いたい……

 肘の高さを揃えた姿勢は、想像していたよりはるかに苦しかった。

 石灰岩の柱が美しいダンスフロアには午後の日差しが明るかった。ヘリンボーン柄の床の上にくっきりと大窓の形の陽が差している。


「2、3……エレガントに……3……」


 伯爵夫人の叩く手に合わせて、教えてもらったばかりのナチュラルターンのステップを試みる。右足を引いて左足を引いて……


「硬くってよ、ミセス。柔らかく、ふわりと舞ってひらりと揺れるように」


 ふわり? ひらり? アイリの頭には疑問符が飛び交う。すっと引くとか、はらりと回るとか、その微妙なニュアンスの違いがアイリにわかるはずもない。それでも心の中でふわりとかひらりとか言いながら、ステップを踏む。


 ドレスできたわけでもないアイリは、いつものアシンメトリースカートで踊っていた。伯爵夫人はといえば、ぎこちない踊りに渋い顔をしながらも、そのスカートだけは様になっていると考えていた。


 ホイスクを踏んだとき、伯爵夫人の手が止まる。アイリも足を止めた。


「硬いとは何かわかりますか、ミセス?」


「硬度のことなら詳しくってよ。玄武岩が硬うございますわ」


 広いダンスフロアでたった二人だけ、沈黙が流れるのはきっとやむを得ないことだ。


「……拍子の通りに足を下ろしていたら行進でしてよ。足で拍子を刻んではなりません。ステップとは言いますけれど、それは体を運ぶためのものですわ」


 伯爵夫人はヴァイオリンを取り出した。


「今は拍子を打っていますけど、本当のダンスでは……」


 伸びやかな音が微かに震えて、ワルツ曲の演奏が始まる。その物悲しいヴァイオリンの歌声に、アイリは目を閉じる。まるで人の心の傷に染み渡るような優しい歌声だった。


「音楽を感じられて?」

「はい……」


「ダンスというのはね、ミセス。この歌声の喜びと体を一つにする調和ですのよ。今のあなたはこう」


 もう一度ヴァイオリンを構えると、伯爵夫人は拍子をつけて同じ曲を引く。それは素人の耳にも音楽を台無しにしているのがよくわかった。


「ステップは刻みませんの。体を流して、ダンスは音楽のように緩やかに前と後の動きが調和しなくてはなりませんわ。一曲がひと繋ぎでしてよ」


 地層のようなものかとアイリは理解しようとする。しかし動かない地層は音楽とはとても似ては似つかない。


(あ、三角網だ)


 おそらくワルツのことをそれで理解した人間はアイリの他にいなかったが、少なくともアイリはそうして飲み込んだ。


「線になるのですね」


「……それはわかりませんけど」


「いえ、線になるのですわ。つまり……」


 アイリは両ひじを水平にして、目をつむる。足でダンスフロアに三角網を描き、体で地図を描く心地で踏み出す。そのステップの一つ一つには微妙な高低のズレがあり、余弦で割るように足を置いてから重心が動くまでのゆとりがある。

 最も基本のステップを2周してみると、自分の感覚がまるで変わっているのがわかった。


「……覚えが早くて結構だわ」

「足を運ぶことばかり考えてはいけないのですね。音楽を描くことを考えなければ」


 伯爵夫人はもう一度ヴァイオリンを肩に置く。


「ちょっと基礎だけでやってごらんなさい」

「はい」


 アイリが覚えなければならないことは多かったが、まだアイリはそうとは思っていなかった。大佐がいうには1週間もあれば覚えられるそうだったが、アイリ以外ならそれを全て体得するだけで1ヶ月はかかるはずだった。


 ましてや、伯爵夫人が求めていたのは、まったくただならぬ水準だった。

 伯爵夫人は伯爵のために行われる舞踏会を成功させなければならなかった。そこで華となる主役級の淑女レディを二人用意すると心算こころづもりをしていた。その一人がアイリ・コッコだったのである。


 ◇◇◇


 その日の練習を終えて、アイリは足首の靴擦れに苦い顔をして帰ることになった。指先にばかり力が入っていたのか、その付け根のあたりの左右も痛む。


 伯爵夫人は明日は休んで靴を仕立ててもらうように指示した。黄色のドレスと一緒に持ってきた靴は、仕立て職人に作らせたわけでは当然なく、先輩のイリナにゆずってもらったものだった。どうせ踊らないのだからとタカをくくっていたのが裏目に出てしまった。


 しかし新大陸で頼れるものは自分しかない。大佐や伯爵夫人は確かに頼りになる指導者かもしれなかったが、結局すべては自分の努力いかんに関わっている。だから靴を仕立てるためにまた家計をすり減らすのも仕方のないことだ。


 馬車の中で見られないのをいいことに、靴を脱いで足を揉みほぐしていたアイリは、景色が自宅に近づいてきたのに気づいて靴を履き直す。


「いつも助かりましてよ、明日もいらっしゃってくださるかしら?」


「もちろんです、ミセス」


 払いのいいミセスはこの御者にとって上客だった。アイリは身の安全には代えられないと、最終的に信用を勝ち得た4人の御者以外の馬車には乗らないようにしていた。4人はそれを理解していて、払いのいいミセスがどこにいるのかをお互いに連絡して都合をつけてくれていた。

 そんな例外的なサービスに支払いを渋るわけにもいかず、アイリの家計はますます苦しかった。そこに靴の仕立てとくれば、アイリはついに魔法のインク壺以来の新しい借金を考えてすらいた。


 チップをシートの上に置いたが、その一握りのお金が名残惜しい。それをあとほんの少し減らせれば、オレンジの一つ、紅茶の一杯が生活に加えられるかもしれない。その代わり、御者たちはこの特別サービスをやめるだろう。


 働いても、出世しても、頑張っても、淑女になっても、むしろ生活は苦しくなるばかりだった。名残惜しくチップを見て曲げていた口を元に戻すと、ちょうど扉が開かれる。


「あの、魔法はご入用でなくって?」

「はい? 魔法?」


 一度使えば金貨の臨時収入が入る。もう少し使う機会があると思っていたが、新大陸に移住してまだ3回しか使っていなかった。


「ありませんわよね……あ、明日は靴職人のところに行きますわ。ニコ・クーシとかいう……ご存知かしら?」


「ええ、貴族の方々御用達の方でらっしゃいますね。伯爵夫人のところには?」


「いえ、事務所からそこへ。済んだら戻りますわ」


「わかりました。ではそのように」


 御者は感謝の礼を返す。ミセスの知られていないところで、4人の情報交換が行われ、明日のミセスの輸送スケジュールが組まれることだろう。


 靴を仕立てて……本当はドレスも髪飾りも新しく自分の好みのものに仕立てたい。しかしそんなことをしたら、1年はオレンジも紅茶もお菓子もなしで過ごさないといけなくなる。アイリは扉に手をかけながら、計算ができてしまう自分を悔しく思った。


 もし計算ができなければ、そんな未来のことなど考えずに、いまの情熱に身を委ねることができただろうに。ちょうど音楽の歌声に身をゆだねるように。

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