第12話    命

「もしもし、あ、あの、千秋さん? 来週の土曜なんだけど……。もし、もし予定とかなかったら、一緒にご飯でもどうかな……? なんて思ってるんだけど……」康介は左手に持ったスマートフォンを、ガチガチに握りながら言った。

「ん? 珍しいね、あんたがあたしを飯に誘うなんて。つか、あんたと二人っきりでってこと?」電話の向こうで、千秋が彼女らしい、抑揚のない声で言った。

「う、うん、そうです。俺と二人で……。あの、ネットで見つけたんだけど、すごくお洒落で、おいしいって評判のイタリアンがあって……。だから、あの、どうかなって……」

「イタリアンかぁ……。あたし、こう見えて胃袋デカいからさ、なんかもっと、ガッツリ食べられる方がいいかな? 別にお洒落とかじゃなくていいから……。あっ、中華のビュッフェなんてどう? あたし、いいとこ知ってるよ?」

「えっ? じゃぁ、お誘いはオッケーなの?」

「うん、いいよ。来週の土曜はまるまる空いてるから。どうする? どっかで待ち合わせる?」

「い、いや、俺が迎えに行くよ! じゃぁ時間は……」

 ミステリアスムーンが初ライブを終えてから数日後、康介は千秋をデートに誘った。


 高校時代、入学して間もなく校内で千秋を見かけてから、康介は彼女に好意を抱いていた。長くてサラサラの黒髪、切れ長の目にシャープな顔立ち、そして簡単に人を寄せ付けなさそうな雰囲気が、彼の心に染み込んだ。

「あのさぁ、3年の先輩でさ、ちょっと背が高くて黒髪サラサラで、すげぇ美人な女の人、知らない? たぶん、A組だと思うんだけど……」康介は、三年生に兄がいるという同級生に千秋のことを聞いた。

「えっ、なんだよそれ。そんなんじゃわかんねぇよ。もっと情報ねぇの?」

「そうだよなぁ、それじゃわかんねぇよなぁ……。まぁ、しいて言えば、なんとなく近寄り難い感じの人」

「は? 余計わかんねぇよ! まぁいいや。とりあえず、あとでウチの兄貴に聞いといてやるよ。だけど、その情報量じゃ期待なんて出来ねぇからな。つか、その女の人がどうしたんだ? まさか……」

「そう、惚れた!」康介は、照れることもなく、親指を立てながら言った。

 そして放課後になり、康介が下駄箱で靴を履き替えていると、先程の同級生が廊下の向こうから叫びながら走って来た。「おーい、康介ぇ! ちょっと待てよぉ! さっき言ってた女の人、誰だかわかったぞぉ!」

 靴を履いていた手を止め、振り返った康介は、その同級生に向かって人差し指を唇に当てた。「バカ! しっ! 声がでけぇよ!」慌てて辺りを見回す。

「え? そうか? 声でかいか? まぁいいや。そんなことより、その女の人、誰だかわかったっぞ!」同級生は呼吸を整えると、康介の肩に手を置いて話を続けた。「お前の言ってた情報を兄貴に言ったらさ、なんでか知んねぇけどすぐわかったよ。三年なら誰でも知ってるみたい。とりあえず、名前は相沢千秋。学年で一番の秀才だってさ。そんで、これはあんまりいい情報じゃねぇけど、なんか嫌われ者みたいよ? 誰も相手にしてないんだってさ。話し掛けても必ず一言しか返さないし、自分からは話もしないんだって。そんで、誰も笑ったとこ見たことないらしいよ」

「えっ? マジ? それ、違う人なんじゃないの? 確かにまぁ、性格良さそうって感じじゃないけど、嫌われ者って……」

「でもさぁ、お前の情報言った瞬間、間髪入れずに答えてたからなぁ……。あっ、あと一つ忘れてた。なんか、金持ちボンボンらしい。そんで、ギターがめちゃくちゃ上手いんだって」

「えっ、ギター? すげぇ! なんか、あの人の雰囲気にぴったりじゃん。ギターかぁ、かっけぇな!」

「えっ、そっち? 普通は金持ちって方が気になるだろ? やっぱお前、変わってんな……」


 同級生からの情報を得た康介は、ギターをやっているという千秋に少しでも近づくために、自分も楽器を始めることにした。

 だが、今までの自分の人生で、テレビやラジオなどのメディアから流れて来るものくらいにしか音楽に興味のなかった康介は、楽器を始めるといっても何から手を付けていいのかわからなかった。

「なぁ姉ちゃん、俺さぁ、楽器始めようかと思ってんだけど……」康介は姉である真冬に相談してみることにした。

「なによ、唐突に。楽器って、バンドかなんかやるの?」

「いや、そうじゃないんだけど……。ちょっと、仲良くなりたいなって思ってるヤツがさ、ギターやってて……。ほら、趣味が合えば共通の話題とか出来たりするじゃん?」康介は目をキラキラさせながら言った。

「ふぅん、楽器ねぇ。で、なんの楽器をやりたいの?」

「そこなんだよ。あの人はギターやってるから俺もギターって思ったんだけど、なんかギターって難しそうじゃん? だからなんか、もっと手軽に、簡単に出来そうなそれらしい楽器ってないかなって思って姉ちゃんに聞いたのさ」

「わたしに言われてもねぇ。そうねぇ……、その人がギターをやってるんなら、ベースなんかいいんじゃないの? ギターより弦が少ない分、少しは簡単なんじゃないかな?」真冬はにっこり微笑むと、左手で頬杖をついて話を続けた。「で、あんたはその年上の女の人が好きなんだ」

「なっ!?」康介は絶句してしまった。なぜ姉はわかるのか。驚きと疑問が頭の中で渦を巻く。「なっ、何言ってんの? 何でそう思うのさ。別に俺は……。って言うか、そんな情報、俺は一言も言ってないぜ?」

「あんたはわかりやすいのよ」白い歯を見せると、真冬は話を繋いだ。「まず、わたしに相談っていう時点で不自然なこと。そして、わたしには今まで見せたこともないような、キラキラした目で話してたこと。あとは言葉の矛盾。仲良くなりたいヤツなんでしょ? 何でそのヤツって言葉があの人っていう言葉に変わっちゃうの? あんたは自分の態度と言葉でわたしに答えを教えてるの」

「まいったな……」康介はにやけ顔を作ると、頭を掻きながら言った。「何でかなぁ? その考察力だか推察力だか、何でそういうのは俺には備わってないんだろうね? 同じ姉弟なのに」

「まだあるわよ?」真冬は笑顔のまま話を続けた。「これはたぶん……、たぶんなんだけど、その人って、相沢千秋さんじゃない?」

「えぇぇぇぇっ? 何で? 何でわかるの?」康介は、後ろにのけぞってしまうほど驚いた。「姉ちゃんバケモノか?」

「あっはっはっは、バケモノってことはないでしょ? たぶんで言ったのが当たっただけなんだから。あのね、あんたと同じ高校で、あんたより年上で、ギターやってる女の子でしょ? かなり絞られて来るじゃない。わたしの知ってる人で、ちょうどそれに当てはまる人がいるの。言っとくけど、康介も千秋さんのことは知ってるはずだよ?」

「えっ? 俺が知ってるって……? 相沢千秋さんを?」

「そうだよ。ほら、ブン太をくれた女の子」

「えぇぇぇぇっ! そうなの? って言っても、うーん、覚えてないなぁ。だってそれ、俺がちっちゃい時のだろ? 忘れちゃったよ」

「まぁ、それもしょうがないか。だいぶ前の話だもんねぇ。でもよかったじゃない、共通点が見つかって」真冬はにっこり微笑むと、弟に親指を立てて見せた。


「へぇ、しろちゃんの弟なんだ」千秋は表情一つ変えることなく、康介を見つめながら言った。「あんまり似てないね。そんで、しろちゃんは元気にしてる?」

「はい、元気です。それから、ブン太も元気です。性格は相変わらずですけど……」

「あっはっは、やっぱり? あの犬、こんなちっちゃい時から性格悪かったんだよ?」千秋は両手を肩幅くらいに広げると、子犬の頃のブン太の大きさを示した。

『あれ? この人、今笑ってたじゃん。誰も笑ったとこ見たことないって言ってたのに……』

 ある日の放課後、高校から少し離れた公園で、康介は千秋と会っていた。

 駅へ向かう道を歩いていた千秋を偶然見かけた康介は、意を決して話し掛けてみたのである。季節は春を終え、夕暮れ時でも蒸し暑さを感じるくらいの気温になっている。

「千秋先輩って、あの……、すごくいい笑顔するんですね」康介は少し照れながら言った。

「えっ? なにそれ。そんなの初めて言われた」

「いや、あの、学校じゃ、誰も笑ったのを見たことないって聞いてたんで……」

「へぇ、あたしの評価って、学校じゃそんな感じなんだ。まぁ、学校じゃ別に楽しいことなんて一つもないしね」千秋はクールな顔付きに戻ると、抑揚のない声で言った。「で? 何の話?」

「あっ、えーっとぉ……」康介は少し口ごもると、鞄から一冊の本を取り出した。「あの、俺、ベース始めたんです。それでこの本を買って練習してるんですけど、いまいち意味が分からなくて……。千秋先輩、ギターが上手いって聞いたんで、あの、なんかアドバイスもらえたら……なんて……」

 康介が差し出した本は、”これから始めるエレキベース入門”というタイトルだった。表紙には茶色のエレキベースの写真が鎮座している。

「ふぅん、そうなんだ。で? 何がわからないって? この本、超わかりやすく書いてあるけど……」千秋は本をパラパラとめくり、つまらなさそうな顔で言った。

「とりあえず……、専門用語がわかんないんですよね。オルタネイト?とか、チョーキング?とか、ディストーション?とか。ちんぷんかんぷんです」

「はぁ? そんなの今覚えることじゃないよ」千秋はパラパラめくっていた本から康介に目線を移すと、呆れたような声で話を続けた。「ちゃんとやろうと思うなら、最初のページから一つずつ覚えるのが普通じゃない? そんな専門用語、出て来るのは後ろの方でしょ? それに楽器って、知識とか言葉でやるもんじゃないよ。感性を表現するための道具が楽器! 確かに、こういう本を読んで技術を身に付ける人も多いだろうけど、君の場合は耳の方から入った方がいいかもね。あたしと同じタイプだよ」

「耳? ですか?」

「そう、耳コピってやつね。で? どんな音楽が好きなの? 一番好きなアーティストは?」

「えーっと、一番っていうのはないですかねぇ……。とりあえずは、オリコンの上位の曲を聴いてみたりとか……、CMで流れてる曲を聴いてみたりとか……。あっ、ちょっと古いかもしんないけど、ブルーハーツはカッコいいと思います。CMでもちょくちょく流れてるし」

「オッケー。じゃぁ今日から音楽はブルーハーツだけを聴くこと。しかも低音のベースの部分だけね。最初のうちは一曲だけでいいから」

「えっ? ベースの部分だけって……。難しくないですか?」

「大丈夫。毎日意識して聴いてれば、自然とそういう耳が出来上がるよ。それで、そのベースラインを頭に叩き込んだら、同じ音をベースで出してみる。何回も繰り返してるうちに、指の動かし方もピックさばきも上達するから」

「はぁ、そんなもんなんですか?」

「ベースなんてそんなもんだよ。ちゃんとやってればすぐ弾けるようになるから。あっ、って言うかあたし、帰んなきゃ。このあとスタジオ予約してんだよね」

「えっ、スタジオ? カッコいいなぁ……。つか、俺もついて行っていいですか? 先輩のギター見てみたいし。いや、ダメだったらいいんですけど……」

「うーん、それはちょっとパスかな。何て言うか、あたしの中で一番お気に入りの時間だからさ……」千秋はちょっと困った顔をして見せた。

「そうですよね……。わかりました。じゃぁ、そのうちお願いします」

「そうね、考えとくよ。あっ、そうだ、ちょっと待って」千秋は鞄をまさぐると、小さな黄色い筒を康介に差し出した。「これ、君にあげるよ。ちゃんと練習するんだったら、きっと必要になるから」千秋は笑顔を見せると、軽く手を挙げ、駅の方へと歩いて行った。

 康介はその後姿を見送りながら、充実感で心が満たされていた。『なんだ、すごく話しやすい人じゃん。それにしても、あの笑顔、かわいいなぁ……』


 それからの康介は千秋に言われた通り、毎日ブルーハーツの曲をひたすら聴き続けた。彼女の言っていた通り、数日すると耳が慣れて来たようで、ベースラインが浮かび上がって聴き取れるようになっている。うまく聴き取れない部分も、その前後の音でなんとなくフレーズを構成出来るようになっていた。

 そして実際にベースで音を合わせてみる。最初のうちこそ音を一つ一つ、指一本で弦を押さえて探していたのだが、数を重ねて行くうちに、一つの音がフレーズに、そしてメロディになって行くのだった。それを繰り返して行くうちに、指の抑え方、ピックさばきなどが自然と身につき、自分でも知らないうちに、なんとなくベースが弾けるようになっていた。

 そして、左耳だけにヘッドフォンをし、CDプレーヤーで流した曲を聴きながら、右耳で自分の弾いたベースの音を聴く。この地道な作業を何日もひたすら続けた結果、康介はベース演奏の基礎となるものを手に入れることに成功した。

 ある日、ある程度上達した自分を誰かに見せたくてたまらなくなった康介は、自分の部屋で真冬に演奏を聴かせることにした。

「まぁ、まだ発展途上中だからさ、途中でつっかえちゃったりするかもしんないけど、とりあえず聴いてよ」康介はプレーヤーを操作しながら、ベッドに座っている真冬に向かって言った。隣にはなぜかブン太が座っている。

「だって、まだ始めて一か月も経ってないでしょ? 誰も期待なんかしてないわよ」

「いやいや、意外に上達してんだぜ? この前だって、難しいと思ってたフレーズが……。あっ、始まった!」

 プレーヤーからドラムのカウントと共に曲が流れて来た。とたんに康介がベースを持ち、演奏を始める。真冬にも馴染みのある、”終わらない歌”という曲だった。

 真冬は本当に期待していなかった。音楽のことはよくわからないが、楽器の中でも、弦楽器の演奏というのはかなりの技術がいるものだと思っていたし、習得するにもそれなりの期間が必要だと考えていた。しかし、今、目の前で康介が演奏している姿を見ていると、その考えに疑問を抱かざるを得なくなってしまった。

「あんたすごいじゃない! ちゃんと弾けてる!」真冬は素直な反応を口にした。

 だが康介はその声には反応せず、左手の指の動きに視線を預け、演奏に集中している。そのベースラインは思っていたよりもメロディアスなもので、心地よく素直に耳に入って来る。そのリズムの良い軽快なベースの音に、真冬はだんだんと心を惹かれて行った。

 今までに見たこともない、真剣な顔付きで演奏している康介を、真冬は温かい目で見ていた。そして同時に、何をやっても中途半端、集中力が持続しないから何事にも本気になれない。自分の中でそういう烙印を彼に押していた真冬は、心の中で反省するのだった。

「ふぅっ、いやぁ緊張した! どうよ? なかなかのもんだろ?」演奏を終えた康介は、真冬にドヤ顔を見せた。満足感がありありと伝わって来る。

「うん! ちゃんと弾けてた。ちょっと感動しちゃったよ。あんた、すごい頑張ったんだね。まさかこんな短期間でこんなに弾けるようになっちゃうなんて……」真冬は本当に感動していた。瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。

「おぃおぃおぃ、どんだけ涙腺緩いんだよ。こんなことで泣くか?普通。まぁ、今のは今までで一番いい出来だったからね。人に感動を与えちゃうのは当然かも」康介は舌をペロッと出すと、話を繋いだ。「でも、ちゃんとやればすぐ弾けるようになるって言ってたからなぁ。この期間でこのくらいって……、たぶん普通なんじゃないの? それにこの曲、たぶんブルーハーツの中でも簡単な方だと思うし」

「そんなことないでしょ。弦楽器って、そんな簡単には習得出来ないってイメージだよ? まぁ、わたしは触ったこともないからなんとも言えないけど……。ん? その指、どうしたの?」真冬は何気なく見た康介の左手の指に違和感を覚えた。指先になにか異物が張り付いているように見える。

「あぁ、これね」康介は左手の掌を真冬に向けながら言った。「ベースって弦が太いからさ、ちゃんと抑えないと変な音しか出ないんだよ。けっこう力いるんだぜ? だからすぐマメが出来ちゃってさ」

 康介の中指と人差し指、そして薬指は、指先が固いもので覆われていた。

「何それ? なんか塗ってるの?」

「そう。アロンアルファで固めてるんだ。こうしとけば、ほとんど痛みは感じないし、傷は保護されるし。そうそう、このアロンアルファ、千秋先輩がくれたんだ」

 康介は、帰り際に千秋がアロンアルファを渡してくれた経緯を話した。

「ふぅん、マメが出来ちゃうことを見越して渡してくれたんだ。千秋さんって、頭の回転が速い上に、優しいんだね。なかなかこんな気遣い、初対面の人には出来ないよ?」

「でしょ? すげぇ優しい人なんだよ。こうやってベースの弾き方だって教えてくれた訳だしさぁ。だけど……、なんか知んないけど、学校じゃちょっと浮いた存在らしいんだよね。まぁ、聞いた話だから確証はないんだけど……」

「えっ? 浮いた存在って……?」真冬は、意外な言葉に目を丸くした。

「うん……、嫌われ者なんだってさ。まぁ、俺にはそんなの全然関係ないけどね」康介は真冬ににっこり微笑むと、再びベースを弾き始めた。


 それからの数か月間、康介は毎日ベースを弾き続けた。

 真冬が思っていたように、何をやっても中途半端、集中力が持続しないから何事にも本気になれないタイプの康介だったが、千秋から手渡されたアロンアルファの効果は絶大だった。彼女の優しさに報いたい、彼女に認められる演奏をしたい、そして彼女と一緒にスタジオで演奏したい、そんな想いが彼を突き動かしていた。

 もうすでに彼の指先は固くなっている。マメが出来るというようなこともなくなっており、アロンアルファを使う必要もなくなっていた。そのことにより、弦を押さえる指先の繊細な感覚も備わった。なんとなくで弾いていたピックさばきも、正確な弦の位置と微妙な力加減を体が覚えた。リズムの速い曲でも難なく弾けるようになり、むしろスローテンポの曲では物足りないと感じるようになっていた。

 手応えを掴むまで一つの事を集中してやり切る。人が努力と呼ぶその行為に、康介は生まれて初めて好感を抱いた。そして同時に、自信に満ちている自分に気付くのだった。


「もしかして、あたしが通り掛かるの待ってたの?」千秋は相変わらず表情一つ変えることなく言った。

「あっ、はい。だって俺、先輩と連絡取れる方法ないから……」

 ある日の放課後、康介は例の公園近くで千秋が通り掛かるのを待っていた。

 どのくらい待ったのだろうか。あたりは暗くなりはじめ、ひぐらしが時折、まるで早く帰れと言っているかのように鳴いている。

「ふぅん。ま、確かにそうね。でも、今の時代じゃそういうのって、ストーカーっていうんじゃないの?」千秋は少し口元を緩めた。

「そ、そんなんじゃないですよ! ちゃんと用があるから待ってたんです!」

「あははは、ムキになんないでよ。軽い冗談じゃない。んで? 何の用?」

「って言うか、ずいぶん遅くまで学校にいたんですね。俺、今日は休みだったのかな?とか、もう帰っちゃったのかな?とか思って、もうちょっとで心が折れそうでした」康介は照れ笑いを浮かべながら言った。

「あぁ、ちょっと調べものしてた。ずっと図書室にいたよ。もうすぐテストでしょ?」

「図書室!? すげぇ! 俺、入ったことないですよ。って言うかあの部屋、誰でも入れるんですか?」

「当り前じゃない。今はテスト前だから結構人いるよ? って言うか、今日は何の用なの? あたし、そんなにヒマって訳でもないんだけど……。これでも一応受験生だからさ」

「あぁ、すいません。あの、これ……」康介はポケットからアロンアルファを取り出すと、千秋に差し出した。「これ、ホントに役に立ちました。ありがとうございました」

「ほぉ、新品で返すなんて、思ったより人間出来てるじゃない」千秋は無表情で受け取ると、言葉を繋いだ。「弦楽器やる人は、みんな最初に苦しむんだよね、指先。んで? 少しは弾けるようになったの?」

「はい! 先輩のアドバイスとアロンアルファのおかげで、それなりには弾けるようになりました」康介は親指を立てると、白い歯を見せながら言った。

「そっか、よかったじゃん。つぅか、弾き始めてどんくらいだっけ?」

「えっと……、四か月くらいですかね。あれから毎日欠かさず、最低でも一日に二時間は弾いてました」

「ほぉ、見かけによらず努力家なんだ。じゃぁ、もうブルーハーツあたりじゃ物足りなくなっちゃってるんじゃない?」

「そうですねぇ……、もうほとんどの曲を弾けるようになっちゃいました。最近は、友達に勧められたSAっていうバンドの曲に挑戦してるんですけど、ちょっと難しくて……。あっ、知ってます? SAって」

「うん、知ってる。だけどSAなんて、ずいぶんコアなとこ突いて来たね。って言うか、君はパンクが好きなの?」千秋は、自分のお気に入りのバンド名が出たことで、なんとなくだが、康介に対して親近感に近いものを感じた。

「えっ? パンク? ですか?」康介の頭に複数の疑問符が浮かぶ。

「ですか?って……。じゃぁ、ジャンルもわからないままバンドを選んでたってこと?」

「はぁ……。パンクっていう言葉は知ってますけど、どういうのがパンクっていうのかがいまいちあやふやで……。でも、ブルーハーツもSAもカッコいいですよね。あとはハイスタとか、海外だとグリーンデイとか……」

「あっはっはっは、やっぱり君、パンク好きなんじゃない。今言ったバンド全部、筋金入りのパンクバンドだよ? しかもSAに目を付けるなんて、なかなかセンスいいじゃん。SAのギタリストって、もともとはラフィンノーズっていうバンドにいたんだけど、そのラフィンノーズっていうバンドはその昔、カリスマ的な人気を誇ってて……」千秋は珍しく饒舌になっていた。

 自分の愛するジャンルの音楽に興味を持っている少年を目の前にしたことで、千秋の心には不思議な高揚感が生まれていた。それまでの生活の中で、彼女は誰かとパンクバンドについて話すということなど、ほぼ無いに等しかったのである。もしかしたら彼女の心には、パンクバンドや楽器の話を誰かとしたいという想いが溢れていたのかもしれない。それはきっと数年前、初恋の相手とバンドや楽器について語り合っていたことが要因なのだろう。

「それでですね……」康介は、パンクバンドの話が一段落した隙間に、この日の最大の目的を話し出した。「俺、まだ他の楽器と音を合わせるってやつをやったことがないんですよね。だから……先輩が嫌じゃなければ……、ぜひセッションしてもらえないかなぁと思ってて……」

「セッション?」千秋はアロンアルファを鞄にしまいながら話を続けた。「別にいいよ。んで? 何の曲やんの?」

「えっ?」康介は千秋の簡潔な答えに驚いた。「い、いいんですか? だってあの、前に聞いた時には、先輩の中で一番お気に入りの時間だからって言われたから……」

「あぁ、そんなこと言ってたかもね。けどほら、君、頑張ったじゃない? だからご褒美。んで? 何をやる?」

「あ、ありがとうございます! じゃぁえっと……」

 こうして康介はその数日後、スタジオで千秋と初めてのセッションをした。彼にとっては初めてのスタジオであり、また、そこで初めてアンプを通した音を奏でたのである。この経験は彼にとって、その後の彼の人生に於いての大きなアクセントとなった。


「そっかぁ、あれからもう7年も経つのかぁ……。早いね、時間が経つのって」千秋は流れて行く街の景色に目を預けながら言った。

 食事を終え、康介と千秋はドライブをしながら何気ない会話をしていた。真夏の空は青く濃く、目に入るものすべてをくっきりと浮かび上がらせている。

「そうですね。ホントあっという間ですよ。けど、例えばあの時、俺が千秋さんに出会ってなかったら……、きっと俺、楽器なんて始めてなかったんだろうな」康介は、短くなったセブンスターを揉み消しながらながら言った。

「あれっ? ちょっと待って。なんかおかしくない? あの時ってさ、あたしにベースやってるからアドバイスくれって言ってた気がするんだけど……」

「あれ? そうだっけ?」赤信号で車を停めた康介は、とぼけた仕草を見せながら話を続けた。「まぁあの、今更だから言うけど、ホントは俺ね、千秋さんと仲良くなりたくて楽器買ったんですよ。でも、買ったはいいけど、最初はホントに何やっていいかわかんなくて、ベースは部屋のオブジェ状態で……。きっとこのままお蔵入りなんだろうなって思ってた時に、たまたま千秋さんを見かけて……。そう、初めて喋った時ですよ、あの公園で」

「ふぅん、そうなんだ。じゃぁあれだ、あたしに惚れたから、あたしと同じ趣味を持ちたいから楽器をやろうと思ったんだ」

「なっ!?」康介は絶句した。「まいったな……。千秋さんって、ホントに直球しか投げないですよね。そういうのって、たぶんもうちょっとオブラートで包む感じとか、ほら、なんか遠回しにする感じとか……」

「信号青だよ」

「あっ、はい」その声で康介は車を発進させた。また再び景色が流れ出す。

「あの頃のあたしってさ……」相変わらず窓の外に視線を向けながら、千秋がゆっくりと話し出した。「ひどい性格してたよね。誰かと仲良くなろうなんて考え、これっぽっちもなかったし、それ以前に、人間っていう生き物をめんどくさいって思いながら生きてたしね。だからきっと、浮いた存在だったんだろうなぁ」

「そんなことないですよ。だって俺にちゃんとベース教えてくれたじゃないですか。それにあのアロンアルファだって……。あの時点で俺、かなりズキューンって来ちゃいましたよ? だからその後は……」

「あぁ、それね。それはタイミングが良かったんだよ」千秋は康介の言葉を遮ると、ラッキーストライクに火を点けながら言った。「あの少し前にちょっといろいろあってさ……、しろちゃん、あぁ、あんたのお姉ちゃんね。しろちゃんに会ってさ、いろいろ助けてもらったんだ。だから恩返しみたいなもんかな? それにブン太も世話になってるしね」

 千秋の心には、真冬の言葉によって生まれた感情が映し出されていた。

『――人を……認める……。そうすれば……空気になる……』


 それからしばらく、康介の車は真夏の国道を走り続けた。すれ違う車は夏の太陽を反射し、フロントガラスをキラキラさせながら道路に溶けて行く。目の前を遥か先まで続くアスファルトは、ゆらゆらと陽炎をまといながらシルエットと化して行く。

「それにしても、今日はすげぇ暑いっすね。こんな暑さで喜ぶのはタイちゃんくらいですよ」康介は、コンビニで買ったアイスコーヒーを一口飲むと、その容器を振りながらボヤいた。「あーあー、もう氷が解けちゃってる」

「確かに太陽君って、見るからに夏男だもんね。やっぱり暑いの好きなんだ」

「そうなんですよ。確かに夏生まれだからっていうのもあるんだろうけど、あそこまで行っちゃうと、もう変態の域ですね。最近はどうかわかんないけど、一人でもプールとか行っちゃうんですよね、あの人」

「あっはっはっは、一人でプール? いい大人が?」千秋は康介の方を向きながら白い歯を見せた。

 その笑顔に、康介は完全に魅了された。それまでの彼の記憶にはない、とても女性らしいお洒落な服装と、夏にぴったりの煌びやかなメイクをしていることが相重なって、千秋の笑顔は彼の知っているそれの何十倍も美しく見えた。

「やっぱり千秋さんって……」康介は背筋を伸ばすと、はにかみながらゆっくりと口を開いた。「やっぱり千秋さんって、すごくいい笑顔しますよね。あの、お世辞とかじゃなくって、なんて言うか……、言葉は変かもしんないけど、人を和ませる笑顔って言うか……、すごく魅力的です」

「それは……、もしかしてあたしを口説いてるのかな?」千秋は一瞬で真顔に戻ると、再びラッキーストライクに火を点けながら言った。

「なっ!?」康介は再び絶句した。「だから! 直球はダメですって! それに、口説いてるとかそういうのじゃなくて、ただあの、笑顔が魅力的だなって思っただけで、だからあの……」

「あの時さ……」千秋は康介の言葉を遮るように、まっすぐ前を向きながら話を繋いだ。「覚えてるかな……。初めてあんたと喋った時、ほら、学校の近くの公園でさ、今と同じようなこと言ってた。すごくいい笑顔するんですねって。あたしってさ、自分の笑顔を知らないんだよね。写真だってめったなことじゃ撮らないし、まさか鏡の前で独りで笑うのもおかしいでしょ? だからわかんないんだよね、笑顔をどうこう言われてもさ。だけどね……、あんたにはあの時、確か初めて言われたって言ったけど、実はあんたのお姉ちゃんが、やっぱりあたしに同じことを言ったんだ。いい笑顔だねって。だからあの時、あんたにはしろちゃんと同じ空気を感じたよ。まぁ、姉弟なんだから当たり前なんだけど、そういう意味じゃなくて、こいつはいい人間なんだろうなって。あたしはしろちゃんが好きだったからさ……」

 二人を乗せた車は、真夏の熱気を切り裂くように走り続けていた。はるか遠くの空には、その存在を大きく誇示するかのように、巨大な入道雲が空を支配し始めている。その抜けるような雲の白さと、どこまでも濃く青い空のコントラストは、心の不安や迷いを小さなものへと変えてくれるようだ。

「あの……」康介はセブンスターに火を点けると、大きく煙を吸い込み、ゆっくりと吐きながら言った。「俺は……、あの、直球は投げられないんで、変化球投げますね。あの……、俺にアネキと同じ空気を感じたってことは……、アネキが好きだったってことは、俺のことも好きですか……?」

 山沿いの大きなカーブを軽快に走り抜け、木々が折り重なった緑のトンネルを抜けた頃、千秋はゆっくりと口を開いた。「たぶんね……」


 それからの二人の交際は順調だった。

 ミステリアスムーンの活動に支障をきたすのを恐れた二人は、メンバーには内緒で付き合うことにしたのだが、そのこともまた、康介にとっては小さな幸せの一つだった。共有の秘密を持つ。そんなどこにでもあるような、カップルであれば当たり前にあるようなことでさえも、彼には一つの財産のように思えたのである。

 千秋にしても、音楽のことを同じ価値観、同じ方向で考えられる相手との交際は、今まで自分の中にあった影の部分に光が差し込むような、そんな解放感を感じるものだった。

 恋人同士が同じ趣味を持っているということは、やはり恋愛する上では大きなエッセンスとなるのだろう。音楽を通じてお互いを尊重し、お互いを切磋琢磨し合う。そしてそこにはお互いを思いやる優しささえ生まれる。二人にとっては、まさにこの上ない最高の相手との恋愛だった。

 だが数か月が経った頃、二人の間にある重大な問題が生まれる。


「ねぇ康介、あんたいくつだっけ?」

「はぁ? あのねぇ千秋さん、自分の彼氏の年齢を知らない人って、この世の中に何人いると思う?」康介はセブンスターに火を点けようとしていた手を止めると、丸くした目を千秋に向けながら言った。「来月で二十三ですよ!」

「そうだよねぇ……。あたしの二コ下なんだから当たり前だよね……」千秋はグラスのメロンソーダをストローでクルクルかき混ぜながら言った。

「何を言ってんですか? だいたい、先週、俺に誕生日に何欲しい?って聞いたばっかですよ? って言うか、今日はいったいどうしちゃったんですか? なんだかボーっとしちゃってるし」

「ん? あぁ、別にどうもしてないよ。ただちょっと、気分が乗んないかな……」

 二人はラウンジAに来ていた。受話器の向こう側の、なんとなく沈んだ声の千秋を心配した康介が飲み行こうと誘ったのだ。

「って言うか、なんでせっかく飲みに来たのにメロンソーダなの? 明日仕事って訳じゃないでしょ?」

「休みだよ。日曜まで働く訳ないでしょ?」千秋は相変わらずメロンソーダをクルクルかき混ぜている。「そうねぇ……、飲みたいのはやまやまなんだけど……」

「飲みたいなら飲めばいいのに。それとも、どっか具合でも悪いの?」

「具合悪いっていうか……」千秋はラッキーストライクを箱から取り出すと、ライターに手を伸ばした。だが突然、なにかを思い出したようにその動作をやめた。「具合は悪くないんだけど、体調は良くないかな……」

「は? また難しいことを言いますねぇ。俺にはその違いがあんまりわかんないんだけど……。あぁ、あれですか、月に一度の……」

「近からず遠からず……かな?」

 店内には、二人の他に客は一組だけだった。比較的静かな店内には、BGMの音だけが浮かび上がるように流れている。

「それは……どういう意味だろ? ちょっと男にはわかりにくい分野だし……」一口飲んだジントニックをテーブルに置くと、康介は腕を組んで首を傾げた。

「そうねぇ……。まぁ、あんたにはどうしたって話さなきゃならないことだから……」そう言うと千秋は、ラッキーストライクに火を点けながら話を繋いだ。「あたしね、子供が出来たっぽいの。昨日、検査薬で試したら陽性だっだ……」

「えっ!?」康介は絶句した。

 もう何度も千秋には絶句させられているのだが、今回ばかりはその度合いが大きく違った。急に鼓動が大きくなり、体中を流れる血液が全身に行き届くのが手に取るようにわかる。そして顔面に熱さを感じた康介は、胸に込み上げる嬉しさと喜びを言葉で表した。「マジで!? えっ、ホントにマジで? っていうか、俺が父親になるの? ホント? ホントにマジで? よっしゃー!!!」

 マスターと他の客達の視線を受けながら、康介は両腕を高々と上げてガッツポーズをした。

 その様子を見ながら、千秋は紫の煙を真上に吐いた。「確定した訳じゃないよ。まだ検査薬で陽性が出ただけ。病院も行ってないし……」

「えっ、そうなの? じゃぁ明日行こうよ! っていうか、タバコ吸っちゃダメじゃん!」そう言うと、康介は千秋の指からラッキーストライクを取り上げた。

 千秋は康介を一瞥いちべつすると、気怠そうに口を開いた。「あんたは……子供が欲しいの? それは……あたしと結婚することを意味するんだけど……」

「あのねぇ千秋さん、何を言ってんのさ。大好きな人の子供が欲しいって思うのは当たり前でしょ? それに俺は千秋さんとずっと一緒にいたいと思ってるし。子供が出来たんなら、結婚っていうのは当たり前の流れじゃん。まぁ、順番はちょっと逆になっちゃうけど……」康介は瞳を輝かせながら言った。

「そうね。その気持ちはあたしも嬉しく思う。あたしだって康介が好きだよ? だけどさ……、今はまだっていう……気持ちが結構……あるんだよね」千秋は、康介が取り上げたタバコを取り返すと、灰皿で揉み消しながら静かな声で言った。

「えっ? どうして? 何でそう思うの? まさか……、まさか堕ろすってこと?」

「それはまだわからない。だいたい、まだ出来たかどうか確定した訳じゃないんだし……。それにさ、バンドだってあるじゃん。あたしはね、このバンドに、ミステリアスムーンにあたしの情熱のほとんどを注いでるの。あたしの求める音に限りなく近いバンドなの。それを妊娠くらいで中途半端にしちゃうのは、それはあたしのポリシーに反するんだよね……」

「そんな……、妊娠くらいって……」康介は拳を固く握ると、その場で立ち上がって大声を出した。「そんなの、そんなのポリシーでもなんでもないよ! 命だよ? 新しい命が生まれるんだよ? 天秤に掛ける方がどうかしてるよ! たかがバンドだよ? いつでも出来るじゃん!」

 康介の気迫の籠った声は、さほど広くはない店内に響き渡った。当然、マスターも他の客達も康介に視線を向ける。

「あ、ごめんなさい……。ちょっと声がでかかった……」

「いや、いいよ。ちゃんと真剣に考えてくれてる証拠だと思うから……」千秋は両腕を組むと、俯きながら静かに話を繋いだ。「あたしだってさ、大好きな旦那と結婚して、子供を産んで、幸せに暮らしたいっていう、そんな普通の夢だってない訳じゃないんだよ? 女に生まれたんだから当然だよ。だけどね、あたしの芯は音楽なんだよ。音楽で固まってんだよ。あんたにはわかんないだろうけど、音楽があるから今のあたしがあるんだよ。あんたと繋がったのだって音楽だろ? あたしに音楽をやめろってことなんだよ、妊娠と出産っていうのは……」

「そんなの、そんなの親のわがままじゃん! 生まれて来る子供には人権なんてないってこと? 何度も言うけど命だよ? せっかく生まれて来る命なんだよ?」

「そんなのわかってるよ! 何も考えなかったとでも思ってるの? 結局は価値観の違いでしょ? やっぱりそんなもんだよね、人と人って……」

「そんな……」康介は価値観という言葉に心を折られてしまった。

 そんな康介の態度を見て、千秋の口調は少し和らいだ。「ねぇ康介。あたしはさ、ウチのボーカル、太陽君の、大平太陽のボーカルで勝負したいの。あたしが思うに、たぶんあたしの音楽人生で、この先太陽君を超えるボーカルには出会えないと思う。あんただってわかるでしょ? あの人は天才だよ。限りなく完璧に近いものを持ってる。だから、せっかく順調に走り出してるこの状態で、あたしだけがレールの外に出ることはしたくないんだ……。あたしだってホントは……」

 千秋の頬を一筋の光が流れた。そのキラキラと光る感情の流動体は、康介の心を刺激し、抗うことを一切妥協させた。

「もういいよ……」康介は、瞳に光るものを浮かべながら口を開いた。「千秋さんの気持ちはわかったよ。たぶん……俺とは、音楽に対する情熱が違うんだよね。俺はさ、楽しければいいって思ってた。最高のメンバーと、最高の音楽をやれてることに満足してたよ。バンドのこの先がどうなるかなんて、そんなビジョンも持ってないし、俺の腕じゃ楽器で飯食えるとも思ってないしね。確かに、俺もタイちゃんは天才だと思うよ。それに拓人さんだってハンパじゃないし、何より千秋さんのギターだって俺から見たら神様レベルだよ。価値観? 確かにレベルが違えばさ、情熱に差が出ちゃうのはしょうがないことなのかもしれない。だからね、俺はさ……、今見える現実の方が……大事に思えるんだ……」

 康介は静かに席を立ち、ゆっくり出口へと向かった。そして数歩進んだところで立ち止まると、背中越しに口を開いた。「病院は……いつ行くの? 俺も一緒に行くから……」

「ありがとう。でも……大丈夫。あんたがいるとさ、悲しみが倍増しちゃうじゃない? あんたの知らないうちに、全部一人でやれるから……」千秋はハンカチで涙を拭きながら、感情を滲ませた声で答えた。

「あの……、終わったらさ、全部終わったらさ……、またちゃんとやれるよね?」

「そう……だね……。それは変わらないことだから……」

 夜の街には、その運命に光を照らすように、半分の形の月が輝いていた。


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