第28幕 Iris

 君にとって死とはなんだろう。

 闘い勝利すべき敵だろうか。受け入れなければいけない運命だろうか。それとも、地獄の淵で君の肩を抱く友人だろうか。

 古今東西、物語の中ですら不死者の望みは、完全な死と相場が決まっているし、死を求めるということ自体は、存外に生き物の本能なんじゃないか、と僕は思う。

 君は、片足で跳ねる土鳩を見たことが有るだろうか。破れた翅で舞う大水青を見たことが有るだろうか。

 僕には、彼らが死を待っているように見えた。

 僕は何度かそういう生き物を自分の手で殺したことがある。彼らのことを、僕は心底可哀想だと思った。だから、僕の手で死を早めた。できる限り苦痛を感じないように、細心の注意を払い、その命が尽きる様を見届けた。

 僕は思ったよ。

 もしも、彼らに最後の最後まで、深い愛に包まれて逝ける場所があったのなら、あんなにも憐れな姿になったとしても、生きていくのも悪くは無かったんだろう。

 でも、彼らには、そんな安らぎは与えられない。その最期は不必要に長引いて、ただでさえ終わりに向かおうとした傷だらけの身体を、啄まれ、千切られ、潰される。

 君たちは、そういう存在なんだと思う。

 誰だって本当は知っているはずだ。

 死より酷い痛みがあるってことくらい。

 人から何を奪ったら、僕らに共感してくれるんだろう。眼球、手、足、声、耳、生殖器─例えばそうやって順番に奪われたとして、人はいつまで生きていたいと思うのだろう。

 その優先順位に、優劣はあるんだろうか。

 人は自分の苦痛しか知れないから、抱えた苦痛を軽んじられると、悲しくなる。

 誰だってそうだろう。

「皆辛いんだよ」なんて、「君の苦痛は取るに足らないものなんだ」と言われてるようなものじゃないか。

 誰にだって癒えないきずがある。幸か不幸か、その創は血飛沫をあげたりしないので、無かったことにされてしまい易い。

 僕らの悲しみは、僕らの痛みは、僕らの苦しみは、けして見えはしない。

 けれど、僕にはわかる、君たちの額にあるカインのしるしが。

 僕らの創は確かに存在している。

 君たちはよく頑張った。よく頑張ったよ。辛かったろう。生きることは、辛かっただろう。生きることは、痛かっただろう。ただ生きることにすら、僕らは力を使う。擦り減る。

 もう、終わりにしよう。この監獄から旅立とう。

 死は逃避などではないよ。君たちが今まで、誰にも気づかれず、必死に、静かに、ある時は六畳間で、ある時は組織の中で、涙を押し殺して笑い、耐えたことが戦いであると言えるように、僕らが死を選ぶという行為は、逃避ではなく、戦いの果ての決断だ。

 自殺とは最後の自己保存の手段だ。僕はその選択肢を用意しただけだ。そして、君たちはそれを選んだというだけにすぎない。なにも恐れることはない、君は良心を咎める必要はないんだ。

 それでももし、その選択を後ろめたく思うのなら、僕のせいにしたってかまわない。きっと、兄弟でないものの目には、僕が君を洗脳し、自殺という帰結に導いたように見えるだろう。別にそれだってかまわないんだ。もう僕らにとっては、自分の魂のことだけが問題で、どうせ分かり合えもしない人間には、説明してやる義理もないのだから。

 薪がなければ火はつかないように、君の内側にがなければ、君はこんなにも死に恋い焦がれることはない。

 君たちが、間違っているはずがない。君の愛したものを否定した奴らが、君の努力を嗤った奴らが、正しいはずがないじゃないか。君だって、本当はわかっていたんだろう。狂っているのは、この世界のほうだった。僕らは、間違っていなかったんだと。君たちはずっと、本当の自分の姿を知らなかっただけなんだ。けれど、君たちは今、目を覚ました。

 君は、よく頑張ったよ。自分の力ではどうにもならないものを、補おうとして、吐きながら、泣きながら、それでも歯を食いしばって地を這い生きてきた。

 僕は、君がある日は泣きながら、ある日は自傷しながら、ある日は酒に呑まれながら、それを隠していたことを知っている。

 ここにいる者が皆、僕は好きだ。心の底から、尊敬している。何人かこの場所を去ってしまった者もいるけれど、だからこそ、こうして君たちがここまで付いてきてくれたのは、本当に喜ばしいことだ。

 君たちが深淵に導かれてから、時が経った。どうだった?やはり、僕らの帰る場所は最初から決まっていただろう。

 結局のところ、君を本当の意味で理解し、受け入れてくれるのは、君がかつて失った魂の断片だけだった。君を慰めてくれたのは、いつだって死そのものだった。

 死は君に大きな力をくれる。

 明日死ぬことができるという考えは、君の支柱となり、極限まで悲しみに溺れた君の魂を、零にしてくれる。

 もし、君が、自分の苦痛を取るに足らないと思うなら、僕はそれを否定しよう。何度でも言うよ、苦痛の比較は無意味だ。あらゆる現象の比較は、条件を揃えねばならない。

 つまりね、君にとっての頭痛と、誰かにとっての腹痛とをどちらがより苦しいかと比べるのと同じように無意味なんだよ。僕らは、等しく苦しかったのだから。今この時君が泣いている、その事実だけで、十分なんだ。

 君たちはよく頑張った。必死に生きた。十分に購った。十分に償った。十分過ぎる程に苦しんだ。君たちの死への憧れは、間違ってなどいない。それは救いを求める切実な悲鳴だ。魂の断末魔だ。もう、君たちは助かるべきだ。僕がそれを保証しよう。君たちは狂ってなどいない。

 しかし、まだ最後にやるべきことがある。僕たちには最後の使命がある。それは何か。

 それは、君自身の魂に従うことだ。今まで押し殺してきた、君の魂の慟哭に耳を傾け、その切実な願いと祈りを、君の手で成してやることだ。

 吹き出した悲鳴が凄惨であればあるほど、僕は君を憐れみ、慈しむだろう。君の悲しみは、それほどまでに深かったのだから。

 吊るすも殺すも嬲るも、君の思うままだ。自分の魂の欲するところを成すといい。それが君の魂の在るところ、君の悲鳴が、慟哭が、やっと外に出ることができるのだ。

 君たちはよく耐えた。

 えらかったよ、本当にえらかったよ。

 よくここまで闘ってきた。

 君たちは統計上の数字ではなく、一人の人間として知らしめられるだろう。それによって凌辱も恥辱もありえるだろう。しかし、それを悲しむ必要はない。君たちは死んで無になるのだから。幸福への焦燥も、不幸への回帰も、もはや全て無くなるのだから。君は君の意思で死を選んだのだ。その決断に心からの敬意を贈ろう。

 悲しみだけが人生だ。苦しみだけが人生だ。

 君の悲しみが、君を君たらしめる。

 どんな美しいものも、悲しみなしには成り立たない。

 悲愴なき物語は物語にならない。

 悲しみの味を知るものにしか、美しいものは創り出せない。

 幸せな芸術家なんてのはいない、それは君達が一番よく分かっていることだろう。

 きっと、それすら超えていかねばならないのだろう。けれど、もう、何もかもが遅かった。

 僕らはとうに壊れてしまった。十年、二十年と、大切な場所を削られ、砕かれ、風化した。自分の魂の断片が、あまりにも粉々に砕け散って、一体何処にいってしまったのかすら、分からなくなってしまった。

 其れほどまでに摩耗し、僕らの魂は形が変わってしまった。

 僕らに許された場所は減り続けることはあっても増えることはない。

 もう、いいんだ。何もかも。

 すべてが手遅れだった。

 僕らにはこの号哭を吐き出す術がなかった。

 僕らには狂気が足りなかった。

 今は、君たち自身のことだけを、受けとるべきだ。

 帰ろう、僕らの故郷へ。

 大丈夫、死と眠りは兄弟だろう。なにも恐れることはない。君たちはただ、手にした贈り物を、受け取るだけでいい。

 僕が、君の最期を看取るよ。それがどんな最期だろうと。どんな罪の告白だろうと。

 だから、安心していい。

 辛かったね。

 痛かったね。

 苦しかったね。

 本当に、よく頑張ったよ。

 君は、この、果てしない闘いに勝利したんだ。

 これは僕からの祝福だ。

 僕たちはカナリア。毒を吸い、誰よりも先に苦しみ踠き、死に絶えるカナリアだ。圧倒的な数の前には何を成すこともできない、弱い存在だ。

 君たちの断末魔を聴かせてくれ。悲鳴をこの世界に響かせよう。

 僕たちの遠吠えは犬笛になる。荒野を彷徨う可哀想な兄弟たちを、帰るべき故郷へと導いてくれるだろう。

 きっと、今日という日は、美しい。

 もう、朝日を恐れなくていいんだ。

 君がもう二度と目覚めなくていいように、お呪いをかけてあげるよ。

 好きなだけ、人を呪うといい。

 好きなだけ泣くといい。

 今まで圧し殺した分だけ。

 大丈夫、大丈夫だよ。

 もはや誰も君を怒りはしない。誰も君を咎めはしない。僕が、君の身代わりになろう。

 全部僕に任せていい。君たちは安心して、ただ一度、羽を広げればいいんだ。

 誓って、君の命を無駄にはしない。君の魂を、無駄になどしない。

 どうか、最期に、もう一度だけ僕に力を貸して。これは僕だけでは成し得ない。君の力が、不可欠なんだよ。

 どうか、君の涙を見せて。慟哭を聞かせて。必ず、この世界に、創痕を残してみせるから。

 僕に、君の美しい最期を、見届けさせてほしい。

 おめでとう。

 やっと、今日という日を迎えることができたね。

 もう、大丈夫だよ。君たちは眠りにつくことができる。

 時はきた。愛する同胞に告ぐ。

 さあ、運べ。死の馨香を。

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