完璧にやってみせますわ

 アイリは決心した。


 その翌日、ようやく腫れたまぶたが治ったとき、アイリの負けん気に火がついていた。認証問題が解決できるかもしれないというなら、もう一つの問題も解決できるはずだ。

 そう、アイリは大佐の言う「人一倍の努力と理解力と行動力」で、大佐が目をみはるほどの淑女レディになってみせると決めたのだ。そうしてもう一度、あの夜を再現してみせると決めた。もっと自信を持てる髪飾りをつけて、もっと自分らしいドレスをまとい、もっと淑女レディらしいとなって!


「まあ! 本当にいらっしゃってくださるとは思いませんでしたわ!」


 そんな身勝手な動機だったとはいえ、ヴァルタサーリ伯爵夫人の顔には喜びの文字が踊った。大佐と一緒にひどい評をれていたわりには、伯爵夫人に悪い印象を抱かれている様子はない。


「大佐から是非にと。たしかに新大陸こちらでは踊りを学べる場所も限られていますから……」


「こちらへいらっしゃって」


 伯爵夫人が歩き始めたため、アイリも3歩後ろに続く。ダンスフロアに向かうのかと思ったが、たどり着いたのはテラスだった。よく手入れされた生け垣に囲まれた庭には日が当たって緑が眩しい。


「まずは少しお茶にしませんこと? 新女性の方とお話ししてみたくって」


 すかさず召使いが現れ、刺繍ししゅうほどこされた傘が広げられる。日陰になった椅子に促され、アイリはやむなくそれに座った。


「改めまして、わたくしミルッカ・ヴァルタサーリ。伯爵夫人と呼ばれておりますわ」


「財務局新大陸支所の臨時所長、アイリ・コッコと申します。ただ家名をつけずミセスと呼んでいただいております」


 召使いは次々に器と菓子を整えていく。一式が整ったアフタヌーンティを見るのは久しぶりだった。


「旦那様は本土にいらっしゃると伺いましたね」

「はい。新女性というものが受け入れられないご様子で」


 召使いが注ぐ紅茶はやはり香りが立つ。上流貴族ともなると、新大陸であっても別格の暮らしを送ることができるようだ。もちろん、ヒエタミエス港のひとつめの船着場が実働したというのもその暮らしを支えているのだろう。


「戦後ですものね、新女性の採用も」

「はい、まだ4年ほどしか。もう今年の採用者も決まる頃ですわ。女性で合格した方がいらっしゃるとよいのですけれど」


 毎年行われる採用試験では、分野によっては合格者が出ないことさえあった。そんな中で4年間に7人の女性合格者が出たという事実は、王国全土に驚きをもって迎えられた。


「旦那様とはどこで?」

「申し訳ありません。主人のことはあまり話したくは……」


 いぶかしがられるかと思ったが、伯爵夫人は「それもそうね」とまったく同意して、アイリにサンドイッチを勧めた。

 言われるがままにサンドイッチを手に取り、両手で口元に運ぶ。


「おいくつでらっしゃったかしら?」

「もうすぐ33になります。官吏としてはまだ3年にも及びませんけれど」


「いえ、本当のご年齢よ」


 アイリは目を丸くして、サンドイッチを食べ続ける公爵夫人を見つめ、次には慌てて左右を見た。あたりには召使いの一人も残ってはいない。


「大丈夫ですわよ。大佐がなにかお隠しになってらっしゃったようだから、あれからあなたの振る舞いを考えておりましたの。それでもしやと」


「……33に……」

「24……いえ、もう少しお若いわね……」


 アイリの震える声に公爵夫人の顔がにじり寄り、アイリは顔を赤くしてうつむく。


「……19です。もうすぐ20に」


 アイリが音をあげた。


「あらそう! 心踊るお年頃ね。その方があなたらしくて素敵よ」

「ありがとうございます……」


 アイリは顔も上げられず、紅茶の表面ばかりを見ていた。


「なるほど、それでわかりましたわ。それを知っているのは大佐だけということね」

「はい……」


 耳まで赤くなっているような気がした。この人の前では、付け焼き刃の淑女レディよろいなどなんの意味もない。だとすれば、アイリの心の中にたしかに存在した大佐へのあこがれ混じりの慕情ぼじょうなど、見え透いているのかもしれない。


「上流の貴族が少ない土地で助かりましたわね。なんのために嘘を?」


「一人で後ろ盾もなく男ばかりの新大陸に行くことが決まり、身を守るために……」


 伯爵夫人は紅茶をひらりと口に運んでアイリを見つめた。そこに座る少女は見るからに自信を失って身をちぢこめている。何も言わずにサンドイッチを食べながらじっと見ていても、少女は動揺に身を任せているばかりで、体がまったく動いていない。


 公爵夫人は自分の仕事を理解した。


、アフタヌーンティーのマナーをお忘れになってよ」


 アイリの手には食べかけのサンドイッチが残っている。すでに公爵夫人はそれを食べ終え、アイリの食べ終わるのを待っていた。


「すみません、ヴァルタサーリ公爵夫人」


 わざとらしく目を丸くさせたその口ぶりは未熟なマナーを責めるようでもあったが、同時にまるで母親が叱るような柔らかさがあった。慌ててサンドイッチを口に入れては飲み込もうとする。


「大佐はお優しいのね。申し訳ないけど、ミセス・コッコ。私は決してあなたの苦労を思って優しくしたりはしませんわ。たとえばその慌てぶり。大佐は何もおっしゃらなくって?」


 応答を要求されてみると、口を開くにはまだサンドイッチが邪魔だとわかる。そしてたしかに大佐は食事のときに随分あの笑顔を見せていた。それはおそらく、あの失敗した夜に指摘された言葉に集約されるのだろう。

 サンドイッチを飲み込んで発した二つの言葉は、たしかにアイリとはあまりに隔たった言葉だった。


「余裕と狡猾こうかつさを、と」


「私もこちらで楽しく時間をご一緒できるご婦人を求めておりますわ。ただ若くて可愛らしいからといって、名も知らないご家庭の方に教えを施すことはなくってよ、ミセス・コッコ」


「はい……」


 アイリの弱々しい返事に、公爵夫人はカップをソーサーに下ろす。


「あなたではなく、・コッコに言っているのです。私は・コッコのことは存じ上げなくってよ」


「はい……えっと……」


 ミセスとしての振る舞いを思い出そうとしても、動揺したアイリには何も思い浮かばない。


「陰気ね。大佐に相手されてないのでしょう?」


 アイリが陰気と言われたのは初めてのことだった。


「いえ、そもそも大佐は……」

「いいえ。大佐はあなたのことを少なからず想ってらっしゃるわ。相手になさらないのよ」


 紅茶を一口飲んで、大きく息を吐く。目にもう一度力を入れて、アイリはとしての自我を取り戻す。


「私が淑女レディとして未熟だからでしょうね」


「いいえ。その理由がおわかりになれば、あなたも立派な淑女レディでらしてよ」


「……努めますわ」


 アイリもカップを置いて、二人は同時にスコーンに手を伸ばす。公爵夫人が窓の向こうに控えていた召使いに合図すると、ティーポットを持って現れる。

 召使いを前にして、公爵夫人は話題を変えた。


「ミセス・コッコ。新女性として、私のようなをどう思われて?」


 割ったスコーンにジャムをつけて、夫人はまたひらりとそれを口に運ぶ。

 とは、男女同権の布告が出されたときに広まった言葉だった。ミルッカという本名は何処かに消え、その身分はヴァルタサーリ公爵のという、自分以外の誰かの影へと変わっていく。


「私もと呼ばれておりますから、のは同じですわ。本当に問題なのは、爵位や官職から遠ざけられることでございましてよ、公爵夫人」


 今度はアイリが小さくちぎったスコーンを口に運ぶ。


「女性も爵位や官職を得るべきだとお考えなのかしら? ミセス・コッコのように?」


 問いを思いの外早く返され、アイリは紅茶を手に取る。わざとらしくならないように注意しながら、その香りに感心したような素振りを見せ、その隙にスコーンを飲み込む。


「男女同権の布告が出た以上、いずれそうなると思いますわ。女性も爵位を得て官職につき、それこそ大佐や少将、総督ともなることこそ、成功した生き方ということに」


 いつ合図したのか、召使いはそのまま数歩離れて控えていた。それだけで、もはやミス・コッコの動揺を見せるわけにはいかない。緊張感に神経を研ぎ澄ませれば、王都で学んだ所作の一つ一つを間違いなく取ることができる。


「新女性らしいお答えね。実はね、ミセス・コッコ」


 伯爵夫人は身を乗り出して小声で続ける。


「私の夫はその、伯爵らしいですわ」


 伯爵夫人は重要な秘密を知って真剣に驚いたように言った。その口調にアイリは口元に手をあてて上品に笑う。


「その伯爵ご自身はいつもいつも不満を口にしてばかりですのよ。ミセス・コッコのおっしゃる通り、じゅうぶん成功なされた生き方だと思うのですけれど」


 長く話しすぎないように、気を使ってアイリが引き受ける。互いの食事のペースが整うはずだ。


「これほど立派なお屋敷もお建てになって、御領地もご子息にお任せになって、事情を知らない私のような者からは、誰もがうらやむご生活とばかり……この紅茶も、こちらでは本当に限られた方のお招きでしかいただけない香り高いものですし……」


 夫人がスコーンを飲み込んだのを確認して、紅茶を手に取る。アイリは五感のすべてをのために使うよう集中し続けた。


「ですから、私があの人の気分を操っているのです。伯爵の利益になりそうならおだてて、そうでないなら放っておけばいいのですから」


「まあ、伯爵夫人なら本当にお上手そう」


 伯爵夫人の表情に笑いどころと確信したアイリは、再び口元に手を当てて微笑む。

 しかしこの冗談めかした会話で一つだけわかったことがあった。紛れもなく伯爵夫人こそ、余裕と狡猾こうかつさを備えたに違いないということだ。

 その話がどの程度本当であるかは別として、おそらくはこの人なしには伯爵は伯爵になり得なかったに違いない。舞踏会を取り仕切るのが伯爵ではなく夫人というのも、うなずける話だった。


「では、これをいただいたらダンスフロアへ行きましょう。ステップをお教えしますわ」


 そんなアイリの思考のどこまでが見透かされたのかはわからない。しかしこの短時間の全神経を費やした振る舞いは、どうやら伯爵夫人の目にかなったようだった。

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