第11話    乱  

「久し振りだね。いつ以来だっけ? それにしても珍しいじゃん、あたしに連絡くれるなんて」千秋は目の前に座っている夏妃に微笑むと、ラッキーストライクに火を点けた。

「アタシはそんなに久し振りでもないんだよ? 毎回ライブ行ってるしさ。でも、話すのは久し振りかもね。千秋さん、打ち上げとかめったに来ないもんね」夏妃は注文したエスプレッソに口をつけると、満面の笑顔で答えた。

 夏妃が帰国してから約二ヵ月後のある日、彼女は自身の中にある疑念を晴らすため、意を決して千秋と会うことにした。

 あの日以来、どうしても拭うことの出来なかったその疑問は、彼女の睡眠を妨げ、日常での集中力を失わせ、また、母である雪乃に目を向けることさえも憚らせたのだった。

「どうしたの? 夏妃、最近なんかおかしいよ? ぽかんと口開けてボーっとしてる時間多いしさぁ。なんか悪いものでも食べたの?」友人にこんな台詞まで言われてしまう程である。

 千秋の家から程近い、M駅のそばにあるカフェで待ち合わせた二人は、窓際の席で顔を合わせていた。

 店内は日曜日ということもあり、家族連れやカップル、大学生らしいグループなどで、ほとんどの席が埋まっている。

「それにしても、今日は特に寒いよね。これで天気が悪かったら、絶対雪になっちゃうんじゃない?」

「あっ、なんか今日の夕方から初雪になるかもなんてテレビで言ってたよ? 低気圧が近づいてるんだって」

「ヤバいなぁ。今日の夕方、ちょっと用があって出掛けなくちゃなんないのよねぇ。電車とか止まるくらい降ったらどうしよう?」千秋は窓の外の白い空を見つめながら、ため息のように呟いた。

「あっ、そういえばタイちゃんが言ってたけど、CD作るんでしょ? ミステリアスムーンの」

「あぁ、作るって言っても、売り物じゃなくてライブのバラ撒き用のやつね。だから一枚に三曲しか入ってないんだ。今はそのレコーディングの真っ最中」

「えっ? バラ撒きって……タダで配っちゃうの?」

「そ。バンドの知名度を上げるためにさ、そういうのもアリなんじゃない?ってあたしが提案したの」短くなったラッキーストライクを揉み消しながら千秋が言った。「そんなことより……どしたの?今日は。あたしと二人っきりなんて、なんかすごい不自然さを感じるんだけど……。先に言っとくけど、恋愛がらみの話はナシだからね? そういうの苦手なんだ」

「そんな……不自然って……。っていうか、全然そんなのじゃないから心配しなくていいよ。なんて言うか、もうちょっと現実的な話なんだよね……」夏妃は苦笑いを作ると、エスプレッソを一口飲んでから話を続けた。「えっとね、まぁ話はいくつかあるんだけど……。じゃぁ、最初はタイちゃんの話ね」

「えーっ、なんか恋愛の話っぽいなぁ。ホントに勘弁してよね」

「なんでそうなるの? 全然違うってば! なんか、みんな勘違いしてるよね。アタシとタイちゃんは全然そんなんじゃないんだってば。そうじゃなくって、バンドの話なの!」

「あっ、そうなの? てっきりあたしは、二人はそんな感じなんだと思ってたんだけど。そんで? 太陽君のどんな話?」千秋は意地悪そうな笑みを見せると、箱から二本目のラッキーストライクを取り出して火を点けた。

「うん。あのね、たぶん千秋さんも知ってると思うんだけど……、タイちゃんがうちの弟をミステリアスムーンに入れたいって話。それについて千秋さんはどうなのかなぁって」

「あぁ、その話ね。どうって言われても……別にあたしは何にもないよ。バンドのリーダーは太陽君な訳だし、音を変えるとか方向性を変えちゃうとか、そんなよっぽどのことじゃない限り、あたしは別に構わないけどね」千秋はタバコの煙をふぅっと吐きながら、淡々とした口調で言ってのけた。

 この千秋の台詞を、夏妃は意外に思った。千秋は自分達のことを恨んでいる。そんな晴人の言葉との矛盾が、夏妃にまた新たな疑問を与え、動揺させたのである。

「えっ? そうなんだぁ……。アタシはてっきり、千秋さんは反対なのかと……」

「どうして? なんでそう思うの? だって別に反対する理由なんてないじゃない。それとも夏妃さんは反対なの?」

「えっ? いや、そんなことはないけど……」動揺したまま口にした言葉を切り返され、夏妃は口ごもってしまった。

 千秋は自分と晴人のことをよく知っている。それどころか、晴人の姉かもしれない。そんな思いが心に溢れ、夏妃は上手く言葉を発することが出来なくなってしまったのである。

 そんな夏妃を見透かしたように、千秋が突然、核心に触れるような話を切り出した。「そう言えばさ……、夏妃さんはあたしのこと覚えてる?」

「えっ? あぁ、あの……、ちぃちゃん……でしょ? っていうか、あの……アタシは全然思い出せなかったんだけど、晴人が思い出して……」

「ふぅん、そうなんだ」千秋はラッキーストライクを揉み消しながら、無表情で答えた。「まぁ、なんにしろ、思い出してくれて嬉しいよ。でもあたしは夏妃さんを見て結構すぐにわかったけどね。全然変わんないよね、二人とも」

「えっ? そうかなぁ……。晴人はともかく、アタシはあんまり面影がないって言われるんだけど……」

「そんなことないよ。そのおっきい目とか喋り方とか、全然昔のまんまだよ」千秋はアイスティーを一口飲むと話を続けた。「でもホントはね……最初は全然別の人と勘違いしちゃったんだ。夏妃さんって、あたしの知ってる子にそっくりなんだよね。だから最初に見た時、ホントはその子だと思ったんだけど……まぁその子はちょっと不幸があって、もう会えない存在だからありえない話なんだけど。でもそれで余計に夏妃さんが気になっちゃってさ。そんで絶対に見たことある子だと思ってるところに今度は晴人君でしょ? もうそこでピンと来たよ。あぁ、なっちゃんとはる君だって」

「えっ、その……アタシにそっくりな子って……亡くなったの?」

「そ。白血病だって。まぁ、あたしもそこまで仲が良かった訳じゃないし、しばらく会ってなかったから詳しい話は知らないんだけど、なんか昔から体が弱かったんだって」

「そう……なんだ……」夏妃の頭の中では、言葉では言い表すことの出来ない感情と共に、ある確信に近い予感が生まれていた。

 自分にそっくりで、亡くなってしまった女の子。夏妃は一人の女性を思い浮かべずにはいられなかった。

「その子ってもしかして……、真冬さんっていうんじゃ……」

「うーん、わかんない。なんか、言われてみればそんな感じもするけど。あたし、苗字しか知らないのよね。とりあえず苗字は白石。あたしはしろちゃんって呼んでたけど……」

「じゃぁやっぱり……。それはアタシが知ってる真冬さんだよ」

「なんだ、夏妃さん、知り合いだったの? えっ? ちょっと待って? っていうことは、もしかして病気で亡くなった康介のお姉ちゃんって……。あっ、そうか……康介は白石っていうんだっけ。えーっ、なんだ、そうだったの……」千秋は、新しく咥えたタバコに火を点けようとしたまま、しばらく言葉を発することが出来なくなってしまった。「じゃぁ、太陽君の元カノの真冬さんがしろちゃんってことなの? なぁんだぁ、全然そんなの、考えたこともなかったよ……」

「そう……みたいだね……。でもどうして? なんかすごくない? なんか、ミステリアスムーンって、どっかしらでみんなが繋がってるみたい」夏妃は、二人が知り合いだったということに驚くのと同時に、人と人との不思議な繋がりに感動すら覚えた。

「昔ね、あたしん家で飼ってた犬が子供産んでさ、その中の一匹であたしがとってもお気に入りの子がいたんだけど、その子をしろちゃん家にあげたの。親同士が知り合いだったみたいでさ。あたしが小学生の時の話だけどね。それから月に何回か会うようになったんだよね。確かブン太って言ったかな? あの子」

「あぁ……ブン太……」


「なんだ、ブン太まで知ってるの? じゃぁ、しろちゃんとは結構仲良かったんだ。あの犬、性格悪いでしょ。まったく人に懐かないのよねぇ」

「えっ? あぁ、うん。そうでもないかな……?」夏妃は、ブン太に顔中を舐めまわされたことを思い出しながら言った。

「ふぅん、そうなんだ。あの犬が懐くくらい仲良かったんだ。あぁ、そっか。顔がそっくりだから、ブン太も勘違いしてたのかな?」

「いや、そうじゃなくて……。あのね、実はアタシ、真冬さんには一回も会ったことないの。いや、厳密に言ったら一回だけ会ったことあるのかな? それにブン太にも一回だけしか……」

「えーっ、そうなの? それなのにあの犬……。っていうか、えっ?そうなの? しろちゃんにも一回しか会ったことないんだぁ……」千秋は珍しいものを見るような目付きで夏妃を見つめた。

 千秋の頭の中には、真冬の優しい声と明るい笑顔がありありと映し出されていた。

 学生時代、友達がまったくいなかった千秋にとって、真冬は一番と言っていい程の身近な存在であり、また唯一楽しく会話が出来る相手でもあった。月に何度かしか会わない間柄だったが、真冬と過ごす時間は彼女を普通の少女のように輝かせ、また、とびっきりの笑顔を与えてくれていたのである。

「千秋ちゃんって、すっごくいい笑顔するよね。きっといっぱい友達いるんだろうね……」

 千秋の頭の中では、真冬のそんな台詞が何度も繰り返されていた。

『ホントにいい子だったのになぁ……』突然いなくなってしまった真冬を想い、千秋は少し感傷的な気分になるのだった。


 遠い目をしているそんな千秋を見つめながら、夏妃は、彼女の母親、そして晴人との関係について尋ねるべきか逡巡していた。

 もし今ここで彼女にそれを尋ねたとしたら、あるいはミステリアスムーンの活動にも支障を来してしまうのではないか。そんな想いが彼女の心に渦巻いていたのである。 

 だが、自分の中に出来てしまった疑問に対して、ストレートな回答を求める彼女の性格が疼き出し、結局は遠回りな言い回しで口を開くのだった。

「ねぇ、千秋さん。あの……昔の話なんだけど……。トランプの話、覚えてる?」

「トランプ? 何それ?」

「ほら、小さい頃、うちのお母さんに教わりながらやったじゃない。たしかババ抜きだったと思うけど……」

「あぁ、やったね。そうそう、確か、なんでだか晴人君がいっつも勝ってたよね。あの子は勝負事に強い体質なのかしら」

「そう言えばそうだね。確かにあの子がいつも勝ってたかも……」

「そんで? そのトランプがどうかしたの? まさかババ抜きでもしようなんて話じゃないよね?」

「いやいやいや、さすがにそれはないんだけど……。あの……そのトランプの時にさ、あっ、えっと、たぶんそれが千秋さんに会った最後の日だったと思うんだけど……。でね、あの時にさ、千秋さん、なんか突然怒り出したの、覚えてる?」

「えっ? そうだっけ? うーん、覚えてるような覚えてないような……。ずいぶん昔の話だからね。でも……それがどうかしたの? なんか気になることでもあるの?」そう言った千秋の顔は、笑顔ではあるものの、なにかをはぐらかしているように夏妃には感じられた。灰皿に揉み消されたタバコも、まだ十分に吸える長さが残っている。

「うん。あのね……ちょっと変わった話。千秋さんあの時確か、誰かに自分のお母さんを取られたって……」

「あぁ、そんなこと言ってたかもねぇ。まぁ、子供って、時々おかしなこと言うじゃない? だからたぶん、それもきっとそんな類のことなんだと思うよ?」

「いや、あの……そうじゃなくて……」夏妃は、苦笑いを作りながら、自分の思っていることを口にするかどうか迷っていた。

 だが、そう簡単に話せる内容ではないだけに、どうしても話を切り出すことが出来ず、そこからしばらくの間、二人の間には静寂の時が流れることになった。

 もし自分の思っていることが事実だとしたら――自分の母親、雪乃は千秋の産みの母ということになる。それどころか、千秋と晴人は血を分けた姉弟ということになってしまうのだ。彼女にしてみれば、そう簡単に口に出来ないのは当然なのである。

 夏妃は、ぬるくなってしまったエスプレッソをスプーンでくるくるとかき混ぜながら、焦点の合わない目を千秋に向けていた。

「なによもう、何が言いたいの?」その長い静寂を破ったのは千秋だった。「なんなのよ、あたしに何か言いたいことがあるんじゃないの? さっきから変にモジモジしちゃってさ。何にもないならあたし帰るよ? そんなにヒマって訳でもないんだから」

「えっ? あっ、ちょっと待って……」夏妃はかき混ぜていたスプーンから慌てて手を離すと、まるで条件反射のように話の核心を話し始めた。「これはね、あの……アタシの勝手な想像なんだけど……、もしかして千秋さんのお母さんって……うちの母親なんじゃないかなって……。あっ、ごめんね、ホントにこれは、アタシの勝手な想像だから……」

「あぁ、なんだ、その話ね……」千秋は、表情すら変えずに新しいタバコに火を点けると、気怠るそうに煙を吐いた。「まぁ、ホントはね、今日、夏妃さんから話があるって言われた時に、なんとなくそのことなんじゃないかなって思ったんだ……。今まであたしと二人っきりなんてこと、なかったじゃない? どう考えたって重たい話なんだろうなって思うよね。そんで……あたしも回りくどいのは好きじゃないから結論から言うけど、たぶんそれ、当たってるよ。あたしも確証がある訳じゃないんだけど、ちっちゃい頃にさ、ウチのお父さんが大事にしてるアルバム、あたし見ちゃったんだよね。雪乃さんがうちのお父さんと一緒に写ってるやつとか、あたしのこと抱いてるやつとかね。あとは、親戚達が言ってたの。雪乃さんは、お父さんと別れた後、違う人と結婚して子供を産んだって。雪乃って名前、けっこう珍しい名前じゃない? その珍しい名前を親戚達が口にすること自体、もう疑いの余地はないよね。いくらその当時、あたしが子供だったからって、そのくらいはピンと来るよ」千秋は、夏妃がびっくりする程、淡々とした口調で話した。

「えっ、あっ、あの……じゃぁ、千秋さんは、うちの晴人と姉弟ってこと……なの?」

「そう……だね。そういうことになるんじゃない?」

 その言葉の後、再び二人の間に静寂の時が流れた。

 自分の母親が千秋の母親、そして千秋と自分の弟が血を分けた姉弟。信じたくないと思う心、自分の想像が当たっていたことへの驚き。そんな想いが交錯し、夏妃はとても口を開くことが出来なかったのである。

 そして千秋のタバコの火がフィルター近くまで燃えた頃、夏妃は心の中でくすぶっていた疑問を口にした。「じゃぁ……アタシ達のこと、それからお母さんのこと、もしかして……恨んでたりしてる?」

「えっ? なんで? そんなの今さらどうしようもないことでしょ? いくらなんでも、あたしはそこまで性格悪くないよ」千秋はフィルターだけになったタバコを灰皿で揉み消しながら、苦笑いを作って言った。

「そっか……。じゃぁ、あの子の思い過ごしか……」

「ん? どういうこと?」

「いやあのね、子供の頃さ、千秋さん、あんまり笑わなかったねって言ったら、晴人がね、たぶん俺達のこと恨んでるんじゃないかって。ちょっとあの子、人とは違う感性してるからさ……」

「ふぅん、そっか。まぁ確かにね、恨みっていうのとはちょっと違うけど、何て言うのかな、うーん、まぁ、おもしろくはなかったよね。だけどそんなの、子供の頃の話じゃない? そんな感情、もう空気みたいになっちゃったよ」それは千秋の正直な感情だった。


 初めてその事実を自分で感じて以来、千秋は高校生になるまで、夏妃と晴人、そして雪乃を恨んでいた。いや、正確な言い方をしたら、妬んでいたという方が当てはまるのかもしれない。

 父親ともろくに口をきかず、心を閉ざしてしまっていた千秋は、その胸の中に苛立ちと不平感を抱えたまま毎日を過ごし、その時期に育つはずの大切な感情さえも育てられずにいた。その結果、友達らしい友達も出来ず、人とのふれあいというものを知らずに育った。

 そして初めて恋心を抱いた人の死……。

 父親への不信、母親への憎悪、満たされぬ愛情、同級生の冷たい視線、自分の居場所のなさ、そして究極の悲しみ。ただ闇雲にギターを弾き続けることしか出来なくなってしまっていた千秋は、同時に自分の生きている意味さえも見つけられなくなっていた。

『――あたしって、なんで生まれて来ちゃったんだろう……。なんのために生きてるんだろう……』

 そんな自暴自棄に陥りそうな千秋を包み込むように、そしてそっと心を癒してくれていたのが真冬だった。

 理由はわからない。だが、千秋は真冬に対して、わりと初期の段階から心を開くことが出来ていた。

 真冬の喋り口調、優しい笑顔、相槌を打つ時のしぐさ、そして人柄、そういったものが、固く閉ざされていた千秋の心を溶かして行ったのかもしれない。

 ある日、抱えきれなくなった自分の感情を打ち明けた千秋に、真冬は満面の笑みを湛えながらこんなことを言った。「人ってみんなね、悲しさとか寂しさを抱えて生きてると思うんだ。うぅん、それだけじゃない。怒りとか恨み、嫉妬とか軽蔑、妬みとか不平感、そんなマイナスな感情がない人なんていないと思う。それが大きいか小さいかの差だけで、みんなはいい人とか悪い人とか決めちゃってるんだよね。だけど、ちょっとだけ認めてあげる心があれば、そんな差は見えなくなっちゃうはずなのに……。人をちょっと認めてあげるだけで、そんなマイナスな感情は空気みたくなっちゃうんだから」

 それは千秋の心に大きく響く言葉だった。

 相手の非を責めるのではなく、自分の考え方、見方を変化させる。

 それまでの人生、一度としてそんな考えを持ったことのなかった千秋は、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

『――人を……認める……。そうすれば……空気になる……』

 それは千秋が、一人の少女として、そして人として当たり前に持っていなければならないものを手に入れた瞬間でもあった。


「あっ、そうだ。そう言えばさ、うちの父親が晴人君のことお気に入りだって知ってる?」話の矛先を変えるように、千秋が笑顔で口を開いた。

「えっ? そうなの? っていうか、まさかそこにもまだなにか接点があるの?」夏妃は目を丸くしながら驚きの表情を見せた。

「あははは、全然別の話。実はね、うちの父親、あるレコードレーベルのお偉いさんなんだよね。そんでね、今年の初め頃だったかな? その父親がロスに行った時にさ、偶然入った小さなライブハウスで日本人ギタリストを見つけたんだって。あたしはあんまり父親とは仲良くないから、普段から会話とかはしないんだけど、あの時はすごかったな。鼻の穴を広げちゃって、『おいっ、ロスで天才を見つけたぞ!』ってさ。それが春人君だったってわけ」

「ふぅん、そうなんだ……。っていうか、あれっ? なんかその話、春人から聞いたような……。それから半年位して、今度は正式にスカウトしに来たって……。たしか相沢さんって人じゃなかったっけかな? あっ、じゃぁ、子供の頃に会ってた相沢のおじさんって……」

「そうそう、それがあたしの父親だよ。今はさ、元々いたレーベルから独立して新しい会社を立ち上げて、そこのトップに収まってるらしいんだけどね。日本の音楽界に旋風を巻き起こすなんて言ってたけど、結局はいいアーティストが見つからないらしくて、毎日ぼやきっぱなしだよ」千秋は新しいタバコに火を点けると、ふぅっと煙を真上に吐きながら言った。

「えぇっ、そうなの? それじゃぁ、レコード会社の社長さんってわけ? すごいじゃない! じゃぁ、ミステリアスムーンもそこからデビューできるじゃん!」夏妃は身を前に乗り出すと、驚きと共に目をキラキラさせながら言った。

 そんな夏妃を見て千秋は、目を細めて気怠そうに口を開いた。「だめだめ。あたしはね、自分の実力で、ミステリアスムーンが作り出した音だけで勝負したいの。コネでデビューするなんてまっぴらごめんだわ」

「えっ、でも……」

「でももへったくれもないの。とにかく、あたしは何の苦労もなく敷かれたレールの上を走るなんてことはしたくないの。百姓みたいに、人一倍の努力と、甚大な労力を惜しまないのがあたしの信条なの」

 夏妃は、千秋の頑なで芯の強い言い回しに、何も言うことが出来なくなってしまった。だが同時に彼女の心の中では、バラバラになったパズルがきれいに収まるような、そんな出口のようなものも見えた気がしていた。

「そういう訳だから、もうその話はあたしの前ではしないでね。それと、絶対メンバーにも言わないこと。おっと、もうこんな時間か。じゃぁあたし、ちょっとこの後用があるからさ」そう言って千秋はテーブルの上に千円札を置くと、ラッキーストライクを揉み消しながら席を立った。

「あっ、ちょっと待って! もう一個だけ聞きたいことがあるの。あの、アタシ、どうしても春人を日本に連れ戻したいの。そんで、あいつとタイちゃんをどうしても一緒に組ませたいの。だけど、どうしたらいいかわからなくて……。だから千秋さんだったらもしかしたらなにか……」夏妃は救いを求めるような瞳で千秋に言った。

 出口へ向かっていた千秋は、夏妃の言葉にピタッと足を止めると、振り向き様、鋭い視線を彼女に向け、口を開いた。「どうしてあたしがそれに答えられるの? お門違いもいいところだわ。あたしはね、基本的に人間が嫌いなの。自分の考えを邪魔されたくない代わりに、必要以上に人の考えの中にも入りたくないの。一緒に組ませる方法? 人の繋がりに関与するなんてまっぴらごめんだわ! 悪いけど、その話はあたしじゃない他の誰かにあたってくれるかな」そう言って千秋は、寒空の街中へと足早に消えて行った。


 同じ日、太陽と康介、そして拓人は、スタジオでレコーディングの打合せをしていた。ライブでのバラ撒き用のCDで使う曲の候補を絞るため、スタジオのマスターを交え、意見を交わしていたのである。

「やっぱあれだな、とりあえず新曲は外せねぇだろ? あとはほら、ドラムから始まる高速4ビートのやつ。そんであとは……あっ、あれはどう? 康介が作ったやつは?」

「うーん、あれかぁ……。前の二曲は賛成だけど、あれはいまいちスピード感ないんだよなぁ。まとまりも悪い気がするし」拓人の提案に太陽が答えた。

「なんだよタイちゃん、そんな言い方しなくたっていいじゃん! あんな曲でも俺なりにすげぇ気に入ってるんだからさ! しかもあれってなんだよ、あれって!」作曲者である康介が仏頂面で言った。

「あっ、悪い悪い、別に悪気があって言ったんじゃないんだ。ほら、意見の一つとしてさ……」

「いくら意見っつったって、ものには言い方ってものがあるじゃん。なんでもストレートに言えばいいってものじゃないんじゃない?」

「わかったわかった、オレが悪かったよ。だからそんなに怒るなって。それに……」

「それにもクソもないよ! だいたいさぁ……」

「まぁまぁまぁ、そのへんにしとけって」拓人が康介をたしなめるように割って入った。「太陽も別にけなす意味で言ったんじゃないんだろうからさ、そんなにカリカリするなって、なっ? サラッと流しちゃえって。そんで太陽、おまえは物事をちゃんと考えてから口にしろ。康介が怒るのも無理ないぞ?」

「あ、あぁ……、わかったよ。悪かったな、康介……」太陽はバツの悪そうな顔をして康介に詫びた。

「えっ、あぁ……いいんだよ、わかってくれれば……」康介も太陽と同じようにバツの悪そうな顔で答えた。そして凍ってしまいそうな空気から逃れるように、まったく別の話題を口にし始めた。「そう言えば、千秋さん、今日はどうしちゃったの? 今日は打合せがあるって知らない訳じゃないでしょ?」

「あぁ、千秋な。アイツは夕方から合流するはずだったんだけど、さっき電話あってな、急に野暮用が出来たからパスだって。まったく、アイツのペース掴むのって苦労するよな。あっ、そうそう、昼間は夏妃と会うなんて言ってたよ。珍しくね? しかも二人っきりでだぜ?」太陽は両手を開いて、外国人のように驚きの表情を見せながらながら言った。

「へぇ、珍しいね、そりゃ。夏妃さんと千秋さんのツーショットかぁ。なんか、ものすごい天変地異でも起こりそうな感じだね」康介が苦笑いを作りながら言った。

「そんなことねぇよ。ほら、いまや夏妃ちゃんはミステリアスムーンのマネージャーみたいなもんなんだからさ。女にしかわからない、バンド内での問題点とか悩みみたいのを話し合ってんじゃないの?」拓人は缶コーヒーを一口飲むと、康介を諭すように言った。

「まぁ、そんなのもありなのかな? まさかケンカしてる訳でもねぇだろうし。夏妃がマネージャーってのはちょっとあれだけど、まぁ、女同士仲良くするのはいいことなんじゃねぇのかな。さてとっ、んじゃぁ、残りの一曲は次のリハで音合わせながら決めるとして、今日はこの辺にしとくか。千秋の意見も聞かねぇといけねぇしな」

「あぁ、そうしよそうしよ。四人そろってるとこで決めねぇと、あとであの女に何言われるかわかんねぇからな」

「あーっ、またそんな言い方してる。今の台詞、おれ千秋さんに報告しちゃお♪」康介が意地悪そうな笑みを見せながら言った。

「あっ、いやっ、康介ちゃん、それだけはやめて! ほらほら、お兄さんがコーヒーご馳走してあげるから。あっ、コーラの方がいいんだっけ?」拓人は、冗談ではなく本気で怯えた声を出した。彼にとって千秋は、まさに蛙にとっての蛇と同じ存在なのである。


「おい康介、いつまで歩かせんだよ。もう十分は歩いたぜ?」

「あともうちょい。別に急いだって酒の味も料理の味も変わんないから、そんなに心配しなくても大丈夫っすよ」仏頂面の拓人に康介が答えた。

 軽く飲んで帰ることにした三人は、O駅で電車を降り、康介がお勧めだという海鮮居酒屋に向かっていた。刺身や焼き魚などの一般的なものに加え、海外で水揚げされる、名前も聞いたことのないような魚介類を食べさせてくれる店らしい。

「つうか康介、その店ホントに美味いんだろうな? 先に言っとくけど、たいしたことなかったらおまえの奢りだからな?」

「えーっ、タイちゃんそりゃないよ! 給料前でピーピーなんだからさぁ。でもまぁ、行ってみて絶対損は無いと思うよ。安いし美味いし店員は可愛いしね」

「マジ? 可愛い店員? さすが康介ちゃんだ!」

「おいおい、おまえが反応するのはそこかよ」にやけ顔をした拓人に太陽が呆れ顔で言った。

「あっ、ほら、見えて来た。あそこの病院の反対側だよ」

 見ると、五十メートル程先の右側に、それらしい看板を掲げた店が見えて来た。白地に青い文字で店名が書いてある。どちらかと言えば地味な看板だ。

「くろしお? なんかパッとしねぇ名前だなぁ。ホントに大丈夫なのか?」太陽がうさんくさい目を康介に向けた。

「だから大丈夫だって。俺の友達もみんな絶賛してるんだから。まぁ期待しててよ」康介は太陽に向かって親指を立てて見せた。

 太陽は、過去に康介に連れられて行った店で何度か苦い経験をしている。料理がまずい店、サービスの悪い店、そしてなぜこの料理にこの値段を払わなくてはならないのかと思わせる店。そんな過去の経験が、彼にたまらなく嫌な予感をさせていた。「まぁ、ハナっからおまえの勧める店は信用してねぇからな。期待は4分の1くらいにしとくよ」

「あっ、またそんなこと言ってる。まぁいいさ。どうせ後で俺に感謝することになるんだから」康介は道路の石ころを右足で蹴ると、爽やかな笑顔で言った。

 その時、何気なくその店から視線をはずした拓人は、通りの左側にある建物から、見覚えのある一人の女性が出て来るのに気がついた。少し背が高めで髪が長く、なんとなくドライな空気を漂わせている女性。「ん? あっ、おい……、あれ、千秋じゃね?」

 その名前に即座に反応した康介は、拓人の視線を追うと、素早く千秋を視界に捕らえた。「あっ、ホントだ、千秋さんだ。おーいっ、ち……」

「バカ、ちょっと待て!」大きな声で千秋を呼ぼうとした康介の口を、太陽の左手が塞いだ。「しっ、声出すな! ちょっとこっち来い!」

 太陽は二人の手を引くと、すぐ脇に停めてあったワンボックスカーの陰に隠れた。大人の男三人を隠すには十分な大きさである。

 太陽の顔付きは、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように真剣そのものだった。

「なんだよタイちゃん、なにすんのさ!」

「バカ、だから声出すなっつうの!」その真剣な言い回しに、康介は素直におとなしくせざるを得なくなってしまった。

「どうしたんだよ、太陽……」何が起きたのかわからないといった表情で拓人が小さな声を出す。

「あぁ……。あのさ、アイツ今、絶対あそこから出て来たよな?」

「えっ、どれ?」

 康介と拓人は、太陽が顎で指した方にゆっくりと顔を向けた。そこにはK産婦人科と書かれた白い建物が建っていた。


「俺が思うに……」拓人は、喉を鳴らしてウーロン杯を一口飲むと話を続けた。「たぶんさ、友達か親戚か、まぁ、誰かが入院してるのを見舞ってただけなんじゃないの? それかほら、男にはわかんない女の事情みたいな……。とにかくあの女が、俺達が思ってるようなことで産婦人科なんかに用はないでしょ。だってちょっと前に男と別れてたじゃん」

「うーん、そうだなぁ。あいつに男が出来たなんて話もぜんぜん聞かなかったし……。こう言っちゃなんだけど、あいつと妊娠なんて言葉はまったく結びつきそうにないからな」太陽はレモンをスクイーザーで絞りながら、苦笑いで答えた。

 三人は、産婦人科から出て来た千秋を車の陰から見送ると、康介の行きつけの店、くろしおに来ていた。翌日が祭日ということで、酒飲みにとって憂鬱な、時間という鎖を気にせずに呑める。

「そうだよ、絶対そうだって。まったく、おまえが突然あんな真剣な声で言うから、なんも悪いことしてないのに一瞬、えっ、俺、なんか悪いことしたっけ?とか思っちゃったもん。いやいやいや、マジでビビった。ビビった分、なんだか食い物が美味く感じるけどな」運ばれて来た料理をつまみながら、拓人は満足気な声で言った。

「なんだそれ? ビビると飯が美味いのか? そんじゃおまえ、いつも千秋と一緒にいればいいじゃん。おまえ、あいつのこと苦手だろ? なんかいつも顔色伺ってる感じじゃん。バレバレだぜ?」

「はぁ? 何言ってんの? そんなことねぇよ。なんで俺様があの女ごときにビビんなきゃなんねぇのさ! だいたい俺はな、このバンドのまとまりをだなぁ……」

「またまたぁ、そうやって話題を変えようとしてんじゃないよ。いいじゃねぇか、怖いものは怖いで。オレにだってあるぜ? 怖いものの一つや二つ。幽霊とかウチの兄貴とか夜中のトイレとか……」

「おまえの兄貴はともかく、そんなのは誰だって少なからず怖いって。だからぁ、そんな話じゃねぇだろ? 俺があの女にはビビってねぇって話じゃねぇのか? 話題変えてんのは太陽じゃねぇか。まったく、どうしておまえはそうやっていっつもいっつも話題がコロコロ……」

 二人のやりとりは、空になって行くグラスと共に延々と続いた。時にアルコールの力というものは、人を饒舌にし、発想を豊かにし、気分を高揚させるものである。

 だが席を挟んで座っていた康介は、二人の話をまるで他人事のように聞き流し、ただ闇雲に酎杯を胃袋に流し込んでいた。一点を見つめたままのその表情は暗く、なにかを深く考えているのが誰の目から見ても明白である。

 

「そう言えばおまえ、さっきから飲んでばっかりでぜんぜん口開かねぇなぁ。どうしたんだ? 体調でも悪いのか? それに料理も全然食ってねぇだろ。食いながら飲まねぇと悪酔いするぞ? つぅかおまえ、どこにカワイコちゃんの店員がいるんだよ? おばさんばっかじゃねぇか!」少し頬が赤くなって来た拓人が、康介を覗き込むようにして言った。

「えっ、あぁ……。うん、そうだね」そう言うと康介は、ホッケの開きに箸を付けた。「うん、うまい」

「なっ、ここの料理美味いよな。新鮮だし味付けもいいし、魚は脂のってるし……。つぅか、そうじゃねぇよ! カワイコちゃんはどうしたんだって話だよ!」

「あぁ、そうか……。そういえば今日はいないみたいだねぇ……」

「今日はいないってか! なんだよなんだよ、お前の情報もホントに当てになんねぇなぁ。俺はそれだけが楽しみでここに来たのに……」拓人は本当に悲しそうな顔をしながら言った。

「なんだよ、おまえ、まだそんなこと言ってんの?」太陽がポールモールに火を点けながら言った。「つぅかさ、おまえがそんなに女好きとは知らなかったよ。最近キャラ変わったのか? 確かにおまえの浮いた話なんて聞いたことねぇけどさ」

「いやいやいや太陽ちゃん、俺にだって浮いた話の一つや二つ……。っておいっ、俺は別に女好きじゃねぇっつぅの! ただあれだよ、酒飲むんならさ、その場に華があった方がいいだろ? そういう意味だっちゅぅの!」

「うわっ、康介今の聞いたか? こいつ、だっちゅうのって言ったぞ? 古っ!」太陽は拓人を指差しながら、康介に向かって爆笑しはじめた。灰皿の灰が舞い上がる程の爆笑だ。

「おいおいおい、そんなに笑うことねぇだろ? つぅか、おまえの方こそキャラ変わったんじゃねぇか? おまえ、そんなに揚げ足取るような人間だったっけ?」拓人は不満の色を見せながら、さっき運ばれてきたばかりのウーロン杯のほとんどを、喉を鳴らして一気に飲んでしまった。

「あっ、バカっ、そんな飲み方するなって! わかったわかった、オレが悪かったよ、ちょっと言い過ぎた。だから普通に飲もうぜ? なっ? ほら、次もウーロン杯でいいのか?」太陽は慌てた様子で拓人にドリンクメニューを差し出した。とたんに拓人の表情が緩む。

 もしかしたら、世の中で拓人の酒癖の悪さを一番知っているのが太陽なのかもしれない。特に、一気飲みを繰り返した後の拓人は、まるで野生の猛獣のような危険な空気を漂わせ、その危険な空気のとおりいつ機嫌が悪くなるのかわからなくなるのである。普段、目に見えない不満でも溜め込んでいるのだろうか。通常の会話をしていても、突然機嫌が悪くなり、目をむいて怒り出す。一度地雷を踏んでしまうと、それこそ文章で表すのが困難な程である。まぁ、一気飲みさえしなければ陽気な青年でいられるのだが……。

 そのことを危惧した太陽は、拓人の感情を刺激しないように話題を変えることにした。「そう言えばさ、こいつはそこそこいい顔してるのに、なんで女が出来ねぇんだろ? 男が好きって訳でもないだろうし、性格に難がある訳でもねぇのにさ。やっぱメガネの形が悪いのかな?」彼の人差し指は康介に向けられている。

「そう言えばそうだな。康介の浮いた話なんて一つも聞いたことねぇしなぁ。なぁおい、おまえ、惚れてる女とかいねぇのか? まさかホントに男が好きって訳じゃねぇだろ?」拓人はにやけ顔で康介に問い掛けた。

「えっ? あぁ、俺ですか?」康介は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で答えた。相変わらず彼は、暗い表情で何かを考え込んでいたようだ。

「はぁ? 俺ですか?じゃねぇよ! おまえ、今日はホントにどうしちゃったんだ? さっきからボーっとしちゃって。だいたい飲みに行こうって言い出したのおまえだろ? そのおまえがなんで気の抜けたビールみたいな態度ばっかりしてんだよ。まったく、最近の若者ってのは、覇気はねぇわ場の空気を読まねぇわ……。んっ? ちょっと待てよ? あっ、そうか、そういうことか……」拓人は先程よりもさらににやけた顔を作り、意味あり気な表情で話を繋いだ。「つぅかあれだ、さっきあの女を見掛けてからだな。そうだそうだ、あの時からだ。なになになに? もしかしておまえ、あの女に惚れちゃったりしてるのか? んで、産婦人科から出て来たのを見掛けちゃったもんだからショック受けてんのか?」今度は意地の悪そうな表情を見せる。

「えっ、ち、違いますよ! 何言っちゃってんですか! あの人はただの高校の先輩で、別に惚れてるとかなんとか……。とにかくそんな感情ないですよ!」康介は慌てた様子で酎杯を流し込んだ。

「ははぁ、やっぱそうか。わかりやすいなぁ、おまえは。なぁんだ、それならそうと早く言ってくれりゃぁいいのに。んで? 告白とかはしてないのか? あっ、まさかもうすでに俺達に内緒で付き合ってるとか? んっ? 待てよ? まさかまさか、もしかしてあの女が産婦人科に行ったのはおまえの子供を……」拓人の想像はどんどん膨らんで行く。

 だが、拓人がその想像を口にするたびに、康介の顔はどんどん青ざめて行くのだった。顔は下を向き、両拳は硬く握られ、身体は小刻みに震えている。平静を保っていられないのが明らかである。

「おいおいおい、康介聞いてんのか? だからな、あの女が病院から出て……」

 その猛獣の咆哮のような怒声がそこに響き渡ったのは、拓人がそこまで言った時だった。

「おいてめぇ、いいかげんにしろよ!?」康介は両拳をテーブルに叩きつけ、青かった顔を怒りの形相に変えながら咆えた。「何も知らねぇくせに適当なことばっか言ってんじゃねぇぞ! このやろう!」そして硬く握られた右拳が拓人の左頬を狙う。

「えっ? ちょ、ちょっと待て……」意表を突かれて固まってしまった拓人は、目を大きく見開いた驚きの表情のまま何も出来ない。

 そしてその右拳が、拓人の左頬に届くか届かないかのその瞬間、電光石火のスピードで、太陽の掌が康介の拳を捕らえた。そしてそのまま右腕をひねり上げ、康介の動きを制した。

「おい康介! やめろ!」太陽は鋭い口調でそう言うと、ひねり上げた右腕を背中に回すのと同時に、左足で康介の足を払った。そして左肩を下にして床に倒れた康介の上にまたがると、まるで狼のような灰色の瞳で戦意を奪った。「もうやめろ、康介。おまえ……、いったい何があったんだ?」

 氷のような目で太陽を見上げていた康介の瞳から憎しみの色が消えて行く。

「タイちゃん……」そうつぶやいた康介の瞳からは、大粒の涙が溢れ出した。

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