若く小さきテスト艦長
同日、海上自衛隊呉基地幹部食堂内。
時間は午後一七時十五分。多くの幹部自衛官で賑わうこの食堂に、ぴょんこ、ぴょんこと小さなシルエットが時折姿を現す。
銀の髪の毛に、海のように蒼い瞳、それでいて身長はほかの幹部自衛官よりも遥かに小さいそのシルエットの肩につく階級章は、まぎれもない『一等海佐』だ。
「んん〜ご馳走さまでした!」
そんな元気な声とは裏腹、静かに手を合わせて椅子から立ち上がる。
「早いですねぇ一佐、なにかあるんですか?」
となりに座り食事をしながら、
「ん〜? これから資料と書類とまとめなきゃならないのさ〜」
その場で伸びをし、食器を持ちながら一佐と呼ばれた彼女は答える。
「……何徹目ですか?」
「三徹目」
「寝てください」
冷静にツッコミを入れた成行に、「書類を放っておけるか! 徹夜してでも今日中に完成させるんだから!」と、声を張り上げて彼女は答える。
「終わったら寝てくださいね……ただでさえ一佐は横須賀から来たばかりなんですし、というかこの前の航海の代休もらってるんですから、今のうちに休んでおかないとですよ」
「分かってるってば〜。それじゃ、お疲れ」
「はい、お疲れ様です。ちゃんと寝てください」
「しつこいなぁ!」
苦笑いをしながら成行の方を振り向いたあと、踵を返して食器を返却台に下げる。
彼女はこれから、上層部に任せられた書類を仕上げなければならない。
憂鬱な気持ちで部屋に向かおうと歩いた時だった。
「
彼女を呼び止める声が食堂に響く。振り返ると、一人の一等海尉が彼女の前で背筋を伸ばし立っている。
完全に振り向いた彼女は「どったの?」と首を傾げながら問いかけた。
「はっ! 現在、この呉基地に来られている空将補が、黛一佐をお呼びです! 至急司令室に出頭せよとの伝言を承っております!」
「え、私を? なにかの聞き間違いじゃなくて?」
「いえ、聞き間違いではありません!」
「わ、分かった……ありがとうね」
「はっ! では、失礼します!」
駆け足で立ち去る一等海尉を見送り、顔に焦りが見える彼女は足早に食堂を去る。
と、言うのもだ。彼女の役職である『航海』に、そもそも航空自衛隊はあまり関係がない。だからこそ彼女は怖かった。何を言われるかが分からない恐怖と緊張で吐き気がしてきそうだった。
「私よりも階級の上な空将補が、なんなのほんと……」
すれ違う隊員に答礼を忘れず、彼女は司令室の前まで一言も発さずに歩いていく。
廊下には色々な人がいる。
「ねぇ、聞いた?」と誰かを噂する人、書類を読みながら廊下を歩く人、同期、先輩、あるいは後輩と話しながら歩いている人。
彼女はそんな人たちを横目で見ながら通り過ぎていく。
しばらくして、「司令室」と書かれたプレートを見つけ、彼女は部屋の前で停止した。
ノックを三回すると、『入っていいよ』と中から声が聞こえてきた。
「……ま、黛一佐……入ります」
恐る恐る扉を開けると、中には二人の自衛隊員がいた。
一人は、海上自衛隊では見ない制服と空将補の階級章、もう一人は彼女が顔見知りである横須賀基地司令、
「伊藤司令、どうしてここに……あなたは横須賀の司令ではないですか」
「いやぁ、呉に送り出した部下が心配で心配で」
「それ私のこと言ってます? というかその方は……」
扉を閉め、彼女は席に座りもう一人の空将補を見つめる。
「君が、黛一佐だね」
空将補は口を開く。穏やかなテナーボイスに、彼女は思わず背筋が緩んでしまう。
「僕から紹介しよう。航空自衛隊小松基地から来た、
伊藤司令が左手を添えて、空将補を紹介する。
「横尾です。どうかお見知りおきを」
「黛
深々と頭を下げ、茉蒜は自身の名を言った。
「茉蒜とは、いい名前ですね。しかし何故冬服を?」
「あー……これはちょっと事情がありまして。お気になさらず」
私はこの名前嫌いなんだけど……と、心の中で言う。
茉蒜は徐々に警戒を解いていった。初対面の方を警戒するのは彼女の癖とも言える。が、今回は相手のとなりに知っている人がいたのが何よりも幸いだ。
「さて、本題に入りましょうか。今回、黛一佐を呼び出した理由としては、こちらの幕僚長から通して戦闘空母「かが」のテスト艦長をして欲しいのです」
「かがって……最近ヘリ空母から改造されて戦闘空母になった、あのかがですか?」
「えぇ、そうです。話が早くて助かります」
膝に肘を置き前のめりになる横尾将補を見ながら、「テスト艦長とは、どうして私なのでしょう?」と茉蒜は質問する。
「あなたの優れた指揮能力と判断力を、こちらの航空幕僚長が大層気に入られまして。是非、テスト艦長をやって欲しいとのことです」
「なるほど。呼び出されたかと思えば、まさかお偉いさんから声がかかるとは」
姿勢を楽にして、茉蒜は呟く。
「お言葉ですか横尾将補、それは命令ですか?」
横尾将補の目を見つめ、茉蒜は続けて口を開いた。
「いいえ、これは『お願い』です」
にっこりと笑い、横尾将補は不敵そうに言った。
「あっはは! さすが空将補、他の人とは言うことが違いますね!」
「恐れ入ります」
笑顔を見せて、茉蒜は少しの間笑っていた。
「───私の指揮は、少々手荒ですよ?」
そう答えた茉蒜の顔は、横尾将補と同じく不適そうに笑みを浮かべていた。
***
次の日、茉蒜は朝礼後に上官の
「海戦においての会議ですか?」
「そうだ。会議をするのは、今回テスト航海をする乗組員も同じだし、一人ではないから安心したまえ。まぁ、会議の先導は君になるだろうけどね」
なんて理不尽な!
心の中で茉蒜は叫ぶが、顔には出さず続きを聞こうと五十嵐海将に目を向ける。
「今回の戦闘機のテストパイロットだが、三人いる。二人はまともなんだが……。残りの一人がちと捻くれ者でな」
「捻くれ者……ですか」
「あぁ。今回は飛行訓練があって三人とも来れないが、その捻くれ者は命令だけは人一倍聞くから、何かあったら注意してくれていい」
「なるほど。分かりました、では今回の訓練は会議で補うという形で?」
恐る恐る茉蒜は質問する。五十嵐海将は無言でこくりと頷き、「さ、早く行きなさい。会議が終わり次第、部屋に戻り休んでいなさい」と茉蒜の背中を押した。
「分かりました! 行ってきます!」
小走りで戻っていく茉蒜を、五十嵐海将はじっと見守る。
「小さな姿で走って、よくあんな速度が出るものだ。確か五十メートルは七秒代、二年ほど前に横須賀の幹部に入ってきた
すぐ側にある海を見据える。小さなさざ波が寄って戻ってを繰り返し、隊員の張った声が聞こえてくる。
「……全く、世話の焼ける部下だ」
一人、五十嵐海将はそう呟いた。
「これでいいかな? よしっ、出発!」
一方茉蒜は、会議に必要な書類をまとめ、部屋を出て廊下を歩いていた。
「全く、朝礼の前に言って欲しかったかなぁこういうのは……」
そう呟きながら、茉蒜はついさっき上官に言われたことを思い出していた。
上官が放った、あの『パイロットの一人が捻くれ者』という言葉が、茉蒜は何よりも気になっていた。
「捻くれ者ねぇ」
防衛大三年の時に一番下の学年を指導したことのある茉蒜は、そんな捻くれ者を何人も見てきた。一年生の大体は茉蒜の事を同学年だと身長で判断していたが、それに彼女が三年だと答えた時の一年の動揺さは今でも忘れられない。
「捻くれ者だから、もしかしたら驚かないかも……?」
どことなく、茉蒜はそんな感じがしていた。
「私の中での捻くれ者は反抗期の中学生だからなぁ。あるかも」
歩きながら、茉蒜は呟く。
「考えててもしょうがないか。さて、会議会議っと……確か401会議室でやるんだったよね」
書類を持ち直し、また小走りで茉蒜は会議室へと向かいだした。
***
「伊藤司令!」
同時刻、門を出ようと警備員に挨拶を交わしていた伊藤司令を一人の隊員が呼び止める。
「どうしたのかね?」
「いえ、少々お聞きしたいことがありまして」
伊藤司令の二メートルほど手前で、隊員は言う。
挨拶を交わしていた警備員は、その光景をじっと見つめているだけで、何も言う気配は無い。
「今回のテスト艦長が、どうしてあの黛一佐なのかと気になったのです」
「?」
「だって、あの子の父親は……」
言葉に表せず、吃ってしまう隊員。
ふぅ、と息をつき、伊藤司令は「あのね」と口を開く。
「僕はあの子がどうであれ、あの子の才能に目をつけたんだ」
「はぁ、それは一体どういうことでしょうか」
「前に航海をした時、君は彼女が艦長を務めていた艦艇「ましゅう」に乗っていたことは知っている。確かその時は、エンジン故障か何かで厄介なことになったのだよね?」
「えぇ、そうです」
数ヶ月前、茉蒜が艦長を務めた補給艦「ましゅう」が訓練中にエンジントラブルを起こし、急遽横須賀に緊急停泊をした。
この時の茉蒜は焦ることなく冷静に対処をして司令をしていたと、乗組員は皆口にする。
「まるで、ましゅうを知り尽くしているかのように、我々が知らないシステムの名前を仰っていましたし……誰がどう見てもおかしいですよ。黛一佐が「ましゅう」の艦長に配属されたのは、航海の数日前ではありませんか」
「だからこそ期待ができる。僕は見ていたよ。彼女の配属が決まった後に、あの子がましゅうの艦内図と数時間にらめっこをしていたのをね」
ふくよかな笑顔で伊藤司令は平然と言う。
「そのような事が可能なはずがありますか! たった数時間で艦艇のシステムを全て覚えるなど……!」
一歩前に踏み出し、隊員は少し声を荒らげる。
「僕も初めは驚いたが、それが彼女には出来るのだよ。僕はその事を確かに知っている。もう一度、信じてみてはどうかね?」
「……幕僚長がそこまで仰られるのであれば分かりました。ですが既に作られていた護衛艦空母とは言えど、「かが」は戦闘空母に改造された艦艇なので、不安は残りますが……私も当日乗組員として搭乗しますし、信じてみます」
「それがいいさ」
そう言って隊員に背を向け、伊藤司令は片手で軽く手を振りながら歩き去っていく。
「いつ見ても不思議なお方だ……」
その背中を見守りながら、隊員は小さく呟いた。
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