ようこそ、伯爵夫人

 背中できつくひもを引っ張られ、アイリの左右のあばらがきしむ。たった一つだけ持ち込んでいた黄色のドレスを着るには、メイドの手伝いが必要だった。


 ミセスのトレードマークと化しているあの独特なスカートに比べれば、黄色のドレスの印象は柔らかく、クラシックなお嬢様の雰囲気をかもしている。容姿に優れたアイリがミセスとしてきたえた所作を重ねれば、それだけで社交界で注目を浴びる麗人れいじんだった。アイリ自身も、そう見られるのは嫌いではない。


 しかし新女性を象徴するという虚像きょぞうにとってみれば、クラシックなドレスは避けたい服装だった。あの独特なスカートや帽子なしには、普段のするどい印象はすっかり失われ、どちらかと言えば可愛らしい19歳のアイリ本来の顔つきが露呈ろていしてしまうのである。


「なんでこんなに窮屈なものを100年も着ているのかしら……」

「美しいからでございますよ、ミセス」


 答えたのはイーネスというメイドだった。アイリが新居を構えたとき、仕事で知り合ったリュティ家に相談し、口の硬いメイドを週に2日だけ雇っていた。たった2日とはいえ、名家のご息女に紹介頂いたメイドは増えた分の給料ではとてもまかなえず、このたび栄転えいてんは差し引きで家計にマイナスとなっている。


 それになにより、アイリは自宅でもイーネスがいる2日はミセスを演じなければならなくなった。口の硬いメイドを雇ってはみたものの、今度はアイリの方で最大の秘密である自分の正体について口に出す覚悟ができなかったのだ。


 手際よく束ねられた髪に髪留めが刺されて、レース飾りがほどこされた白いグローブが差し出される。


「……他の髪留めの方が似合うかしら?」

「そうですね、ミセスならもう少しきらびやかなものでもお似合いになりますよ」


 イーネスの声色には小さな驚きが感じられた。ミセスが急に髪留めを気にしたことに驚かないような鈍感さでは、とてもメイドは務まらない。

 しかしその驚きの声色に気づくこともなく、アイリはグローブに腕を通した。指を動かすと、いつも手袋をしている大佐の手が思い浮かぶ。


「ふふっ」


 アイリは頬を赤らめながら笑う。


「なにか良いことでもありましたか、ミセス?」

「はい。大佐から今度のダンスパーティにパートナーとしてお誘いをいただきましたの」


「……私は聞かなかったことにすればよろしいので?」


 すっかり実在しない夫のことを忘れてしまっていた。たしかにこれに喜んでいては、ただでさえ危険な程度には不義理なミセスであったにも関わらず、心まで不倫にしてしまったと思われかねなかった。

 慌てて婚姻の証であるネックレスを手にとって、胸元で位置を整える。


「いいえ。当日になれば新大陸中に知られますわ。それに、一緒にダンスパーティに行くだけですもの。なにも屋敷で夜を過ごすわけでは……」


 そう口にすると二人の夜を想像してしまう。みるみるうちに上気して、アイリの顔は目も当てられぬほど赤く染まった。


「……失礼を承知で申し上げますが、ミセスは生娘きむすめのような可愛らしさがおありですよね」


 イーネスの苦笑いにアイリは両手で顔を隠す。しかし耳も首も真っ赤になって、いよいよ観念して自分の顔を両手であおいだ。


「生娘のようであるということは、秘密にいたしますのでご安心ください」


 冗談めかして一礼するイーネスは、本来ならと同い年のはずだった。それはソフィアの配慮でもあったのだが、実年齢19歳のアイリにとって、その配慮は裏目にでることの方が多かった。

 今回の失敗にしても、32歳の目から見れば、真っ赤になったアイリの姿はなるほど生娘には違いなかった。もしこれが16歳のメイドならそうは思わなかっただろう。結果を見てみれば、口の硬いメイドを雇ったのは正解だったのかもしれない。


「話を変えましょう。真っ赤なままではとても出られませんわ」

「賢明ですわね、ミセス」


 差し出された水を飲んで息を吐く。


「今日のパーティはヴァルタサーリ伯爵夫人の歓迎と聞いているのですけれど、ソフィアさんのところでお噂は聞いてらして?」


「夫人は存じ上げませんが、ヴァルタサーリ伯爵なら社交好きというお噂を予々かねがね。たしかお屋敷にダンスフロアをお造りになったとか」


「ああ、あの噂の」


 アイリでさえ耳にしている噂というのは珍しかった。もちろんそれをアイリに伝えたのはソフィア・リュティだった。

 初めこそ「次にお会いする機会」と言われていた屋敷の完成も、ダンスフロアの建設に時間がかかったあげく、あれからたっぷり3ヶ月もかかってしまった。その間にソフィアとは2度も社交パーティで遭遇することになり、メイドと約束した通りのメッセージも伝えている。


「ならご印象には残った方がよさそうですわね、伯爵ならどうせ特別認証もおとりになるのでしょうし」


「その件はその後どうなのですか?」


「あと19日でなんとかしないといけなくってよ。何か方法がないかしら?」


「私に尋ねられましても」


 もう一度鏡を見て、赤みが引いているのを確かめる。着付けの乱れがないのを確認して、扉へ向かう。


「今日はもうよろしくってよ、イーネス」


「かしこまりました。お片づけだけ済ませておきます」


 頭を深々と下げたイーネスがその身を起こした頃には、アイリは上機嫌に御者に挨拶していた。その弾むような足音にも、イーネスは若い娘の印象を抱かされる。

 しかしアイリ・コッコの年齢不相応な若さより、いまのイーネスが気にかけていたのは、たしかミセスには舞踏会の経験がないということだった。


 そしてヴァルタサーリ公爵の屋敷で大佐に再会したとき、大佐が尋ねたのは、ワルツを知っているかということだった。


「ダンスを知らなかったことを失念しておりましてね。その後学ばれましたか?」


 アイリは危うくワイングラスを落としそうになって、反対にこう尋ねた。


「ダンスはお話で読んだだけですけれど……何か決まりごとがあって?」


 いかなる才女であっても、時には大きな誤解に気づかないこともある。アイリはダンスというものをかろうじて挿絵で見たことがあるばかりだった。本ではたいてい男性がエスコートすると書かれていたから、大佐に身を任せればそれで済むのだろうとばかり考えていたのだ。


「いえ、ミセスならば1週間もあれば覚えられましょう。ちょうど公爵夫人もいらっしゃったことですから、お教えいただくとよろしいかと」


 大佐はそれとなくアイリの腰に手を回す。それを受け入れるのはアイリだけに許された特権に違いない。その手の温度は、ドレスで圧迫された脇腹に幸福感を流し込むようだった。


 向かう先で紳士の挨拶に応じていたのは、今日の主役たる白髪のマダム、ヴァルタサーリ伯爵夫人だった。顔にもいくつかシワが見えるが、その肌は張って瞳も丸く輝いている。伯爵が家督を息子に譲ったというから相応に高齢のはずだが、その立ち姿には気品がきらめいていた。


 先に挨拶していた紳士が下がるのを見て、二人は揃って進み出た。


「この度は新大陸へのお越し、大変喜ばしく……海軍大佐カレルヴォと申します」


 カレルヴォ大佐は本土でも名の知れた王国の英雄の一人だった。公爵夫人が手を差し出すと、大佐はその手を取って甲に口付けする。


「お噂は伺っておりますわ。こうも早くお目にかかれるなんて、新大陸にも来てみるものね」


「光栄です。今はクイーン・マリアーナ号の船長をしておりますが、大戦も終わったいま、もっぱら陸に上がってばかりで」


 実はアイリも大佐の最近の仕事はあまり聞いたことがなかった。パーティへの出席といい総督府での遭遇といい、言われてみれば海軍大佐のわりには陸で見かけることの方が多かった。


「それも大佐が勝ち取った平和ということでしょう。私が無事に航海を終えられたのも、大佐のご活躍あってのことですわ」


 公爵夫人はひらりとワインを口にした。その身振りはアイリが教わっていた身振りと何かが違っていた。まるで羽のような、あるいは水のような、つかみどころのない軽さと流れがある。

 アイリは教わった身振りで自分も一口ワインを運んでみたが、洗練されている以上の何かがそこに生まれることはない。内心で首をかしげる。


「それで、そちらのご婦人は奥様でらして?」


 その問いかけにアイリの頬が赤くなる前に、大佐が否定する。


「いえ、は私などには勿体無もったいない女性ですよ」


 ミセスと呼ばれたことで、アイリは今の自分の仕事を思い出す。考えてもみれば、会場に来てから大佐の他には何も見えていなかった自分に気がついた。


「アイリ・コッコと申しますわ。この度は新大陸へようこそおいでくださいました」


 膨らんだスカートの片方の裾を掴み、片足を下げて挨拶する。普段は独特のスカートを履いているアイリがこの挨拶をするのは、社交パーティの場に限られていた。

 アイリ・コッコと聞けば、新大陸ではそれで名が通ったものだ。しかし新大陸へ到着したばかりの伯爵夫人は、まだこの新大陸の有名人を知らなかった。


「お綺麗きれいですこと。ご主人はどちらに?」


「夫は本土におりますわ。私は財務局の官吏としてこちらへ赴任ふにんいたしました」


「あら、新女性は初めてお会いしますわ。ほんとうに、新大陸にも来てみるものね」


 伯爵夫人は同じ言葉を繰り返すと、上品に笑ってみせた。


「私たちも伯爵ご夫妻のご到着を楽しみにしておりました。伯爵ご夫妻がいらっしゃれば、新大陸社交界もようやく花開きましょう」


 大佐は言葉の中で体を開き、パーティ会場となっているその空間を示した。磨かれた石灰岩の壁面に、新大陸では希少なムク材のフロアはヘリンボーン柄に貼られて、まさに大陸本土のクラシックな印象が漂っている。ヒエタミエス新港の稼働で、本土と同水準の貴族社会が実現する未来も遠くはなくなったようだ。


「話題に上らない日はないほどでしたわ。本当に私たちこそお会いできる日を待ち望んでおりました」


「本当にみなさんお上手で……こんなに歓迎されるなら、私よりも伯爵が先にいらっしゃればよかったかもしれませんね」


 社交好きの伯爵が到着すれば、ダンスパーティが開催されることになっていた。伯爵夫人はその準備のために召使いたちとともに先に新大陸へ渡ったのである。それにはある危惧きぐが関わっていた。

 すなわち、新大陸に渡った貴族の名前を見る限り、ダンスパーティで踊ることのできる貴婦人が著しく不足することを見抜いていたのだ。伯爵夫人はその目で実情を確認し、ダンスパーティの規模と招待客を見極めるつもりでいた。そのために今日の立食パーティを開いたというわけである。


「伯爵夫人、実はお耳に入れたいことが。ミセス、少し外していただいてもよろしいですかな?」


 大佐がこうした会でアイリを遠ざけるのは珍しかった。離れたくはない気持ちもあったが、今はパートナーに選ばれたという自信の方が上回っている。


「もちろんですわ。伯爵夫人、引き続き楽しませていただきますわ」


 アイリは再びスカートのすそを掴む礼をして、整った足音で歩き去る。会場を見渡してソフィアが誰かと話し込んでいるのを確認すると、やむなく料理の中にオレンジのスイーツを探して時間を潰すことにした。

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