第二十話 瓦解

第五編 藤原忠実

最終話


「平治の乱の中心人物である信西が権力を握るようになったのは、その政治改革への意識が後白河帝、そして忠実に見込まれたというのが大きい」


関白と帝を味方につけた彼は抜本的な改革に着手するが、そのやり方は自身の親戚を要職に片っ端からつけて強引に進めるというもので、お世辞にも上手い方法とは言えなかった」


また忠実は保元の乱の後すぐに、老いを理由に引退している。後白河帝との軋轢を避けるためだと言うのが有力説だね。彼は平治の乱の一年前に再度関白に復帰させられるが、摂政に就いて実質的な最高権力者として振舞っていた忠通は出世の競合関係、派閥の違いから父と違って信西と協力関係を取れていたとは決して言えなかった。改革を進めたい忠実は引退後も影から支援したり両者の妥協のために便宜を図ったりしていたようだが、信西にとって地位を確立するまでの間に見かけ上は後ろ盾が半減したことは決して良いことではなかった。故に、彼は要職を自身の子で抑えることでその権力基盤を安定させようとする」


その結果、上流下流を問わず多くの人間からの反発を招いた。忠実が受け皿として機能していなければそれこそいつ暗殺されてもおかしくは無いほどにね...政治の革新自体はともかく、その一族で独裁に持ち込もうという拙速が不味かったと言えるだろう。過去に改革に成功してきた御仁との違いは、その仲裁能力、利害調整能力にあったと言っても過言ではない」


当時は後白河院...1158年には譲位して上皇となっていた...が治天の君として院政を行うべきなのか、あるいはその御子にして賢王と名高い二条天皇が親政を行うべきなのかで対立していた。元々親政派であった信西はそのために院の後ろ盾も失い、徐々に孤立することとなる」


対策として二条帝の側近にも自身の子を送ろうとするが、これは旧来からの側近に疎んじられた。そのため、院政派と親政派に分裂していた朝廷は、反信西という形で妥協することを決意する。その孤立が決定的となった瞬間であったわけだ」


いよいよ後がない信西は最後の頼みの綱として平清盛と忠実に救いを求めようとしたが、清盛は中立的立場を保ち、忠実は引退していることを理由として謝絶した。彼の失脚はもはや、時間の問題だと言えた」


信西を見限った後白河院は、二条帝との対立に優位に立つために意のままに動く傀儡としての臣を欲するようになる。白羽の矢が立ったのがまさに、藤原信頼その人であった」


彼がのし上がれたのは後白河院の男色相手であったということが大きいと言われている。院から見れば従順で、反抗心が無い格好の相手であったことだろう。だが、彼の分不相応な野心を見抜けなかったことは後世から見れば失敗であった」


短期間で強大な権力を持つに至った信頼は、無能という印象が強いものの、国司までの実務官としてはむしろ有能な部類であったことはあまり知られていない。彼は忠実同様に武士の力に注目していた。そのため後白河院の影響力を活用して源義朝を自陣営に引き込み、その軍事力を背景として半ば強引に反信西勢力として朝廷をまとめた。清盛がどっちつかずの反応を示したのも義朝の軍事力を基盤とした信頼の妨害があったからだと言われている」


忠実も彼の危険性には気がついており、あの手この手で基盤の弱体化と自身の私兵の強化のために義朝軍から引き抜きを行っていた。これがなければ平治の乱で河内源氏が誇る最強の軍事力を支えた船団や火薬兵器のノウハウは大多数が消失していた可能性が高い。しかし、彼をもってしても信頼の失脚はおろかせいぜいが足を引っ張るのが関の山であった」


「信西の孤立、朝廷の表面上の協力体制の完成、自らが朝廷最大の実力者として君臨出来るようになったこと...そして唯一河内源氏に対抗可能と言われた伊勢平氏軍が参詣で京を留守にした瞬間を信頼は見逃さなかった。挙兵は突然に行われ、平治の乱は始まりを告げることとなる。」

































-平次元年(1160年) 12月9日 平安京-


 ...院が信頼の野心の大きさに手を焼いて見切りをつけ始めたのが一年ほど前だったか。それまでは陛下が信頼に賭けていた節もあったため中々表立った行動を取れず、細々と縁を伝って義朝軍から兵を引き抜くのと、“史実”のような忠通の失脚を防ぐように助言して信頼とのトラブルを未然に回避するぐらいしか出来なかった。


 下手に首を突っ込むと双方から目の敵にされかねないために引退していたのも、結果としてではあるが影響力の低下に繋がってしまった。こればかりは致し方ない、まだ体は動くから伏して待つのだ。寿命までまだ時間はある、ここで清盛を押さえつけておかないと内乱が全国規模に拡大してしまう...そんな思いでひたすらに耐えた。そしてついに院からお呼びがかかったのだ。信頼に愛想を尽かして私を使う気になったらしい、だからまずは河内源氏を丸ごとそのまま囲い込むために内々に誘いをかけた。今よりも待遇改善するよ、技術も腐らせないよ...後白河院も喜んでくださるよ...そんな感じだ。


 実際、効果は大きかった。2000人以上にも及ぶ軍団のおよそ半数近くが「万が一」の時には恭順すると回答してくれたのだ。最初に義朝に直接会って話したのが大きかったのだろうか、彼を誘ったヘッドハンティング時には謝絶されたのだがね...「院には北面武士として取り立てていただいた恩がある、しかし我らの力を評価してきちんと恩賞や給料を出して食い扶持を作って下さった権中納言信頼殿への恩の方が大きい」と言われたのだ。やはり保元の乱での露骨な使い潰しは不信感を与えていたのだろう。ただ、私が出張って乗り換えを誘ってきたことに関しては信頼の将来を薄々察したようで、「万が一の時は一族郎党をお頼みします」とのことであった。


 コイツ...死ぬ気か。たとえ朝敵と罵られようと忠義を尽くす。それによって逃げ延びた家臣は安心して召し抱えられるという計算をしている。素直に惜しいと思った。付き従った者の安全までは保証しかねるが、可能な限り軽罪に出来るようにすること、逃げてきた者に関しては手厚く保護して守ることを書に起こしてまで確約した。前世源頼義の時において、戦友だった者の孫や曾孫も多い、何とかしてやりたいという気持ちもあったのは事実だ。


 “史実”同様、信頼が京の軍事バランスが自身に大きく傾いた瞬間を狙ってクーデターを起こした時義朝に付き従ったのは、その誘いを断った者たちであった。棟梁義朝と運命を共にしようというのだろう、わずか500人程度なのは精鋭を選んだというのと自身の係累以外には何も知らせなかったからだと思われる。クーデターのためであればそこまで大きな兵力が必要とは言えなかったのもあるだろうが。本来の歴史よりも少ないのは、こちらが繋ぎ止めれた人間がいるからだな、完全な壊滅は避けなければならん。


 今日信西を誅した時点で院政派である信頼は親政派からは用済みだし、その院政派もとっくの昔に彼を見限っている。連立政権を取れるほどの力量はないのだ。それでも未だにトップとして振る舞えるのは帝と院を抱え込んでいるからに過ぎない。既に京の内には不満が燻っている...人望が厚いとは決して言えない。清盛の所まで連絡が行き、決戦が始まるまであとわずかだろう。院政派も親政派も共倒れになるのは目に見えている、だからこそ武家の台頭がピークを迎える前に貴族を纏め直し、対抗勢力として抑止力にならねば...





-平治元年(1160年) 12月25日 仁和寺-


 清盛が帰参し、信頼に恭順の意を示した。しかし、周りを固めるのは一騎当千の猛者ばかり。義朝は訝しんでいるだろう...一年前の警告とも言える誘いを思い出して嫌な予感を感じ取っているかもしれない。彼らの兵力は二週間前から変わっていない、大々的な動員をかけずに秘密裏に信西を誅して功績を独占しようとしたのが完全に裏目に出ている。清盛が熊野詣に行ったその足で帰ってきているため3000人以上もの兵を引き連れているのとは対照的だ。それに、河内源氏の奥の手たる火薬兵器もクーデターには不要だからと持ってきていないのは致命的とも言えた。


 信頼は今まで清盛がずっと中立の立場を取っていたこと、信頼と義朝らを囲うように強者を配置していること、そして自らにどのような目線が向けられているのかを気づいていなかった。私が院よりも先に脱出するために適当なことを言って京を出た時も「関白老いぼれのことだから...」とか何とか言って慇懃無礼に了承した。ライバル信西を消したことで今まで以上に権力に酔ってその本性が露になっていたな、あれでは人望も雲散霧消するわ。


 にわかに寺の外が騒がしくなった。どうやら院が到着したらしい...とすると帝の脱出も首尾よく進んだか。拝謁を願い、寺の中へと案内する。


『主上、播磨守源義朝らについてなのですが...』


『分かっておる、参加しなかった郎党の処罰はするなと言うことだろう?使のは朕にも責任がある』


 顔を歪めて話す陛下。有難いが、残念ながらそれだけが彼らを懐柔する理由では無い。


『...今後は太宰大弐平清盛が影響力を増すのは間違いございませぬ。彼らは私有の武力の質も、量も我らとは桁違いにございましょう。故に今は大人しくともいつ牙を向き摂関にまでのし上がり...ひいては院を差し置いて政を執るか分かりませぬ』


『なっ!彼奴もまたそこまで野心があると言うのか!』


『有り得ない話ではございませぬ。それに首輪を付けるならば、我ら貴族の総力を結集し、兵の力でも対抗せねばなりませぬ』


『そちはそこまで見通して...いつからそのようなことを考えていた?』


『危機感は保元の御代から...ここまで一気に潮目が変わるとは思いもしませんでしたが』


 ううんと唸る陛下。私も保元の乱で河内源氏があそこまで影響力を落とすとは思わなかったから仕方がない、知っていたのならまだ手を打てただろうし、そもそもクーデターも起きたか怪しいもんだ。中途半端に強かった結果がこれである。


『この度は戦が起きれば十中八九、太宰大弐が勝ちまする。平家一門が影響力を拡大させる前に何としてでもまとめ上げ、対抗出来るだけの力を備えようかと...この身はいつ朽ちてもおかしくはありませぬ、故に兵力の総括は院にお頼み申し上げまする』


『...分かった、結集を頼むぞ』


『御意』


 よし、陛下のお墨付きは頂いたし、とりあえず平氏政権の妨害の目処もついた。しかしな、私が死んだ後どこまで空中分解することなく対抗出来るかは不安だ...院寄りではあるが、帝との連絡もつけられる私ならともかく、元締めがそうでなくなった後は親政派が清盛と組む可能性を否定できない。クソ、彼らが覇権を握るのを遅らせることは出来てもへし折るのは無理だな...次の人生で決めれなければ...日本は上から下まで大混乱の渦に突き落とされる...!そんなことをさせる訳にはいかない、しかし次の転生先次第というのも正直ある...どうすればいい...

































二条天皇と後白河上皇を手元に置いていたからこそ、辛うじてではあるが信頼は覇者として振る舞えていた。だが、その珠玉と言っても良い政治的な切り札の二名は自ら脱出、院政・親政派を問わずその後に続いて合流したことで一夜にして信頼は賊軍へと転落した。義朝は信頼の不覚に、ただため息をついたと伝わっている」


皮肉なことに自らが蹴落とした政敵と似たような状況に陥りつつあった彼らが挽回する唯一の手段は、そのわずかな手勢を率いて全力で院、あるいは帝を奪還することであった。しかし、官軍として大々的に軍の動員がかけられる清盛らに対して政変のために少数かつ強力な武具を準備していなかった義朝では、たとえ一騎当千の武者揃いである彼らであっても劣勢を覆すのは厳しい状況であった」


信頼についた人間は全員が解官され、いよいよ後が無くなっていく。そして清盛は御所を戦いの場とすることを嫌い、内裏から義朝軍をおびき寄せて六波羅で決着をつける算段を立てる。世にいう六波羅合戦だね」


「最強と名高い栄光の河内源氏、その転落の時は、間近に迫っていた。そして彼らはしばらくの間、歴史の表舞台から姿を消すこととなる。」

































-平治元年(1160年) 12月27日 平安京-


『放せ! 放さんか! 私を誰だと思っている!』


 もがき続け、じたばたと見苦しく暴れているのは今回の首謀者である藤原信頼。顔はやつれ、血走った目がぎょろぎょろと忙しなく動いている。罪人に対して仮にも太閤、そして今では関白に復職した身分である私が会うというのは異例のことだが、無理を言って同席させてもらった。ここが時代の変換点なのは分かっている、だからこそ席を外すわけにはいかないと思ったのだ。


『見苦しい、大人しくせんか』


 清盛が苦々しい顔をしながら忠告したが、一向に抵抗をやめようとしない。前から分かっていたがなんつーか、どこまでも小物なんだよな、コイツ...野心と一時的な権力は分不相応だったが、武士を使うことを考えた点に限っては愚かではないのだが。


『はぁ...よく聞け、貴様は恐れ多くも院と帝を手中に収め、京において政変を起こしたな。これは律に照らせば叛逆罪だ。謀反人は速やかに断罪せねばならん』


 まぁ、間違っちゃいないが信頼からしたら無茶苦茶ではあるよな。院に見限られ、親政派から煙たがられていたのに気付かず...あるいは気付いた上で無視した報いではある。いやはや、権力者の胸先三寸で決まるって怖いなやっぱり。早く法治国家としての体裁を整えないとこんなことが普通にまかり通ってしまうわけだ。そこに関しては多少同情はする余地があるが...態度と今までの言動で台無しだからな...


『何を...何を言っているのだお前は...』


 理解に苦しむという顔で清盛を見つめる信頼。ダメだ、考えることを放棄したな...


『叛逆罪を起こした者は死罪になると決まっている。嵯峨院の御代の頃からずっとな。罪一等を減じられて配流ということも無かったわけでは無いが、貴様は既に幾人も天誅と言って不当に弑しておろう。軽微に済む余地は無い』


 諦めろ。そう告げると、信じられないといった様子で大きく首を振り声を荒らげて反論してきた。


『関白...なんと言うことを仰るのですか!? 私が死罪!? あの坊主信西共を誅したのは当然でしょう、誰もが彼奴を嫌っていた! だから私が皆に代わってーーー』


『黙れ』


 威圧。無意識のうちに殺気の籠ったそれを放ってしまったのに気づいたのは、信頼が「ひぃ!」と情けない声をあげて仰け反ったからであった。


『特権に溺れ落ちぶれたな、。いくらいけ好かない者であっても政争で人を殺めて良いというものでは無いことぐらい分かるだろう。まして貴様はそれを軸に栄達を望んで朝廷の政を思うがままにしようとしただろうが。過去そのような狼藉を働いた者の末路を知らないわけではあるまい』


 信頼が言うようなものは恐怖政治とよばれる政体だ。以ての外であろう。それを良いものだと勘違い...あるいは盲信するのは愚かとしか言いようがない。自己弁護にしても浅まし過ぎる。野心があるのは決して悪いことではないが、それを膨らませ続けた結果自らの政敵をこの世から消すまでに至った人間は、それ相応の裁きを受けなくてはならない。


『ですが...ですが...』


 なおも言い募ろうとする信頼だったが、清盛が大きくため息をついて、「もう良い、連れて行け」と言ったことで哀願とも悲鳴ともつかない声を響かせながら刑場へと引きずられて行った。哀れではあるが自業自得だ、今後の朝廷における独裁への抑止のためにも助ける必要性は無い...


 信頼がしょっぴかれて行った後で引きずり出されたのは、わずか10歳にも満たないような子らが3名。清盛の説明によれば義朝の遺児らしい...ちょっと待て、何かおかしい。強烈な悪寒...何かとんでもない事が起きているような、そんな戦慄が体中を駆け抜け、久方ぶりに鳥肌が立った。


『む、関白様。お顔が優れぬご様子にござりますが如何なさいましたか?』


 清盛が尋ねる。自分でも気が付かないレベルで動揺を抑えきれなかったらしい。“オモイカネ”がいなければ倒れ込んでいたかもしれない。脂汗が首の後ろを滴る感触を覚えながら、笑顔を顔に貼り付ける。


『...はは、この寒さに当てられてちと震えただけよ、問題は無い』


『そうでございますか...』


 身体制御の権能を譲渡し、とりあえず見てくれを整える...よし、とりあえず落ち着いた。しかしこの違和感は...まさか......“オモイカネ”、義朝の息子達の生年を教えてくれないか?


〔上から源義平が1141年、源朝長が1143年〕


 そう、上二人は既に20歳に近い。そして“史実”同様に、彼らはこの戦いで戦死していることが確認されていた。問題は...


〔...源頼朝が1147年〕


 違和感の正体がハッキリした。どう考えても頼朝の歳に見合うようながいない。“史実”に近い状況ならば頼朝の次弟である義門は死んでいる可能性が高い。おそらくここにいる3人のうち1番年長なのは8歳程度ということから考えて、源希義だろう。それより少しだけ幼く見えるのは1歳年下の異母弟、阿野全成だ。そして5歳前後に見えるあどけなさが残った童子は全成の同母弟である義円か...おかしい。何故頼朝がいない? 彼奴はどこへ、未来の征夷大将軍はどこへ行った!?


右衛門督清盛、義朝はもう少し子沢山だったように記憶していたのだが...?』


『ふむ、某もそのように聞いておりますな。関白様におかれましては船棟梁義朝、その長男、次男、四男が討ち死にしていることはご承知だと思われます。今目の前にいるのが五男、六男、七男...む、三男の前右兵衛権佐頼朝がおりませぬな。誰ぞその足跡を知る者はおらんか!』


 ...清盛は義経と範頼の存在を知らないようだな。“史実”では全成と義円が義経と共に逃げた筈だが、母が行方不明というのは聞いているから恐らく途中ではぐれて捕まったか。


 父、そして兄三名の死を面前で告げられ、うっすらと涙を浮かべる兄弟たち。希義は何かを言いたそうに口を開きかけたが、そのままうつむいてしまった。自身の状況を考え、黙っていた方がいいと判断したのだろう。全成はきっ、と清盛の方を睨んだが、袖を希義に引っ張られて我に返ったようで、はらはらと涙を零し始めた。義円に至っては半ば呆然としている。


 清盛に問いかけられてざわざわとどよめきが起きた後、誰かが「討ち死にした...」という声を上げた。


『それは本当なのか?』


 聞きつけた清盛が確認をとる。


『畿内で逃げているところを落ち武者狩りの坊主共に殺されたとかで、既に首が晒されておりまする』




 後世の英雄が、歴史に名を残すことなく消えた。


 後ろ向きに未来に向かって進む中、唯一の道しるべであった手鏡が木っ端微塵に砕け散った音が聞こえた。

































平治の乱によって、清盛はその影響力を大きく拡大したが、それでもなお、政権を掌握するには力が足りなかった。親政派の中核を成す藤原経宗、藤原惟方がいたからだ」


しかし、彼らは後白河院が好んで景色を見ていた藤原顕長邸の桟敷を封鎖、院の顔に泥を塗るという暴挙に出る。忠実は軽挙妄動を戒めていたようだが、それに対して反発があったのもあるらしい」


当然、後白河院は激怒した。わざわざ面前で貴族に対しては免除されていたはずの拷問にかけたのだから、その怒りの深さが伺い知れるだろう。両人は失脚し、流刑に処されることとなった」


これにより、親政派院政派の双方の有力者のほぼ全員が共倒れするという極めて珍妙な事態が発生した。清盛は抜け目なくこの空白地帯において暗躍し、次第に権力を握っていくこととなる」


忠実はそれを強く懸念し、河内源氏残党の面倒を見ながら牽制していたが、目的を達成出来ずに乱後2年で没する。息子たる忠通も1164年には父の後を追うように亡くなり、枷を嵌めることが可能なやり手の貴族は消滅してしまった」


その後残された戦力は後白河院に手渡されたが、これに元親政派の人間が反発する。清盛はそこを狙って少しずつ最大の敵であった義朝の手勢を何かと理屈をつけて京から追放するなどの手段を取って解体していき...最終的に全国に散り散りにしてしまった。その結果、最大の軍事力を持つ者として朝廷は配慮せざるを得なくなり、清盛は軍事貴族初となる公卿に就任する。院政から脱却したい二条天皇、その崩御の後で二条帝の御子たる六条天皇をわずか3年弱で退位させて帝位についたものの、これまた父の影響下から抜け出たい高倉天皇の支援もあり、その勢いは飛ぶ鳥を落とす勢いであった」


鹿ヶ谷の陰謀、そして後白河院が幽閉されて院政が停止する治承三年の政変以降の出来事については、檀上さんに聞くといい。とりあえず今日は日も暮れてきているし、お開きにしようか」


「俺が次時間空くのは...六日後だったっけな。また連絡するからメールアドレスを教えて貰えるかい?」


「...よし、ありがとう。そうだ、この後時間があれば折角だから皆で飲みに行かないか、いい店を知ってるんだ。奢るよ」


「いいんですか? では、お言葉に甘えて...君も予定とかは大丈夫かな?」


「問題ないか、よし来た、それじゃあ早速移動するか! 最近は日本酒も高級品だと洋酒に引けを取らないくらい値が張るから安物しか飲ませられないがな、はっはー」


「最近は物価高いですからね...一応給料も比例してるからいいんですけど」


「おう、ここだけの話だが寄稿料も中々美味いぞ」


「いいですねぇ、経済が発展をしていることを実感できるのは」


「その通りだな、活気があるのはいいこった。さて、それじゃあ出発しようか!」

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