第18話 彼女の匂い

「香水、首の後ろでいいかしら?」

「う、うん」

 私が頷くと、真昼は背後に回って私の後ろ髪をかき上げた。

 ぷしゅっと霧吹きみたいな音が聞こえて、うなじの辺りが一瞬ひんやりとする。

 先ほど嗅いだ香水の匂いがふわりと漂った。

「これくらいでいいと思うわ。ねえ、私にも同じ場所にかけてくれない?」

「うん、いいよ」

 香水の瓶を手渡すと、真昼はくるりと向きを変えて私に背を向けた。長い黒髪が遠心力で翻る。

「こうすると見えるかしら?」

 真昼は自分の両手でさらさらした髪をかき上げ、うなじを露出させる。

 普段見ることのない場所が目の前に晒されていて、何か見てはいけないものを直視しているような気分になった。

 私は震える手で香水をひと吹きし、「これでいいかな」と声を掛ける。

「ええ、いいと思うわ、ありがとう」

 真昼はこちらを振り返りながら、少しはにかんだような表情を浮かべた。

「あの、みつは……」

 続きを言いにくそうに、口をつぐむ。

 何を言いたいのか、なんとなく分かってしまう。

 だけどそれはお互いあまりにも気恥ずかしくて、本当に口にしてしまっていいのか迷う。

 でも、その甘美な誘惑にはけっして抗えない。

「……いいよ。匂い、確かめる?」

「そうね、確かめたいわ」

 今度はまた私が真昼に背を向ける。

 程なくして、後ろからひしと真昼に抱きしめられた。

 首の後ろに顔をうずめられる感触。

 首筋に彼女の鼻先が触れて、少しくすぐったい。

「ん……みつは、いい匂い」

 無防備に自らのうなじを晒す。

 何故か背徳感に満たされて、だけど……たまらなく気持ちよかった。

 真昼と付き合い始めて、私はどこか変になってしまったのかもしれない。

 ただそれは悪いことではなく、我慢しなくていいものを一つ教えてもらった気分だった。

「やっぱりいいよね、この香水」

「ええ。でも、みつはの匂いともよく合ってるわ」

「私の匂いもするの?」

「しないとでも思った?」

 途端、頬がかあっと熱くなる。

 私の匂い、するものなんだ……。

 逆の立場で考えれば、確かにそうなんだろうという気はするけれど。

 自分がその立場に立ってみると、やっぱりこそばゆい。

「ねえ、あんまり嗅がれると……」

「分かったわ。じゃあ交代しましょう」

 腕の力を緩めながら、真昼はさらっとそんなことを口にする。

 交代。それが意味することは、つまり。

「……私もいいの?」

「もちろんよ。背、届く?」

「うん」

 くるりと振り返った真昼の背中に飛びつくように、彼女を後ろから抱きしめ返す。

 さらさらの髪の束に、迷うことなく思いっきり顔をうずめた。

 同じ香水のはずなのに、自分から漂う香りとは全然違う。

 フローラルな香りの中に、真昼自身の匂いが確かに混ざっているのだ。

「すっごくいい匂い……」

「そう? 良かったわ」

「うん……もっと嗅ぎたい」

「ふふ、いいわ。好きなようにして」

 そんなことを言われたものだから、私は細い首筋に鼻を押し当てて、遠慮なく思いっきり深呼吸をした。

 彼女の匂いは鼻を突き抜けて、脳に直接届くような感覚がする。

 動物的な本能に働きかける、甘くて危険な香り。

 暴れだしそうになる本能を、かろうじて残っている理性で必死に抑え込む。

「好きにしてとは言ったけど……確かにこれ、恥ずかしいわね」

 後ろを振り返った真昼の頬には、さっと朱が差していた。

「そうでしょ? でも……やっぱり真昼、いい匂いする」

「みつはもいい匂いだったわ」

「香水つけるの、ハマっちゃいそうだね」

 私たちはくすくすと笑い合う。真昼の笑顔を見れるだけで、大げさでなく、ああ生きててよかったなって思える。

 なんだか、二人で秘密の悪い遊びをしているみたいな気分だった。

 でも、真昼と一緒だったらどんな遊びでも楽しめてしまう気がした。

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隣の席の女の子の笑ってる顔が見てみたい。 綾川ふみや @y_ayakawa

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