甲車の出番だな。動かす者にも盾を持たせた方が良さそうか』


『はっ、良きご思案かと。ただ重装備では山越えは厳しゅうございましょうが...』


『ふむ...丹波路と西国街道の兵の割り振りを変えるか。丹波の方は迫撃兵と歩兵を少なめに、騎馬兵を多めにして速度を重視させれば如何か?』


『そう致しましょう。平坦な道を行かせるのであれば火薬武器の数が多いに越したことはございますまい』


『うむ。十文字旗もたっぷりと持たせてやれ』


『...ははははは』


笑って誤魔化した。というかだな、なんで義経のヤツはあんなもの二周目の遺書の中身を知ってんだよ! 顔から火が出そうだ、黒歴史を思いっきり掲げられてるようなものなのだから...


〔鞍馬寺の僧から教えられた可能性が高いと思われます〕


あー、鞍馬寺は皇室と縁の深い青蓮院の影響下にあったっけ...おかしくはないのかな...まぁ済んでしまったことは仕方が無いと諦めよう...


大坂の渡辺津には既に船が集まり始めている。戦力に申し分は無い、勝てるはずだ。そして一ノ谷を落とせば屋島まで後退せねばなるまい、そこを船団で叩くのだ。上手くやれば壇ノ浦まで追いかけなくても済むかもしれないな。

































義時が起草し、希義が奏上した新たな組織、政務議閣。内容としては従来とそう大して変わらんようにも見えるが、実際は現在の民主主義の根幹を成す文民統制への布石であったとも言える」


それに旧来の朝廷は、極論で言えば京の内部のことを考えてさえいればよかった。少なくとも地方がほっぽり出されている部分は多分にあったわけだ。だが、地方の軍事的有力者をひとまとめにして民族国家としての軍事・治安維持組織を創設し、ひいては民政と地方自治の基礎を固めたという点において非常に先進的な考えを持っていたというのは間違いない」


軍事力の指揮権を地方から引き剥がし、さらに農兵ではなく銭を出して雇う軍人階級の出現によって国家の統合と兵農分離が同時に推し進められることとなった。農繁期には兵を集めにくかったのが、どんな時期であっても戦闘が可能になったんだな」


貴族もまた、それによる変化を余儀なくされた。今までと違って仕事が出来ないと思われたらどんな血筋の者でも国政の根幹には関われなくなった。荘園が消滅し、その代わりに仕事の地位に応じて禄が支給されるようになった」


反発はあったが、意外にもそこまで大きくはなかった。固定収入が消えたと言っても仕事をそつ無くこなせさえすれば今まで通り...下手をすれば収入の増加も見込めた。この辺りの根回しは義時から希義を通じ、後白河院によって行われたと考えられる。そして才能さえあれば、家格の上では望むべくもないはずの職にありつくことすらありうるというのは、中流以下の貴族の支持を取り付けた。また、宮内省が皇室侍すめらむろのさぶらひという政務議閣とは別の場所に分類されたことで、儀式や祭礼に知識があれば同様の給料が貰えるという、ある種の受け皿となっていたことも大きい」


そして最も大きな変化と言えるのは、経済の根本からの変化だろう。従来は税といえばまず米であったが、この改革を機に一気に貨幣経済が主流となった。その結果商人の地位の向上や豊作な所から買い取るといった柔軟な手段が取れるようになったことで農民が商人や傭兵となってもさほどの問題が発生しなくなり、一次産業から二次産業への転換が進んでいくことになる」


民主主義国家とは言えないが、政治的には古代国家から一足飛びに近代国家への脱皮を果たした稀有な国の例と言えるな。これにより我が国で科学技術の発展が加速し始めたのは間違いない。以降の歴史において、本邦は常に世界の最先端を走り続けているからな」


...まぁ実際に実現したのは平氏滅亡、奥州合戦以後の1192年からではあるが。一応壇ノ浦の戦い以降から一部は始動していたが、完全に機能し始めたこの年をもって時代区分的には平安時代から新政時代へと変遷したというのが現在の定説だな、詳しいことはまたその時に話そうか」


さて、義時が提案したのは京の出立と辿る道の情報を意図的に流出させることで軍勢の前線への誘引を行い、警備が緩んだ隙を縫って神器を取り戻すというものであった。針の穴を通すような作戦ではあるが、既に何年も帝の傍に葛原泰勢の配下が潜んでいたことから、不可能ではないというのが彼の見立てであった」


神器無くして新帝の正統性は担保出来ない。政治的に見るなら一刻も早く践祚させるべきではあったのだが、正統な後継者としての立ち位置を磐石なものとするために尊成親王...後の後鳥羽天皇の即位は半年ほど延ばされた」


「そして一ノ谷の戦いの前哨戦である三草山の戦いが発生した直後の喧騒を利用し、奪還作戦が開始される。戦力が郊外に進出したのを見計らい、夜間に回収、脱出を果たす。船を使って瀬戸内を移動し、一ノ谷の戦い勃発時には京へと帰還した。成功の報を受け取った洛中の一同は手を叩いて喜んだと伝えられている。」

































-寿永3年(1184年) 2月7日 平安京-


衛門が夜中に大慌てで面会を求めてきた。神器関係のことだろうと直感し、すぐに通した。


『夜分遅くに申し訳ございませぬ』


『問題ない、情報を早く得られるのであればそれに越したことはないぞ、衛門。何があった?』


『されば、神器のことでございます。先程無事に某の屋敷までたどり着きましてございます』


『首尾は...と聞くまでも無いな。ようやった! その者らは今何処に?』


『屋敷にて待たせておりまする』


『よしわかった、馬を出す。労ってやらねばならん』


『殿、それには及びませぬ! 使いをやってこちらまで来させまする』


『なに、こちらはそう大して動いていないのだ。福原から夜通し命懸けで戻ってきた部下を褒めるために呼び寄せるなどすべきでは無かろう』


『...ありがとうございまする、殿の配慮、真に痛み入りまする』


その程度は当然のことだ、歴史に残る大手柄なのだからな。殿下の即位を延ばしていただいた甲斐があったというものだよ。さて、義兄上に神器を持っていくついでで移動の旨を伝えてから向かうとしよう。





屋敷に到着すると、中から3人が転がり出てきた。次々に膝をつく、少々こそばゆいな。すぐに「面を上げよ」と言った。輝くような目だ、小市民の私には眩しすぎるぞ。


『此度の働き、真に大儀であった。何年も敵陣深くに潜み、さぞ大変であったことであろう。だがそのお陰で我らは神器を取り戻し元あるべき場所、次なる主の御許へと献上することが出来る。礼を言うぞ』


頭を下げると「そんな」とか「殿」とか困ったような声で言われたが、それだけのことをしてくれたのだ。今まで何代にも渡って私を助けてくれている、感謝してもしきれない。彼らの働きに応え、今までの失敗を、後悔を、犠牲に報いなければならん。これは...この改革だけは、絶対に...


〔.................................〕

































神器は京に戻り、新帝の践祚は遅れこそあったものの恙無く行われた。平氏はその報を聞くまで奪われたことにも気が付かなかったと言われている」


伝承としては『吾妻鏡』に伝わるのみだが、俺は有り得ないことではないとは思う。なにせ一ノ谷の戦いは激戦で、両者共に大混乱に陥っていたと推測されるからな。前哨戦である火車、火筒の撃ち合いは本家である源氏に分があったが、地の利がある平氏を排除するには至らず、しばらく攻めあぐねていたようだ」


そんな中、一番最初に敵陣を落としたのは多田行綱率いる山の手攻略軍だ。三草山の戦いで勝利した後に鵯越で二手に分けた搦手軍の片方を任された彼は、義経と共に麓に布陣していた平盛俊を挟撃、敗走させる。勢いに乗った行綱軍はさらに平通盛・教経兄弟の軍も打ち破り、一気に福原まで攻め込んだ」


二番目に敗走を開始させたのは西国街道を進んでいた範頼の大手軍だ。生田周辺で開始された戦闘であったが、大軍が襲来するとの情報を得ていた平氏によって逆茂木や壕が設置されその行く手を阻んでいた。そこで道が比較的平坦であったことから重装備で進軍していた範頼軍は鉄甲車を投入して突撃する。元々は攻城兵器として運用されていたが、こういった障害物の突破にも一役買った感じだな」


さらに行綱に軍のほとんどを任せて騎馬兵の中でも特に精兵のみを抽出した義経の別働隊は、三草山以降追撃のために大きく迂回路を取って西側から攻撃をかけた土肥実平の軍に平家が気を取られている隙に鉄拐山を駆け下りてその横腹に突進。100前後の騎馬による奇襲的突貫は一気に陣地深くまで侵入し、平氏を混乱の渦に叩き込んだ。これが有名な鉄拐山の逆落としだな、側面を騎馬で滅茶苦茶にかき回されて彼らは我先にとばかりに撤退した」


しかしな、なまじ最初に落とされたのが戦場となった場所の中でも最も本拠地に近い所だったせいで多くの将兵が逃走に失敗したんだ。名のある武将も結構な数が逃げきれず、討ち取られた。パッと挙げられるだけでも平通盛、忠度、経俊、清房、清貞、敦盛、知章、業盛、盛俊、経正、師盛...一門の壊滅ぶりが凄まじいよな」


さらにこの中だけでも、師盛や知章などは船に乗り込み戦線を離脱は出来たが、三草山の勝利の報を受けて駆けつけた源氏の水軍による攻撃で船を沈められて溺死したと伝わっている。結果、郎党はほうほうの体で屋島へと撤退した」


とは言っても先程述べたように、伊勢平氏は船の扱いに長けている。一ノ谷で打ち破られた平氏は鬱憤を晴らすかのように讃岐国と阿波国を中心に瀬戸内海を荒らし回り、その制海権を未だに維持していた。これを決して侮ることが出来ないと考えた希義らは関東からさらに船を回航して水上戦力を増強、その影響力の排除を画策する。しかしここで突如として京から東海道、近江にかけて複数の反乱が同時多発的に発生、まずはそちらに力を割かざるを得なくなる」


「原因は独立性の強い京武者と平氏の残党の協力体制が構築されたことによる。この時の政治的・軍事的混乱はちゃんとした説明が必要だな...今日は大分喋っちまった、この続きは日を改めることにしようか。」

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