第十六話 卯の花に見ゆるもののふ

第四編 源頼義

最終話


「武勇、そしてその優れた戦略眼に評価が行きがちな頼義だけれども、晩年には外交に関しても口を挟んでいたことが記録から判明している」


いわゆる殿上人となったのは二期にわたる陸奥守の任期を満了し、棟梁の座を息子の頼家に譲り渡した1063年以降のことで、そこからはその知識と経験を活かして治部大輔に任命されることとなる。かつては左遷先として有名だった治部省だが、高麗との貿易や沖縄の開発が進むにつれその地位が向上し、長官である大輔はかなり厚遇されていることの証となっていたんだ」


なぜ彼が武官であるにも関わらず、外交を司る省庁の長官にさせられたのかと言うと、これは高麗との貿易に直結してくる。当時の高麗は我が国から輸出して欲しいものとして一番に挙げていたのが武器...すなわち火車と火筒であったからだ」


承平天慶の乱の時、来日していた外交官を観戦武官として派遣していた高麗は、その威力と効果...特に騎馬兵に対しての威嚇効果が極めて高いことに着目し、北方の異民族であり建国当初からの潜在的脅威である遼への押さえとして使えると判断した。実際輸出用に多少性能を劣化させた火車であっても、騎馬の衝突力の減衰は可能であったし、我が国において火薬の改良が行われるうちに輸出版も比例してその質を向上させていた」


「この日本との貿易により、高麗はその国の構造を大きく変化させることになるのだが、そこに頼義が一枚噛んでいた。優秀な戦略眼は、海外に対しても向けられており、現代でもなおかの国で有名な日本人の中に彼の名が挙げられることがあるのは、それだけ国体に対して与えた影響が大きいことを示唆していると言えるだろうね。」

































-治暦元年(1065年) 9月上旬 大極殿-


 “史実”であれば今月の一日に出家していたはずなのだが、あいにく私は未来人だ。熱心に信仰にすがろうとは思わん。それに治部省に行くように命じられたので東北の戦争を終わらせてあとは気ままな余生をエンジョイ、とはいかない。清原氏の“史実”ほどの台頭こそ無かったものの、あの地には未だ戦乱の種が残っている...頼家が“史実”における後三年の役に近いものを行う可能性が高い。そうなれば奥州藤原氏はそのまま出てくるだろう。まぁ残念ながらそれまで生きていられるとは思えないので、他に改革、あるいは介入出来そうな物事があればと朝廷に聞いたら、外交関係で軍事の知識が要求されていると聞いてどういうこっちゃ?と思いながらも出向したんだよ。そうしたら知らぬ間に高麗の上流階級の構造が“史実”から大きく変容を遂げていたんだ。確かに独自に人は入れて情報収集に務めていたんだが、基本は女真が侵攻を始めたとか、災害があったとか民草にダイレクトに関係するような話題だけだったからな...実際に外交官に会って現状を聞いて驚いた。


『我が国において、|帝家(傍点)の次に大きな力を持っているのは商人らなのです』


 本来であれば、契丹の侵入が複数回あったことで地位を高め、権勢が太祖王建の一族をも凌ぐようになっていったのは武装階級のはずであった。ところが、“史実”から外れ日本との貿易が盛んに行われるようになった結果、富を蓄えモノを売りさばく人間の力が強まったのだそう。決定的だったのは、皮肉にも武器輸出...火車と火筒の輸出であった。確かに武人がいなくては北の女真に国が荒らされる。しかしその武人は商人から武器を買わなければ戦えないのだ。度重なる戦闘でそこまで金の蓄えなど無い場合が圧倒的に多い武将は我が国から直接調達することが出来ない。交易船の整備に金が持っていかれるからね。


 加えて、荘園制度が我が国と同じように中央への回帰が始まっていたというのも大きな変化と言えるだろう。さらに貨幣制度の導入すら始まっていた。“史実”とは比べ物にならないほどの躍進っぷりじゃないか? これなら想像以上に力をつけて、元寇にもある程度対処出来るかもしれない。そう思わされた。よし、これはちょっと現地入りしてみるべきかもしれない。前世源高明では一度行ってはいるのだが、まだ歴史が大きく変わってはいなかったし都に入っただけだからな...戦術指導とかなら出来るかもしれないし。周りの人間にそのことを話すと、いくらなんでも危なすぎる...と言われた。まぁそうだよな、だが100年先を見通して、将来的に大陸で脅威が発生した時に隣国を強化しておくことは大切ではないか?その点私はうってつけの人材だろう。どうせあと10年前後もすればくたばるんだし...と笑顔で言って無理やり黙らせた。長年磨いたカリスマ性(っぽい空気)を出して何も言えないようにしたとも言う。


〔戦場を駆け抜けた結果、凄みが追加されています。並大抵の貴族では恐れるだけでしょう。左遷の原因になりかねませんよ〕


 やりすぎたか。次からは気をつけます...


 ともかく、来訪して軍や兵器の視察がしたいと話すと、顔を明るくして是非とも、と言ってきた。ならばやはり老いたこの体に鞭打ってでも出向くべきだろう、これも治部省の仕事だと言い張ってやれば良い。元寇対策が安全保障の観点からいえば最優先なのだから。

































当時軍神扱いされていたと言っても過言ではないほど高名であった頼義が、国を出て高麗へ渡る。これは朝廷的には納得がいかないものであった」


有力な省の長官でもあるし、航海中に死んでしまう可能性すらあったからね。しかし、彼は鑑真の故事を持ち出すと共にその重要性を説いた」


『高麗が強くなれば、刀伊の入寇よりも大規模な襲撃があったとしてもかの地でどうにかなる可能性が出てくる。また高麗が簡単に占領されてしまうとあれば次に狙われるのは日ノ本である』...大まかにこのような言説を語ったようだ。地政学的観点から見れば、この発想は画期的かつ現代に通じるものがあると言えるね。私個人としては橘逸勢の話を持ち出したという文献が未だに見つからないのが不思議...彼も同じように有力者でありながら外国へと渡航していたから...なんだけれどね」


「彼が渡航し、現地で指導を行ったのは1066年から1072年までのわずか6年間。しかしその時間で彼が手塩にかけた部隊は、極めて帝家に忠実で、強力な戦闘集団になったという。現在にもその精神が受け継がれている、「光烈衆」の誕生だ。」

































-治暦5年(1069年) 2月中旬 通州(平安北道宣川郡)-


 通訳無しで会話出来ることに向こうは驚いていたが、私も色々と驚かされた。まさか100年経った時点でやっと歴史の大変換に気づくとはな...高麗が建国時からの仇敵である遼に一度たりとも敗北を喫することが無かったのをようやく知った。“史実”では確か960年に宋に朝貢をしたことがきっかけとなって、宋に敵対していた遼が侵攻を行うことになったのだったか。


 ところが、この歴史ではその段階から大きく変化していた。友好国であった渤海が滅ぼされたことに対して非難し、渤海の難民の受け入れなどは行ったものの、宋との国交はあくまで中立の立場を取るのみであった。これによって高麗は、遼と宋という二大国に対して不干渉の立場をとると同時に、どちらか一方が攻めてきた時にはもう片方と組んで反撃するのではないかと疑わせることで迂闊に攻められないようになった。大陸国家、特に中国地域の影響を極めて受けてきたかの半島の国家としては全く別の対応ととっているといえよう。どうもその根底には、日本という中華大陸の影響圏内にありながら臣従をしていない国との貿易による影響があったようだ。上手くバランスを保つと共に同じような政治状態の国との貿易で相互に利益を出す...近代国家に非常に近い感性じゃないか。日本にとっては悪くない状況だ。今後もよしなに、ということで高官との協議はひとまず終了した。


 そして、今私がいるのは未来において、北朝鮮と呼ばれる国家の存在する地域。現在は遼との国境線の最前線になる。良くもなく悪くもなくな関係を築いたにも関わらず、遼はちょっかいをかけ続け、1018年に侵攻を行なった。ところが、火車や火筒を輸出していたことで戦力は大幅に向上していた高麗軍はこれを迎撃、大勝した。驚いた遼王、聖宗はこれ以上の損害は容認できないとして不可侵条約とも取れる相互不干渉の誓いを持ちかけてきた。その結果、高麗は極東アジア地域において2つ目となる中国地域に建国された国家へ明確に隷属していない国と化した。そして、これと商人の力の増大が絡んで儒学への求心力の低下すら起きたのだという。心底驚いたが、これは嬉しい誤算かもしれない。このまま独立を保ったまま近代に突入出来れば、日本は周辺地域にきちんと相談のできる国家を有することが可能だからな、人種差別にも“史実”以上に対抗出来るかもしれないと少し期待している。


『放てーっ!』


 思い返している間に、寒空に向けて火車が一斉に放たれた。練度は段々良くなってきている、期限は残り3年弱だが、部隊としてきちんと動けるようには何とかできそうだ。流石に鉄甲車などの大掛かりな兵器や造船などの技術は優位性を保つために提供しないが、火薬兵器だけでも対抗は十分可能だ、是非ここでしっかり身につけて欲しいものである。あぁ、折角だし名前も考えてやろうかな...鎧も統一させて、専用の旗作ったりとか。一見意味が無いように見えるかもしれないが、敵味方識別と統一感の醸成による士気の向上・帝王への忠誠心の証明と、古代中世においては割とバカに出来ない効果も狙っていたりする。まぁ部外者の私ができるのは提言だけだけれどね...










-延久2年(1071年) 8月下旬 開州(現開城)-


『分かりました、確かに効果はあるように思えますし取り入れてみようと思います』


 提言は想像よりすんなりと通ってしまった。まぁ基本デメリットは無いしな、もっともだと思ったのだろう。式典とかにかかる財源が心配ではあるが、これは国に帰ったら貿易分で少し上乗せしておいてやるか...


『しかし、流石は日本で武勇並ぶもの無しと誉高い治部大輔様だけありますな、ここまで見事に鍛えて下さるとは...』


 先程まで成果として披露した訓練の風景を見ていた武官も驚いて目を丸くしている。まぁこの時代の戦争って個人戦が同時多発的に発生してるような部分もあるしな...


『なに、最初に精鋭を集めて下さったのが一番大きいですよ。彼らの飲み込みの良さが無ければこの短期間でこうまで育てることは出来ませんでしたし』


 それに私は二十世紀以降遥か未来のの軍隊や兵器破壊の化身なら少しはかじってみたことがあるが、この時代の最適な戦略なんてさっぱりだ。いつも“オモイカネ”に聞かねば何も出来ない。ヤツがいてこその成果...ヤツがいてこその成功なのだから。


〔.................................〕


『またまたご謙遜を...そうだ、おそらく主上がご決定なさるとは思うのですが、よろしければ名前の候補を考えて頂いても?』


 名前ねぇ...そういうこと言われるとちょっと厨二チックなものになっちまうぞ?


『されば...苛烈なる武をもって民を救う衆ということで、「武烈衆」などいかがでございましょうか?』


『ふむ、「武烈衆」ですか...ありがとうございます、候補の一つとしてお伝えいたしましょう』


 えっ、いいの?


『...承知しました、まだ帰国の時間に猶予はございますし、益々その刃を鋭く研いでみせましょう。北の脅威に対抗出来るように、出来るだけのことは行いましょう』










-延久3年(1072年) 5月上旬 蔚州富山浦(現釜山)-


 船の上からも見えるほどに大きく旗を振って、別れを惜しんでいる兵たち。その旗に書かれし文字は、「寧可玉砕、不能瓦全」...「果てし時は玉のように砕けよ、つまらぬ瓦のようになって生きながらえるべきでは無い」の意を示す。北斉書にある故事で、その忠義の意志の強さをこれ以上ない程に示したものだ。はるか先の未来で、その言葉から作られた二文字のもとに多くの兵士が死んだことを知っている私としては、複雑な気持ちにさせられるのだが。


 「光烈衆」...それが最終的に当代のである文宗が授けた名前であった。「光を放ちて敵を穿ち、烈しき心をもって帝家に仕えん」という願いを込めたとのことである。また、太祖王建の諱「応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王」にあやかったのもあるそうだ。その期待の大きさが知れよう。今更ながら、軍事の専門集団である彼らを常に囲っておくのは財政への負担がかかるのでは無いか? とも思ったが、最近は貨幣経済が普及し、また日本のように積極財政もどきもしているようで国庫が潤っているから当面の心配は無いらしい。彼らの技と武勇が実を結び、モンゴル帝国の版図に加えられることが無いように祈ろう。


 船は漕ぎ出され、ゆっくりと6年過ごした地を後にする。群青色の空と海が対馬の果てまで続く中、どこかでウミネコが鳴いた。

































短い時間ではあったが、弟子として指導を受けた光烈衆の面々からは白髪姿とそれに似つかわしくない勇壮な態度から「白狼翁」と呼ばれていた...そう記録に残っている」


また、彼らの練度と忠義の精神はその後も長く受け継がれ、オゴタイの代より続き、フビライ・ハンの代にその苛烈さが最高潮を迎えたモンゴル帝国改め元王朝との死闘は今もなお、おとぎ話として語り継がれている。功績を鑑みて、記憶が間違ってなければ確か現在開城には「友邦より訪れた、偉大なる将軍」とかなんとか説明書きが書かれた銅像があるみたいだよ」


彼らが再度歴史にその名を刻むのは、「国辱」「臥薪嘗胆の半世紀」と称される元王朝による高麗侵略、傀儡政権の成立とそれに連続して発生した元寇の時だね。これは200年以上の長き時を超え、頼義が育てた日高の武人が初めて協力して敵対勢力に対処した戦闘でもあった」


頼義は帰国後にもしばらく働いたあとでようやく暇を乞い、それまでの功績を讃えられ1077年5月に従三位を受けた。そしてその半年後、数えで91歳と極めて長寿であった生涯に幕を下ろした。時の天皇であった白河帝もその死を惜しみ、彼は後に従二位を贈られることとなる」


あぁそれから、彼は初めて「武士」という言葉を用いたと言われている。元々は貴族の警備員であった「侍」から軍事組織の人員として活動する「武人もののふ」...これは単に名称が変わった以上の変容を遂げているということに注目して欲しい。現代でも軍人を「武士」あるいは「サムライ」と呼ぶのはそのあたりと関係してくるからね。まぁ、これに関してはおいおい説明があるよ」


...ふぅ!一応専門を名乗ってる身であるとはいえ、ここまで語るのは結構大変だったな。恥ずかしいことだが不安になっていくつか資料の再確認をしたからね...まだまだだ、もっと知識の引き出しを増やさないといけないな」


さて、今日はもう遅くなっちゃったからお開きにするとして...次の人物に関しては、ここじゃなくて別のところに来て欲しい」


ん、どこかって?ちょっと待っててね、携帯で都合のいい日を聞かなきゃいけないから...」




「............あっ、もしもし清岡です。夜分遅くに...と言ってもまだそこまででは無いですかね」


「.........はい、実は例の子への特別授業の件なんですけど、私だけでなく檀上さんの知識も必要になってきそうなんです。なので都合が合えばご同伴頂けないかと...」


「そうですか、はい、15日の日曜日...ですね。ありがとうございます、場所なんですけれど.........えぇ、そうしていただけると一番いいかと」


「はい、はい、はい.........すいません、突然の電話で。はい、では15日の午前10時から...了解しました、よろしくお願いします......では......」




...うん、問題ない。聞こえてたかもしれないけど、次の日曜日に檀上教授の私室にお邪魔してそこで話をしようと思ってる。彼の専門部分と被ってくるところがあるからね」


「私が専門家として語れるのは、おそらく次で最後になるはずだ。その者の名は、藤原忠実...33年戦争の発端となる、保元の乱及び平治の乱を止めようと暗躍した武闘派貴族だ。」

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