第47話 ヴィオラ外伝(5)

「……だいたい、あんた何なのよ。叔父さんから連れ戻すよう頼まれたの?」


 握り飯二つをぺろりと平らげたフィアは、訝しげな視線をヴィオラに向けた。

 食べるだけ食べて逃げ出すかと思ったが、その場から動かず、ヴィオラをじろじろと観察している。意外と義理堅いらしい。


「ちょっと違うな。お前を探すとは約束したが、連れて帰るとは言ってない」

「あっそ。だったら、もうほっといてよ」

 そう言い放つと、フィアは路地の奥へと歩き始めた。

 ヴィオラは小さく鼻を鳴らすと、その後ろをつかず離れずの距離を保ちつつ、ゆっくりと追いかける。


「ついて来ないでよ」

「連れ帰るつもりもないが、お前さんがどこで寝泊まりしているかくらいは把握しようと思ってな」

「馬鹿正直に案内すると思うの? 撒こうと思えば撒けるんだよ?」


 フィアは呆れたように笑った。

 ――だったら、そうすればいいものを。口ではついて来るなと言いつつも、それを容認している現状は、フィアの複雑な内面の象徴だ。干渉は受けたくない。けれど、どこかで誰かの介入を待っている。傷ついた者特有の二律背反。


「ずっと雨に濡れちゃ体を壊すぞ。一旦、家へ帰ったらどうだ」

「……帰らない。あそこは、あたしの居場所じゃないから。あたしの家じゃないし、あの人はあたしの親でもない」

「じゃあ、どこがお前の居場所なんだ?」

「そんなの、もうないよ。あたしの居場所なんて……」


 雨音で掻き消えそうなほど、最後の言葉は小さかった。

 フィアの居場所は、彼女の父が死に、母が蒸発した時点で失われた。埋めようにも埋まらない、替えなどいない人たちを失った空虚感。それと折り合いをつけるには、彼女はまだ若すぎる。


「……お前の親父さん、この街の警吏だったんだってな」


 フィアの足がぴたりと止まる。

 振り返った彼女の双眸は驚きに見開かれた。何故知っているんだ、という顔。


「今のお前がやっていることを見たら悲しむぞ。それどころか、生きていたころの功績を貶めかねない」

「……あんたには関係ない」


 そうだ。関係のないことだ。

 ヴィオラとフィアはさっき出会ったばかり、縁もゆかりもない他人。家庭の事情に土足で踏み入る権利もない。それでも、ヴィオラは続けた。


「――それとも。? ?」


 その言葉に、かっとフィアの目つきが険しくなった。

 ――図星か。


「そんなことはないんだ。お前が悪さしたところで、死んだ親父さんは生き返ることはないし、糞ったれな母親は間男と新しい子供を作って幸せな家庭を作っているだろうよ。お前はそのうち警吏に取っ捕まって処罰されるだけ。誰も関心なんか持っちゃくれない。それが現実だ」


 もしも、この場にローザリッタやリリアムがいればヴィオラは咎められただろう。父母を失った哀れな幼子に対して何という言い草かと。思いやりの心はないのかと。批判は重々承知。だが、それでもヴィオラには言わねばならなかった。


 ――この少女に、自分と同じ轍を踏ませてはならない。


「あんたなんかに……」

 フィアの肩が怒りに震えた。


「あんたなんかに、何がわかるんだよ!」


 そう吐き捨て、風のように走り去っていくフィアをヴィオラは追えなかった。

 いや、追わなかった。

 追いつくことは充分に可能だ。いくらフィアが天性の俊足を持っていようと、所詮は原石。磨き上げられた本物の宝石には及ばない。


 だが、追いついてどうする。捕まえたところで何が変わる。

 首根っこを掴んで正論を説いたところで、それを受け入れるだけのゆとりがあるのならば、そもそも飛び出しはしない。頭を冷やす時間が必要なのだ。それが、いつになるのかは分からなくとも。


 それにしても――


「……まったく。本当に昔のあたしそっくりじゃないか」


 遠ざかっていく後姿を眺めながら、ヴィオラは暫し、苦々しい記憶を辿った。




◇◇◇◇



 若き日のヴィオラは、一言で言えば悪餓鬼わるがきだった。


 両親を流行病で亡くした後、親戚の家に預けられることになった彼女だったが、親戚一同は誰もいい顔はしなかった。もともと両親は駆け落ち同然で結ばれた二人だったらしい。迷惑をかけるだけかけた上に、その後始末を押し付けられるのだからたまったものではない。それが一族の総意だった。


 快く引き受けようという者は誰もおらず、親戚筋をたらい回しにされた挙句、最終的にシルネオの孤児院に押し込められたものの、そこにも長くは留まれなかった。孤児院の職員は親身に接してはいたが、既に人間不信になっていた彼女はそれを信じられず、心を開けずにいたのだ。


 孤児院を飛び出してからは、ヴィオラは生きるために窃盗や恐喝に手を染め、日常的に警吏に追いかけられる毎日を送っていた。しかし、天性の身体能力で逃げ切り、捕縛とは無縁。まだ十二、三歳ほどであったことから『悪童』として瞬く間に有名になっていった。


 その能力を買って仲間に引き入れようとする同業もいたが、ヴィオラは独りでいることを選んだ。当時の彼女にとって他人とはいつか離れていくもの。頼ったり、寄りかかったりするものではなかったからだ。


 何より、誰も自分には追いつけない。徒党を組んだとしても、彼女と同じ速度で動けないのでは文字通り足手まといになる。誰も煙たがって自分を助けてくれなかったのに、自分だけが誰かを助けるなんて割に合わない。信じられるのは自分の足の速さだけだった。


 そんな彼女が今宵狙うのは、かつてないほどの大物だった。

 モリスト地方領主、ベルイマン男爵家。その屋敷に忍び込もうというのだ。


 その日の夜は、盗みに入る絶好の日取りだった。

 月影は分厚い雲の向こう側。夜陰は人影を飲み込み、降り続く雨と唸る風が足音を消し去る。各所に見張りは立っているものの、この悪天候では注意散漫。これほどの好条件で盗みに入る機会はまたとないだろう。


 ヴィオラは見張りの死角を突いて、鉤縄を屋敷を囲む壁の向こうへ投げ入れた。壁の縁と鉤が噛み合う音さえも雨音が消してくれる。そのまま素早く壁をよじ登ると、風の速さで中庭を突っ切り、そのまま窓から屋敷の中へ侵入した。


 ちょろいものだったが、問題はここからだ。雨の日は侵入するには容易いが、体から滴る水滴が目印となって、中の人間に察知されやすい。かといって悠長に体など拭いていられないため、ここからは時間との戦いだった。


 手っ取り早いのは廊下に並べられた調度品の類をくすねることだが、王国貴族とはいえ最下級の男爵家。それも質素倹約を旨とする武家だ。高値のつくような調度品は期待できない。


 ――もう少し奥まで行ってみるか。

 ヴィオラが慎重に屋敷の奥へ進もうとすると、曲がり角の向こうから燭台の明かりが近づいてくるのが見えた。


(ちっ、運のない――)


 ヴィオラの判断は早かった。舌打ちするよりも先に、稲妻のようにその身を翻す。まさか、侵入して早々誰かと出くわすとは。運が良かったのは天候までだったらしい。


 ヴィオラは侵入した窓から飛び出すと、地面に着地するな否や脱兎のごとく駆け出した。初速から最高速度に達するまでが恐ろしく短い。まるでネコ科の狩猟動物を思わせる敏捷性。しかも、彼女はその真逆、すなわち減速においても同様のことができる。極限の緩急制御。これこそが彼女が誇る屈指の才能だった。


(なにっ?)

 背後から迫る足音に、思わずヴィオラは振り返った。くたびれた金髪の初老の男が追走してきている。つい先刻、遭遇しかけた家人か。直接目撃したわけでもないのに、迷わず屋外へ飛び出してくるとは見上げた判断の速さ。


(舐めやがって……!)

 初老の男は警笛さえ吹こうとしない。追いつけると思っているのだろう。確かに並々ならぬ俊足だが、最初に稼いだ距離はまだ十分に残っている。このまま逃げ切ることは十分に可能だ。


 しかし、そのためには壁を乗り越えなくてはならない。

 侵入する時は鉤縄を使ったが、今は用意する時間がない。立ち止まれば、いや、速度を落とすだけであの男に追いつかれる。


(一か八か……!)

 裂帛の気合を放って、ヴィオラは地を蹴った。

 軽やかに宙を舞う躰。空気を掻き分けるようにがむしゃらに手を伸ばし、果たして、壁の縁に指をかけることに成功した。あとは一息に昇り切れば――


「――惜しい。もう少しだったな」

 声は頭上から。

 片手でぶら下がるヴィオラを背後から飛び越え、空中で反転、鳥のように軽やかに塀の縁に着地した。


「なっ……!」

 ヴィオラが絶句する。この男はただ一度の跳躍で、壁をも飛び越えたというのか。足の速さと身のこなしだけは随一と自負していた彼女にとって、それは信じがたい現実だった。


「ほい」

 男は縁を掴んでいるヴィオラの指先を蹴った。彼女の躰は重力に沿って、真っ逆さまに落ちていく。


「くっ!」

 ヴィオラはどうにか空中で体勢を変え、背中からの激突を何とか避けた。無傷で着地には成功したものの、体重を支えるために四肢が硬直する。初老の男はその隙を見逃さなかった。


「よっと」

 空から降ってきた男にそのまま一瞬で組み伏せられ、ヴィオラは濡れた地面に顔を押し付けられる。必死に振りほどこうとするが、男の丸太のような腕はびくりともしない。


「――見事な俊足じゃ。そなたが壁で手こずらなければ、儂とて追いつけなかったも知れん。平地での駆け比べなら天下を取れるかもしれんな」


 その言葉とは裏腹に自分を組み敷く男からは余裕すら感じられる。短時間ではあるが、ヴィオラは全力を出したというのに。屈辱だった。街の大人たちはおろか、武装警吏でさえも捕えられなかった自分が、こうもあっさりと――!


「しかしまあ、上には上がいるということじゃな。覚えておくがいい」

 ヴィオラの内心を看破したのか、男は意地悪そうに付け加えた。


「報告は上がってきているぞ。そなたがいま警吏を悩ませている『悪童』か。まで盗みに入るとは、見上げた根性だ」


 ――儂の屋敷。

 その言葉にヴィオラは動揺した。それが真実なら、自分を組み敷く初老の男こそ、モリスト地方を預かるベルイマン男爵家当主。このレスニア王国において『最強』の二つ名で謳われる剣術家マルクスに他ならない。


(はっ、勝てないはずだ……)

 屋敷の巡邏に追い回されるのは覚悟していたが、まさか、本人から直接、追い詰められることになろうとは。


「……じゃが、どうにも解せんな」

 微塵も力を緩めず、されど穏やかにマルクスは呟いた。


「なるほど、確かにそなたの脚力は神掛かったものだ。常人には手に余る。十分、盗みで暮らして行けるだろうよ。ならばこそ、


 マルクスの声は心底、不可解な響きが込められていた。これまでに投げかけられた声と言えば罵倒か侮蔑のいずれかだ。当然、ここでもそうだと思っていたが、マルクスの口から放たれたのは純粋な問いかけだった。


「ここにも金目のものはあるだろうが、領主の屋敷に盗みを働く時点で不敬罪もいいところだ。窃盗罪と併せて極刑を言い渡されても文句は言えんぞ。金品が欲しいだけなら、商人の蔵にでも忍び込んだ方がよっぽどマシだ。そんな計算もできぬほど愚かではあるまい。何故、儂のところへきた?」


 人間とは本能的に安全を求める生き物だ。翻って、何かを選ばなくてはならない時、可能な限り失敗しない道を選ぼうとする。物事の道理を理解していない赤子ならばいざ知らず、人が最適にそぐわない選択をした時、そこには必ず理を超越したが存在するはず。マルクスが問いかけているのはそれだ。


 だが、尋ねられたところで、ヴィオラには話すつもりはなかった。また、その必要性も感じなかった。何を言ったところで、自分の罪が許されるわけではないからだ。このまま縛につき、沙汰を待てばいい。


 ……しかし。

 両親に先立たれ、親戚からも見放され。同業からは能力だけを評価され。誰も関心を向けてくれなかったにこそ、マルクスは目を向けてくれた。だからだろうか。雨に濡れ、泥に塗れて、力づくで押さえつけられている状況でありながら、ヴィオラは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


「……八つ当たりだよ」

「八つ当たり?」

「あたしの両親は流行病で死んだ。親戚たちは厄介者扱いして、誰もあたしを引き取らず、孤児院へぶち込んだ。でも、そんなあたしと違って、ただ生まれただけで祝福されたやつがいる。大勢から祝われて、望まれて、大切にされているやつがいる」

「……ローザリッタのことか」


 それは、数年前に誕生したベルイマン男爵家の継嗣の名である。

 なかなか子を成せなかったマルクスはようやく生まれた我が子の生誕を喜び、街を上げて盛大に祝った。そのことはまだ記憶に新しい。


「そうさ。あんたの娘が生まれた時、街は大賑わいだった。誰も彼もが、会ったこともない赤ん坊の誕生を我がことのように喜んでいたよ。ああ、あの時に感じた気持ちは今でも覚えている。どうして、あたしだけがこんな目に遭うんだ。こんな思いをしなきゃならないんだ。そう考えだしたら、無性に腹が立ったんだよ。何でもいい。そいつから何か一つ奪ってやらなきゃ気が済まない。そう思った」


 恵まれなかった子供が、恵まれた子供に対する剥き出しの嫉妬心。何年も燻りつづける妬み嫉みが、ヴィオラを分の悪い盗みへと駆り立てた。


「得心した。それが理由か」

「そうさ。失敗して処刑されたって構わない。それならそれで、領主に盾突いた罪人あたしの名前を、糞ったれな親戚どもはどこか遠い空の下で耳にする。そしたら、あたしを見捨てたことをきっと後悔するだろうってな」

「……残念だが、それはないじゃろうな」

「……かもな。だから言ったろ、八つ当たりだって」


 ヴィオラは力なく笑った。そもそも、親戚筋がそのような罪悪感を抱くような人々であったのなら、彼女が見捨てられることもなかったはずだから。彼女が自分で言う通り、この一連の行動はただの傍迷惑な八つ当たりに過ぎない。


「それだけだ。もう話すこともない。さあ、さっさと煮るなり焼くなり好きにしてくれ。……もう、こんな生活、疲れちまってたところだったからさ」


 ヴィオラは観念したように瞳を閉じた。心は少しだけ穏やかだった。見捨てられた自分。誰からも必要とされなかった自分。そんな自分の内面にマルクスが関心を持ってくれて、吐露できたこと。それは『悪童』と成り果てた彼女の人生の中で初めて、誰かに甘えられた瞬間だったのかもしれない。


 だが、マルクスは縄をかけようとも、首を刎ねようともしなかった。

 代わりに、こう提案した。


「――そなたを罰するのは簡単じゃが、その才は惜しいな。どうだ、そなたの命、儂のために使ってみんか?」

「……なに?」


 望外の言葉に、ヴィオラは固まった。言葉の意味を飲み込めずにいる。

 にやり、とマルクスは笑った。


「人間というやつは身内の汚名は必死に隠そうとするが、名誉は誰かに自慢したくてたまらなくなるもんじゃ。親戚たちに自分を捨てたことを本当に後悔させたいなら、そなたは領主に楯突いた罪人としてではなく、儂の下で働いて誉れを手にするべきだろうよ」

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