第48話 ヴィオラ外伝(6)

「はぁ……はぁ……!」

 薄暗い路地裏を、息も切れ切れにフィアは走る。


 父親の死別。母親の蒸発。

 愛する二人から置き去りにされたという現実をどう受け止めていいか解らず、目を反らし、預かってくれた叔父の元から飛び出した。


 だが、逃げた先でも孤独感は埋められず。

 かといって、一向に現実を認めることもできず。


 その板挟みに苛まれながらも辛うじて維持してきた心の均衡が、ヴィオラに核心を突かれたことで決壊してしまった。叔父のように感情的に接してくるならば、感情的に当たり返すことで有耶無耶うやむやにできるが、淡々と事実だけを伝えてくるヴィオラの言葉は嫌でも耳に届いてしまう。という幻想は、やはり幻想に過ぎないのだと、フィアの心に届いてしまった。彼女の胸の内は今や荒れ狂う濁流のような有様だ。


 フィアがこれ以上苦しまないためには、何も考えなくていいように体を暴走させるしかなかった。現実逃避に、さらに現実逃避を重ねるしかなかったのだ。体力が底を尽きるまで走り続けるしかない。


「げほっ……はぁ……はぁ……」

 呼吸ができなくなって、ようやくフィアの足は止まった。よろよろと壁に寄って半身を預け、ぜいぜいと激しく肩を上下させる。


 どれだけの時間、走り続けていたのだろうか。我を忘れていたせいで、どの道順で走ったかさえよく覚えていない。都市の路地裏というものは迷路そのもので、慣れている者でも曲がる順番を間違えれば道に迷うこともある。街外れのあたりだと感覚的に把握できるものの、正確な所在地はフィアも見当がつかない。


 とはいえ、心を落ち着けるために一人の時間が欲しかったフィアにとって、迷子は好都合だった。これだけ入り組んだ場所に逃げ込めば、叔父もあの女も、すぐに探し出すことはできないだろう。もっとも、これだけの距離を走れるまでに回復したのは、ヴィオラの握り飯のおかげだというのは何とも皮肉な話であったが。


「おい」

 背後から声をかけられ、びくりとフィアの肩が震えた。


(まさか、追いついたっていうの……!?)

 警戒しながら背後を振り返ったフィアだったが、そこに立っていた人物を見ると安堵の表情を浮かべた。その人物はローリィでもヴィオラでもなく、彼女のまったく知らない人物だったからだ。


 歳の頃は二十代だろうか。ぼさぼさの頭髪に汚れた着衣。痩せこけた頬と無精ひげの面貌には、不機嫌という看板が張り付いている。はっきり言って人相が悪い。人気のない路地裏で出くわせば、あまり関わり合いになりたくない人種だろう。安堵するなどもってのほか。……本来ならば。


 しかし、現状、何を置いても叔父とヴィオラと接触したくなかったフィアにとっては、男の不審さなどはあまりにも些細な問題で、警戒の対象にはならなかった。


「おっさん、誰……?」

「お前だろ。最近、この近辺で雑なスリやってんのは。おかげで警吏の巡回が多くなって、仕事がやりにくくなっちまった。どうしてくれるんだ、あ?」


 フィアの問いかけには答えず、男は悪態をついた。

 発言の内容から、どうやらこの男もスリで食い繋ぐ悪党のようだった。


「今日も馬鹿みてぇに走り回りやがって。目立ちすぎなんだよ。大きな迷惑だ。だいたい、このあたりで盗み働こうってんなら、先輩に挨拶の一つもしておくのが礼儀だろ?」


 そう言って、無精ひげの男は手を差し出した。フィアは薄汚れた空っぽの手のひらをきょとんと見つめる。


「……なに?」

「挨拶だよ、挨拶」

「握手?」

「馬鹿か、お前。握手なんて求めるわけねぇだろ。あそこは俺の縄張りだったんだ。お前は何の断りもなくそこで盗みを働いて、俺の稼ぎの邪魔をした。俺は優しいから終わったことを責めるつもりはねぇ。だがな、使った以上は場所代を払うのが筋ってもんだろ?」

「ああ、そういうこと……残念だけど、お金持ってない」


 フィアは申し訳なさそうに言った。

 男は目を丸くした後、仰々しく肩をすくめる。


「こいつは驚いた。俺の仕事場を荒らすだけ荒らして、挨拶さえしねぇとはな」

「……ごめん、そんなしきたりがあるなんて知らなかったんだ」

「はっ、おまけに知らなかったと来たか。こいつはいい――」


 言いざま、男はフィアの端正な顔に拳を叩き込んだ。


「ぎゃっ」

 突然の衝撃、そして、これまで経験したことのない鮮烈な痛みにフィアはよろけて尻餅をつく。目から星が飛び、頭が真っ白になった。


(殴られ、た……?)

 無意識に頬に手を当てながら、自分がされたことを反芻する。

 フィアの父は警吏らしく厳格な人物で、彼女が聞き分けのないことをしたら頬を打つこともあった。だから、叩かれた経験がないわけではない。だが、今しがた振るわれた拳は、父の平手とは全く別物。純粋な暴力。誰かを虐げるための行為だ。


 いくら大人顔負けの脚力があろうとフィアは足の速いだけの子供だ。殴られた頬の痛み。口の中に広がる鉄の味。自分よりも大きな存在から暴行を受けて、思考が正常であるはずもない。ただの拳の一発で体は恐怖で縮みあがり、歯の音は震え、腰が抜けてしまった。


「ご、ごめんなさ――」

「おいおい、謝ってで済むわけないだろ」


 反射的に謝ろうとしたフィアを遮り、男は彼女の胸ぐらを掴んで、体ごと目元まで引き上げた。フィアの体重は男の腕一本で持ち上げられるほど軽い。


「や、やめ――」

 フィアはじたばたと足を動かすが、男は意に介さない。


「お前が馬鹿やって、しょっ引かれるのは勝手だがな、こっちまで巻き込まれちゃ堪らねぇんだよ。どう責任を取るってんだ? あぁ?!」


 男は反対の手で、再びフィアの頬を殴りつける。

 一発。二発。三発。全てが全力だ。とても幼子に振るう力ではない。立て続けに襲い来る激痛と恐怖で精神の限界に達したフィアは脱力し、失禁してしまう。


(死ぬ。死んじゃう。殺されちゃう……!)


 自分がこんな酷い目に遭っているのだから、死んだ父が蘇り、助けに来ててくれるのではないか。母が涙しながら駆けつけてくれるのではないか。朦朧とした意識の中で、そんな考えがよぎる。


 だが、そんな甘い期待は、飛び散った失禁で着衣が汚れたことに怒った男の四発目の拳で雲散霧消した。自分がこんな酷い目に遭っても、。これが現実なのだ。


(死にたく、ない)

 かすかに残った意識の中で最後に残ったのは亡き父の顔でも、去った母親の顔でもなく――純粋な、死への恐怖だった。


 虫がいい話と思うだろうか。

 何度も叔父の家を飛び出して迷惑をかけ、他人から金を盗んで食いつないできた自分が死を恐れるなど。因果応報。身から出た錆。不良娘の末路に相応しいと思われてもしょうがない。


 だが、嘲笑われても、蔑まれても、フィアは思わずにはいられなかった。


(誰か……誰か、助けて――)


 見栄も虚勢もない、心からの声。

 現実から逃げ続けるために、差し出された手を跳ね除けつづけてきたフィアが吐き出した、正真正銘の救難信号。


 だが、暴行を受けたフィアの喉では空気を振るわせることさえかなわず。ましてやただでさえ人気のない路地裏では、誰かの耳に届くはずもない。ようやく差し出した助けを求める手は虚しく空を切る。


 ――はずだった。


「そのへんでやめとけ」


 ぴたり、と男の拳が止まった。

 朦朧とする意識の中、フィアは確かに見た。怒気に染まった男の肩越しに、気だるそうに傘を差した女が立っているのを。

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