番外編 故郷に帰ったら

 ふわりとした銀髪が、吹き付ける風でたなびく。

ここは夏のロシア、ニジネヴァルトフスク。その中心街で、一際小さな少女……のように見える女性、黛茉蒜は懐かしそうに辺りを見渡す。涼しそうなワンピースの上に栗色のカーディガン、靴は黒のローファー。磨いているのか、まるで鏡のようにワンピースが揺らめくのが人目で見える。

 ここニジネヴァルトフスクは、彼女が八歳頃まで住んでいた故郷。現在二十八歳の茉蒜は、二十年前の自身の記憶を頼りに、その住んでいた家を探すために、小さな頃からの友人であるアドミネと一緒にここまで来たのである。

もちろん、これは休暇を使っての事であり、仕事ではない。アドミネは「モスクワに観光に行ってくる! あ、後で来てね!」と言い、駅で別れたきりである。

「亮と会ったのはモスクワだったけど、ニジネヴァルトフスクは案内してなかったっけ。今度連れてきた時に案内しなくちゃなぁ。……あっこのお店懐かしい」

 独り言を呟きながら立ち止まったその店は、茉蒜がよく行っていた小さなカフェ。アンティークな家の作りと塗装が特徴的で、ロシア語で書かれた看板は日本語に訳すと「コーヒーが美味しいからとりあえず中へ入れ」というなんとも適当な宣伝文句であり、気になった茉蒜が四歳の頃に母親のアガーフィヤを連れて入ったのが最初であり、何度か利用していた所でもある。

「……覚えてるのかなぁ」

 扉を引いて開けてみると、扉に付けられた金属製の鈴がチリンチリンと涼し気な音を奏でる。あぁそう言えば、入る度にこの音を聞いては綺麗な音だねとお母さんに言ってたっけ……なんて思っていると、音に気づいた店員が振り向いた。

「いらっしゃ……あら茉蒜ちゃん? 随分大きくなって〜!」

「こんにちはキーラおばさん。そうよ、覚えててくれたのね」

 迎えてくれたのは、オーナーのキーラ=プロトポポフだった。座ってと促され、近くのテーブル席に腰を下ろした。周りには老人がおり、若い年代の人と言ったら茉蒜しかいなかった。

相変わらず、ここは老人が集まるカフェだ。茉蒜が初めて行った時もこのような景色だった。茉蒜は何も気にしてはいなかったが、付き添いで行ったアガーフィヤはよく気にしていたようだ。あの時ばかりは母親に申し訳ないと、今なら思える茉蒜だった。

「はいお水ね。何食べる? 涼しいものならかき氷とかあるけども」

「ありがとう。じゃあかき氷貰おうかな。なんの味があるの?」

「そうねぇ……いちごと、メロンと、ブルーハワイと……」

 二十程の種類がある味の中から、茉蒜は気になった練乳味を頼んでみる事にした。キーラがカウンターへ戻り、かき氷機に氷を入れながらある事を問いかけてきた。

「茉蒜ちゃん、彼氏は出来たの?」

 飲んでいた水を吹き出しそうになるも、どうにか抑えた茉蒜は水を飲み切り、

「なっななな、久しぶりに会ってなんでそんな女子同士の恋バナなんかしなきゃいけないの!?」

「あっはっは! その反応は出来てるんだね?」

 ニヤニヤとしながら聞いたキーラに「うぐ……日本人の彼氏が出来ました、職業は航空自衛隊の戦闘機パイロットです……」と観念したように、しかし恥ずかしそうに答えた。

「あらま航空自衛隊! 茉蒜ちゃんは今なんのお仕事してるの?」

「海上自衛隊。大佐よ大佐」

「あらま! いつの間にそんな偉い所まで上り詰めたの〜!」

 何故か「あらま」を二回言ったキーラは、グラスを用意してハンドルを回し、ガリガリとかき氷を作り出す。

「防衛大学校入ったの。凄いでしょ?」

「凄いじゃない、おばさん感激! はいお待たせ!」

 茉蒜の目の前に真っ白なかき氷が置かれる。練乳がかかっているのかそうでないのかが分からなかったが、食べてみると甘い練乳の風味が口に広がる。

「そうかい、大佐かい……。って事は、艦長とかやったりするんじゃないのかい?」

「まさにその通りよ! 空母の艦長任されてさ、どうなるかと思ったわよ」

「いいじゃんキャプテン! おばさんも海軍に憧れたよ!」

「えっ、キーラおばさんも?」

 かき氷を食べながら、茉蒜は驚いて尋ねる。

「そうよ。今ならほら、女でも海軍に入れるけど……昔は男の子しか入れなかったからねぇ」

「それは日本の旧海軍も同じよ。私は初めから目指してたわけじゃないけど」

「あらそう? あなた、小さい頃は「お父さんみたいな海軍の人になりたい」ってずっと言ってたのよ?」

「そうだっけ?」

 顔を見合わせ、二人は笑う。色々話しているうちにかき氷は無くなり、茉蒜は一つ息をついた。

「ごちそうさま。お代は?」

「お代? いらないいらない! 茉蒜ちゃんの笑顔が見られただけでもお代だよ!」

「でも、そういう訳には……」

 財布を片手にオロオロとしていた茉蒜に「いいんだ、これでいいんだよ」と、少し寂しげにキーラは言う。

「何かあるの?」

「いやね、茉蒜ちゃん八歳の頃にここに出たから、言ってなかったけれど……。

 今日でこのお店、閉めるんだよ」

「……は!? え、ごめんもう一回」

「茉蒜ちゃん八歳の頃に……」

「違うそこじゃなくて!」

「お代? いらないいらない……」

「そこでもなくて!」

 ちょっとしたジョークトークが流れ、茉蒜は一つ咳払いをする。

「……ほんとに、閉めちゃうの? また帰ってきたら、ここに来ようって思ったのに」

「閉めちゃうんだよ。私も歳だからねぇ。茉蒜ちゃんが初めて来てくれた時は三十代だったから、まだまだ現役だったけど……今はもう、そうはいかないし」

 茉蒜の頭に、キーラの大きな手が乗せられる。頭越しでも分かる、シワシワの「苦労した手」だ。目に涙を浮かべて俯く茉蒜をそのままわしわしと撫でて、キーラは続ける。

「大丈夫、死ぬ訳じゃあ無いんだし。私は店を閉めてもここにいるよ。だから、たまには帰ってきて、元気な姿を見せて?」

 茉蒜は何も言えなかった。彼女の顔すらも見なかった。今キーラの顔を見れば、自分は確実にここから出たがらないだろうと思ったから。そう思っていたら、顎の方に手を回されて、そのままグイーッと強制的に顔を上げられる。キーラは笑っていた。笑顔で茉蒜の目元を手で拭い、また言った。

 

「約束、出来るかな?」

 

 素手でぐしぐしと涙を拭った茉蒜は、

「うん、もちろん!」

 屈託のない子供のような笑顔で、そう返した。

 

 ***

 

 店を出て、茉蒜は振り向く。もうこの店では鈴の音も聴くことはない。だってその鈴は、

「……もう、いらないって言ったのに」

 茉蒜の手に握られているのだから。

 また風が吹き、ピアノ線に吊るされた鈴が再び涼し気な音を出す。

 そのまま振り返らずに、茉蒜は当時の家へ向けて歩き出した。歩く度に鳴る鈴のせいで何度か泣きかけるも、すぐに拭いて歩き出す。幼い頃、あの店から帰った時の記憶を頼りに、歩を進めた。

「えーっと、この交差点はどっちだったかな。ママがよく間違えてた道だったような。あの時は左に曲がって何も無い田んぼに出たんだっけ? 真っ直ぐ行くとたまに行ってたマ〇ドナルドに出るから……じゃあ右か」

 ここはロシアだしと、一応母国語のロシア語で呟きながら歩くも、やはり二十年住んでいた日本で通じる日本語の方が話しやすいと感じる。

「……変なの。私ロシア人寄りなのに」

 右に曲がり、再び記憶を巡らせる。

「ん? あぁそうだ、思い出した! こっちを左に曲がって、突き当たりを右に行って、真っ直ぐ行ったところじゃなかったっけ!」

 そう思い出すことが出来たのは、道端に石像があったからだ。小さな頃はよく石像に挨拶をしていたのを思い出し、二十年前の引越しをしたあの日も挨拶をして離れたのだ。

 嬉々として道を辿ること数分、辿り着いたのは青い三角屋根の二階建ての家……紛うことなき、茉蒜の実家である。

 灰色の自動車を視界に入れ、首を傾げる。休日でも出勤する事の多かった茉蒜の父、成実は、普段はこの車を使って基地へと向かう。それがあるということは、

「パパ……もしかして休み?」

 迷わず扉をノックした。すると中から一人分の足音が聞こえ、扉が開かれた。

「はい……って、茉蒜? どうしたこんな遠い所まで」

 驚いた様子で立ち尽くす成実。茉蒜は「もうっ、実家帰省よ! パパの鈍感!」と少々怒りを表して返す。

「ごめんごめん。アガーフィヤは?」

「ママはお仕事だから、一人で行ってきなさいって」

「そうか、久々に会いたかったんだがな。まぁ入れ、暑かっただろ? 帽子も無しに何してんだお前は」

 中に案内され、入りながら「帽子嫌いなの。日焼け止め塗ってるし、カーディガンも着てるからいいもん!」と靴を脱いで床に足をつける。ひんやりとした風がほのかに吹いているのに気がついた茉蒜は、居間に入って電源のついているエアコンを見る。

「やっぱり。エアコン付けてるのね」

「そりゃあな。北の地域ノースストリートとは言えど、暑いからな。何飲みたい?」

「逆に何があるのよ」

「牛乳と、オレンジジュースと、りんごジュース」

「じゃありんご〜」

 仲良く話している二人はもちろん、この家で行われていた事も全て記憶に残っている。だが今はそんな事も馬鹿馬鹿しいくらいに親子仲が良い。

「ほい」

「ありがと。あ、ママの写真じゃん」

 テーブルに置かれるりんごジュースが入ったコップの少し先に、アガーフィヤが笑顔で映る写真たてが置かれている。

「これみたらママ喜ぶよ?」

「夫婦仲睦まじくってやつだな」

「じゃあ写真に撮ってママに送るー」

 スマホを取り出して写真を撮り、アガーフィヤのトーク画面を開いてロシア語のキーボードで文字を打ち、写真を同時に送る。するとすぐに既読がつき、「やだもう成実さんったら、ママ照れちゃう!」と可愛い文章がロシア語で送られてきた。

「……ママ可愛い」

「これが子バカと言うやつなのか?」

「うっさいやいマザコン、ほら見てよ!」

 先程の返信を成実に見せると、「ほんとだ……アガーシェンカ可愛いな」と思わず愛称で呼んでしまう。

「アガーシェンカって、友達かって」

「ママとは大学時代の友達だぞー? そこから付き合いだしたんだからよ」

「お熱いね」

「うるせえ! お前も彼氏いるだろ!」

「な、なぜその事をっ!」

 二人して笑い合い、テレビに映るニュースキャスターに視線を移す。

「ねぇパパ、休暇いつまで?」

「俺? あと一週間はあるけど」

「私は一ヶ月先まであるんだ〜! パパの休暇が終わるまでここにいていい? 自分の部屋も久しぶりに見てみたいし」

「いるのは全然いいが、あそこをか? やめておけ、また思い出すだけだぞ?」

 成実は極力引き止めた。茉蒜はニコニコしながら成実の方を向き、

「大丈夫、もう慣れたし!」

「そこまで言うなら止めないが……万が一やばいと思ったらすぐに降りてこいよ?」

「はいはい〜!」

 立ち上がり、居間を出て階段を上がる。茉蒜のかつての部屋は二階にある。階段を上って真正面の扉のドアノブに手をかけてゆっくりと開けた。

「おおう、埃っぽい。やっぱりこれだけ放置されてるとねぇ」

 散らばった人形、白紙が黒く塗りつぶされたスケッチブック、白い机、焦げたコンセント、電源のつかないテレビ、カーペットに染み込んだ紅い血痕、壁にかけられたウッドクロック。画面は割れており、三時半を指したまま止まっていた。

 何もかも、二十年前のまま時が止まっているかのようだった。てっきり成実が片付けているのだとばかり思っていたが、どれもこれも全部そのままになっていた。

「……懐かしい」

 カーテンを左右に移動させ、窓を開ける。埃をはたいてある程度綺麗にした後、何故か綺麗に洗濯されているベッドの上に座る。

「なんでベッドだけ洗濯してるのよ、しかもいい匂いだし!」

 潜り込み、スンスンと匂いを嗅ぐ。フローラルな香りが包み、顔が緩んでしまう。起き上がって部屋を散策してみる。幼い頃は絵を描くのが趣味だったっけ。いつも窓から見える風景を鉛筆で描いていたのを思い出す。人形やぬいぐるみは全てアガーフィヤが買ってくれたもので、引っ越す時に一つだけ持っていったうさぎのぬいぐるみがある。それは亮から貰ったもので、どうしてもこれだけは手放せないと引越し先に輸送で送ってもらったものだった。

 焦げたコンセントは、父の成実がしたもの。おかげで茉蒜の部屋のコンセントが一つ使えなくなり、母アガーフィヤにこっぴどく叱られていた。

 そして、カーペットに染み込んだ紅い血痕。

「このカーペットまでこのままにしてるなんてね」

 しゃがみこみ、カーペットを撫でる。二十年前、半分監禁のような状態にされ、彼女に暴力を加える当時の成実に怯える日々を過ごしていた自分が懐かしい。今はもう性格が丸くなっており、そんな横暴な父は見られない。が、今でも怖いと思う時はある。

「……あら?」

 戸棚を整理していた時、カタン、と音を鳴らして落ちてきたのは一つの小さな箱。中を開けてみると、丁度今の茉蒜の腕に合うサイズの綺麗なブレスレットと一緒に、手紙が仕舞われてあった。書かれた年代は茉蒜が六歳の時と古いが、日光に当たっていなかったためか紙が日焼けしておらず新しく見える。

「誰からの手紙? 私、こんなの貰ったかしら」

 裏返して送り主を見てみると、

「ん? 浅野……は? 浅野亮? え、なんで?」

 疑問でしかなかった。アガーフィヤが住所を教えた事までは分かる。だが、何故出会って一年後に手紙を送ってきたのかが疑問で仕方がなかった。

 手紙の中には、一通の便箋。『あなたに似合いそうなブレスレットを見つけました。忘れないように、付けていてください』と綺麗な文字……恐らく亮の父の字であろうものが書かれている以外、何も書いていなかった。

「……確かに、私こういうの好きだわ。なんで分かるのよあの子ったら」

 左腕にブレスレットを付け、便箋を中に仕舞いこむ。

「やーね、私ったら。こんな大事なものが届いてなかったことすら気がついてなかったなんて」

 返事書かなきゃなぁなんて思いながら、茉蒜はそのまま手紙を下に持っていった。

 

 ***

 

 一ヶ月後、課業が終わった茉蒜は亮を呼び出して手紙を渡した。亮はキョトンとしながら受け取っていたが、彼女が左腕に付けているブレスレットに気が付き、「お前それ!」と思わず大きな声を出しながら指を指した。

「バレた? その手紙、あの時あなたが書いてくれた手紙のお返事。良かったらまた返事ちょうだいね」

 ニコッと笑い、茉蒜は艦長室へと戻っていった。亮がその場で中を開けてみると、中に入っていたものに「はぇ?」と変な声を出してしまう。

 

 その中に入っていたものは────。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この広き蒼穹の下で ただの柑橘類 @Parsleywako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ