第29幕 Cherry blossom

 こうして、高いところから眼下を眺めるのは二度目だ。

 あの時は、突発的で、なにも考えていなかったから、腕を折るだけで済んでしまったけれど、今回は間違いなく助からないだろう。

 煌は顔を上げた。

 対角線上のビルの屋上に、黒田が立っていた。

 家出した少女に許された疎開先は、大抵の場合、金のある男の家だ。そしてその場合、対価は大抵、肉体そのものだ。

 黒田はそういう対価は要求しない代わりに、もっと悪質な方法で人を縛り付けていた。

 罪悪感という重い鎖は、いつも人の判断を狂わせる。

 利用されているのは分かっていた。

 人が悲しそうにしている時に限って、黒田はよく笑った。嬉しくて仕方ないという風に、それはそれは無邪気に。

 今まで見てきた男とは別な意味で気持ちの悪い男だと思った。内に抱えたものが、あまりにもグロテスク過ぎる。

 穏やかなふりをして、自分の理想像から外れることを許さず、人の後ろめたい気持ちを引きずり出し、操ろうとする。

 こんな凶行を、本人は優しさと信じ込んでいるのだから、救いようが無い。

 そんな男に生かされている自分が、惨めで仕方なかった。

 女が独りで生きていくには、身体も、心も、強靭でなければならない。男よりも遥かに強かでなければ、あっという間に食い潰される。

 未成年の、高校を卒業もしていない女にできることは、限られている。

 望みもしないのに、母体としての余計な機能に振り回され、心身を女という役割に吸い取られる。ただ日々を送るだけで、沸々と、苛立ちが募る。ただ女であるというだけで、一体なぜこんなにも軽んじられなければならないのか、と。

 女は力が弱い。女は心が弱い。女は感情的だ。知性が無い。

 そういう言葉が投げかけられる度、煌は相手の頭を殴った。そうした行動によって自分が孤立することなど百も承知だった。それでも、抗わねばならないと思っていた。相手を貶めることに躊躇の無い人間は、殴ったって心根を入れ替えたりはしない。相手を変えられはしない。だから、これはただ、怒りの表現だった。犬が吠えるように、猫が牙を剥き出すように、明確に怒りを表現した。煌には、絵でも言葉でも対話のできない人間と関わるための方法が、こうした暴力しか思いつかなかった。

 学校などという遮蔽空間の中で、孤立していた煌が、完全な厄介者として腫れ物扱いを受けるのに、そう時間は掛からなかった。

 当然、学校には行かなくなった。

 母子家庭で、母とも妹とも折り合いが悪く、居場所の無い煌にも、ただ一人、友人がいた。彼女は、煌と正反対とも言える人間性の持ち主だったが、不思議と苛立つことはなかった。単純に、惹かれていたのだと思う。そう本人に告げたことはないが、出逢ってからというもの、煌が描くモチーフには彼女が選ばれた。

 彼女をモチーフにした絵が二百枚を越える頃、かの少女は言った。

『彼氏できたんだ』

 たったそれだけの一言だった。

 くだらない。

 他人同士の繋がりをどこか見下していた癖に、結局のところ、自分も誰かとの特別な関係に焦がれていたのだ。惹かれていたのではない。恋をしていた。

 自分は弁えていると思っていたのだ。失ってから大切なことに気がつくなどと言う、手垢のついた自明の理を、自分は理解していると、思っていた。

 重ねられた二百枚の絵が、自分の愚かさと無力さに換算されたようだった。気が付いた時には、窓を開け、外へ飛び出していた。

 病院で目が覚めた時、黒田が自分の顔を覗き込んでいた。

 失恋して学校で自殺未遂。三文芝居にも程がある。逃げるように、黒田の背を追うことになった。

 早くも社会のレールから脱線して思う。学校は、やはり牢獄だ。出席番号を与えられ、一日の時間割を、全員が同じように共有する。ありとあらゆる条件が違うのに、同じ行動をさせるのは、どうしたって無理がある。熱帯魚と淡水魚を同じ水槽で育てられるわけがないのに。

 なぜ、自分の同級生たちが、あの環境に耐えていられるのかが、不思議で仕方なかった。

 こんな惨状を、なぜ誰も咎めないんだ。

 どうしようもなく惚れ込んだ友達さえ、私のこの怒りを理解し肯定してはくれないのだと。

 悲しいかな、人は喜びよりも、憎しみを共有できなければ、深く繋がることができない。『カナリア』がそれを証明していた。

 煌は再び、眼下に広がる景色を見渡す。

 いくつかスマートフォンのカメラが向けられていた。

 そんな小さな窓から世界を見ているから、大切なものを見逃すんだよ。

 最後の最後まで、腹立たしい。

 煌は、側まで運んできたポリタンクの中身を頭から被った。アトリエに充満したものより遥かに強い、脳を揺するような油の匂い。

 手にしたライターに火をつける。

「さよなら」

 煌は、迷いもせず、足元に火種を落とした。

 炎が、青空に向かって歩き出した。

 燃え盛る火が目を焼くようだった。それは宛ら、太陽に向かって死んでいったイカロスの様に。

 流星にも似たその物体から、この世のものとは思えぬ断末魔が響き渡る。精神が死を受け入れても、肉体はそれに抗うのだろう。鼓膜の奥を突き刺すような叫びだった。

 人は、常軌を逸した光景に出遭うと、その場を動けなくなるらしい。

 学生が、時間に追われた男が、子供を連れた母親が、忙しく踵を鳴らしていた女が、燃え上がる炎に目を奪われて、立ち尽くした。

 かつて煌という名だった少女の肉塊は、着火剤にされた芒のごとく、街路樹に次々と火を灯す。

 夾竹桃。それが彼女への献花だった。

 油が撒き散らされ、火柱が上がる。子供が、老人が、妊婦が、膝から木偶のように崩れ落ちる。

 地獄はここだと、金糸雀は鳴く。

「見届けたよ、煌。君の魂に、心からの敬意を」

 黒田が持っていた花籠を振るった。

「さて、二人目の見送りにいこうか」


 大庭は花束を抱え、駅のホームに設置された、錆びたベンチに座っていた。

 少しずつ、人の出入りが激しくなる。

 何年も乗っていなかった満員電車の出入り口からは、妙に饐えた、生々しい匂いがする。むわりと鼻腔に侵入してくる、人の汗、脂、加齢臭、香水の匂い。

 そういえば、人はストレスを受けると体臭がきつくなると聞いたことがある。自分があの空間に入っている間は気が付かなかったが、酷い匂いだ。

 車両が人間を吐き出しては吸い込む。明らかに入り切らないはずの人間が、鮨詰めにされていく。スーパーマーケットで売られている野菜のほうが、まだ丁重に扱われているといった有様だ。

 満員電車というやつは、人間の魂を吸いとるようにできているらしい。

 この時間に会社や学校に行く人間の目というのが、皆一様にドブのようなのは、これが一役買っていると信じて疑わなかった。この出勤時間が、あまりにも嫌だったので、自分は度々遅刻していったわけだが。

─この電車に乗って、おれたちは一体何処へ向かうつもりだったのだろう。

 黒田の補佐をして随分経つ。サラリーマンをやっていたのが、遠い昔のようだ。

 大庭はスーツを着るのも、会社務めも嫌いではなかった。営業の仕事は自分の性に合っていたし、職場の人間関係にも恵まれていたと思う。給金は手取りにして14万。まあ、一応は暮らしていける程度。高卒にしてはかなりましなほうだろう。

 ─駄目だなぁ。一度自殺という選択肢が現れると。

 自分の精神状態がどうやらまずいらしいということは、分かっていた。会社には毎朝香辛料でドーピングしないと出社できなかったし、飲み過ぎて、道路で吐瀉物と添い寝していた回数は、あまりにも多過ぎて途中から数えるのを止めた。

 自分がどうやら正常でないことくらいは理解できる。しかし、それを一体誰に言えばよかったのか。どこへ逃げるべきだったのか。

 誰だって欠陥がある人間をわざわざ雇いたいわけがない。

 かといって、それを覆い隠して、会社や社会が望む人格者を演じて仕事をするのは苦しい。

 最近はストレスチェックやら産業医やらがいたりもするが、それは茶番にしかならない。それで正直に答えてそれでも会社に居座ることができるのは、本人の能力が相当高いか、会社の懐がでかいかのどちらかで、大抵の場合は不良品としてお役御免になるのがオチだろう。

 怒らないから言ってみて、と言う人間が、怒らなかった試しがない。

 逃げ場所が無いということは、苦しい。

 いつだったか、久々に出た唐揚げに、捨て猫のように飯にがっつく睦をみて、酔っ払った父親が言った。

『お前は別に生まれてこなくてもよかったんだけどな』

 女の子が欲しいという理由で両親が無闇に子供を拵え続け、その最後の希望になるはずだった。それが睦だった。

 だから、名前は生まれてきた女の子のための名前だった。生まれる前からその事実は決定していた。それが男児だと知り、堕胎も良心が痛むということで、仕方なく産んだのだという。名前を考え直す気力も無く、もともと両性で使える名前だと言う事もあり、予定通りにしたらしい。

 そんなことを聞かされた人間が、その後何も知らなかったころのように過ごせると、本気で思っているのか。

 本当に僅かでも良心があったのなら、物心がつく前にさっさと殺してくれよと、今は思う。寝ぼけてるうちなら、どうせ何が起きたのかも分からない。

 目に入れても痛くないはずの孫も、七人目ともなれば流石に飽きてくるのだろう。祖父母の自分への扱いも、上の兄弟に比べると、なんとなく雑だったような気がした。

 そうだな。おれは別に生まれてこなくてもよかった。こんなに苦しいなら、生まれなければよかった。生まれてきてしまったから、仕方なく生きているだけ。目が覚めてしまったから、起きているだけで。

 兄弟間は毎日奪い合いだった。何せ男が自分を含め六人もいるので、食事にかかる費用が尋常じゃない。

『知ってるか、鳥の雛も犬の子供も、みんな子供同士で戦って生きているんだ。お前たちも頑張れ』

 おれは鳥でも犬でもねえよ。人間だよ。なんでお前らのくだらねぇ身勝手な理由で生まれたときから食い物でこんなに苦労しなきゃいけねぇんだよ。

 野生動物に比べれば幸せ。おかしくないか、そんなの。おれ、人間なのに。

 そういう言葉を押し殺して、なんとか愛嬌を振りまいていた。

 きっと、寂しかったんだろうと思う。

 男同士のセックスを覚えたのは中学三年生の時だった。

 今思えば、その時から既に自暴自棄になっていたのかもしれない。始めのうちは痛みが勝るような行為も、慣れてくると、多少快楽で希死念慮が紛れることに気が付いた。そうやって、誰かの腕の中で眠る時間が好きだった。

 そんな状態で、どうやって生きてきたのか今となっては分からないけれど、それなりに生きてこれていた。

 家には当然、自分の部屋なんて洒落たものはない。

 騒々しい家に帰りたくなかったので、友人と呼んでいいのか微妙な、知り合いの家を渡り歩いていた。家族の中ですら媚び諂ってきた経験が役に立ったのか、同情を買っておこぼれに預かることはさほど難しくなかった。

 皆気を使ってくれた。

 他人の子供だと言うのに、ご飯を食べさせてくれたりだとか、お菓子を持たせてくれたりだとか。

 そういう優しい人たちがいるということが、尚のこと、この胸を抉った。

─おれは、運が悪かっただけなのか?たまたま、ハズレくじを引き当てたから、こんなに惨めなのか?

 制服も、好きな服も、ゲームも買ってもらえない。みんなで食事に行くだとか、カラオケで駄弁るだなんて、もっての他だ。

 友情にすら金がかかる。それを子供のうちから知らねばならなかったことが、悲しい。

 それでも、酔狂な奴もいるもので、つるんでいた友人たちは何かと睦を気にかけ、金をかけずとも、同じように馬鹿な遊びに興じてくれたのだった。

 その過程で、ある時、音楽をやらないかと誘われた。一人、いい家の出のやつが、睦に楽器をやると言った。

 その間は、本当に楽しかった。どうしようもなく夢中になった。

 ただ、音楽を作っていたかった。

 ヤケクソになりながら、歌を叫んでいたかった。あの時は、歌で何かが変えられると、本気で思っていた。

 だが、自分の気持ちとは裏腹に、家の経済状況は悪化の一途を辿り、金を稼いで生活することだけを考えねばならなくなった。仕事を最優先事項にすれば、当然交友関係も薄れていく。いつの間にか同じ音楽仲間たちは皆大学へと進学し、疎遠にならざるを得なかった。

 仕事でどれだけ認められようが、優しい人達に気を使われようが、それは大庭の人生に何ら関係はなかった。本当に優しい人たちに関わるほど、虚しさは増した。

 なぜ、自分は温かい家に生まれてこれなかったのだろうと。

 何のために生きてる。

 自由になりたければ、金が必要だ。

 甘えてないで、自分で稼げ。

 それは誰かに言われたのか、それとも自分自身への戒めだったのか、もはや覚えていないけれど、毎日ただ生きていくことが苦しかった。

 口座の残高を見る度に、心細くて、惨めで、子供みたいに泣き出しそうだった。

 いつまで、走り続ければいいんだろう。

 このまま走り続けて、その先に一体何があるというんだろう。

 結婚も、子供も別にいらない。できないし。それに、こんな世の中じゃ、生まれてきた方が地獄だ。

 せめて経済的な補助があれば結婚も選択肢に入るだろうが、同性愛者にその選択肢は無いに等しい。いつだったか、左利きのベーシストが、冗談めかして、おれたちはいないことになってるんだよ、と笑っていた。

 確かにな。

 世界は右利きの人間用に用意されたものだ。おれだって、左利きの人間の苦労なんて、その時までは考えもしなかったんだから。

 そうやって未来について考えれば考えるほど、惨めだった。

 精神の回復には金が要る。

 美味いものを食べるとか、カラオケで叫ぶとか、酒を飲むとか、煙草を吸うとか、欲しかったものを買い漁るとか。兎にも角にも金が要る。金がないと、そういう発散すらままならない。

 楽器をやるなんて、それとはケタ違いに金がかかる。

 それでも、自分にしか作れない音楽があるんだと、そういう妄想に縋って生きていた。

 ある日、久々にギターを触ろうとしたが、それがどこにも無いことに気が付いた。

 生活費の足しにするために売り払ったらしい。

 怒りすら湧かなかった。ただ、意識が遠のいた。

 転がり落ちるのは一瞬だった。

 夜の街を遊び歩き、大酒を飲み酔いつぶれた。

 タバコを一日に何十本も消費した。

 何十人もの名前も知らぬ男と寝た。

 しかし、だからどうということはない。そのどれも、音楽を創るという行為の代わりにはなってくれなかった。

 そして、金を借りた。

 一度借金をするという行為のハードルが下がると、際限がなかった。

 当然、借金をした時に、一度同じギターを買い直したが、その頃にはもう、どういうわけか何かを生み出す気力も楽しさも無かった。

 眠れぬ日々が続いた。

 会社にほぼ毎日のように遅刻した。

 当然クビになった。

 収入が零になって、支出が増え続けた。

 借金は雪だるま式に膨れ上がった。借金は裕に百五十万円を超えていた。両親に借金がばれた時は、随分と怒鳴られた。それ以降、狭い部屋の隅で、求職活動もせずに寝ていれば、舌打ちやため息が降ってくる。入眠障害と中途覚醒が、大庭の下瞼に濃い隈を刻んだ。

 辛うじて繋がりのある人たちから、精神科に行くことを勧められたけれど、その金すら、まともな手段では捻出できなかった。

 暴力を振るわれたことは一度もなかった。兄弟同士の掴み合いのケンカはあったけれど、結局笑いながら、粗末な食事を一緒に貪るくらいには、仲は良かった。

 それでも、やっぱり、家族でさえ、労わり、慈しんではくれなかった。

 誰も、心の底から愛してはくれなかった。

 久々に外出した時、ほとんど無意識に、黄色い点字ブロックを超え、線路へと飛び出していた。

 何も考えていなかったからなのだろう。幸か不幸か、睦は停車寸前の快速電車に飛び込み、足を骨折した。

 その時、付き添いだと言って、黒田が現れたのだった。

 生き延びてしまった。

 失うものが、何もなくなった。

 それなら、最後ぐらい、なるべく迷惑かけてから、死んでやろうかなとさえ、思ってしまった。

 惨めな、身勝手な、みみっちい復讐。

 そんなものさえ、彼は背負うと言う。

 ─そんなのずるいよ。

 何度ぼやいたか分からない。

 ずるいよ、黒田くん。おれは、おれたちは、何も持っていなかった。

 金を用意し、居場所を用意し、仕事を用意し、ずっと心のどこかで渇望していた言葉をくれた。

 自分の音楽を、言葉を、誰かが聞いてくれるということが、こんなにも嬉しいなんて知らなかったんだ。そんなことをされたら、誰だって恩に報いたいと思う。借りがあるなら、返したいと思う。当たり前だろ、そんなの。

 人間とは不思議なもので、何かしてもらうより、してあげるほうが好きなんだ。

 そうしないと、欲しいものが手に入らないから。

 感謝が欲しい。

 承認が欲しい。

 信頼が欲しい。

 愛情が欲しい。

 それらはタダで手に入るわけじゃない。わかってる。そんなこと、三才児だってわかってる。だから代わりに何かを差し出して、赦されようとする。

 ここに集まった人間は、みんなそうだったんだ。

 最も辛い時に、誰もが見て見ぬふりをした。

 たった一人、黒田だけが、手を差しのべてくれた。

 少し後になってから、黒田が動かす金の額を知って、腰を抜かしそうになった。自分が老人になるまで身を粉にして働いても、とても稼げない様な金額だった。

 それは、あまりにも、大きな借りだった。それもまた全て黒田の計算のうちで、その罪悪感や恩義や負い目を利用されていることは理解していた。

 けれど、そんなことすらどうでもよかった。

 たかが金、されど金。金があるだけで、くだらないことに神経をすり減らさずに済む。

 そうやって、生活を保証されて、気がついてしまった。

 結局、一番の苦しみが無くなったら、次の苦しみがやってくる。

 どれだけ金を使い込んでも、満たされることはない。ただ一瞬、快楽で頭がとぶだけ。酒や煙草やセックスとさほど変わらない。

 その瞬間の幸福とは麻薬に近く、幻想から覚めた瞬間に、次の麻酔を欲してしまう。この胸の穴を、埋めてほしくて。

 この渇望は、借金と良く似ている。子供のころに愛されなかったということが、大人になってから、莫大な利子を上乗せされた飢えになる。そして、金は金でしか、愛は愛でしか穴埋めできない。

『カナリア』にはそういうを背負った人間しかいないと言っても過言ではないが、その最たる者が春香だった。

 時折彼女と話していると、すぐに分かる。彼女もまた、両親の用意したレールを歩かなければならなかった人間だと。その為に、年相応の遊びも、友人も、恋心も、青春の全てを捨てなければならなかったのだと。

 失ったはずの、女としての喜びに、黒田が火をつけた。

 期待してしまうのだろう。その姿が、不器用で、少し眩しいとさえ思った。

 そりゃあ惚れるよ。

 ずっと頑張り続けて、僅かに上げた助けを求める声も、うまく届かなくて。

 そこに足らされた一滴の蜜の味が、一体どれほど甘かったことか。

 彼女が思う程、黒田は人間ではないことはよく分かっていた。

 数度邪魔した部屋は大抵薄暗く、本と酒が散乱していて。

 普段黒田は巧妙に自分の腹を隠しているが、一度蓋を開ければ、暴飲、偏食、浪費、高慢、おまけに情緒不安定ときた。

 そこだけ切り取って見たら、本当に最低な男だ。愉快な程に最低だ。

 ところが、そういう男に限って口が上手い。

 春香はある意味で黒田に誑かされているのかもしれない。

 あの夢見がちな乙女そのものの、春香が黒田の本当の生活を知ったら卒倒するだろうな、と思った。だから、それとなく「やめておけ」と言ったのだけれど、まぁ、恋というのは厄介で、誰かに止められれば止められるほど想いは燃え上がる。大庭だって、その気持ちが分からないわけではない。だから心のどこかで無理だろうと諦め、本気で止めはしなかった。

 狡い立場だ。

 結果、春香は案の定黒田の逆鱗に触れた。

 日頃の会話から、薄々感じてはいたのだ。彼女は、共感が下手だった。他人の表情を読み取り、距離を測るのが、不得手だった。

 それが、青春を引き剥がされたことによって引き起こされた性質なのか、それとも元々彼女が持っていた性質なのかはわからない。

 だが、黒田が愛してやまない物語を、彼女が恐らくは無自覚に軽んじていたのは、明らかだった。

 彼女はいつしか、黒田を自分の理想像に当てはめようと躍起になった。

 崇拝とは身勝手なものだ。その人の欠点が許せなくなる。自分で勝手に理想像を作ってしまう。極め付きは、自分が勝手に作り上げた理想像にそぐわないことで、本人を責めてしまう。

 そうやって破滅した人たちを、たくさん見てきた。

 ─まぁ、要はさ、みんなそれぞれ古傷を背負ってんだよな。

 辛いのはお前だけじゃないって、言われるけれど、おれの辛さとお前の辛さは関係ねえし、恵まれない紛争地域の子供がいるのなら、家のある子どもは全員幸福なのかって話になってしまう。

 みんなえらいよ。生きてるだけで。それだけで充分だよ。心の底からそう思う。

 だって仕様がねぇじゃん。

 こんな、理不尽な世界で、やってらんねぇよ。生まれた時から全部が決まってるわけじゃないけど、やっぱりさ、自分の努力だけではどうにもならないものだってあるだろ。

 金がなくちゃどうにもならないものがある。金があってもどうにもならないものもある。

 どんな救いからも、溢れてしまう人がいる。

 もう、なにもかもが遅すぎた。

 ただ、この苦しみから逃れたくて。

 大庭は、スーツのポケットに入れた、『悪魔のいる天国』を眺めた。

 相変わらず、生意気なくらい、粋な物を寄越すなと思う。

 確かに、天国のような場所にいても、退屈になるだけなのかもしれない。それにしたって、死ぬ直前の人間にこれを渡すなんて、いかれている。可笑しい。大庭は肩を震わせた。

 本好きには怒られるだろうが、花札を栞代わりにした。この花札もまた、黒田から誕生日に贈られたものだった。

 黒田に問われた気がした。

「君は、死んだ先に新たな牢獄があったとしても、死を選ぶかい」

 いいよ。黒田くん。それでもいい。もう、楽になりたかった。ただ、全てを投げ出して、この場所から逃げ出せるなら。

 ─まぁ、最期くらい、やっぱり人の役に立ちたいしさ。

 自分の最期が、黒田の思い描くものに花を添えることができるなら、惜しくはない。

 通勤するサラリーマンの皆様には、大変ご迷惑おかけすることになるだろうが、おれだって、散々貪られたんだ。痛み分けとしようじゃないか。今日くらい、全部おれのせいにして、家で休んだらいい。

 しんどかったなぁ。

 それでも、最後の数年だけは、本当に、嘘偽りなく楽しかった。きっと、もっと早く出会えていたら、結果は違っていたのかもしれない。

 電車の通過を知らせる、刺のないアナウンスがホームに響く。

 今度は失敗しない。電光掲示板に浮かぶ、電車の通過を知らせる文字列。

 ああ、これでやっと。

 身体が重力を失うようだ。

 眩い光に身体が包まれる。

 嗚呼、眠る直前とは、どうしてこんなにも幸せなんだろう。

「ありがとう、黒田くん。楽しかったよ。深谷くんに、よろしく」


 いよいよ新学期だ。自分と同じように、新しい人生の階段を登る人達が、駅の中を行進している。あまりの人口密度に、眩暈がしそうだった。

 桂月は、くっと顎を上げた。

 数ヶ月前と違う目的地を、間違わぬようにと、電光掲示板で行き先を確認する。

「○○線○○駅にて発生した人身事故のため─」

 ついてないな、初日なのに。

 目に飛び込んできた文字列に、桂月は溜息をついた。運転再開の見込みが立っていないことを、繰り返し駅員が謝罪している。

 この分では、登校時間に間に合わないかもしれない。階段にも既に人が溢れかえっているが、今更戻るにも、人混みを掻き分けて歩くのは億劫だ。

 桂月はスマートフォンの画面を撫でた。

「なんでこんな日に人身事故とか」

「電車に飛び込むやつって本当に想像力が無いわ」

「人身事故ふざけんな」

「世の中に迷惑かけるな」

「死ぬなら一人で勝手に死ね」

 タイムラインに次々と飛び込んでくる罵詈雑言。その中に、ライブ映像がある。

 数十人、スマートフォンのカメラをホームへ向けて構えている。彼らのうちの誰かが、配信しているのだろう。

 不謹慎だなとは思いながら、桂月はホームを盗み見た。

 最初に目に入ったのは、千切れた腕だった。

 動物が、牙を剥き出しているようなそれが、生まれて初めて目にしたはずなのに、人間の肋骨だと分かってしまう。

 本物の、死体。

 そして、そのばらばらな身体が、男性のものだと気がついた。

 あれ、この人、どこかで。

 視界の端で、白い花びらがちらちらと舞った。

 馨しい花の香りがした。

 瞬間、桂月はその場にへたり込んだ。何故だか、時折通った花屋の店主の青年の顔が、鮮烈に思い浮かんだのだ。

『この魂をKに捧ぐ』

 黄色い点字ブロックの上に残された大きな花束。その中から、手書きのカードが覗いていた。

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魔術師の秘蜜 犬養創 @retsej00

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