ずるいです

「つまり大佐は、私を外させておいて、私を影で笑っておいでだったのですわ!」


 パーティを終えて家まで送り届けられたアイリは、御者の目を気にせず声を出すためだけに大佐を招き入れ……もとい、引っ張り上げていた。そこにロマンチックなムードはひとつもない。


「伯爵夫人にご理解いただきたかったのですよ。なぜ私があなたを伯爵夫人の元に通わせたいのか」


 席を外させたあと、大佐は伯爵夫人にアイリのレッスンをお願いしていた。それもダンスだけではなく、淑女レディとして学ぶべきことが多くあるという理由でのことだった。

 その話を道中に聞かされたアイリは、すっかり腹を立ててしまったのである。ダンスパーティのパートナーという小洒落こじゃれた誘いに少なからず心をときめかせていたアイリにとって、それは屈辱的ですらあった。つまり、大佐のパートナーとしては未熟と陰ながら言われたのだから。


「そもそもそれが感心しませんわ。大佐は私をパートナーに選んでくださったのではなくって? それがレディとして未熟など、なら誘わなければ良いではありませんか!」


 そう主張しながら、まさに自分が未熟で子供じみたことをしているという考えがよぎっていた。こういう態度を取ってしまうとき、大佐の優しさに甘えているのは事実だった。


 そうした心理さえ見抜いているのか、大佐はやれやれと首を振る。


「言わずに置こうと思いましたが、伯爵夫人の見立てをお伝えいたしましょうか?」

「私の振る舞いが完璧だとおっしゃったでしょう?」

「ええたしかに」


 大佐は含みをもたせながら同意する。ランプだけの薄暗い室内ではその表情を見るには詰め寄る必要がある。


「なら!」


 踏み込んで大佐の顎の下に顔を突き出すと、大佐はアイリの両肩を抑えてなだめる。


「そのほかに『目がどうかしている』とおっしゃり、『わかりやすいかたでらっしゃるのね』とおっしゃったあと、『まだまだですわね』と首を振りました」


「ふ……振る舞いは完璧だと……」

「ええ」


 アイリは思い当たるふしのない評価に考え込む。いったい自分の何がそう感じさせたというのだろうか。


「……ミス・コッコ。また心で三角測量をなさっていましたね?」


? 私がいつそんな」

「船で私の話を聞かずにいつも」

「……」


 その指摘でアイリは口を開けたまま硬直した。この8ヶ月、そんなことまで知られていたとは全く気付かずに過ごしてきた。


「それからまたオレンジを探し求めてはいませんでしたか?」

「…………また?」


 恐る恐る尋ねる。しかし指摘されてみれば、思い当たる場面が多すぎてアイリは両手で顔をおおった。


「魔獣の折に私の話を聞かずにオレンジばかり見ておりました。それからも何度か」

「……」


「さらには自らお声かけなさることがなく、会場で自ら話しかけなさったのはただソフィア・リュティ嬢おひとり」

「……」


 アイリは膝の力が失われるのを感じた。後退りながらようやく椅子の背もたれを探し当て、本当はドレスで座るべきではない背もたれ付きの椅子にその身を任せて崩れ落ちた。

 突きつけられた失態は、ミセスとしての所作でだませていると思い込んでいたものばかりだった。しかしそのすべてが見抜かれ、自分はそれを見抜かれていることにすら気付かずにいたというのだ。まったく自分の愚かさを呪いたくなる。


「ミセス・コッコ。私はあなたと同じように、あなたの身を案じているのです。王都で何を学んだかは存じ上げませんが、あなたの心の淑女レディは眠ったままだ」


「……」


 これほどにまで愚かさを見抜かれていて、それでも大佐はアイリの助けをしてくれていたのだ。大佐のパートナーに選ばれて浮かれきっていたアイリは、その意味を根本的に勘違いしていたことにようやく気がついた。


 大佐はアイリを、また新たなのだ。


 涙がにじむほどの悔しさに、アイリは唇を噛み締めた。


「体の動きや言葉遣いだけではないのです。もしあなたがミセス・コッコとして生きるなら、あなたの中の淑女レディを起こして差し上げなければ」


 大佐の声に応じることもできない。大佐の靴音が聞こえる。近づく音ならいいのにと、顔を覆ったままアイリは願っていた。


 その手が握られ、泣き顔が開かれる。ランプの薄明かりに照らされた大佐の顔が逆さまに覗き込んでいた。アイリは自分の顔が乱れていないか不安で仕方なかったが、今はその顔を抱き寄せたかった。しかし両手を伸ばそうとしても、その手は大佐に抑えられる。


「ミス・コッコの愛らしさはよく知っております。だからこそです、ミセス。一流の淑女レディとなるには、余裕と狡猾こうかつさを学ばれなくては」


「……ありがとうございます、大佐」


 両腕の力を抜くと、大佐はその手を離した。アイリは椅子の上で体ごと横を向いた。背もたれをベッドに見立てて右肩をもたれ、目をつむり、深い息とともに全身の力を抜く。



 アイリは覚悟を決めた。


「…………大佐」


 その声にはミセスの気品は失われ、どこか甘えた子供のような印象がにじむ。


「……私がをやってるのは身を守るためで……一流とか、そういうんじゃないんです……お姫様になりたいわけでもないし」


 その言葉遣いにも、麗人れいじんミセスの影は何一つ残されていなかった。グローブの指先をいじりながら話すその様こそ、飾らないアイリ・コッコそのものだった。


「ようやくお会いしましたね、アイリさん」


 その口調で言葉を発することが、ついに大佐への全幅ぜんぷくの信頼を示すことになるとはアイリにもわかっていた。


「どうもはじめまして……大佐はなんで私なんかに一流を求めるんですか? 私なんて、1年前には頭もボサボサに歩き方もバタバタしてて、ただちょっとさかしいだけの、どうしようもない女だったんです」


 グローブの指を一つ一つ確かめると、一つだけ糸のほつれを見つける。アイリはそのほつれを左の薬指でつつきながら続ける。


「……だから大佐にチヤホヤされて嬉しかったんです。でも、大佐から見たら、まだまだ全然、バタバタした女だったんだなって」


 グローブの先に焦点の合わない大佐の顔が現れる。椅子の横にひざまずいた大佐の顔は、やはり魅力的だった。


「アイリさん、それは違う」


 ゆっくり首を振る。ランプだけが灯った部屋は薄暗く、まるでベッドに横たわり、隣の大佐を見ているようだった。左右の膝をすり合わせると、ドレスが椅子を滑り、かすかに衣擦れの音を鳴らす。


「たとえあなたが1年前までそのような姿だったとしても、あなたは数ヶ月でミセス・コッコを作り上げた。だからこそ、あなたでなければできないのです。それほどの努力と、理解力と、行動力を持ったあなたでなければ」


 大佐の言うことは、いつもよくわからなかった。たしかに女性の中では優れた理解力と行動力を持っているかもしれない。だとしても、そうやって・コッコを鍛え上げ一流の淑女レディになることが、・コッコにとってなんの意味があるのだろうか。



 見つめ合う二人の間には、沈黙だけが流れる。

 今ならランプの燃える音さえ聞こえそうだった。

 しかしアイリの耳に聞こえるのは、自分の激しい鼓動こどうだけだ。


 もしその努力に意味があるとするなら?


 アイリは自分に問いかける。


 もし意味があるとするなら、アイリが望んでいるのは一つだけだった。



「……そうなったら、大佐は結婚してくれますか?」



 その言葉はひどく震えていた。


 大佐はまた例の優しい微笑みを見せる。時折見せるミス・コッコの姿を優しく受け止めるあの顔を。まるで甘える子どもの頭を撫でるような。心地よくも、遠く切ない表情を。


「その時あなたがお望みならね」


「……ずるい」


 アイリが両手を伸ばしてみても、微笑む大佐の顔には届かなかった。大佐はその手を軽くかわして、また靴音を鳴らして遠ざかってしまう。


「では、私はこのあたりで。既婚者のお宅に宿泊したと噂されては、新大陸の英雄の呼び声にかげりも出ましょう」


 大佐は緊張も躊躇ためらいも感じさせない滑らかな動きで、掛けていたジャケットをつまみあげる。


「私既婚者じゃないし……それに……」


 髪留めを外して、上目遣いに大佐を見つめる。


 手に取った髪留めに、アイリの目から涙が溢れた。こんなことだったら、あと1日早くもっと可愛い髪留めを買っておくべきだった。悔いのない、


 それでもドレスで露出した肩を小さく寄せ、心なしか右胸を腕で押し上げてみる。


「それに……『英雄色を好む』って言うじゃないですか」


 大佐はそんな精一杯のアイリを静かに見て、黙ってジャケットにそでを通す。

 最後に帽子を手に取ると胸元に当てる。


「はしたないことをおっしゃってはなりませんよ、


 アイリは身を返し、左肩をもたれて大佐に背を向けた。


「……ずるい」


「では」


 カレルヴォ大佐の短い挨拶と、扉を開く音だけがアイリの耳に残された。アイリは扉がしまった頃を見計らって、その背中を目で追おうとしたが、あまりにも暗い街に大佐の背中はすでに見えなくなっていた。


「大佐だってまんざらでもないくせにさ……」


 アイリには頬を膨らませる気力もなかった。新大陸で唯一自分の正体を知る紳士は、実際には40歳を超えていたが、それでもアイリの目には魅力的に映っていた。


(ヴァルタサーリ伯爵夫人か……)


 大佐もああいう淑女の方が好みなのかもしれない。アイリは気だるげに立ち上がって、扉に鍵をかける。ランプを持って自室に向かい、ドレスのひもを緩めた。圧迫されていた脇腹が急激な弛緩しかんにかすかにしびれる。


 開いたドレスから腕を抜くと、左右に開いて腰だけで衣装が支えられる。


「いっそ脱ぐ手伝いって無理言えばよかった……」


 100年も続く伝統であるその手間のかかるドレスをようやく足元に落として、白のスリップだけを残す。その体のラインは女性的でしなやかだったが、ドレスから引き抜いてベッドへ向かう足取りは決して女性的とも言いづらかった。


 最後のランプを消してベッドに滑り込む。いつぞやに飛び込んだシルクのベッドほどは気持ちよくはなかったが、それでも涙を受け止めてくれるだけ今は何より優しかった。さめざめと涙を流すアイリの息遣いは、それから彼女が泣き疲れて眠るまで、ただただ静かに続いていた。

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