善意
「人は誰しも善人であり、悪人である」
そう母に教えられてから、彼女の人生は大きく変わったと言っても過言ではない。
今、彼女……茉蒜は、重大な任務を課せられようとしていた。
偶然休暇を取っていた成行が、会議を終えて廊下を重苦しく歩く小さな姿を目に捉えた。
「お疲れ様です、一佐」
成行はそう声をかける。その声に振り向いた茉蒜の表情が明るくなり、「小畔君! お疲れー!」と元気よく声をあげる。
「今日は休暇?」
「えぇ、一佐は……会議ですか」
「そ。五十嵐海将が、会議が終わったらテスト航海に備えて休んでおきなさいって」
「五十嵐海将は甘いんですから……」
彼女の隣を歩き、成行は呆れ半分で声をあげる。
「というかテスト航海って……まさか、最近ヘリ空母から戦闘空母に改造された「かが」のですか?」
「そうよ。私がテスト航海に出ている間、小畔君は舞鶴でまた違う艦艇に乗るものね」
「えぇ、多用途支援艦「ひうち」の通信員に回されました」
「多用途だったら艦長にまひーがいるじゃん! あの子は何かと凄い子だよ〜!」
「まひー……あぁ、汐奏一佐のことですね」
少し思考を巡らせ、成行は呟く。
「幼なじみでしたっけ。あちらの方が一つ年上で僕とあまり年は変わりませんが、防衛大から入ってよくあんなに昇級出来ましたよね」
「なんでも、海汐元一佐とか、スーパーおじいちゃん……じゃないや、まひーのおじいちゃんが推薦したとかなんとかって聞いたよ?」
「横須賀にいらっしゃった御二方もお節介焼きですね。……って、横須賀基地にはお節介焼きしかおられないのですか?」
顎に手を当て、成行は真面目に考えだした。
「横須賀はそんなもんだよ〜。教育課程終えたらすぐそうなっちゃうの。だから、もし横須賀に異動する機会があったら凄いもてなされると思うから覚悟しておいた方がいいよ」
茉蒜の部屋へと着き、彼女は部屋に入っていこうとする。
「あ、一佐」
「?」
呼び止めた成行に、茉蒜はドアノブを掴んだまま振り返り首を傾げる。
「当日、トラブルに気をつけてください。嫌なことが起こりそうで、胸がざわついています……僕の気の所為でしたらいいのですが」
「……うん、ありがとう」
少し微笑み、茉蒜は礼を言って部屋に入っていった。
***
「とは言ってもねぇ。もう艦艇図は覚えちゃったし、やることが無い」
机の椅子に座り、パタパタと足を鳴らして不服そうに呟く。
「……それにしても、この『緊急用国家機密システム』って一体なんだろう?」
もう一度、茉蒜は透明のファイルに入った艦艇図を見る。
ヘリ空母の時とはうって変わり、茉蒜が見たことのあるシステムが数々出揃っている戦闘空母「かが」の中に、たった一つだけ、彼女が見たこともあらず、かつ全く分からないシステムがあった。
『国家機密システム』
艦艇図にはそう書かれている。しかもかなり地下の方だ。
「国家機密って言うくらいだから、外部に漏れたらまずいシステムなんだろうけど。伊藤幕僚長なら知ってるかと思えば「テスト航海をしている時にいずれ分かるよ」の一点張りだし……あー考えるの嫌い! やーめた!」
艦艇図を壁に立て掛け、茉蒜は机に突っ伏す。
「ほんと、なんなのよ。あのおじいちゃん幕僚長、私を試してるのかしら? よく分からないわ」
突っ伏したままそう口にする。
実際どんなことをするのか、どんな指示を送るのかは、艦長である茉蒜に任されているのだ。ここ十年間さまざまな艦艇に乗ってきた茉蒜でも、ヘリ空母……それも戦闘空母の艦長を務めるのははじめての経験だった。
「ましゅうの時は何とかなったけど、今回はテスト航海だし。私が何で艦長になったのかがどうも腑に落ちない……」
彼女は、そばに立てかけられた一つの写真たてを手に取る。
それは家族写真であった。大きな一軒家を背景に、男女二人の間に幼き茉蒜の姿が写っている。
「出港は六月三日……今度は見つかるかな」
そう呟いた午前十一時半の空は、少しどんよりした曇り空であった。
***
「五十嵐海将、本当に良かったのですか?」
航海訓練中、先任伍長である
「何がだ?」
「黛一佐の事ですよ。本来なら会議は課業終了後にするはずなのに、どうして朝早くさせたんですか?」
「あぁ、上層部の命令でな。午前中に早く決めて欲しい事があったらしい」
イージス艦「あたご」の艦内は意外と広い。それ故にバランスも崩しやすい。
舞子は過去に、イージス艦の射撃訓練の最中に、射撃の反動で転倒し怪我をした記憶がある為、話す時は大抵壁に寄りかかる事が多い。五十嵐海将自身もそれを知っている為、本来なら失礼にあたる行為でも何もいわない。
「上層部も物好きですねぇ」
「どうしてそう思う?」
「……いくら指揮力と判断力が優れていたとしても、他にももっと教育すべき艦長候補がいたのでは?」
「馬鹿言うな。あの艦は戦闘空母に改造されたんだぞ? 艦長候補にいきなり対水上戦闘訓練を指示できると思うか?」
「あぁ、確かに。考えてみればそうですね」
そう言うも、舞子はどこか腑に落ちない様子だ。
「あの、海将」
「?」
「黛一佐の父は、軍人でしたよね」
少し考え、「あぁ、俺も一回会った事がある。性格のきつそうな人だったな」と顎に手を当てて五十嵐海将は言う。
「それがどうかしたのか?」
「……いえ、軍人の娘、またもや息子となると……少し嫌な思い出がありまして。私も当日は機関の方で乗りますが、信用に値するかが心配で」
「黛一佐はあれだろ、汐奏一佐の幼馴染だったろう。汐奏一佐と高校で同級生だったのだろう? 何か聞いていないのか?」
「私、愛海にはあまり好かれていなくて。普段は口も聞かないんですよ」
愛想笑いを尽かし、舞子は言う。
「ほんと、昔みたいに仲良くできればいいんですけど」
「そうだねぇ、俺も縁を切った友達と復縁したいものだ」
と、二人の上の天井にあるスピーカーから『これより対水上戦闘訓練を実施する。繰り返す、これより対水上戦闘訓練を実施する。総員、救命胴衣を着用せよ』と、若い男の声が聞こえてきた。
「……海将、行かなくてはいけないのでは?」
「なに、今日は視察という名の課業だから、俺に与えられている任務は君達を見る事なんだ。一緒に回るか?」
「またそんなご冗談を!」
二人は笑い合い、「さて、そろそろ戻らないと」と舞子は自分の持ち場に戻ろうと壁から身体を離す。
「そういえば海将、私たちがテスト航海で出港する頃、舞鶴にいるんでしたっけ」
「ん、そうだな」
五十嵐海将に背を向け、舞子は不敵そうに呟いた。
「愛海に言っておいて下さい。『ちゃんと寝なさい』って」
「どうしてだ?」
「携帯のタイムラインで見たんですよ。最近体調崩したらしくて、ここ三日は寝てないそうです」
彼の方を振り向き、「だから、話さない分余計心配で。私も近いうちにテスト航海ですし、お互いにって事で、遺言頼んでいいですか?」と、困ったように笑い舞子は言う。
「あぁ、言っておこう。俺からもな」
片手で手を振り、五十嵐海将はそう返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます