第50話 ヴィオラ外伝(8)

 温かい何かがフィアの体に触れていた。

 それに規則的な拍子で体が揺すられている。まるで日向の揺り篭に身を任せているかのような安楽感。


 この温もりには覚えがあった。今は亡き、父の背に負われている時の感覚だ。

 幼いフィアは父親の広くて温かい背中が好きだった。足が痛いだの、疲れただの、何かにつけて父親に背負ってくれとねだるほどに。


 この街の警吏だった父は自他ともに認める厳格な人物ではあったが、一人娘の駄々にはめっぽう弱かった。最初は体裁を気にして渋い顔をするものの、最終的には背負ってくれる。わがままと言えばそうだが、しょうがなさそうに膝をついて背中を向ける父を見ると、フィアはこの人から自分は愛されているのだと実感することができたのだ。


 ……けれど。

 父親はもういない。母親も蒸発してしまった。自分は二度と、こんな温もりに触れることはないはずなのに――。



 ◆◆◆◆



「……お。気がついたか?」

 フィアを背負いつつ、器用に傘を差して大通りを歩いていたヴィオラは、肩越しに開眼を確認すると、すぐに前を向き直して歩みを再開した。


「どっか痛いところないか?」

「? どういう――痛っ」

 尋ねようとしたフィアの全身に鋭い痛みが蘇る。

 顔面全体がまるで火傷したかのように熱く、腫れ上がっているのがわかった。口の中に充満するのは鉄の味。そして、股に張りつく湿った衣服の感触――。


 それで思い出した。ヴィオラの元を走り去った後にならず者に絡まれたこと。そして、大人の腕力の前に成す術なく蹂躙されたことを。思い返すだけで体が震える。嵐のような暴力の爪痕は体だけでなく、しばらく彼女の心に残り続けるだろう。


「……あんたが助けてくれたの?」

「まあな」

 ヴィオラは誇った様子もなく淡々と答える。

 どんな手段を用いたか気を失っていたフィアには知る由もないが、ならず者を撃退したにしてはヴィオラに傷らしい傷は見受けられなかった。自分が子供だったから勝てないだけで、実際は大したことはなかったのか。それとも、この女がとてつもなく強いのか。恐らくは後者だとフィアは思った。


 魔法のような体術で叔父を投げていたし、脚に自信がある自分に悠々と追いつくほどの身のこなし。今更ながら只者とは考えづらい。

 だが、ヴィオラの正体よりも、もっと謎めいたことがあった。


「……なんで?」

「ん?」

「赤の他人でしょ……なんでここまでするの……?」

 フィアにとってヴィオラの行動は最初から最後まで理解不能だった。追いかけてきたことも、握り飯を馳走したことも、悪漢の手から救ったことも。何の得にもなりはしない。

 血の繋がった親からでさえも見捨てられるという体験をしたフィアには、血さえ繋がっていない他人が、これほど自分に対して何かをしてくれる理由というものが皆目見当もつかなかったのだ。

 心底不思議そうに尋ねるフィアに、ヴィオラは優しく笑った。


「他人だから、意味があるんだよ。自分に似ている。それだけで人は、誰かに手を差し伸べたくなるもんだ」

「似ている……? あんたと、あたしが?」

「ああ。あたしも孤児だったんだ」


 え、とフィアが呆けたような声を漏らす。


「ちょうど、お前くらいの歳の頃か。両親が病気で死んじまってさ。親戚はそれなりにいたらしいけど、誰もあたしを引き取ろうってやつはいなかった。色々たらい回しにされて、最終的に孤児院に入れられたけど、その時にはもう人間不信でさ。大勢の中で暮らしていても、心の中は常に独りぼっち。それが耐えられなくて、やっと手に入れた孤児院いばしょを飛び出したんだ」


 ――ちょうど、今のお前みたいに。ヴィオラはそう続けた。


 フィアはすっかり押し黙ってしまう。

 誰も自分の気持ちなんてわかるはずない。そう思っていたのに、どこの馬の骨とも知れないヴィオラこそが、誰よりも自分の近しい存在だったのだ。この世にそんな人間がいるとは想像できなかった、子供特有の狭い知見を自覚したが故の沈黙。


「飢えを凌ぐために盗みも働いた。暴力だって使った。刃物をつらつかせたことだってある。あの時は幸せな奴がとにかく許せなくてな。自分がこんなに不幸なのに、どうしてお前たちは幸せそうに笑っているんだって、周囲に八つ当たりしまくってた。我ながら、結構なわるだったと思うよ」


 ヴィオラは渋面を浮かべた。口にすればするほど、かつての己の餓鬼っぷりに嫌気がさす。そんな苦々しい笑み。


「ある時、あたしは住んでいた街の領主様の屋敷に盗みに入った。別に金目の物が欲しかったわけじゃない。ただ、領主の屋敷に盗みに入ったって悪名を轟かせたら……ひょっとしたら、あのくそったれな親戚たちが、あたしを捨てたことを後悔してくれるんじゃないかって、期待したんだ。

 ――ま、結果は散々だったけどな。自慢だった逃げ足を簡単に凌駕された上に取っ捕まった。ああ、こりゃもう駄目だなって観念した時、領主様から言われたんだよ。本気で誰かを後悔させたかったら、汚名よりも名誉を手にするべきだって。そこで気づいた。自暴自棄になって八つ当たりしても、誰も関心なんか持っちゃくれないってことにさ」


 誰かが言った。愛情の反対は憎しみではなく、無関心だと。

 マルクスは『悪童』に過ぎない自分に関心を持ってくれたどころか、働き手として屋敷に迎え入れてくれた。屋敷の人々も対等に接してくれた。真っ当に働くことに挫けて、何度逃げ出そうとしても、首根っこを掴んで連れ戻してくれた。他ならぬ、血の繋がりなんてない赤の他人が。


「人並みに生きるようになって、生きるっていうのは言うほど簡単じゃないって気がついたよ。一生懸命働いて金を得て、自分一人を生かしていくことがどれだけ難しいか。金や時間を、自分以外の誰かのために使うことがどれだけ困難なことか。そうなってくるとな、親戚連中はって、考えられるようになったよ。ま、あたしも少しは大人になったってことかな」


 いっそ晴れやかとも言える口調のヴィオラ。それとは正反対にフィアは悲しげに表情を曇らせ、血のにじむ唇を開いた。


「でも……でも、あたしは……全然そんな風に考えられないよ。お父さんが死んで……お母さんがいなくなって……いきなり一人ぼっちになって……叔父さんが引き取ってくれたけど、叔父さんもいつかいなくなっちゃうんじゃないかって……また捨てられるくらいなら、最初から一人でいたほうがいいんじゃないかって……でも、一人じゃお金だって稼げなくて……」


 フィアの喉が震えていた。孤独ではありたくない。けれど、誰かを頼れば捨てられるかもしれない。でも、一人で生きる力もない。自分の置かれた境遇に悲観し、己の非力さに歯噛みする。何をやっても自分の望むものはもう二度と戻ってこない。


 強がって、突っ張って。それでも今にも不安に押しつぶされそうなフィアに――かつて自分の同じ道を歩んでいる少女に、それでもヴィオラは優しく微笑んだ。


「ああ、そうだろうよ。人から言われて考え直せるほど、お前の悩みは軽くない。だから、いいんだ。そのままで」

「……え?」

「飛び出したきゃ飛び出したらいい。反抗したかったら反抗すればいい。子供っつーのは、大人に迷惑かけて一人前になるんだよ。あの叔父さんは何度でも追いかけてきてくれる。何度でも捕まえてくれる。そういう人だ。そうやっていくうちに、いつか気がつくさ。昔の自分は本当に手前てめえのことしか見えてなかったんだって」


 ――根拠はある。他ならぬヴィオラがそうだったのだから。

 どれだけ言論が正しかろうと、それが即座に人を救うとは限らない。時間をかけることでしか解決できないこともある。愛情とは言葉ではなく行動の積み重ねなのだ。関心を持ち、関わろうとする限り、積み重なったそれはきっとフィアの求める物になるはずだと、かつての『悪童』は語った。


「……つっても、腰が治ったらだけどな」


 ばつが悪そうに最後の一言を加えた。ローリィが腰を痛めたのはヴィオラの誤認が原因だ。その積み重ねを中断させてしまった責任の一端はあるだろう。


「ま、しゃーない。叔父さんの腰が治るまでは、あたしが代わりに追いかけてやるよ。なに、乗りかかった船だ。どうせ、この雨が止むまではこの街を出られないんだし――」

「……いい」

「ん?」

「追いかけなくて、いい。あたし、ちゃんと叔父さんのところに帰る。腰が治るまで、大人しくしてる」


 フィアは神妙な口振りで言った。ヴィオラから逃げるために出任せを言っているのだろうか。それとも、ならず者に襲われて路上生活の怖さを思い知ったか。いずれにしても、彼女の胸の内からは逸脱の気配はない。仮にあったとしても、


「そうしてやれ。叔父さんも喜ぶ」

「あ、でも……」

「なんだ?」

 言いかけ、しばらく黙っていたフィアが、ややあって口を開いた。


「……げ、玄関まで、ついてきてほしい……」


 その、はにかむような響きに、ヴィオラは思わず笑みが漏れた。

 あれだけ誰かの介入を突っぱねていたフィアが、誰かを頼るようになった。そのわずかな変化が嬉しかった。


「お安い御用さ」




◆◆◆◆



 ヴィオラが全てを片付け終える頃には、とっぷりと日が暮れていた。

 フィアの前ではおくびにも出さなかったが、街中を駆け巡ったおかげですっかり疲労困憊だ。特に大腿部は〈空渡り〉を酷使したために鉛のように重い。


 しかし、同時にその疲労感は心地良いものだった。

 今頃、フィアはローリィと和解できているだろうか。温かい食事と寝床にありつけているだろうか。それとも、また飛び出してしまっただろうか。たった一度の出会いでは変わらないかもしれない。けれど、あのお人好しの叔父がいる限りは大丈夫だろうと思う。関わりを持とうとしてくれる人がいる限り、いつか現実を受け入れることができる。ヴィオラはそう信じている。


 重たい体を引きずるように、ヴィオラは逗留しているキルハルスの屋敷の敷居を跨いだ。

 すると――


「ヴィオラ!」

 間髪入れずに奥の客間からローザリッタがぱたぱたと駆け寄ってくる。

 思わず、人様の家の廊下を走るな――と諫言を吐きたくなるが、主の心配そうな表情が目に入ると、言葉は喉の奥に引っ込んだ。


「おかえりなさい! 全然帰ってこないから心配していたんですよ?」

「…………」


 心配そうに見つめてくる主人の顔に、思わずヴィオラは目を細めた。


(……どうだい。出世したもんだろ?)

 誰かに向けた吐露。かつて、マルクスはヴィオラをローザリッタの側仕えに任命した。最強の剣士が、自分の命よりも大事にしている我が子を、他の誰でもない自分に託したのだ。


 その事実こそがヴィオラの誇り。野良犬の如き半生を送った、この『悪童』に与えられた最大の名誉である。


「……ヴィオラ?」

 硬直したのを不審に思ったのか、ローザリッタが眉を顰める。ヴィオラは取り繕うように、なんでもない、と笑った。


「お帰り。随分と長い買い物だったわね」

 続いて、リリアムが顔を出した。手には箸と皿。つんと冷たい表情は相変わらずだが、どことなく頬が紅潮している。彼女にしては珍しく、やる気を出しているようだ。

 ……しかし、何に?


「首を長くして待っていたわよ」

「お腹をへこませて、の間違いでは?」

「そうとも言うわね。正直、もうお腹の音を押さえるの限界だわ。ヴィオラさん。できあがるまでにどれくらいかかるかしら?」

「……あん? 一体全体、何の話だ?」

 ヴィオラは眉を顰めた。二人の会話についていけていない。


よ、。すごく楽しみにしてたんだから。ちゃんとお芋いっぱい買ってきたんでしょね?」


 その言葉に、ヴィオラの脳内で閃光が走った。

 そうであった。そもそもヴィオラは芋を調達するために外に出たのである。野良犬少女の騒動に巻き込まれ、すっかり失念していた。何もかもを。


「……どうしたの?」

 びっしりと脂汗を浮かべたヴィオラを、リリアムは怪訝そうな瞳で見つめる。駄目だ直視できない。ヴィオラは目を逸らしつつ、喉の奥から絞り出すようにして、揺るがし難い事実を白状する。


「……すまん。芋買うの、すっかり忘れてたわ」

「――――」


 稲妻に打たれたように硬直するリリアム。そう言えば、雷って光った後に音が響くよなとヴィオラは述懐する。


「何しに外行ったのよ――!?」


 かくして轟音が鳴り響く。リリアムの絶叫が夕闇の向こうに消えていった。

 いつの間にか、雨は降り止んでいた。




 幕間の太刀 ヴィオラ外伝/了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少女剣聖伝 -辺境秘剣録- 白武士道 @shiratakeshidou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ