お気になさらないでくださる?

「……所長、なにかありましたか?」


 他の2人と視線で争ったあと、やむなく問いかけたのはルーカスだった。


「なんのことかしら?」


 アイリは顔も向けずに答える。ルーカスは同僚たちに救いを求める視線を向けた。しかし2人はなおも押せ押せと手で合図するばかりで、やむなく帽子を外さないアイリに視線を戻す。その手には特別認証を得た貴族のリストがあり、一応仕事を忘れてはいないことはわかる。


「いえ、その……帽子が……」

「このほうがおしゃれでしてよ」


「でもそれでは前が見えないのでは……」


 アイリは帽子をめいいっぱい引っ張って、目の上にまでかぶせていた。頭のてっぺんの生地はぴんぴんに張り詰めている。


「見えてますわ。今日も成果はなくってよ」

「いえ、3件支払いを」

「うそっ!?」


 机の下に頭を突っ込んで、帽子を上げて資料を見る。特に成果はない。帽子を力一杯引っ張って腫れた目を隠し、またむくりと頭を出す。


「嘘をつきましたわね」

「お互いです」


 特別認証問題が深刻な状態にあったため、アイリが事務所に姿を現さないわけにはいかなかった。しかし一晩中泣き喚いていたアイリがまともな状態で出勤できるはずもなく、格好ばかりはいつものまま、ただ帽子で目を隠してごまかしている。


「……やはりこれでは気になりまして?」

「はい……何か事情がおありなら、無理にとまでは申し上げませんが……」


 突然資料を手放すと、アイリは両手を広げて自分の顔をぴしゃりと打った。見ていた2人は驚きに椅子をガタリと鳴らしてしまう。頬が赤く染まると、今度は椅子を弾き飛ばして立ち上がった。


「今日は計算室にいます。ご用のときは扉を叩いてくださって?」

「は、はぁ……」


 恐る恐る手すりに両手でしがみつきながら階段を上り、ミセスが手探りしながらようやく計算室の扉の中へ消えるまで、3人の役人は黙ってそれを見ていた。まだ共に働き始めて1ヶ月弱とはいえ、すでにミセスの気品を尊敬していた役人たちは首を傾げる。


 彼らの見立てでは、あの気品あるミセスがこれほどにまで異常な行動をとるには、よほどの理由があるに違いなかった。ミセスに聞こえないように小声で語るルーカスたちが思い描いたのは、劇的な大事件だった。

 そのうち最も有力だったのは、本土に残してきたという主人の急を知らせる手紙が届き、20日の時間差のために、すでに主人が亡くなっていることがわかったという説だ。次いで有力視されたのは、親族の身に何か起こったというものだった。しかしこれまでに親しい親族の話を聞いていた者はいなかった。


 こうした事態に遭遇して初めて、ルーカスたちは上司がいかなる人物なのかを全く知らないことに気がついた。ただ下級貴族の生まれで王国技術官に合格して、新大陸に派遣された既婚の新女性という情報だけを知っていて、それ以上のことは全く話してこなかったのだ。


「何かあるならお話くらい聞くんですけどね」


 ルーカスはそうこぼしてみたものの、すぐにそれは難しいかもしれないと考えを改めた。そもそも他の同僚たちと違って、酒や女遊びに連れて出るわけにもいかない。よしんば何か方法があって個人的な話をする時間をとれたとしても、既婚で年上の女性の話を聞いてやれる自信もない。

 ましてや、そんな個人的な話をすれば、不純な関係の誤解が生まれてしまいかねない。相手が曲がりなりにも貴族階級である以上、その名誉を巡って問題に巻き込まれるのは確実だ。


 結果としてルーカスにできることは、計算室の扉に心配そうな視線を送ることだけだった。しかしすぐに自らの製図台に戻らなければならない。ミセスの計算結果を三角網として描き、最終的に地図を執筆するミセスに差し出すのが、今の彼らの仕事なのだから。


 かたやその扉の向こうでは、ようやく帽子を外したアイリがインク壺を開け、紙を前に硬直していた。


「目が痛い……」


 アイリはまぶたの重さとひりつく瞳に苦心していた。いくら枕が優しかったとはいえ、涙が出るたびに顔を突っ込んで擦り付けていれば、目が腫れるのも当然のことだ。

 目を閉じても見えていたはずの三角網をじっと見ることもできない。それでも自分を落ち着かせるための写本作業と思って、アイリはインクにペン先を浸す。三角網が描けたとしても、その距離を計算するためには三角関数尺を扱えなければならない。


 計算方法が秘密とは言え、その実態は三角関数尺と正弦定理という単純な法則の組み合わせに過ぎなかった。


 財務局が管理する三角関数尺は、刀束のようなものだった。それは持ち運びと精度の都合から、大きな一つの細い槍のようだったものを15度単位に分けて束にしたものだ。

 指をかけて束から一つを引き出し、端についたリングに指を入れてそっと引く。表側で計測した角度に合わせれば、裏側の目盛りに使いたい正弦の値が明らかになる。腕に自信のある技官は手元に鏡を置いて裏返す手間さえ省く。そのために鏡文字になったものも少数だが生産されていた。


 この計算尺の使い方さえ身につけてしまえば、正弦定理など計算のうちにも入らないほどだ。デュオプトラの計測で上下の角度がついていたとしても、さらに余弦の値を計算尺で見て掛け合わせるだけでよい。

 こうして基準点にした二つの位置の距離さえわかっていれば、計算するだけで次々に距離が明らかになる。不明だった情報を計算の力で明らかにする様は、浮き彫りレリーフにも似ていた。


 アイリは無心で計算を続けようと試みた。しかし内心では、自分が何のために大陸にきたのかを自分にいい聞かせてもいた。


(私は地図を描きにきた! 地図を描きにきた! 地図を描きにきた!)


 そのうちある一片の計算を終えたとき、アイリの脳裏にひらめきが走った。


 アイリはまた椅子をはねのけて立ち上がり、駆け出して扉を勢い良く開く。


「ルーカス、金の関税は!?」


「はい!?」


 ついに狂ったかと吹き抜けから見上げると、目を真っ赤に腫らしたミセスが生き生きと繰り返す。


「総督府は金の関税をいくらとしていますの!」


「持ち込みですか? 持ち出しですか?」


 財務資料を取り出したのは最も年上のサクだった。


「持ち出しです」


「60です。持ち込みが10。こんなひどい税は初めて見ますね」

「何をするおつもりですか?」


 誰もミセスのひどい顔には触れないでおく。


「財務管轄の税の持ち出しに関税をかけさせます」

「はぁっ!?」

「それは無茶ですよ!」


 それはあまりに無謀な話だった。ついに狂ったというルーカスの判断もあながち間違いではなかった。なぜなら国王直轄の船には関税をかけることができず、本国に納入するあらゆる資源や製品がそれで一方的に運び出されていたからだ。


「私たちが押し通す必要はありません。総督府に押し通していただきましょう」


「どうやって認めさせるのか、お考えは?」


 財務資料を閉じたサクは恐る恐る尋ねた。


「ヒエタミエス港はまだ1つしか船着場が使えないということで間違いなくって?」


「そうですが……まさか……まさか! 他の船を止めさせて、中継船に言いがかりを付けようっていうんじゃありませんよね!?」


 作戦に気づいたルーカスがアイリとサクを交互に見る。アイリの赤く腫らした目ではわからなかったが、腰に手を当てているあたりそれで間違い無いらしい。その様子に3人の役人は頭を抱えた。

 つまりアイリの作戦というのは、税の輸出日を秘密裏に総督に伝えることから始まる。その日に大型艦をヒエタミエス港に停泊させれば、たとえ国王直轄の船であっても沖合まで中継船に運ばせなければならなくなる。金を持ち出したのが国王船でなく中継船であれば、徴税対象として課税することができる。


「しかしその作戦を実行して最終税額をごまかすとしても、いずれ金貨が必要になるのではありませんか?」


「60の関税なら……お待ちくださって、計算してきますわ」


 計算室に戻り、素早くペンを走らせる。すでに歩合で60の金貨が集まり、残りの40が得られそうもなく、そのうち20を総督府が代わりに得ている。痛み分けにする最良の輸送計画は……


「最後の輸送で80枚を運びます。これに関税をかければ、財務が持ち出せるのは50枚。納税額が30枚減りますわね。かたや総督府はその30枚をもらうので、65枚をこの作戦に貸して30を返され、差し引き35枚減ることに」


 アイリが考えたのは双方に負担を分散させ、無理を言っていると自覚している総督府側に多くを負担させるという案だった。財務の税収が127枚減るところが、たったの30枚で済み、そのうえ総督府は金貨35枚でお望みの政策を取ることができる。


「……あとは方法を考えなくてはいけなくってよ。財務と面会謝絶している総督を説得して、総督府が認証の代わりに集めた65をお引き渡しいただき、さらに65を貸し付けていただく方法ですわ……」


 ミセスは妙案の実現のために腕を組んで考え始めた。ようやく声のかけどきと感じた3人は、互いに見合ってまたその役割を押し付け合う。結局一番年下のルーカスがおずおずと声をかけることになった。


「あの……所長」

「臨時でしてよ」


「申し上げにくいのですが……帽子を被られた方が……」


 ひどく腫れた目を晒していたミセスは、ウサギか何かが穴に逃げ込むように計算室へ飛び込んで消えた。


「……今日は本当に別人ですね」

「ありゃ壊れたな」

「中身が妹と入れ替わってるとか?」


 3人は口々に適当な推論を述べ合った。

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