第十四話 兵は詭道なり、よりて東奔西走を厭わず

第四編 源頼義

第二話


「おっ、来たね。早速だけれども、宿題はやってきたかい?」


あぁ、メモリありがとう。ん、シャープ製のタブレット電演機...それも最新型か。いいもの使ってるね」


アプリの中に作ってきたのかい? どれどれ...なるほど、事実を元に逆算して考えたのか。いい感覚持ってるじゃないか、その推論はほぼ当たってるよ。そう、まず一つ目として挙げられるのは刀伊の入寇...契丹族、つまり女真族の一部が突如として我が国に襲撃をかけた事件だね...を彼が極めて正確に予測していたということだ。あまり聞かないかもしれないが、この時代は海賊の略奪行為は割と頻発していてね...記録に残っているだけでも二世紀で数十件以上にのぼっている。その多くは新羅など外国からのものであった。だからこそ高麗との国交を開始した時点では朝廷の警戒心が高かったのだが...太祖王建の指示で国交が開かれて以降、二国間の協力で半島由来の海賊は縮小していたことが文献から判明している」


その代わり、現在のウラジオストク周辺で生活していた女真族による被害は増加傾向にあったようだ。彼らは大規模な船団を組んで高麗の沿岸部から我が国の日本海沿岸部にわたって幅広く略奪を行っていた。そういった事情もあり、海軍力の育成は急務であったと言える。菅原道真が最初に主張していたようだが、時代が下るごとに頻発するようになっていたため朝廷もその重い腰...と言っても基本は政争で地方まで手が回らなかっただけなのだが...を上げることになった」


ここで、彼がどういう訳か高麗の情報を集めることが可能であったことが生きてくる。大規模な船団を組織しているという知らせが頼義を伝って朝廷にもたらされ、さらに朝廷の外交筋からも確認が取れたことで準備が加速したんだ」


独自の情報網を有していた理由は現在になっても全く手がかりが掴めていない。ただ、橘家や菅原家とも接点があった謎の多い諜報組織との関連性は指摘されている。もちろん、文献が全く残っていないからあくまで推測なんだけれどね」


そして二つ目の理由は朝廷の武装集団への意識の変遷と財政の好転に起因するというのが現在の定説だ。前に少し話したように、平安貴族は戦争を「穢れ」として忌み嫌っていた。と言っても人間が存在すれば争いが起こるのは必然だ。だから代替役としての武士団の伸長があったのだけれども、源高明による西征以後、主に当時の若手貴族を中心としてその意識が変わり始める。政治闘争に明け暮れているばかりでは第二第三の平将門・藤原純友を生み出すだけではないか...とね」


そのため、彼らは武士団を自らの影響圏内に取り込みはじめる。兵部省管轄の徴兵とは別に武力の専門家集団を確保して自身の身を守ると共に反乱が起きた時にいち早く対処して自身の権益を守ろうとした訳だ。目的は個人的なものではあったが、これは貴族社会に軍事への理解をもたらし、結果として早期の軍事力整備につながったと言われている」


そして財政だ。こちらも高明が手を加えてから僅かではあるが好調になりつつあった。蓄えが増えたことで迅速な物資の供給が可能となり、軍船の建造や兵器調達を後押ししたと言われている。源融の子孫で、瀬戸内に影響力を有していた嵯峨源氏流渡辺氏を配下に収めたのもあるだろうね」


ちなみにこの軍事力の整備の裏には高明の三男である源俊賢の支援が存在していたとされている。藤原兼家派であった満仲の孫ながら敵対派閥と言っても差し支えない彼と交渉が出来ていたことから政治的取引が上手であったことが伺えるね」


このような理由から、極めて短い期間でありながら彼を棟梁とした多田源氏一族はその質を大きく向上させた。資金源がどこにあったのか、支援をどのように引き出したかは正確にはわかっていないが、少なくとも海上における機動力の確保と共に火力も両立出来ていたのは間違いない」


「そしていよいよ船団が襲来する。50隻3000人前後と極めて大規模な兵力が対馬に殺到したが、被害は頼義の活躍で想定よりも軽微なものとなったわけだ。」

































-寛仁3年(1019年) 3月27日夕刻 対馬沖-


 多少遅れてしまったが、本格的な略奪が始まる前に到着出来てよかった。“史実”と違って朝廷の理解があったおかげだな。死者を三桁単位で出したと言われる刀伊の入寇だが、これまで私が培ってきた船舶建造力、軍事技術力に加えて転生してもなお連綿と続く諜報組織の伝手を頼って情報収集を行っておいたことによって極めて迅速な対応が出来た。水平線の向こうから現れる船団を発見できたのは数日前に大宰府に到着したおかげだな。敵船発見を知らせる、対馬の金田城で上げた煙は壱岐まで見える。そして壱岐で上げた煙は大宰府でも見える。晴れた日限定ではあるが、基本そのような日にしか襲来しないであろう敵を屠るのであれば十分だった。この時代で可能な最高レベルの早期警戒システムと言えよう。


 船を操るというのは当然の事ながら非常に難しい。風を読み、潮を読み、ましてや軍船であるから戦況すら読まねばならない。そのような卓越したセンスを持つ人間はそう多くはなく、故にここまで武士団を訓練するのには正直かなり苦労した。が、きっちりと研鑽を積んだ今現在であれば...海軍としての質は確実にこの時代の世界最高水準に達していると断言出来る。火薬兵器を実用化した高速船団なぞ、この時代ではどこの国にも存在していないだろうからな。


 岩礁の影から滑るように進んだ、私の座乗する旗艦を含む先頭の5隻が、単縦陣で船腹を女真の船が並ぶ浜辺に向けた。隠匿を第一に考えた結果、気づかれることなくかなり近い所まで接近できた。既に火車の射程内だ。各船の船尾に立つ信号手...信号使しるしのつかいと名付けた...が両手の旗を振り上げる。射手らが自身の配置にそれぞれ着き、それを確認した彼らは左手の白旗を島へ向け、右手の赤旗を体の前でぐるぐると回す...事前に取り決めた信号のひとつ、「照準合ワセ」だ。レールの先が一斉に島を指向し、最適と思われる角度と方角に設定される。火車の用意が揃った船から順次、鏑矢が放たれた。ぴょうと音が鳴り、矢が放たれたことを確認した信号手は右手をぴたりと頭上で止めて、一気に振り下ろした。「火付ケ用意、放テ」...いよいよだ。


 火縄に火がつけられ、全船からもうもうと煙が立ち込める。海上で奇襲をかけられることは考えていなかったようだ...見張り番だろうか、ようやく異常に気が付いたのか浜辺の船の上をうろうろと動く影が見えた。だが、もう遅い。甲高い爆音と共に一斉に矢が放たれた。夕日を浴びて輝く小槍の通り道を示すように、幾筋もの煙が弧を描く...そして、弾着。船体がズタボロになったのはマシな方で、弾頭を火炎弾に換装したものが破裂した箇所では既に炎が吹き上がり始めていた。凪の時間帯とは言え木造船に飽和攻撃が仕掛けられたのだ、数隻はあっという間に使い物にならなくなったのが遠目にも分かった。だが、ここで我々の攻撃は終わらない。終わる必要性も感じられない。


 攻撃を終了した船は離脱を開始し、第二波が射撃位置についた。鏑矢の音が再度響き、しばらく後に煙が上がる。爆音。着弾。応戦しようにも完全なアウトレンジによって弓が届かない。曲射ならばあるいは...という感じではあるが、命中率も威力も船を撃退するには至らない。まさに蹂躙の一言に尽きた。村で略奪を行っていた一団と思しき人々が戻ってきたようだが、何も出来ずに呆然としているな。船を焼かれ、帰る術を失った彼らに出来ることはもうほとんど残っていない。


 第三波。今までの攻撃で、確認できただけで10隻は沈んだか絶賛炎上中。“史実”と同規模であれば損耗率は既に20%を超えたはずだ。ここにある中で甘めに見たのも含めて使い物になりそうな船はあと3隻も残っていない。日も暮れて辺りが闇に包まれ始めてきたな...よし、次の段階に移るとしよう。


『信号使、貝吹け!上陸するぞ!』


 命令と共に、彼らは一斉に腰に着けていた法螺貝を吹き鳴らした。未だ火車を発射していない戦闘船は一度退避し、他の場所にいる可能性の高い女真族の別の船団の捜索に向かわせるが、兵員輸送船と旗艦を含む残った戦闘船はそのまま浜辺に乗り上げさせる。補給が済み次第、上陸作戦で最も脆弱なタイミングとなるであろう下船時に火力支援を行って牽制するのだ。


 わっ、と船から飛び出てきた兵たちを整列させ、速やかに移動させた。訓練の成果だな、ただ砂浜に足を取られて転ぶ者が出てしまうのは致し方ない。こればっかりは二十一世紀でも可能性があるのだから。なにか対策が取れれば良いが、なかなか思いつかんな...おっと、そんなことを考えている暇はなかった。さぁ、進軍だ。燃えている船の近くに高威力かつ派手な攻撃を行う、槍の穂先をタッチホール式で発射する携帯武器、アラブ世界での初期の火器であるマドファを小型化したような「火筒」を装備した部隊...火車を扱う兵らと共に「迫撃兵」と名付けた...を配置し、火花の明かりで発射タイミングを悟られないようにすると共に大型の盾を持たせた防御隊が弓矢による反撃を防ぐ。


 こちらは当たればもちろん大ダメージを負わせることが出来るが、命中率の点から言って陽動としての役割が大きい。歩兵同士の戦闘になれば同士討ちの危険性もあるからな。だから本命は、弓兵とバックラーを装備した槍兵で構成された軽装甲高機動部隊だ。小隊規模で迅速に動き回ることにより敵を近接戦闘に持ち込む。ちなみに刀剣装備が少ないのは財源不足という悲しい理由を槍の方がリーチが長いというそれっぽい言葉で覆い隠しているのみに尽きる。上陸戦では長すぎる槍は機動力の損失に繋がるからな...そして弓兵はその近づくまでの繋ぎだ。文字通りのゼロ距離射撃が出来る者も多いとはいえ飛び道具、敵兵の抵抗が大きく戦闘時間が長くなればなるほどその残弾は少なくなる。もっとも、今回は終始敵が組織立った動きが出来ていないからその心配は無さそうだ。朝になったら山狩りをせねばなるまいが。まぁその頃には大宰府から応援も来ているだろうし人数の問題は無いかな。


 喧騒の最中ではあるが、ようやく村人に話を聞くことが出来た。避難を優先したために生活用品や食料はともかく、人命被害は拡大しなかったようだ。また、船団が他の島へ渡った形跡もないという。良かった、それならば他の島が襲われる危険性は低いだろう。食料が喫緊の問題だな...どうしようか。あと部下たちへの褒美...敵の使っていた武器とかは剥ぎ取って来ても良いとは伝達してるが、朝廷はちゃんと恩賞出してくれる...よな...?工作したんだからそのぐらいは与えてくれよ、全く。頭痛の種になりそうなことがまだまだ山積みだよ...

































この襲撃事件は最終的に賊の壊滅に終わり、完膚なきまでに叩き潰されたと言われている。遼に所属していないの女真族は火薬兵器そのものを見たことがある人間が少なかったし、海から奇襲を受けるとも思っていなかった。ついでに言えば村に押し入ったにも関わらずもぬけの殻であったのも誤算だっただろう」


彼の抜群の戦略眼によって海賊による被害はこの時代では有り得ない程に少なかった。対馬で彼の銅像が建てられているのも伝承としてずっと伝わってきていたことが少なからず影響しているだろうね」


大宰権帥であった藤原隆家、またその部下の大蔵種材らの援軍により、頼義の攻撃が開始された次の日の朝から山狩りが開始され、数人の捕虜をとった以外は襲撃者は全員殺された、或いは戦死したようだ。一方的とも言えるこの圧勝により頼義は名声を確実なものとし、京へと凱旋した。朝廷もある程度褒美を出したようで、彼の武士団は益々強化されていくこととなる。本来であればその力を危険視した朝廷が何らかの介入を行おうと画策したかもしれないが、彼は朝廷内部に取り入り、どこからそれだけの費用を捻り出したのか、自らが儀式や改元などに必要な資金源となることでその可能性を排除してしまった。政治の枠組みの中で動くことで、全国的に影響力を発揮する言わば朝廷の懐刀...武士団に最強の治安維持組織としての役割を付与したんだ。下流から中流貴族の理解と支持があったことも原因ではあるが、その政治手腕が無ければ悲劇の英雄となってもおかしくなかったかもしれないね」


そして彼はその地位と名誉に胡座をかくことなく朝廷のために東征をも行うこととなる。血縁から「日本武尊の再来」と持て囃されたのも頷けるね、もっとも彼は一臣下であり帝に使える身であると常々表明し、そのような異名を名乗りたがらなかったようだけれども」


それに、彼は陸戦よりも海戦、その延長線上にある奇襲上陸を得意としていた。また草の根忍者だけでなく弟の朝廷内部の繋がりをも駆使した風説の流布による敵の自滅・弱体化、寝返りの誘導や敵内部の撹乱も行っていたことが知られている」


これを卑怯だと嫌ったある高官が『侍へば 御身の追はふ 苦労はや』...『帝の傍に控えて、時にはそのお姿を追いかけるのは苦労ですね』という裏に『お前は汚穢をはひ...穢れのある身では無いか』と嫌味を効かせて詠んだのに対し、『孫子まごこの道は きのみちにあり』と笑って返したのは有名な逸話だね。まごこを孫子そんしと読めばきのみち...希の道は詭の道、詭道と読み替えられる。『兵は詭道なり』...孫子の兵法の至言だね」


「今まで戦というものは馬上で名乗りを上げ、弓矢を射ることが作法だと認識していた者たちは、その前提を大きく覆されることとなる。刀伊の入寇を鎮めた9年後の平忠常の乱、その時に情報戦と諜報戦の力を彼が戦闘において初めて最大限に活用したと言うのが現在の調査による有力説だ。」

































-長元2年(1029年) 8月下旬 上総国-


 海上ルートを使って移動するというのはこの時代では場合によっては馬を使うよりも速い。まして近畿地方から上総国千葉県であれば例え忠常が都にスパイを入れ、我々が向かう情報を入手していたとしても、それが届くよりも迅速に動けることはほぼ間違いない。とは言ってもこの時期は天候が心配だったな、晴れてくれて良かった。


 夜間に船から武器や物資を下ろし、行軍を開始する。夜明け前には諜報部隊との合流が出来た。そう言えば...もう200年近い付き合いになるのだが、彼らに正式な名前を与えていなかったな。基本「そち」とか「その方」とかそんな感じだし。一応一族としての苗字はあるんだけどね。まぁ国の組織ならともかく、一民間組織のようなものと考えると転生していることがバレない方がいいと言う都合上、つけておかない方がいいのだろうか。正式に朝廷召し抱えと出来るような構造が完成するまでは隠匿しておく方がいいかもしれない。かの村を経由して様々な物品の売買や経済活動の活性化を図っているから、今の潤沢な資金があり、それを悟らせたくないというのもあるが。


 もっとも、今回の人生は朝廷中枢から離れてしまっているからコネを通じて少し弄る以上のこと以外は行政に携われないのだけれどね...道真二周目で仕込んだ「御親兵」だが、どうやら道長が実権を握っていた際に廃止されたのだった。いや、正確には暗殺されたらしい。私が知ったのは京から離れていたこともあってかなり時間が経ってからだったが、親政を進めかねないようなものは何であっても邪魔者として消すのか、肝が冷えるわ。宮中の情報が得ずらくなったのも痛いが、むざむざと自分の手の届かないところで優秀な人材を殺させてしまったことに焼け付くような罪悪感を感じる。同時に、今がどんな時代であるのかということも...実務官レベルはともかく、大臣連中は人の命を文字通り磨り減らすような全力で権力闘争に夢中で地方のことには興味が無い。弱肉強食なのは分かるが、しかし、それしか見てない所が源平合戦でとんでもなく痛い目を見ることに繋がるんだがな...


 ...思考を切り替えよう。諜報組織の人間はよく辛抱して難解な任務を行ってくれた。忠常が安房守である平維忠を焼き殺すという物騒なことをして今回の征伐を受ける羽目になる前から、時間をかけてゆっくりと彼らの領地への弱体化工作を仕掛けていたのだ。酒や娯楽、女を入れて堕落させて兵の士気を乱し、イナゴを放って虫害を起こしたり田んぼに塩を撒いたり、闇夜に紛れて火をつけたりとまぁやりたい放題。忠常が知ったら怒りのあまり卒倒するんじゃなかろうかと思うほど撹乱しまくった。既に兵糧と呼べるようなものも乏しく、農民たちの反感を買っているらしい。ついでにどこでそんなノウハウを得たのか、いきり立っている農民に対して僧侶やなんかに化けて施しをして斥候やゲリラの手先にしていた。報告を受けた時はいくらなんでも絶句した。確かに忠常だけでなく良くない噂を聞く土着の豪族には浸透工作を、とかなり前から指示していたのだがここまでやっているとは思わなかった。命令したのは自分とはいえ、我ながらえげつないなとドン引いたね。


 だがその甲斐あって、ほぼこちらがダメージを負うこと無く攻略出来そうなのは大きい。政治を変えてきた影響が出ているのか、本来であれば低調だったはずの、彼らのような納税をしていない者たちへの処罰が厳格化されているのもあるが。なんか“史実”と違って中央の下流貴族とか中流貴族とかは独自の兵力を蓄えているみたいだったし、その点彼も過去仕えていたようだから、お呼びがかかって脱税が有耶無耶になるんじゃないかとも思っていたのだが...荒っぽかったからなのか誰も手を組みたくなかったようで、そのまま朝敵扱いされたのだった。“史実”であれば平直方が一番最初に討伐を命じられていたはずなのだが...忠常と敵対しているし本拠地が近いからね...何故か私と親父殿を名指しで応援として要請した。直方は「自分だけでは戦力が心もとない、貴殿らのような武勇に優れた軍勢が味方していただけるのはありがたい」と言ってたから裏で手を回していることを知らないはずなのだが...戦力の不足と名誉の独占を天秤にかけたのかな?ついでにコネを築きたかったのか私に娘を娶らせおった。いや、“史実”もそうだから嫌な予感がしてたんだが...まぁいいや、諦めよう。とりあえず今は情報待ちだ...お、暗闇の中で何か動いたな。ありゃなんだろうか?


〔斥候として平忠常の屋敷を見張っていた農民のようですね。どうやら寝静まっていて夜襲をかけるなら今が最適だと言っているようです〕


 なんでこんな暗い中でそんなことが分かるんだよ...なんかいるなくらいしか分からんぞ、普通は。


〔鍛えてますから〕


 ...今語尾に二十一世紀前前前前世で言うところの(キリッとか(ドヤァがついたのが見えたぞ。


〔はて、なんのことやら〕


 いつからお前はそんな冗談が言えるようになったよ...一周目橘逸勢の頃はもっと無機質だった気がするんだが?


〔気のせいですよ〕


 さいですか...


 しばらくすると幕僚が進み出て、農民からの報告によれば今が好機とのこと、と報告してきた。マジか、感覚器官はこの体を使っている筈なんだが“オモイカネ”のヤツはなんで分かるんだよ...本当に鍛えてるのか...? まぁいい、今は準備をしなくては。


 火車による飽和攻撃を敢行し、さらに屋敷に火をつける。慌てて出てきたところを弓兵で消耗させ、槍や刀で武装した歩兵で討ち取るのが最適解か。もっとも、食料庫が空になっているからどこまで持ちこたえられるかによるがな。ウチの元家人だったから名乗って誰を相手にしているのか分からせた方がいいかとも一瞬思ったが、火車をここまで大規模に使うのは我々以外には存在しないから自ずと分かるか。親父殿もニヤニヤしてるだけだし...というか最近ずっとニヤニヤしっぱなしだな。そんなに嬉しいんだろうか。まぁ名目上はまだ棟梁だし、上からの覚えもいいみたいだからウハウハなんだろう。そろそろ引退するとか何とか抜かしてるが、アンタまだ20年は生きれる予定だからな。まぁ私の朝廷からの評価も連動して上がってるからいいけどさ...


 床机から立ち上がり、使番に攻撃を始めよ、と伝える。そのまま幕外に出て軍勢の状態を確認。よしよし、特に混乱はないな。揚陸開始からおよそ二日間、敵が疲弊しているとはいえよく気付かれずにここまで来れたものだ。炊事も極力避け、協力的な村でのみ釜を借りて飯炊きをするなど偽装を施してきた結果か...おっと、日が昇り始めた。この時間でも寝ているとなると疲弊は相当のようだな、死兵と化して全力で抵抗されると面倒だが...よし、確実を期すためにもやっぱ火車の一斉射をしたら降伏勧告をするか。準備が早い陣地ではもう煙が上がり始めた、開戦はまもなくだ。

































頼義が掃討に動く5年ほど前から、忠常領での収穫高は減少していたと言われている」


この時期から密偵を放って工作をしていたと推測されているのはそれが理由だね。それまで忠常のような国司に納税を拒否する有力者は中央貴族との結び付きがあったから討伐の動きが低調だったんだけれど、彼が降伏して以降は各地でそのような人間が追討される動きが増えた。その結果軍事力が次第に朝廷貴族に収束し、33年戦争序盤における平氏への一定の枷はめとなったのは極めて興味深いことだね」


そして食糧不足からあらゆる組織が麻痺しかけていた所に、頼義軍が火車を投射したことで忠常らは大混乱に陥った。そこに響く元上司の一喝...おお怖い。軍事行動が不可能だったことと精神的に参っていたこともあって彼は速やかに降伏した。それまでは直方が様子を伺っていたこともあって痩せ我慢をしてでも兵を張り付けさせていたようだけれど、頼義が到着した頃に限界を迎えたらしい。まぁ、そこに至るまでの全てを仕組まれていたから武勇に恐れをなして降伏したというのもあながち間違いではないかな」


「この乱の鎮圧によってさらに名声を増すこととなった頼信、頼義親子はそれぞれ美濃国と上総国を受領、任期満了後も国司として他の国を転々としてしばらく時を過ごすこととなる。頼信は48年に死没するが、その3年後の1051年に頼義はその武勇を買われて陸奥守に任じられることとなった。世に言う前六年の役の始まりだ。」

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