第二章 皇軍、起つ

第六編 北条義時

第二十一話 六周目

第六編 北条義時

第一話


「うっし、それじゃあ忠実没後の政局の動きから全国的な対平氏挙兵までの十数年間を掻い摘んで説明していこう。33年戦争って言ってもその間ずーっと大規模な戦乱が続いていたわけじゃない、政治の動きからも見ていかなきゃならん」


先日に清岡君が話してくれた通り、忠実のような調停者の死と、院政派と親政派が共倒れして既存の貴族勢力が消滅したことが重なって権力の中枢部に大きな空白が出来た。これを機に父の支配から抜け出たい二条帝が平清盛と手を組み、後白河院を政の中心から外したわけだな」


反発した院は忠実から託された河内源氏を増強して対抗しようとした。実際、これで小競り合いになりかけた事もあったが、保元の乱、平治の乱の記憶も新しく戦争は相互に望んでいなかったために妥協が図られる。院の権力は多少低まったとはいえ保持されることとなった」


ところが二条帝は若くして崩御し、親政の目論見は消えた。帝の遺児たる六条天皇では将来また自身の政権を危うくしかねないとばかりに、庇護者を失って靡いてきた清盛と共に新たに息子である...六条天皇にとっては叔父だな...高倉天皇を据えて院政の再起を図った。この時清盛は邪魔な存在でしかない河内源氏を完全に無力化するために積極に彼らを煽り、院に風説を吹き込んで関係を裂いていった。最終的には院本人の手によって離散させられ、ある者は奥州、ある者は伊豆...というように配流されていった。まぁ、現在では彼らの多くが無事に落ち延びていることからどうやら院が庇いきれなくなって逃がしたという面が大きいと推測されているがな」


それと同時に清盛は河内源氏の力の源である火薬兵器や船の接収も狙ったが、これに関しては失敗した。聡い連中が呼びかけて焼却処分したり、技術を知る人間はさっさと逃げたりしてな、やはり関東の方へと逃げたのが一番多かったらしい」


清盛の手に何も残らなかったというわけではなかったが、源頼義公の時のような大軍としての質はおろか義朝が保元の乱で率いたような兵も再現は出来なかった。火車は劣化版を作るのが精々だったし、火筒を作ろうにも鍛冶職人は逃げちまった。最先端技術という宝の山があったはずの科学研究所や、朝廷お抱えだった製鉄所も河内源氏の浸透が進んでいたと見えて、その多くがもぬけの殻となっていた」


まぁ...予想と比べてその近代化が思うようにいかなかったと言っても、畿内最強、全国最強なのは変わらん。その先を行っていた者たちを崩したから二番手が浮上したとも言えるがな。しかし、損失は敵を利する行為であり、清盛の怒りは察して余りあるだろう」


で、院も懲りないし自分の力で政を行いたくて仕方が無いんだな。決して当時の一部の文献に書かれるほど無能であったわけじゃないし、離反した者が再度恭順してきた際に迎えるだけの度量の広さはあるんだが、権力欲が相当に強かったと見える。軍事力で他を圧倒し始めた平家を危惧して様々なところに手を回し始めた。だがここで清盛打倒の謀議を企てていたとして院近臣が拿捕され、両者の間の亀裂が明白になっていく。俗に言う鹿ヶ谷の陰謀ってやつだな」


陰謀の背景には比叡山系を中心とした僧やその信徒らの強訴を御しきれなかった平氏への不満なんかもあるんだが、とりあえず形式上は院は関わっていないとしらばっくれて事を収めた。だが2年後の1179年には院と清盛を繋ぐ唯一に近い存在であった、清盛の嫡男である平重盛の死去から一気に事態が変わり始める。清盛の面目を潰すような人事を行った上に、重盛の荘園を自身の物として没収してしまった。さらに平家の財政基盤になりつつあった宋銭の貨幣としての価値を否定しようとした。彼らの影響力の低下を図ったわけだが、同時期に親平氏勢力の一つであった比叡山の内部でも清盛に悪感情を持つ派閥が台頭し始めていたのが不味かった。情勢は予断を許さず、そう判断したために彼はここで強硬手段に出ることを決意する」


突如として京を軍勢で埋め尽くし、院を幽閉してその権力を停止した。治承三年の政変と呼ばれているこのクーデターによって、平家の傀儡としての高倉院政、安徳天皇の擁立が行われたんだ」


だが、当然後白河院らは納得なぞしない。そしてこの政変で不満を強くした人間の中に、高倉院の兄弟、以仁王がいた」


彼はこの時に所領を奪われて、経済的に親王宣下が絶望的な状況になってたんだわ。そこで同じように平家の蔑視に不満を抱いていた源頼政に密かに挙兵を持ちかけ、全国的に令旨を出してまで政権を倒そうとする。平安時代の終わりを告げる以仁王の挙兵、その始まりだ」


本来なら親王宣下が行われていないから令旨とするのは間違っているのだが、これはあえてそういう形を取って皇軍としての体裁を整えようとしたと思われる。「君側の奸」...これは後の造語だが、つまりこのような形で平氏の影響力を排除することが目的だったんだな」


挙兵自体は失敗し、以仁王も討ち死にとなるのだが、その触れを全国的に出すことには成功した。これに呼応したのが全国に散らばっていた河内源氏残党、そして平氏という初の武家政権にも関わらず清盛一門が貴族化してしまったことで失望していた武家の数々であった。これが、33年戦争中盤から全国的な挙兵に至るまでの京周辺の流れだ」


さて、話をこの時代の寵児へと持っていこう。義朝の遺児はそれぞれに運命が待っていた」


一番上の希義は伊豆へ配流。二番目の阿野全成は醍醐寺で出家。三番目の義円もまた園城寺で出家の身となった。末弟、義経はまだ幼く追っ手を逃れて鞍馬寺経由で奥州藤原氏の庇護下に納まった。そして全員無事に成長し、雌伏の時を過ごす」


その中で長子である希義は早期から周りに有力氏族を集めていく。やはり河内源氏棟梁の実質的な嫡男ってのはそれだけ人を引き付けたんだな、院や清盛に追われた者の多くが最終的にはそこへ辿り着き、伊豆は一躍活気のある地方都市になっていく。平家は畿内の安定のためにそういった所まで中々手を伸ばすことは出来なかった。勿論安定さえすればいずれは討伐する予定だったんだろうが、なにせ肝心の人心が掌握出来ていなかったからな...わざわざ元服前の少年で構成された隠密組織「禿」で敵対者を監視して恐怖政治を行っていたというのは多分君も知っていることだろう」


流された希義がいずれは父の仇を討ちたいと願っていたのは当然のことではあるだろう。そんな若く才気に溢れる彼を導き、生涯にわたってその側で支え続けた男こそがまさにこの時代の主人公、一昔前までは全ての黒幕とすら言われた人物...もう分かるな?」


「そうだ、朝廷近衛軍...帝国陸軍の母体となった日本の正規軍を設立し、初代守人元もりのひとのご帥補佐んのそちのすけとして謀略と政務で華々しい活躍を見せ、同じく初代近衛軍このえぐんの参謀長さんぼうのおさたる義経と共に元帥の両義と謳われた名将、北条義時。希義は自分より11歳年下の彼を最期まで重用し続けた。」

































-治承元年(1177年) 10月下旬 伊豆国-


 いやあ、驚いた。まさか“史実”の鎌倉幕府二代目執権になるとは思わなかった。毎度毎度転生の度に驚かされてばかりだな。聞こえてくる言葉の単語や屋敷のなりからして京では無さそうだと当たりをつけていたんだが...5歳くらいの童女に「お姉ちゃんですよ」なんて言われて面食らったわ。後で気がついたがそれが後の北条政子だぞ、尼将軍が姉とかやりづらいことこの上ないわ。


 なお、生まれてからずっと観察していて気がついたことがある。どうも彼女はブラコンの気があったんじゃないかという気がするのだ。考えてみれば牧氏事件も承久の乱も、頼朝の遺児のことがあったとはいえ肉親の中で最も私に有利な状況を整えていたからな...この歴史はどうなるか分からんが、出来れば家族で袂を分かつことが無いことを祈りたいものだ。


 頼朝が伊豆に流されることなく平治の乱で死んだ。これはハッキリ言って飛んでもないことになったと思った。歴史の教科書に載る人間の筆頭が消えたのだからな、未来は完全にわからなくなった。代わりなのか、義朝遺児の中で長子となっていた源希義がこちらに来たのだが、実は考えようによってはこの方が好都合とも言える。頼朝よりも年が離れていないから話をしやすいし、彼と違って官位を受けずに元服も済ませていなかったことから朝廷への不信感はそこまで大きくはないと考えられるからだ。院が離散させたという事実はあるが、それだって清盛の策略の一つ。実際都からの情報では駆け引きの中で次第に押し込まれていったが故の苦渋の決断であることが分かっている。つまり鎌倉幕府なんてものを開かなくとも済む可能性が十分にあるのだ。朝廷と対立なんて勘弁してくれ、それで国力が無駄に磨り減るのは辛いものがあるんだ。島国、それもイギリスと違って周辺の大陸勢力が統一しやすい条件が揃っているのもあって戦争をしながら軍事以外の分野での技術革新を行うという離れ業が出来るとは思えないのでな。ならば早期に国を統一し、海を渡って他国へと出る他に無い。モンゴル帝国も心配ではあるが...


 希義と再会したのは転生後五年ほどした時だったか。少し背が伸びて大人びたなという感触を抱いた。まさか目の前で父や兄の死を知らせた爺様が目の前のガキだとは夢にも思っていないだろう。ただ、聡明なのは間違いが無い、話していてその確信を得た。私の政略や軍略、故事の話にもきちんと理解して着いてくるし、何より年下の人間でも敬意を払って耳を傾ける所は気に入った。既に義朝配下であった有力者の何人かは集まってきているし、鍛冶屋や科学研究所に務めてた藤原忠実前世や義朝のシンパも流れてきている。これは死ぬ前に隠密組織を走らせて保険をかけておいた甲斐があったかな...しかし、やはり後白河院は権力欲が強い。清盛も清盛で似たようなものだから政治闘争に巻き込まれるととんでもないことになりかねん。技術者や元義朝配下の人間に対しては追っ手が差し向けられる前に逃げられるよう連絡していたという噂は聞いてるから、それ一辺倒では無いのは分かってるがね...だがまぁ、結果オーライだ。平家の連中にそこまで技術を吸収させずに済んだからな、こちらは源氏の棟梁、その嫡男という箔がついているから人が集まる集まる。“史実”以上に船が発達しているから下田が台風からの避難港、中継港として既に栄え始めていた。水軍の再建にはとても都合のいい場所だろう、河内源氏二代目棟梁前前世の血が騒ぐ。


 今年は希義と政子あねの婚儀が執り行われた。確かに目鼻立ちはパッチリしていて、イケメンと言える顔だと思うよ? 例の有名な肖像画から推測できる頼朝よりは整ってるのは間違いない。ちなみにあの肖像画、実は頼朝じゃなくね?なんて学説があったような気がするが...でもやっぱり流浪人の妻になりたがるのはこの歴史でも変わらないんですね、姉上。頼朝と違って初婚らしいからもう二人ともメロメロだよ。爆発しやがれ。


 この時代では最も優先されるであろう、素性の是非に関しては私は全く気にしなかった。今は一介の流れ者とはいえ、多分盛り立てればいい感じに武将として名を馳せるようになるからな。だが知らされた時は父上が茶を吹き出したと思ったら噴火しかけていたマジでプッツン5秒前じゃないの、お願いだから唐突にカミングアウトするのは止めてね。兄上も湯呑み落としてたから。紆余曲折はあったけれども、最終的には認められた、いや姉が認めさせたと言うべきか。私も未来を考えて援護射撃はしたが、どうも父親というのは娘に弱いらしい。今までの人生では政略結婚のために娘を嫁に出さざるを得なかった、そういうことが無いのを羨ましいと思うのは贅沢なのだろうか?


 兎にも角にも私はこれで彼の義弟となった。初めて嫡男ではなくなった私は、割と自由に動けたために“オモイカネ”の知識を披露しても驚かれはされても怪しまれることは無かった。次男坊なら領内をぐるぐると回っていても特に何も咎められないからな。そのため諜報組織との再接続もハードルは低かったし、そこは僥倖であったと言えよう。この人生こそが、日本を飛躍させるか否かの正念場となってくるのだから...平氏政権はやはり受け入れられていないし貴族化していることで武士の支持も失いつつある、このまま行けば間違いなく以仁王が挙兵するだろう。


 今世が始まってから必死に情報を集め、“オモイカネ”と打ち合わせを幾度となく行って温めた策は...リスクは周りの者たちの命と名声に日ノ本の将来の発展の遅れ、リターンは現在日ノ本が抱える問題のほぼ全ての解決というまさに乾坤一擲の策は...ある、後は我々自身の準備次第か。天気に邪魔されて大敗北を喫した石橋山の戦いの再現は御免だ、何としてでも勝ち進まねばならん。坂東武士の朝廷への不信感は決して大きくは無い、“史実”ではこれのために政権を割らざるを得なかったが、今の状況であれば起死回生の策は充分に達成しうる。私が希義あにを誘導するのは少し引けるが、謀略とはそういうものだ。この国を立ち止まらせてはならん。

































北条家ってのはな、少々...いや、かなり不可思議な一族なんだ」


何故かと言うとな、彼らは桓武平氏の流れを汲む伊豆土着の豪族を自称していたんだが、義時の父である時政以前の家系が文献によってまちまちでさっぱり分からないんだ。時政の祖父の代までは名前と伊豆介という役職が一致しているを考えると、多分その頃には伊豆にいたんだろうと思われるが、それより前の出自はほぼ不明の域。時政の半生も謎に包まれている」


だからぽっと出に近いんだよな。ただし領民は割とまとめているから国司にとっては頼りになる存在だったと考えられる。もっとも、平氏政権からすれば主敵の子を支援するようになった時点で敵対者となるのだが」


...ああ、そうだな。希義と政子はこの時代では珍しい恋愛結婚であったと断定出来る稀有な例だろう。平氏に協力的だった父からすれば青天の霹靂、兄もまた否定的であったと言う」


唯一最初から賛成したのは一家の中では義時ただ一人であった。これが後に舅の家の人間で義理の弟だからという理由以外で希義が彼を最も信頼した要因の一つとも言えよう。義時は政子と共に希義の元によく通い、共に語らうことも多かったという伝承があるからな、賛成したのも納得出来る」


この時はまだ分家の江間姓を名乗っていたが、義時がこの頃からその才能の片鱗を見せていた証拠として、希義が後年「我が考えの大半は蛭ヶ島にて義弟と語りし日々にまとまった」というようなことを言っていたのが挙げられる。希義の人心掌握能力、政務能力、軍略は優秀であったのは間違いないが、その形成に義時が大きく関わっていたのは見逃せないな」


さて、これで1180年頃までの大まかな中央の政治の動きと壊滅状態に陥っていた河内源氏の主核となる人間たちの様子は把握出来たと思う。源氏にとって幸いだったのは、希義が流された地が伊豆という要港の存在があり、三代目棟梁源義家の影響を強く受けていた坂東関東地方に比較的近い場所であったということだろう。少し東に行けば横須賀という将来的に良港になりうる地があったのも好都合であった。要するに、平氏は京から追放したまでは良かったが、競争者たりうる一団の頭を再起しやすい場所に送っちまっていたんだよな」


清盛が全盛期であればそれでも特に気にする必要は無かったかもしれない。だがな、以仁王の挙兵時には既に後継者として有能であったと誉高い平重盛は亡くなっていた。清盛がすぐに後を任せるに足る跡継ぎがいないんだ、彼は無理にでも棟梁として指揮せざるを得なかった。そして息子の後を追うように熱病...おそらくマラリアで果てる。1181年のことだ」


遺言で後継者は宗盛と指名するが、彼が地盤を固めきる前に木曾義仲、すなわち源義仲らがどんどんと進軍し始めていた。以仁王の挙兵に呼応して、あちらこちらで打倒平氏の声が叫ばれ始める。各人の最大の恐怖であった清盛が死んだのも多分に影響しているだろう。まぁ、彼はその風説に反してむしろ温厚な人柄であったというのが最近の定説だがな」


さて、時は少し巻き戻って1180年6月。希義は以仁王の挙兵に呼応することを決意し、手始めとして北条館に近く、当時の伊豆国で権勢を誇っていた山木家の館を襲撃することとした。奇策に次ぐ奇策と調略を駆使して治承・寿永の乱最初期の寡兵の時期を凌いだ、石橋山の戦いの始まりだ。当初は危険過ぎると挙兵そのものを渋っていた希義を喝破し、彼に日本全土をも巻き込むような壮大な計画を提示してその気にさせたという義時の才能が最初に認められた戦いでもある」


やるならば兵力が減少する三島神社の祭礼まで待っておいた方が良いと考えた希義だが、義時はそれでは遅すぎる、伊豆国中をまとめる時間が無く、隙をついて隣国の相模から攻められる危険性があると反対した。ではどうするのかと諸将が尋ねると、彼はとんでもない作戦をぶち上げた」


「北条家の屋敷と山木家の屋敷は平地を通ればそこまで離れていない、故に兵力の差から常道ではいくら火車や火筒を揃えているとはいえ苦戦は免れない。ならば詭道を...闇夜に紛れて狩野川を下り、田中山から山中に入って韮山金谷で背後を突く。そして払暁と共に館を落とすという詭道を用いて御する...それが彼の言う秘策だった。確かに今少し待てば山木という目の前の敵を倒す千載一遇の時は来るが、それではその次の戦、坂東を制するという戦いに勝てるとは限らない。例え兵力に不安があっても乗り越えれば伊豆が完全に手中に収められて今後の戦いを楽に進められるという点から、彼の作戦は認可され、軍は密かに山へと入り込んだ。規模は小さくとも火筒と火車、そして大槍隊と弓槍混成部隊という往年の先祖と同じ編成は、朝日と共に敵側の虚となる方向からの進軍を開始した。」

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