第49話 ヴィオラ外伝(7)

「……なんだ、お前は」

 背後に立つ来訪者に、男は肩越しに訝しげな視線を向けた。

 雨を吸って肌に張り付いている侍女服だけを見れば、どこかの良家に仕える女給なのだと推察できる。えた匂いが漂う路地裏には場違いな、だ。


 しかし、彼女と視線を合わせた者はすぐさま考えを改めるだろう。男の視線を真正面から受け止める鋭い眼光は野性の肉食獣のもの。奪われる側の人間ではなく、奪う側の人間の目つき。大の男が少女に暴行を働いている場面を目の当たりにして、怒るわけでも、怯えるわけでもなく、落ち着き払っているあたりが既に異常である。


「この餓鬼の身内か?」

「いんや。赤の他人」

「だったら、すっこんでろ。こっちの問題だ。部外者が口を出すんじゃねぇ」

「悪党には悪党の掟がある。その子が挨拶料を払わなかったんなら、殴られてもしょうがないさ。……だが、制裁はもう十分だろ。それ以上は、単にあんたの憂さ晴らしに過ぎない」


 そう言うと、来訪者――ヴィオラは懐中から財布を取り出した。中から銀貨を数枚を掴み、放り投げた。からん、と乾いた音が響く。


「挨拶料ならあたしが出してやる。その子を放してやってくれ」

「……赤の他人が、見ず知らずの餓鬼になぜそこまでする?」

 足元に転がってきた銀貨とヴィオラ。交互に視線をやりながら、男は困惑した面持ちで尋ねた。


「まあ、ちょいと事情があってね」

「……ふん。命拾いしたな」


 そう言って、男はフィアを乱暴に投げ捨てた。銀貨と入れ替わるように戻ってきた少女の躰を、ヴィオラが優しく抱き止める。


「……手酷くやられたもんだ」

 ヴィオラはぐったりとしたフィアの顔を覗き込んだ。何発も殴られた顔は痛々しく腫れあがり、口の端からは血が出ている。痛みと恐怖で意識を失っているようだったが、命に別状はなさそうだった。


(とはいえ、こんな有り様じゃ卒倒しそうだなぁ、あのおっさん)


 茶屋で待っているローリィの人の良さそうな顔を思い浮かべる。青痣だらけの姪をみたらどんな顔をするのか。災難に巻き込まれたのはフィアの自業自得ではあるが、そのまま引き渡すのも気が引ける。


 どこか安全な場所で、せめて手当だけでもするか。そう考えながらヴィオラが立ち去ろうとした、その時。


「――ちょっと待て」

 男は下卑た笑みを浮かべ、ヴィオラを呼び止めた。


「やっぱ割に合わねぇわ」

「あん?」

 銀貨は挨拶料としては十分な金額だった。それだけあれば当分は食うに困らない。

 しかし、気前よく銀貨を寄越したところを見ると、ヴィオラにとってその程度の金額は大した出費ではないのだろう。だったら、少し脅せばもっと絞り取れるのではないか。そんな欲がむくむくと湧き上がる。


「……それくらいで手を打てよ。欲深いとかえって損するぞ」

「いいや。こいつが荒らしまわったおかげで警吏が目障りだからな。俺としてはもうちょっともらわねぇと凌げそうにない。利子だよ、利子」

「詫びはしたつもりだ。これ以上はあたしへの敵対と受け取るぞ」

「へへ、そう取ってもらって構わねぇよ」


 そう吐き捨てると、懐から短刀を取り出した。

 小汚い身なりの男ではあるが、短刀の刃は綺麗に磨き上げられている。脅しの道具として、手入れは欠かしていないようだ。


「こっちが穏便に済まそうとしてやってんのに、この小悪党が」

 しかし、光物をちらつかせても、ヴィオラは顔色を一切変えなかった。ただただ、面倒臭そうに後頭部を掻く。その態度に男の眉が吊り上った。


「なんだ、てめぇ。この面は。こいつが見えねぇのか」

「見えてるよ。見た上でこの面さ。お前さんには、どうやら教育が必要みたいだ」

 ヴィオラはそっとフィアを寝かせると、立ち上がって男に相対する。


「うっ……!」

 一向に怯む様子もなく、それどころか静かに距離を詰めてくるヴィオラの姿に男が困惑の声を上げた。


 なぜ、怯えない。どうして、止まらない。刺されるのが恐くないのか。もしかすれば、自分は恐ろしい何かに手を出しているのではないか。そんな疑念が男の脳裏に浮かぶ。だが、悪党が一度抜いた刃物をおめおめと仕舞ってしまえば沽券に関わるというもの。何より、彼個人の感情として女に舐められるのは我慢ならなかった。


「大人しく金を渡せば、痛い目見ずに済んだのによ……!」

 本能が告げる警告を無視して、男は腰だめに短刀を構えると地面を蹴った。


(ふん。わかってるじゃないか)

 短刀を振り回して使うのは二流のすることだ。そもそも短刀というのは、太刀のように切り裂くように使う武器ではない。そういう風に使うこともできるだけで、このように直線的な刺突が最も効果的なのである。加えて、幅に制限がある路地裏という地形においては、左右への回避は困難。男の腰だめの突進は実に理に適っていた。


 ――ただし、通常の人間相手には、だが。


「なっ――」

 驚愕の声。あんぐりと口を開く男の瞳には、軽々と男の頭上を跳び越えるヴィオラの姿が映っていた。


 短刀の腰だめ突進というのは効果的だが、あくまで上空に回避するという選択肢がない常人での話。それが可能であるならば、単なる突進技などだけの単調な攻撃に過ぎない。


「くっ――!」

 男は反射的に振り返り、背後を短刀で薙ぎ払った。自分を飛び越えたならば、着地するとしたら真後ろしかない。闇雲ではあったが、当たらずとも牽制にはなる。ならず者にしては冴えた行動だった。


 しかし――


「どこ狙ってるんだ?」


 声は上から降ってきた。

 馬鹿な、と男は目を見開く。ヴィオラはまだ空にいた。左右にそびえた壁を足場に跳躍――所謂、三角跳びを繰り返し、中空に留まっているのだ。


 ベルイマン古流秘奥義〈空渡り〉は、狭い場所でこそ真価を発揮する。

 そもそも、ベルイマンという流派は正当な剣術ではない。旧き人々から〈神〉と謳われた大自然の獣たちを狩るために考案された古代の戦闘技術をがその本質である。


〈神〉と対峙する場所は平地でないことがほとんどだ。峻厳なる山岳、樹海の最奥、あるいは一片の光も届かない岩窟。足場が悪いのは無論のこと、障害物があるのも大前提。そのような極限の戦闘空間を走破するための技術こそが神髄と言えるだろう。


 わずかな足場さえあれば、それを足掛かりに更なる跳躍へと繋げる。一度も地に足を着けることなく、空間を自在に疾駆する準三次元機動。それこそが真の〈空渡り〉。その遣い手にかかれば、狭い路地裏などは足場だらけだ。やろうと思えば、壁を交互に蹴り続けて屋根まで駆け上がることだって不可能ではない。


 常軌を逸したヴィオラの技にすっかり翻弄された男だったが、長年培った悪知恵は健在だった。ヴィオラと距離があるということは、彼女が金を肩代わりしてでも取り返したい人物が無防備ということだ。男はフィアを人質に取ろうと背中を向ける。


 だが、悪知恵は所詮、悪知恵。

 戦闘中に、敵に背中を向けることがどれだけ愚かで浅はかな行為か――。


「ほい」

 気の抜けた掛け声。

 中空でくるりと一回転したヴィオラの踵落としが男の脳天に直撃する。潰れたカエルのような悲鳴を上げ、男は白目を剥いて気絶した。


 生憎、介抱する気は起きなかった。する義理もない。事前に警告はした。それを承知で襲いかかり、返り討ちに遭ったのだから自業自得というもの。この街にも、こういった輩も一人や二人ではあるまい。こんなところで無防備に気絶していればどんな目に遭うか想像に難くないが、ヴィオラの知ったことではなかった。


 男が狭い通路で短刀を抜いた時点で、この結末は見えていた。ヴィオラが最初に跳んだ段階で、男がフィアを人質の取ろうと背中を向けることも想定済み。ヴィオラの力量があれば何もさせずに男を無力化することなど造作もないが、戦闘の真似事になるまで付き合ったのは彼女が言う通り、男に対する教育のためだった。


「これが、上には上がいるってことだよ。ちょうどこんな雨の日に、あたしが身を以って学んだことだ。あんたも覚えておくといい」


 ヴィオラはそう言い残すと、満身創痍のフィアを背負って路地裏を後にした。

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