ひろがる

『海辺でデートしようよ』

 高校を卒業する直前の日曜日。誘ってきたのは薫の方だった。その時すでに離れた町へ引っ越していた彼女と合流するために、バイクも持っていなければ、自転車に二人乗りする青春野郎になる勇気もなかった僕は、彼女の指定したビーチへ各自現地集合という妙な提案をした。薫は笑って賛成してくれた。

 砂浜でも、僕は大して話をふらなかった。彼女がほとんど一方的に、大学の事や、この間聞いた音楽の話などをしていた。僕は相槌を打ちながら、彼女と同じ歩幅で波打ち際を歩くのに苦戦していた。

 もちろん、昼食はサンドウィッチ。美味かった。腹の底から美味かった。あの頃は何の憂いもなく、いくらでも食っていられた。そうすると薫も猫のように笑うのだ。

 僕は木切れを拾って、砂浜に下手な落書きをした。薫も隣に座って同じ絵を描いた。馬鹿みたいに、へたくそで。子どもみたいだねって、どちらも考えて、どちらも言わないで。日が暮れるまでそうしていた。夕陽は背中から照らしていた。

 やっと、少しは恋人らしいことを出来たかな。

 帰りの電車でずっとそんな事を考えた。

 あの日の落書きを、公園の公衆トイレの壁に書いておいた。それから傘を差した下野に続く道々、塀や電柱にも同じものを書いた。地下街の店の入り口にも書いて、老人に見つかりそうになったから、ボールを投げつけた。スマホは薫のマンションに置いてきたが、地図で公園の位置を示しておいた。

 だから薫――掃除屋がいずれこの場所を突き止めることは、わかりきっていた。

「開けてください! 誰かいるんでしょう」

 鉄のドアを叩く男の声。やけに切羽詰まった声だが、老人はどうするのだろう。

 万代老人は僕の方を見て、責めるでもなく、罵るでもなく、ただ面倒だというような顔をして、ウォンの方へ振り向いた。

「しょうがないですねえ。開けてやる義理もありませんが、あんまりうるさいようなら食べてしまいましょうか」

 ウォンは厚い唇でにやりと笑い、頷いた。明らかに慣れたやり取りだ。

 外の男はなおも力を込めて、ガンガンと鉄のドアを叩いている。

「千恵! 千恵! お父さんだよ! ここにいるんだろう?」

 哀れな、涙交じりの声。テレビで見た下野千恵の父親が脳裏によぎった。まさか、なんでまたこんな人が。老人とウォンも不思議な顔を見合わせている。

「やっとわかった、わかったんだよ、千恵。お前は本当はこうしたかったんだろう? ほら、お父さんも同じになったから……どうか、ここに入れてくれ!」

「開けてやりなさい、ウォン君」

 老人の命令に、ウォンが怪訝な表情をした。

「掃除屋め、なかなか性格の悪い組織になったもんです。まぁいいでしょう。受けて立ちますよ。何をしているのですウォン君。入れてやれと言っているのです」

「お、おお」

 ウォンが飛んで行ってドアを開けると、短い髪を振り乱した痩せ型の男が転がり込んできた。男はレンズの傷ついた眼鏡で店の中を見渡し、老人と、ウォンと、それから僕の顔を一つ一つ見比べて、娘がそこにいないことに失望しながらも言葉を吐き出した。

「あなた方は、千恵の仲間ですか。だったら千恵に伝えてください。お父さんも仲間だよと。ほら、見てください。私もこうなったんですよ!」

 狂気に満ちた瞳。ポケットから取り出したのはゴルフボール。

 ああ、この人も血縁だ。

「出ておいで、千恵……。お父さんと一緒にいよう。もう何も怖くはないんだよ……」

 ボールの中でもひと際硬いゴルフボールをボールのボリボリ噛み砕いて、男は熱い涙を零した。

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