第十五話 Operation Overload

第四編 源頼義

第三話


「前六年の役...最近では前六年合戦とも呼称される戦いについて話すには、まず頼義が陸奥守に就任する以前からの陸奥国について説明しなければならない」


陸奥国...現在の岩手県を中心とする諸地域は、安倍氏という軍事貴族によってその統率が行われていた。近年の研究から在着の土豪...俘囚ふしゅうの家系に婿入りした中央貴族がそのルーツでないかと言われている。そう言えば今の官房長官はその末裔らしいね」


どうも首相は次の総裁選で彼にその座を譲るとか何とか噂があるし...彼ならば我が国の立場と責任に則り、世界秩序を見越した政策を立ててくれるんじゃないかと個人的には期待してるんだよね...それと、参議院選挙行かないと...折角の選挙権だし、権利を行使せずに10年前の二の舞になるのは勘弁して欲しいしね」


あぁ、話が逸れた...安倍氏は有力者として朝廷に恭順していたのだけれど、11世紀半ば頃から貢租を怠るようになる。これに対しての懲罰として当時の陸奥守であった藤原登任が動いたものの、逆に鬼切部...現在の宮城県大崎市付近で大敗を喫してしまう。ことを重く見た朝廷はその懐刀を抜くことを決定する。すなわち、頼義の陸奥守就任だ」


彼の武勇は東国にも伝わっており、加えて中央が藤原彰子の快癒祈祷のために恩赦を行ったことから安倍氏の反乱の罪も赦されていた。つまり、飴と鞭だね。これを理解した安倍家当主である安倍頼良は服従の意を示した。名が同じ読みであることは恐れ多いとして頼良を頼時と改めた程度には主従関係を築くことに成功したと言えるね」


「その甲斐があってか、頼義の任期中は特に大きな問題が発生することは無かった。頼義も安倍氏をそれなりに厚遇し、自らの部下に見下すことがないようにと訓示も行っていた。ただ一つ...任期を終え、国府である多賀城に戻る途中で起きた、阿久利川事件と呼ばれる夜襲を除いては、ね。」

































-天喜4年(1056年) 2月 阿久利川畔(現迫川周辺)-


 野営を開始したところで、早馬が駆け込んで来た。思わず溜息をつきそうになったね。やっぱり歴史の収束は避けられないか...


『どうした?』


 嫌な予感しかしないが一応聞くと、


『夜襲をかけられ、御味方の人馬に損害が...』


 との答えが返ってきた。藤原光貞、元貞兄弟か...光貞の妹を安倍貞任が娶りたいと言ったのに対して光貞が卑しい俘囚に妹はやれぬと断った結果、9年間にも及ぶ大戦争に発展したのが“史実”であった。あれだけ差別はするなよ、と言っていたのに...と思っていたら、そういうことではないようだ。どうも返事を待ってくれ、都から遠いからしばらく時間がかかると答えたのに対して安倍貞任がキレたらしい。いくらなんでも気短すぎだろ、とか自爆してんじゃねーかとか思ったが、とりあえず父である頼時を呼んで事実確認を行う。デマではなく、真実であることが同定された。ウッソだろ貞任お前。しかも頼時は不肖息子が申し訳ないことをした、許して欲しいと陳謝するのみであった。いやいや、謝罪は受け入れるが役人に対して被害を出しているのに罪に問われないわけがないだろ。これを許したら朝廷の制度の崩壊に繋がりかねないんだぞ。親バカと言うより馬鹿親と罵られても仕方あるまい。


 前提に大きな食い違いがあるのだ。会議は当然のように紛糾し、決裂した。休戦が開戦となるのは必然だった。私が出来たのは多賀城に早馬を飛ばして、息子である義家を京に戻して待機中の船団を動かす要請を発令することと、軍の引き締めを行うことだけであった。


 ...状況が状況だ、決裂は仕方が無いと思おう。ここからが正念場だ。対応を誤れば戦闘が泥沼化するだけでなく、自分が命を落とすこともありうる。知らせを受けて船団が準備を整え、到着するまでにかかる時間は短くとも8ヶ月、場合によっては1年はかかるとみた。それだけの時間は持久しなくてはならない...“史実”のように頼時の娘婿だからと平永衡を切ったり、それによって同じ立場であった藤原経清が寝返ってむざむざと幕僚や兵を差し出すなどという真似は出来ない。諜報組織に命じて念の為探らせておいたが...“史実”ではともかく、この歴史においては彼らはシロだった。ここで結束が出来なければ苦しい戦いは不可避だ、兎にも角にも迅速に準備を整えなければ...

































野営中に襲撃をかけた黒幕は、頼時の息子である安倍貞任であった。あくまでも朝廷の役人であり、法に則った解決を主張した頼義に対して、頼時は父親としての情からか謝罪で場を納めようとし、貞任を引き渡すことを拒否してしまう」


これが頼義の逆鱗に触れる。彼が頭を互いに冷やそうと開いた会議の場は、ぶち壊しになってしまったわけだ」


しかし懲罰を行おうにも戦力は互角、頼義陣営には頼時の血縁関係にある者もいたから彼らが寝返ると数だけであれば寧ろ劣勢になる可能性すらあった」


そこで頼義は一計を案じる。自らが陸奥守になった時に持ち込んでいた火車や火筒を最初の戦闘で解放し、敵側に大損害を与えた上で行動を慎重にさせる。そうして時間を稼いでいる間に京の船団を動員し、加えて安倍氏内部に裏切りを唆すことで敵の空中分解を誘うというものだ」


刀伊の入寇で頼義率いる武士団の圧倒的な力を認識した朝廷が、その源である船団を何かと理由をつけて外へと出すのを渋る可能性を見越した彼は、自らの息子の源義家を直々に使者として遣わせ、さらに頼時の行為が律に背くもの...朝廷の権威を否定するものであるとの言伝まで持たせた。これによって危機感を持った朝廷は珍しく、その重い腰をすんなりと上げることとなる」


「優位性の初手での解放、それに政治的問題に変換することでの最大戦力の迅速な起用...大博打ではあったが、首尾は非常に上手くいった。安倍氏の内部分裂に成功したのみならず、頼時を討ち取るという予想外のおまけがついてきたんだ。」

































-天喜5年(1057年) 1月上旬 多賀城-


『やったか』


『やりました』


 “史実”よりも4ヶ月早く、頼時の従兄弟にして彼の領地を我々と挟むように陣取っている俘囚長である安倍富忠を内通させることに成功した。交戦当初から甘言を囁き続けたお陰か、はたまた最初の戦闘で火車と火筒の飽和攻撃を受けて恐怖心でも抱いたか。火薬の在庫を知られていたら出来ない博打だったが、幸いにも軍機ということで秘匿していたから今は蔵がすっからかんなことはバレてないようだ。迂闊に動けなかった所へのこの裏切りだから、頼時は大いに狼狽した。説得を試みたものの、逆に弓矢で追い返され、運悪くその時の傷が元で亡くなったらしい。歴史が早まったにもかかわらず、結果は変わっていない。彼はそういう定めだったのだろうか...いや、今はそんなことを気にしている場合ではないか。


 とりあえず死んだ頼時の後継として白デブドラ息子...もとい貞任が据えられたようだが、まだ家内の統率が出来ていないようだ。開戦のきっかけも何とも...って感じだし、初戦でボコったから“史実”ほど勢いがないな、それに本来あと2年は様子見に徹していたはずの清原氏が既に派兵の打診をしてきた。こちらが優勢だと判断したな、まぁ例え言葉だけだとしてもこの情報は使わせてもらおう、ということでわざと安倍氏側へと流した。連中が疑心暗鬼になればより迂闊には動けなくなるだろうし、慌てて決戦を挑んでくるならなお良し。船団の準備が終わりそうだという手紙が2週間ほど前に来たから、そろそろ義家むすことも合流出来るはずだ。昨日には早船に使者を乗せて作戦の概要を伝えてきたが、その中身におったまげた。アイツはやはり戦の天才、戦略の立て方がえげつない。だからこそ、頼もしくも思うのだが。


 訓練を見て回っていると、ローテーションで出していた偵察隊との連絡係が馬を飛ばして戻ってきた。さては奴さんに動きがあったな...


『報告します、衣川にて大規模な炊事が行われているのを確認しました。近く侵攻がある兆候と思われまする』


『分かった、報告ご苦労。我々も動くとしようぞ』


『御意、伝令を出して決戦に備えまする』


 ふむ、もう少し早かったら少々苦しかっただろうな...だが機はこちらにある、義家と早期に合流するためにも直ぐに出立するとしよう。兵糧だけなら蓄えは問題ないからな...


 ここ数日は天気も悪くない、トラブルが無ければ今日にも船団は到着する。決戦の地は、二十一世紀未来における登米市市街地辺りと見た。この勝負、何としてでも勝たねばならん...










-天喜5年(1057年) 2月5日 北上川下流(現石巻市)-


 早船だけでは足りぬとばかりに到着後にきちんと早馬まで送ってきた。よくやっているな、義家のヤツは。情報の重要性、緊密な連絡の必要性をしっかりと理解している。戦略眼が根付いている証拠だ。斥候によれば、まだこちら側よりも決戦予定地から離れたところにいるようなので、幕営予定地に着くまでの指揮は幕僚に任せて、50騎程度の精鋭で現地情報の伝達も兼ねて揚陸中の兵たちを労いに行くことにした。そこで目にしたのは、中世日本のイメージから余りにもかけ離れた兵器がもぞもぞと川岸で動いている姿だった。


 摺動防止床敷設車と、その発展改良版たる攻城鉄甲車。“オモイカネ”が、悪ノリで作ったとしか思えないようなこの珍妙な兵器の構想を提案してきた時には「それはひょっとしてギャグで言ってるのか?」と突っ込んでしまった。大真面目に提案しているのだと分かった時には「お前は紅茶をキメたのか?」と聞き返した。軍事を少し齧ったことのある人間ならば、一回は興味を引かれるであろうBritish sideによって生み出された兵器の数々。それが頭をよぎったからである。そして出来上がったのは、見た目だけであればどことなく装甲兵員輸送車じみた木製の車体に、一軸の無限軌道もどきが引っ付いた人力車。転輪に絡みついているのは、最大30m程度まで敷設可能な竹と麻紐で作られた簀子である。一両あたり幅1mほどのこれを踏むことで砂浜などの足をとられやすい悪路でもスムーズに前進しながら簀子を敷き、その上を兵器の部品や物資を入れた箱を滑らせることで迅速な揚陸を行うというのがコンセプトなのだった。控えめに言って頭おかしくないか? さらにこれに薄めの鉄板を貼って攻撃に対しての防御性を強め、無限軌道の代わりに6つの車輪をくっつける。その上で内部に巨大な尖った木を括りつけて破城槌っぽくしたのが攻城装甲車である。こちらは中に人が入って動かすのではなく、押したり引いたりして車輪を転がす。内部に人を入れることも出来るが、それは特火点としての役割を期待された火薬兵器装備兵のためのスペースだ。天井には火車が生えてるし、射撃窓も戦車のハッチのようなものを含め複数ある。つまり攻城用古代戦車の人力版というのがもっとも近いイメージになる。つまりってなんだよ。


 ちなみにこいつらを輸送するのはいわゆる上陸用舟艇のように船首を平にした小型船で、その小型船を運用するのが“史実”の和船のようなタイプの構造船の船尾をぶち抜いて船の出入りができるようにしたものだ。外海はこの大型の揚陸艦もどきで一気に、内海や今回のように川を遡上する場合は分離した小型船でさらに近いところまで運ぶ。原案を聞かされた時も設計図に起こした時も実際に組み立てた時も思ったが、あえて今言おう、何だこれは? 確かに戦術的には理にかなっていなくもないのだが...将来的に珍兵器扱いを受けるのが関の山な気がするのは私だけだろうか...まぁ、今回が初の実戦投入だからその結果次第か。


 最後の確認をしている間に、揚陸作業も大詰めになってきたようだ。あとはその全てを合流させるのみ。時代や輸送量を考えても一日あれば可能だろう、万全を期して臨めそうだ。










-天喜5年(1057年) 2月6日 遠山村周辺(現登米市)-


 貞任のヤツ、さてはビビってるな。全体的に兵の勢いが無い。相当応えてるな...あぁ、兵力が増えているのを見て動揺してるのかもしれない。どちらにせよ好機だ、ここでケリをつけたい。


『鉄甲車を前に出し、敵の士気を挫く。前進せよ!』


 法螺貝が鳴り響き、合図を伝える。兵の集団が揺れ動き、鉄甲車を囲んだ盾兵と槍兵の部隊が動き出した。向こうの動揺が手に取るように分かる、技術的奇襲としては及第だな...お、射程に入ったか。火車が火を吹き、小槍が飛んでいった。敵陣の隊列が崩れる、中には馬が驚いて振り落とされている敵将もいるな。あ、落馬したヤツが馬に潰された。貞任では無さそうだが指揮者を再起不能に出来たのは大きいな。それに...一部を除いて立ちすくんだり、酷いのだとうずくまってしまっている。その一部も弓が弾かれたのを見て後退し始めたが...“オモイカネ”、あれってもしかして...


PTSD戦争恐怖症...でしょうね。火薬兵器の連続した投入により強いストレスに晒された結果でしょう〕


 やはりか。過去二回にわたって私が実戦で使用した時は数名の捕虜を取った以外は基本皆殺しだった。一度目藤原純友の乱は船を焼いてしまえば夜だし救助は困難を極めた。純友本人を拿捕出来たのも幸運だろうしな...二度目刀伊の入寇は異民族だから言わずもがなだし...と考えると、実際ちゃんとした陸戦で指揮を執るのは初めてだな、記録を取っておくべきだろう。残念ながらこの時代では治療は極めて困難であるし、多分生き残れても農作業など出来なくなるだろう。心が痛まない訳では無いが、未来へと進むためには必要な犠牲、なのだ...


〔.....................〕


 昼過ぎには、敵陣の潰走が始まった。新兵器の戦果はぼちぼちだ、火力は申し分ないし装甲もしっかりしているから歩兵の盾として優秀だな。野戦の特火点としても存外使い物になりそうだ。満足し、眼下の光景から視線を外して太陽の位置を確認する。最初の前進からおよそ1時間半経過、と言ったところか。水をこまめに飲むように訓示しつつ、追撃戦を行う。休憩を入れても明日の日の出前には安倍氏の本拠地である衣川周辺地域に着く、雑兵の降伏であれば可能な限り受け入れながら進むとしよう。あぁ、夜は冷えるし温石と懐炉を配ってやらないと。










-天喜5年(1057年) 2月7日早朝 鳥海柵(現平泉周辺)-


 よし、追い詰めたな。伝令を走らせていたから安倍富忠率いる軍勢と南北で挟撃する形になった。貞任はもはや籠城するしかない、しかし兵糧も決して多い訳では無いし、こちらには鉄甲車がある。敵弓兵は野戦時に火車のアウトレンジで片付けているし、夜間の追撃で五体満足で戦える人間も結構減っているはずだ。一箇所だけでもこじ開けて突破口を作れば、おのずと瓦解するだろう。迫撃兵に弓兵まで総動員して火をつける。敵の兵力を分散させ、こちらは集中させて一気に叩く。やはりこのような戦闘では物量がものを言うというのを嫌でも認識させられるな。


 ドゴッ、と鈍い音が響いた後、とうとう城壁の一角が崩れ落ちた。鉄甲車内部に乗り込んだ兵が搭載された火車を乱れ撃ちし、接近を牽制する。盾兵と槍兵がなだれ込んだ。よし、勝ったな。あとは戦後処理のことを考えないと...恩賞出るかなぁ...


『報告します! 敵方総大将安倍貞任、若殿源義家が討ち取りましてございます!』


 息子よ、武勇に優れるのは私も認めるがそろそろ最前線は別の人に任せて幕僚としてのみ動いてくれまいか...次代の後継者として死なれたらかなわんのだが...あとそこのお前、やりましたなって顔でニッコニコしてるんじゃない、そういう態度がアイツを戦場で働かせ続ける原因なんだから...どいつもこいつも血の気が多すぎだろ!

































2年近く続いた安倍氏討伐は、貞任の死をもって終結した。これにより再度頼義の武勇は全国に轟き、その功績を確固たるものとしたわけだ」


また、朝廷の恩賞もきちんと出されたことで関東から東北まで、東国のほぼ全域にわたって頼義ひいては朝廷への支持が集まることとなる。一説にはそうなるぞ、と頼義が唆して朝廷がその気になったとも言われているね」


東国はその多くの地域で今まで頼義が国司として赴任していたからね...そしてこの時築かれた河内源氏への信頼、支持が33年戦争で大いに役立つこととなる。また、彼の地盤を引き継いだ息子の義家が戦う、後三年の役をもって侍大将...武装階級の棟梁としての地位も確立したとも言われている」


そうそう、蛇足になるけどこの前六年合戦における頼義の戦いを、英語圏では次のように呼んで評価している」


『オペレーション・オーバーロード』とね。ロードは君主を示す“lord”では無く“load”、すなわち『過負荷作戦』と訳すのが適当かな。敵に対して圧倒的な兵力と物量、火薬兵器に鉄甲車という当時の最先端技術を最大限まで投入し、負荷をかけて踏み潰すものであった...というのが由来らしいね。現代の戦争においても重要となる要素が複数詰まっていることから、軍事学の観点からいい標本として取り扱われているようだ」


それと、興味深い点としては、この合戦における文献で日本では初めて戦争恐怖症とも言うべき症状が記録されていることかな。これを踏まえて頼義は火薬に兵士を慣らさせて、軍事行動に支障が出ないように訓練に組み込んでいた可能性が指摘されている。近代、そして現代でも多くの兵士を脅かしているその症状に、既に気がついていたとするならば...彼は日本における将軍として飛び抜けて優れていたと言わざるを得ないだろうね」


「長々と彼の武勇について語ってきたけれど、最後の功績が外交にあるということも話しておかなければならないだろう。源頼義はその最晩年に、外交官としても活躍していた。齢80を超えたその身で、高麗にまで渡り、さらにそこで6年も精力的に活動していたんだ。」






******以下あとがき******


新年明けましておめでとうございます。次回の投稿は2月1日20時を予定しています。


totori様、金剛ジャック様始め今回初出となった鉄甲車の設定に協力してくださった皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

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