第10話    豚

 ある秋の日、スタジオでのリハが終わると、太陽は機材を片付けながら、先日の夏妃との会話で出た話題を持ち出した。

 太陽の中ではそれほど重要なことではなかったのだが、なんとなく真剣に見えた夏妃の顔が、頭の隅にこびりついていたのだ。

「この前ちょっと小耳にはさんだんだけど、千秋おまえさぁ、夏妃と知り合いなの? なんか夏妃が、おまえのこと知ってる気がするって言うんだよな?」

「えっ? 夏妃さんって……太陽君の彼女の?」

「バカ、誰がいつ付き合ってるなんて言ったんだよ。別に彼女じゃねぇよ!」 

「ふぅん、そうなんだ。でも、誰が見ても彼女と彼氏にしか見えないけどね。いっそ付き合っちゃえばいいのに」千秋はギターをケースにしまいながら、抑揚のない声で言った。

「おいおい、勝手なこと言うなよ。オレはともかく、向こうにだって選ぶ権利はあるんだから」

「そうね、それは大事なことかもね。そんでなんだっけ? あっ、夏妃さんのことか。そうね……。まぁ……、彼女のことはよく知ってるよ? それに弟の春人君のこともね」

「えっ? よく知ってるって……」太陽は、何の前触れもなく出た千秋の言葉に驚くのと同時に、ちょっとした疑問が湧いて来た。「でも夏妃はおまえのこと、どっかで会った記憶はあるけど、どこの誰だか思い出せないって言ってたぜ?」

「ふぅん、そっか。でもまぁ、そんなもんかもね。なんせ昔話だから……」千秋は首を傾げ、意味あり気な笑みを見せながら、ギターケースを持ち、立ち上がった。「さてと、そんじゃぁ、あたし先に帰るね。ちょっと野暮用があってさ」そう言うと、千秋はさっさと部屋を後にした。

「なんだよ、あいつ夏妃ちゃんと昔から知り合いだったってことなのか? それならそうと早く言えばいいのに。なんかあの女、不透明な部分が多いよな」拓人が仏頂面をしながら言った。

「でもどういうことなんだろうな。夏妃は全然思い出せないみたいなこと言ってたけど、千秋はよく知ってるって……。康介、おまえなんか聞いてないのか?」

「ぜんぜん。なぁんにも聞いてないよ? あっ、でも春人のことは、昔ちょっとだけ言ってたことがあったかな? あの人の中で一番のライバルが春人だって」康介が、記憶を探るような顔つきで言った。

「そうか。まぁ、春人は有名人だから、目標とかライバルにされるのはわかるとして、夏妃とはどんな関係なんだろうなぁ……」太陽は千秋が出て行った扉を見つめながら、独り言のようにつぶやいた。


「えっ? アタシのことをよく知ってるって言ったの? そっかぁ、そんじゃぁやっぱ、知り合いだったんだぁ……」夏妃は紅茶のペットボトルを一口飲むと、驚きを含んだ声で言った。「それはそうと、アタシのこと、よく知ってるんでしょ? どうして何も言ってくれないのかなぁ? この前だって、みんなで一緒にご飯食べたじゃない? なんかアタシ、昔悪いことでもしちゃったのかなぁ……」

「そうなんだよな。そこがオレもなんか引っかかるんだよ。別におまえのこと話してる時、特にイヤな顔もしてなかったし、かといって懐かしさで喜んでる風でもなかったんだよな。それに春人のこともよく知ってるって……」

「えっ? 春人のことも知ってるって?」夏妃は、大きく驚いた表情をしながら言った。

「あぁ、そう言ってた。でもそれはたぶん、ギタリストとしての春人を知ってるってことなんじゃねぇの? なんか、最大のライバルみたいなこと言ってたらしいし」

「でも、アタシのことを聞いたら春人のことも知ってるって言ったんでしょ? それって、アタシたち姉弟のことを知ってるってことなんじゃないの? えーっ、千秋さんって誰なんだろう?」夏妃は難しい顔を作って考え込んでしまった。

「まぁ、そんなに深く考えるなよ。知り合いだったってことはわかったんだからさ。遅かれ早かれ、そのうちハッキリするよ。よっし、それっ、ブン太、行ってこい!」太陽は、ブン太のリードをはずすと、テニスボールをおもいっきり遠くへ放り投げた。とたんにブン太が、ボールを追って全力で走り出す。

「あららら、すごい勢いだね。もうあんなに遠くへ行っちゃった。それにしてもかわいい犬だよね。すっごく人懐っこいし。アタシ、あんなに犬に顔を舐められたの初めてかも」

「いや、それがな、あいつホントは人懐っこさのひとかけらもない犬のはずなんだけど、今日はどうしちゃったんだろうなぁ。なんか悪いものでも食わされたのかな? 拓人なんて、あいつに二回も噛みつかれてんだぜ?」

「えっ? そうなの? ぜんぜんそんな風には見えないけどなぁ。あっ、そうか。もしかして、アタシを真冬さんだと思ってるのかな?」

「えっ? あっ、あぁ……そうかもな……」自身の中にもその考えがなかった訳ではなかったが、突然ハッキリとその名前を耳にしたことで、太陽は動揺を隠すことが出来ず、あいまいな言葉を返すことしか出来なかった。戻ってきたブン太にも気付かず、ただ俯いたまま、ボーっと地面を見つめている。

「あっ……なんか……ゴメン……」夏妃もその空気を読み取り、あわてて話を違う方向に持って行った。「そう言えばね、春人から手紙が来たんだよ? 先週の木曜だったかな? 生活は相変わらずらしいけど、バンドの方は順調だって。タイちゃんによろしくって書いてあったよ?」

「えっ? あぁ、春人か。ふぅん、そっか。アイツ、上手くやってるんだ……」春人という名前を聞き我に返った太陽は、ブン太の口からテニスボールを取りながら言った。

「でもどうなんだろね? 順調って言ったって、結局は小さなライブハウスで活動してるだけでしょ? そんなんじゃ、音楽で稼いで生きて行けるようになるには、かなり時間が掛かるよね。それに外国じゃ、それこそなにかと難しいんじゃないの? たぶん、日本よりもバンドやってる人だって多いんだろうし……。それっ、ブン太、行ってこい!」夏妃は、太陽の手からテニスボールを奪うと、力いっぱい遠くへ放り投げた。

「おまえはアイツのすごさを、自分の弟のすごさをわかってないみたいだな」太陽は、遠ざかって行くブン太を見つめながら、抑揚のない声で言った。「アイツが順調って言ったら――たぶんそれは、それなりに客を呼べるバンドに育ったってことなんだと思うぜ? アイツほど音を真剣に、大事に考えてるやつなんて、そうザラにはいないからな。ましてや、アイツは誰の目から見ても天才なんだよ。その天才が順調って言ったら、それは少なくとも軌道に乗り始めたってことなんだろうな」

「えーっ? 天才? あいつがぁ?」夏妃は、笑顔と呆れ顔の中間の顔を作りながら言った。「どの辺が天才なのよ。アタシには、ただのわがままで自己チューな変人にしか映らないわよ?」

「なんだ、おまえ、アイツの演奏聴いたことないのか?」太陽は、本気で驚いた顔を作りながら言った。

「ないよ? そりゃぁ、部屋でジャカジャカやってるのは聴いたことあるけど、ちゃんとアンプを通した、本格的な音っていうのは聴いたことないかもね。まぁ、あのライブハウスの人が有名人って言ってたくらいだから、そこそこ上手いんだとは思うけど、でも天才ってのはどうかなぁ」

「オレの中では……千秋も天才だと思うんだけど……」

「あっ、それはわかる! あの人、みんなの音をちゃんとわかっった上で自分の音を出してる感じだもんね」

「その千秋よりも、オレは春人の方が数段上だと思ってる。いや、上下を付けるのはおかしいかもしんねぇな、アイツ等くらいのレベルになると。まぁとにかく、まったく別の次元なんだよな、春人のギターは」

「そう、なの? まったく別の次元?」夏妃は、いまいち納得出来ないまま、太陽の話を聞いていた。

 夏妃は、自分の弟の演奏が千秋の上を行くということに、どうしても疑問を浮かべずにはいられなかった。事実、千秋のテクニックや表現力を超えるギタリストを他に知らないということもあったのだが、彼女の演奏を本当に心底すごいと思うのと同時に、自分の観念を感服させるような、尊敬に近いものまで感じていたのだ。

「そんじゃ、あとであれ貸してやるよ、ヒールレインのCD。ライブじゃないから音の臨場感はいまいちだけど、アイツのすごさはわかると思うぜ?」

「えっ? あいつ、CD出してるの?」まったく予想していなかった言葉に、夏妃は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。

 とたんに太陽の笑い声が響く。「なぁんだよその顔。そんなに驚くことねぇだろ? 別にメジャーじゃなくても、CDくらいちょっと金出せば誰でも作れるんだぜ?」

「あっ、あれか。自主制作ってやつ? でもすごいじゃん! 普通の人じゃ、なかなかそこまで行かないんでしょ? なんだぁ、あいつもなかなかやるもんだわねぇ……」CDという言葉に気を良くした夏妃は、ご満悦の顔を作りながら言った。

「まぁそうだなぁ、いくら作ったからって、それがショップに並ぶかどうかは、そのバンドの知名度にもよるし。そう考えると、ヒールレインはかなりの知名度だったからな」

「へぇ、そうなんだ。でも、タイちゃんがやってたプロミネンスも、同じくらい有名だったんだよね? アタシ聴いたよ?プロミネンスのCD。なんか、変な曲だったけど……」夏妃は、香織から借りて聴いたCDの曲を思い出し、思わず噴出しそうになった。

「ん? 変な曲? あぁ、あれか。あれはなぁ……」太陽もその曲を思い出し、同じように噴出しそうになった。「あれはしょうがねぇんだよ。ギターのやつの親父のコネでさ、○○市の市制何周年かなんかの曲をやったんだよ。別にやりたくてやった曲じゃないんだけど、まぁ……確かにひでぇ曲だったな、あれは」

 苦い顔を作った太陽の言い回しに、夏妃はとうとう腹を抱えて笑い出した。

「おいおい、そんなに笑うこたぁねぇだろ? 言っとくけどなぁ、あれはあれで結構な数売ったんだぜ? しかもそれでメジャーの話も来た訳だし……」

「あぁ、なんかそんなこと言ってたね。でも、タイちゃんその時、その話蹴っちゃったんでしょ? もったいないなぁ。アタシだったら喜んでデビューしちゃうのに。ウチの春人もそうだけど、なんかわかんないなぁ、そういうのって。なにが不満なの? だって、好きで音楽やってるんでしょ?」夏妃は本気で不思議に思っていた。

 以前、香織に説明された時にも、その場ではなんとなくわかった気にはなっていたのだが、掴みかけたチャンスを捨てながらも、また再びプロを目指して活動している自分の弟や、一度音楽をやめながらも上を目指そうとしている太陽を見ると、彼らが目指しているものや方向性、また、音楽に対する考え方など、そういったものが夏妃にはまったく理解出来なかったのだ。

「不満っていうか……オレの場合はちょっと特殊なんだよな。だってオレ、正式メンバーとしてプロミネンスにいた訳じゃないし、それに最初からプロになりたいなんて、これっぽっちも思ってなかったからな。まぁ、早い話がヘルプで在籍してたんだよ。でも春人は違うぜ? アイツは本物だよ。自分の思う音楽を貫き通したいから、自分の納得出来る音で勝負したいからデビューしなかったんだよ。そこいらの安っぽいレーベルじゃ、どんな腐った音を押し付けられるかわかりゃしないし、第一、利益優先型の日本のメジャーシーンじゃ、本当に音を真剣に考えてるアイツには窮屈なんだよ」太陽は芝生の上に腰を下ろし、空を遠く眺めながら言った。

「ふぅん。タイちゃんって、そこまでウチの弟を買ってるんだ。そこまで言うんなら、アタシが知らないだけできっとあいつってすごいんだろうね。そんじゃさ、もしミステリアスムーンに春人が入ったとしたら、いったいどんだけすごいバンドになっちゃうの? タイちゃんのボーカルに、千秋さんとあいつのツインギターになるんでしょ? ちょっと想像つかないなぁ……」

「そうだな……、あの二人が全体の音を引っ張ってってくれたら……、オレの求める究極の音に限りなく近いものが出来上がるだろうな。だけどまぁ、アイツがあっちで順調に活動してるんなら、そりゃぁちょっと難しい話なんじゃねぇの?」

「うーん、そっかぁ……。でもなんかちょっと、残念だなぁ。なんとかなんないもんかしらね? そっかぁ……究極の音かぁ……」夏妃も太陽と同じように芝生の上に腰を下ろし、色が薄くなり始めた秋の空を眺めながら、心の中で太陽と春人を結びつけるための方法を模索していた。


 そんな夏妃がロサンゼルスを訪れたのは、それから一月程経ったある日のことだった。

 高校時代に半年ほど滞在したホームステイ先の家族から、なんの前触れもなく、突然航空チケットが届いたのだ。

 夏妃にとっては第二の故郷と思っているだけに、言葉に出来ない程の喜びが心に生まれ、今すぐにでも飛んで生きたいという衝動に駆られたのだが、突然すぎることと、仕事の都合や家庭の事情などで時間的な余裕がなかったため、そう簡単に渡米を決意することは出来なかった。

 だが蓋を開けてみれば、懐かしさと嬉しさが胸に込み上げ、結局はロス行きを決断するのだった。さらにもう一つ、彼女には、ロスに住んでいる春人を訪ね、太陽と一緒に音楽をやることを承諾させるという、大きな目的があった。

 夏妃の中では、春人を納得させるために、なにか特別な作戦や言葉を持ち合わせている訳ではなかったが、なんとなくすべてのことがいい方向に転がって行くような、そんな不思議な感覚が渦巻いていたのである。それはその数日前、彼女が見た不思議な夢によってもたらされていた。

 その夢は、太陽と春人が同じステージに立ち、大観衆の前で白熱のライブを繰り広げているというものだった。

 ライブハウスではないその空間は、軽く数万人は収容出来る程の大ホールで、客席にはまったく空席がなく、会場を埋め尽くした観客の熱気と興奮で包まれている。総立ちの観客達は、自身の中にある熱い想いやボルテージをステージにぶつけるように、両腕を振りかざし、情熱を表現している。その情熱に応えるように、ステージの二人も最高の演奏とパフォーマンスを見せていた。

 その夢とは思えないリアルな光景は、ベッドの上で目覚めた夏妃の脳裏に深く刻み込まれ、彼女に、二人は必ず一緒にやって行くことになるのだろうと確信させるのだった。


 夏妃にとって約七年ぶりとなるアメリカは、以前と変わらずに、その広大な景色と開放感で彼女を包んでくれた。

 ロサンゼルスのダウンタウンから、車で四十分ほど北上したところにあるバーバンクという街は、北側と東側が山で囲まれた、とても自然豊かなところである。西側には誰もが知っている大きな映画会社の製作スタジオがあり、南側には、大都会との一線を画すように、小高い山がある。

 その小高い山の一角にあるグリフィスパークからロサンゼルスの街を見下ろした夏妃は、言葉に出来ない程の懐かしさと、これ以上ない程の新鮮な気持ちに包まれ、自分が新しく生まれ変わったような気にさえなるのだった。

 遥か遠くまで見渡せる空、その空と大地をくっきりと見分けることが出来る地平線、流れて行く雲、澄んだ空気、幅の広い道路など、日本では絶対に味わうことの出来ないその景色は、長い日本での生活で忘れかけていたなにかを、彼女に思い出させてくれもした。

「はぁっ、やっぱ最高ね、アメリカって。たぶんあいつも、この魅力に取りつかれちゃったんだろうなぁ……」大きく伸びをしながらそんな独り言をつぶやいた夏妃は、この国の偉大さを、開放感を、そして例えようのない大きさを再認識するのだった。

「アイツって、誰のこと?」隣で、空港まで出迎えに来てくれた、滞在先のルイス家の長女であるメアリーが聞いた。

 夏妃と同い年のメアリーは、好奇心旺盛で珍しいものが大好きな、夏妃と似た性格の持ち主である。そんなせいもあって、夏妃とメアリーは初めて顔を合せた時から、まるで昔からの知り合いのようにすぐに打ち解けたのだった。

「あぁ、アタシの弟のこと。今ね、ダウンタウンに住んでるんだよ? ちょっと変わった奴なんだけどさ、こっちで音楽やってるんだ」

「えっ? そうなの? 手紙にはそんなこと書いてなかったけど。そっかぁ、音楽やってるんだ。そう言えば今、ダウンタウンのライブハウスで日本人のギタリストがちょっと有名らしいんだけど、まさかそれがナツキの弟って訳じゃないでしょうね?」

「まさかぁ、そんなことある訳ないじゃん」そうは言ったものの、夏妃の心の中では、それは間違いなく春人だという想いが一瞬にして渦巻いていた。


 滞在先であるルイス家は、バーバンクの中心部から東へ一マイル半ほど行った、トンプソンアベニューに面したところにある。庭にプールがある家が一般的な、比較的裕福な階層に位置する住人が多く住む街である。

 その街を約七年ぶりに訪れた夏妃は、自分の記憶とまったく変わらぬその街並みに感動するとともに、記憶の底から甦って来る人々とのふれあい、街の空気、広大な景色などが心に映し出され、自然と瞳に涙が浮かんで来るのだった。

 ルイス家を訪れると、そこにはすでに豪華な食事が用意されていた。時刻はとうに夕食を迎える頃になっており、夏妃もメアリーも、それを見て初めて自分が空腹であることに気付くのだった。

「うわぁ、ちょっとこれ、全部和食じゃないの。しかもみんなすごく本格的。いったいこれ、どうしちゃったの?」

「そうそう、ママはね、ナツキが日本に帰っちゃった後、いつナツキが帰って来てもいいようにって日本の料理を習い始めたの。あんなに和食は合わないって言ってたくせにさ。でも今じゃ、家族の誰よりも和食が好きなんだよ?」夏妃の質問にメアリーが答えた。

「――そうなんだ……。なんか、そういうのってすごく嬉しいね。アタシなんて……何も……」

「ほらほら、また泣いちゃって。まったく、ナツキってそんなに涙もろかったっけ? そんなことよりほら、ママがお待ちかねよ?」

 一通りの挨拶と、近況や土産話などを済ませ、夕食を食べながら楽しい談話をしていたのだが、日本での生活や家族のことが話題に上ると、話はやはり例の事故のことへと進んで行くのだった。

 高速道路上での大事故に巻きこまれ、友人を二人亡くしたこと、それにより一年間入院していたこと、そして自分が義足であること。    

 夏妃にとっては辛い話だったが、ルイス家の人々はそれを親身に聞き入れ、暖かく励ましてくれるのだった。


「そう言えば、さっきメアリーから聞いたんだけど、ナツキの弟は音楽をやってるんだって? 僕も今、バンドを組んで音楽をやってるんだ」メアリーの弟のイーサンが、静まった空気を変えるように、話題を別の方向へ持って行った。

 イーサンは、メアリーの二つ下の弟であり、春人と同い年である。そのこともあり、夏妃は、イーサンのことを実の弟のようにかわいがっていた。

「へぇ、そうなんだ。イーサンが音楽をやってるなんて、ちょっと意外だなぁ。そんで? どんな音楽をやってるの?」イーサンに対しておとなしいイメージしか持っていなかった夏妃は、目を丸くして驚いた。

 その質問に、イーサンは笑顔を見せながら明るい口調で答えた。「ロックだよ。バンドをやるって言ったら、やっぱロックだよね。僕がやってるのはパンクロック。今はバンドでギターを担当してるんだ。なんだかんだと、もう三年くらいやってるかな? それで? ナツキの弟はどんなジャンルをやってるの?」

「アタシもあいつの音楽のことはよく知らないんだけど、たぶんパンクロックだよ? なんか、日本じゃそこそこ有名だったらしくてさ、自分の音楽を目指したいからって、こっちに来てるんだよね」夏妃は苦笑いを浮かべながら、春人のことを話し始めた。

 高校を中退して音楽にのめり込んだこと、ヒールレインでギターを弾いていたこと、そしてメジャーデビュー直前でバンドを脱退してしまったことなど、春人の音楽活動について彼女が知っている限りのことをイーサンに話した。

「ねっ? あいつってバカでしょ? もしかしたらさ、今頃は超リッチで多忙な生活してたかもしんないのに。そんなに音楽ってシビアなものなのかな?」夏妃は、半分呆れた顔を作りながら言った。

「えっ? ちょっと待って? ナツキの弟はハルトっていう名前なの? しかもヒールレインっていうバンドにいたんでしょ? それじゃもしかして、ダウンタウンのファットピッグに出てるあの日本人ギタリストのハルトって……」イーサンは目を丸くしながら、大きな声をあげた。

「うん。たぶんそれは……うちの春人なんだと思う。実は今回アメリカに来たのはさ、その弟を日本で活動するように説得するためでもあるんだよね」

「えーっ、すげぇ! 僕、大ファンなんだよ? あんなものすごいテクニックのギタリストがナツキの弟なんて……」 

「なぁんだ、やっぱりそうだったんじゃない」メアリーがワインを片手に、恨めしそうな目付きで言った。「ナツキも意地が悪いわね。それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。でもさぁ、どうして日本に連れ戻したいの? だってあの日本人……あぁ、ハルトっていうんだっけ? あの人、この辺じゃけっこうな有名人なんだよ? ロスで有名って言ったら、それはもう、メジャーデビューするのも時間の問題ってことなんじゃないかな?」

「そうだよ。聞いた話じゃ、もういくつかそんな話が持ち上がってるらしいし。僕の仲間達も、ハルトは天才だって、普通のギタリストとは次元が違うってみんな言ってるよ? そんな人を連れ戻すなんて、まさか本気じゃないよね?」イーサンは、幼い子供がダダをこねるような口ぶりで言った。

「アタシは本気だよ? まぁ、話すと長くなるんだけど……、日本にいるもう一人の天才が、あいつのことを必要としてるんだよね。アタシには音楽のことはよくわからないけど、そのもう一人の天才はさ、あの子の音楽に対する情熱を、必ずいい方向に導いてくれるって信じてるの。アタシもあの子のためには、そのもう一人の天才と一緒にやって行くのが一番いいと思ってるんだ。だから……」

「でもそんなのもったいないよ。だってハルトは普通のギタリストじゃないんだよ? 自分の音楽を探すためにこっちに来たんでしょ? だったら……」

 身振り手振りを交えて熱っぽく語るイーサンを、メアリーは左手でピシャリと制すと、意味有り気な目付きで口を開いた。「ふぅん、そうなんだ。日本にいるもう一人の天才ねぇ……。そんで、そのもう一人の天才っていうのが、今のナツキの彼なんだ」

「えっ? ちょっと、何言ってんの? 全然そんなんじゃないってば。あの人はただの……」

「はいはい、そうですか。でも体って正直だよね? そうですって、顔に書いてあるよ? あっ、それともまだ恋は実ってなくて、実はナツキがその人を好きなだけなのかな?」

「ちょっとやめてよ! ホントにそんなんじゃないんだってば! ホントにあの人はただの……」夏妃は顔を真っ赤にしながら、自分と太陽の関係を説明しようとした。

 だが、太陽に心を寄せている自分を否定するだけの材料がないだけに、その説明もやはりどこかギクシャクするものになってしまうのだった。

 メアリーにこんなことを言われながらも、太陽の音楽に対する情熱や考え方、そして笑顔や仕種の一つ一つが頭に浮かんで来ては、心の一部を支配して行く。そう、明らかに夏妃は、太陽に恋をしているのだった。

「そのもう一人の天才っていうのはさ、今、日本でパンクバンドのボーカルをやってる人なんだけど、なんて言うのかな、ホントはアタシ、ロックとかバンドとかにはまったく興味なかったんだけど、とにかくアタシにロックに対する興味を与えてくれた人なの。歌声とかパフォーマンスとか、そういう当たり前のことはもちろん、なんていうのかな、雰囲気……かな? あっ、そうそう、あの瞳に強烈に引き込まれるのよね。あんなボーカル、たぶん世界中にあの人しかいないって思う」

「ふうん、瞳に引き込まれるねぇ……。なんかいまいち、実物を見た訳じゃないからピンと来ないや。でも、なんとなくはわかるよ。人一人の価値観を変えちゃうくらいすごい人なんでしょ?その人は。ねぇねぇ、そんなことより、もうちょっと教えてよ。どんな人なの? いつから付き合ってんの? 背は高いの? 優しいの? カッコいいの?」メアリーは、目をキラキラさせながら聞いた。

「だからぁ、そういう特別な感情はないんだってば! そりゃぁ、背は高くてカッコいいけど……。あっ、そうだ、あの人、太陽って名前なんだけど、アメリカ人とのハーフなんだよ? グレーの瞳をしてるの。確か、お母さんがアメリカ人って言ってたなぁ」

「ふぅん、そうなんだ。日本人とアメリカ人のハーフって、意外にカッコいい人多いよね。でも良かったじゃない、ナツキはアメリカ人と結婚したいなんて言ってたんだからさ」

「もうっ、どうしてそんなに飛躍して考えるかな! 言っとくけどね、確かに仲は良いけど、別に付き合ってる訳じゃないんだからね! それにあの人の心には、アタシなんかが太刀打ち出来ない、とってもステキな人がいつも映ってるんだから……」

「えっ? マジ? なぁんだ、それじゃホントにナツキの片思いなの? おっかしいなぁ、私、そういうのってまず外さないんだけどなぁ……」メアリーは両腕を組み、考え込むような顔付きで言った。

「だからぁ、片思いとか、そういう特別な感情は持ってないんだってば! ただ……、なんていうのかな、かなりいい線いってるとは思うけどね……」

「ほら、やっぱり。それはたぶん、自分で気付いてないだけで、ちゃんともう恋してるんだよ。もっと自分に素直になればいいのに。だってナツキって、もっと前向きな性格だったじゃん?」

「まぁ、そりゃ確かにそうなんだけど……。でもね、こればっかりはちょっとさ、勝手が違うって言うか、次元が違うって言うか、上手く言えないんだけど、もっと深い話なんだよね。まぁ、信じてもらえるかどうかはわからないんだけど……」夏妃はメアリーとイーサンに、太陽と真冬の関係と、事故の直後、死の世界の淵で真冬と出会った話をした。

 気が付いたら自分が空中に浮いていたこと、音がまったく聞こえなかったこと、そこで真冬とその叔母に会い、心で会話したこと、二人が眩しい光の中へ消えて行ったこと、そしてその状況から自分の肉体に帰り、現実の世界へ戻ったことなど、いまだに現実のものとして自分でも信じられない話を告白した。「こんなこと、今まで誰にも話したことないんだけど、その真冬さんがね、その太陽って人のことをよろしくって……アタシに頼んで行ったんだ……」

 夏妃のこの話は、メアリーとイーサンにとっては、当然のことながらとても信じられる話ではなかった。だが、夏妃の真剣な瞳、その喋り口調にだんだんと引き込まれ、二人の心には空想以上のものが生まれ始めていた。

「それじゃぁ、人が死ぬ時は、必ず宙に浮かぶものなの? それで、その眩しい光の中に吸い込まれて行くものなの? なんか、すごく神秘的だね」。

「必ずしもそうなのかはアタシにはわからない。だけどあの時は、確かにみんなそうだったのよねぇ……」興味津々の瞳で聞いたイーサンに、記憶を探るように夏妃が答えた。

「なんか……すごく不思議な話……。そのマフユっていうのがタイヨウって人の彼女で、ナツキの従姉妹なんでしょ? しかもその叔母さんがナツキのお母さんって……」メアリーは頭の中で様々な思考を巡らせながら、その信じられない話をなんとなく理解して行った。「そっかぁ……。まぁ、世の中には、常識じゃ考えられないことが山程あるからねぇ……。そんな不思議な体験をした人がいたとしても、もしかしたらそんなに不思議なことじゃないのかもしれない。それはそうと……なんか、ナツキって雰囲気変わったよね。しばらく会ってないからとかじゃなくて、なんて言うのかな? ナツキはナツキなんだけど、なんとなく、全然別の人の雰囲気っていうか、すごく落ち着いた雰囲気を感じるのよね……」

「えっ? そう? まぁ確かに、それは日本でも友達とか家族によく言われるけど……。でもね、雰囲気もそうなんだけど、食べ物の趣味とか服の趣味も、なんか変わっちゃったみたいなのよね。ほら、アタシ、甘いもの全然ダメだったじゃない? それが今じゃ、どうしてだか大好きになっちゃったり……。あとね、今までアタシ、本とかってまったく興味なかったんだけど、それが読みたいって思うようになってさ。自分でもすごく不思議なんだけど……なんかさ、誰かが……、アタシじゃない誰かがアタシの中に住んでるみたいな、そんな感じ……」夏妃はワインを一口飲むと、自分の中にあった疑問を口にした。

「それはもしかしたら……その不思議な体験と、何か関係があるのかもね。ほら、たまに聞くじゃない? 臨死体験した人が、まったく別の性格になっちゃったみたいな話。もしかして、そのマフユって人がナツキの中に住んでるんじゃないの?」

「えぇっ? まっさかぁ!」 

「だって……マフユはタイヨウのことをよろしくってナツキに頼んで行ったんでしょ? それじゃぁ、ナツキの中に宿ってタイヨウのそばにいたいって思ったって不思議じゃないじゃない? いや、きっとそうだよ。タイヨウを愛する気持ちがそうさせたんだよ……」

「えーっ、ちょっとやめてよ。なんか、そんなのって……」夏妃は両肩を抱えると、首をすくめて一瞬身震いした。

 だが、自分の従姉妹として、同じ女性として、また、同じ男を愛したもの同士として真冬の気持ちを思うと、夏妃の心には、切なさに近い感情と、太陽を愛して行くという責任感が湧きあがるのだった。


 そのライブハウスは、夏妃の想像していたものとは大きく違っていた。

 えた臭い、汚れた壁、荒んだ空気、近寄りがたい客達、なんとなく、生理的に危険な雰囲気まで感じ取れる。夕暮れ時ということもあり、そんな空気が肌を伝って感じ取れるようだった。それはまるで、立ち入ってはならない場所に自分が足を踏み入れてしまったような、そんな不安を覚えるような感覚である。

「ねぇイーサン、ちょっとこれ、アタシがここにいても大丈夫なの? なんか、ちょっと怖い……」夏妃は体をすくめ、上目遣いに辺りを見回しながら聞いた。

「えっ? なに言ってんの? 子供じゃないんだからダメな訳ないじゃん。何が怖いのさ」イーサンはおかしさを堪えるように、口元を手で覆いながら言った。

 リトルトーキョーから南へ1ブロック行ったところにあるボイドストリート。ファットピッグという名のライブハウスはそこにあった。その名のとおり、店の入り口から通路、奥の客席まで、太った豚のポスターやオブジェが所狭しと並んでいる。

「そうね。よく考えたら、豚だらけで怖くないかも」夏妃は辺りを見回し、特大の豚のオブジェを見つめながら白い歯を見せた。

 夏妃がロスに来て四日目、偶然にもここファットピッグで、晴人率いるライフボックスのライブが予定されていた。

 晴人に何も告げずに渡米した夏妃は、この偶然に驚くのと同時に、運命に近いものまで感じるのだった。

『もしかして、アタシがここに来たのは決められたことだったのかも……。まさか、真冬さんがそうさせたのかな……』そんなことまでもが頭の片隅に浮かんで来る。

「今日の三番目がハルトのバンドだよ? ほら、見てよ。そこらじゅうライフボックス目当ての客だよ」イーサンの声に辺りを見回すと、確かにそれらしい客が全体の半分近くを埋め尽くしていた。

 晴人が日本人だということを意識してのことだろうか、日本語や漢字がプリントされたTシャツを着ている客が多く目に付く。さらに、自分で作ったのだろうか、晴人の顔がプリントされたTシャツを着ている客までいた。

「これ……みんなあの子のバンドのファンってこと? えーっ、信じらんない。たまたまみんな、日本語のTシャツを着てるだけなんじゃないの?」夏妃は、これだけ多くの外国人が自分の弟のファンだということに、なんとなく抵抗に近いものを感じた。自分と晴人との距離が、なぜか遠いものに感じてしまったのである。

「違う違う、ここにいるほとんどの人間が、みんなハルトの演奏を聴きに来てるんだよ。ナツキの弟は、それくらいすごいギタリストなんだよ?」イーサンは、まるで自分のことを自慢するかのように、目をキラキラさせながら言った。


 ただ喧しいだけの最初のバンドと、それぞれが自分の世界に浸り込んでいるナルシスト集団のステージが終わり、ドラムやアンプなどの機材の整備が終わると、いよいよライフボックスの出番となった。

 ステージの端からスティックを持った恰幅のいい男が登場し、続いて大柄な体のベースを持った男が登場すると、会場からは指笛と歓声が沸きあがった。先程のステージには見られなかった光景である。

 そしてステージの反対側から背の高いギタリストが登場すると、会場中から割れんばかりの拍手や歓声、指笛が乱れ飛んだ。まるでアンプでも通しているかのような大歓声である。

 夏妃の隣では、イーサンがそんな客達と同じように、狂ったように歓声を上げていた。「ほらっ、ハルトが出てきたよ! うわっ、見てるだけでカッコいい!」

 そんなイーサンを微笑を湛えながら優しく見つめていると、最後に登場したボーカルの声と共に、大爆音が会場中に鳴り響いた。

 その瞬間、客達の誰もが自分の中にあるなにかを開放し、体中でビートを表現し始めた。両手を振りかざす者、激しく頭を振る者、狂ったように暴れ出す者。

『こういうのって、どこの国でも共通なんだ……』夏妃は、ミステリアスムーンのライブで見た光景を思い出し、自身の中に熱いものが沸き上がって来るのを感じた。

 腹の底を打つドラムのビート、地を這うようなベースの低音の心地良さ、その二つの楽器を引っ張るように奔るボーカルの声、夏妃はこのバンド、ライフボックスに、ミステリアスムーンに近い臭いを感じた。そして次の瞬間、三つの楽器の隙間をすり抜けるようにギターの音が会場に響き渡ると、彼女は心臓を鋭いもので貫かれたような錯覚を感じた。

『あっ……』晴人の奏でたギターの音は、夏妃の聴覚中枢に直接入り込み、彼女の感性や感覚、そして魂までをも完全に包み込んだ。そして興奮と感動という感情を与え、全身に鳥肌すら立たせるのだった。

 会場中の観客も夏妃と同じように興奮と感動を感じ、内から溢れるボルテージを抑えきれないようだった。その証拠に、晴人のギターが鳴り響いた瞬間から先程を上回る歓声が沸き上がり、全身で自分を表現する客が明らかに増えている。隣では、イーサンが狂ったように頭を振り始めていた。

『これが……、これがタイちゃんの言ってた次元の違う音……』夏妃は、太陽の言っていたその言葉の意味を、身をもって知るのだった。

 夏妃の中で最高だと思っていた千秋のギターの音とはまた違う、ダイレクトに心を鷲摑みにするような、それでいて脳天に快楽を与えるような、そんな強烈な刺激を晴人のギターから感じたのだ。気が付けば、夏妃もその究極の音に取り込まれ、身体中でビートを刻んでいた。

 それは夏妃が、自分の弟の本当のすごさを知り、尊敬の念を抱いた瞬間だった。


「単刀直入に言うけど、晴人、あんたは日本でタイちゃんと音楽をやるべきよ。今日あんたのライブを観て、アタシはそう確信したの」ライブが終わり、久し振りに晴人と顔を合わせた夏妃は、開口一番、姉としての威厳を含んだ口調で言った。 

「おいおい、なんだよいきなり。せっかく久し振りに会ったってのにさ。なんかもっと、穏やかで楽しい話とかないの? 例えばお姉の恋の話とかさ」晴人は驚いた表情を見せながらも、苦笑いを作りながら言った。

「そんな話はどうでもいいの。とにかく、あんたのギターの音とタイちゃんの歌声は、素人のアタシが聴いても確実にシンクロするって感じる。これがどういうことかわかる? あなた達二人は、素人さえも感動させる、とってもすごいものを持ってるの。二人が組まない理由なんてどこにもないでしょ?」

「ちょっと待ってくれよ。そんなこといきなり言われたって、はいわかりましたなんて言えると思うか? ちょっとさ、とりあえず飯でも食いながらゆっくり話そうよ。今日はたまたま夜のバイトも休みだからさ」晴人は苦笑いを作ったまま、姉を宥めるように言った。「ちょっとさ、この先のオマーストリートを南へ一ブロック行った辺りにさ、日本食が食える店があるから、とりあえず先にそこ行っててよ。野暮用片付けたらすぐ行くからさ」

「あっ、僕そこ知ってる。日本語で書かれたホテルのとこでしょ? 行ったことあるよ」イーサンが、目をキラキラさせながら言った。

「えっ? あぁ、うん、そこだけど……」

「あっ、この子ね、アタシがお世話になってる家のイーサンっていうの。あんたの大ファンなんだって」

「あぁ、例のホームステイ先の人か。なんだ、そんじゃぁ安心だ。じゃぁ、二人で先にその店行っててよ。ちょこちょこっと用事片付けて、すぐ行くからさ」晴人は爽やかな笑顔を見せると、片手を上げながら楽屋の奥へと消えて行った。


 その店は、小さな輸入物の雑貨を扱う店の隣に、まるでその存在を消しているかのように、ひっそりと小さな明かりを燈していた。

 どんな商売でも、ネオンや電飾で派手に飾るのが普通のアメリカでは、看板に電気が燈されただけのこの店は、その店を知っている人でなければうっかり見逃してしまうかもしれない。

「相変わらず客がいねぇな、この店は」席に着くなり、晴人は辺りを見回しながら言った。「一応さ、この辺はリトルトーキョーが近いから、日本人が多いはずなんだけどな……。まぁ、この時間じゃ、観光客はみんなホテルに帰っちゃってるか」

「そうだね。この時間じゃ、観光客はみんなスキッドロウの外に出ちゃってるだろうね」イーサンがバーボンのグラスを傾けながら言った。

「それはそうとさ……」夏妃がテーブルから乗り出すように、晴人に向かって言った。「アタシ、あんたのギターを初めてまともに聴いたんだけど、正直さ、なんて言うのかな、ぶっちゃけ感動しちゃったよ。タイちゃんとか、あの日本のライブハウスの人が言ってることがやっとわかった気がするよ」

「えーっ、お姉、今さら何言ってんの? 自分で言うのもなんだけどさ、俺はそれなりにギターには自信あるんだぜ? そうじゃなきゃ、こんなアメリカくんだりまで来ないっつうの!」

「まぁ、そりゃぁそうだけどさぁ……」

「えーっ、ナツキは今までハルトのギターを聴いたことなかったの?」イーサンは、本気で驚いた顔を見せながら言った。

「うん。CDでは聴いたことあるけど、ライブは初めてだね。っていうかアタシ、他のバンドのライブだって数える程しか観たことないんだから。だいたい、ロックに興味持ち始めたのもまだ最近だし……」

「あぁ、確かそう言ってたね。なぁんだ、もったいないなぁ。こんなに才能ある人が自分の弟なのに……」

 晴人はそんな二人の会話を聞きながら、姉の突然の渡米の意味、そして太陽から受けたオファーのことを考えていた。

 晴人自身の中でも、自分の追い求める最高の音を作るためには、太陽と組むことが最善の道だということは十分わかっている。だが、現在のメンバーとの絆、環境、掴みかけているチャンスを考えると、そう簡単に夏妃の考えを受け入れる訳にはいかなかったのである。

「あのさ、お姉、さっきの話なんだけど……」晴人はマルボロに火を点けると、溜息のように言葉を吐いた。「単刀直入に言うけど、さっきのあの話は今の俺には無理だからな。手紙にも書いたけど、俺は今、ホントに順調に音楽活動してるんだよ。いいメンバーにも恵まれてるし」

「あぁ、まぁ、それはわかってる。わかってるんだけどね……ちょっと、言葉にするのは難しいんだけど……」夏妃は一呼吸してから、ゆっくりと言葉を繋いだ。「あのね、何の根拠もない話なんだけど……あんたはさ、タイちゃんと音楽をやる運命だって思うのよ。どうしてって言われても説明は出来ないんだけど……」

「運命? なんか、まえに太陽さんもそんなこと言ってたなぁ。いったいなんなんだよ、その運命って。根拠もないのにそんなこと言われたって、俺にはよくわかんねぇぜ? だいたい、俺は運命なんてものは信じてねぇし」

「まぁ、確かにそれはそうなんだけど……。でもね、たぶんアタシ達の考えの及ばないところで、普通じゃ想像もつかないところでそういう流れが作られてると思うんだ。まぁ、これも根拠はないんだけどさ……」

「まいったな……」晴人は苦笑いを作りながら、短くなったマルボロをもみ消した。「ちょっとあれだな、その辺の話は俺には難しくてわかんねぇや。つぅかさ、俺はあのブタで、あぁ、あのライブハウスのことな。あのライブハウスで、やっとこさ専属契約が取れたとこなんだよ。それに、ちっちゃいけど、地元のレーベルからも声が掛かり始めてる。まぁ、まだ先は見えないけど、それなりに成功に向かって動き始めたところなんだよな。だから悪いんだけど……」晴人はそこまで言うと、新しいタバコに火を点け、真上にふぅっと吐き出した。

「そのタイヨウって人は、そんなにすごいボーカルなの?」静まった空気を入れ換えるように、イーサンが口を開いた。

「えっ? そりゃぁ、すごいなんてもんじゃないわよ。ロックにまったく興味のなかったアタシが、あの歌声でその世界に完全に引き込まれちゃったんだから。なんかね、歌声だけじゃなくて、パフォーマンスとか……あっ、そうそう、なんかとっても不思議なんだけど、あのグレーの瞳に吸い込まれちゃう気分になるのよね」

「それは……ただ単に、その人がナツキの好みのタイプだったからじゃないの?」

「何言ってんのよ! 全然そんなんじゃないんだってば! そういう表面的なことじゃなくて、なんて言うのかな、もっと異次元的な感覚なの! ねっ、晴人?」

「えっ? あぁ、まぁ、そんな感じだな」突然話を振られ、晴人はしどろもどろに答えた。

 だが晴人は、夏妃が太陽に感じた感覚はかなり的を射ていると思った。彼自身も、太陽の歌声、アクション、ステージングなど、すべてのパフォーマンスが異次元的だと感じていたのだ。彼の求める最高のボーカル、それはまさに、その言葉そのものだったのである。

「それはそうと、全然話変わるんだけどさ……」晴人が二本目のタバコをもみ消しながら、静かに口を開いた。「お姉、ちぃちゃんって覚えてるか?」

「ん? ちぃちゃん?」

「そう、ちぃちゃん。ガキの頃にさ、なんかすっげぇ金持ちの女の子が友達だったの、覚えてない?」

「うーん、なんか、いたようないなかったような……。そんで? その、ちぃちゃんがどうかしたの?」

「そっか。やっぱお姉は全然気付いてないんだな……」晴人は運ばれて来たズブロッカに口を付けると、三本目のタバコに火を点けながら話を続けた。「俺はさ、思い出したんだよ。あのミステリアスムーンのギターが誰かってこと。それがそのちぃちゃんだよ」

「そうそう! アタシもね、あの子は絶対どっかで見たことあると思ってたんだ。っていうか……ちぃちゃんって誰なんだっけ? うーん、なんか、覚えてる気がしないでもないんだけどさぁ……」夏妃は首を傾げ、記憶を探るように頭をかいた。

「ほらっ、おふくろがえらくお気に入りだった子だよ。しょっちゅう家に来てたじゃん。あっ、そうだ、いつも相沢のおじさんって人が連れて来てたな、確か……」

「相沢……ちぃちゃん……」夏妃は、記憶の底の引き出しを一段ずつ開き、ゆっくりと幼い頃の思い出を掘り起こしていた。

 父の言葉、母の笑顔、幼稚園の思い出、やんちゃだった晴人、好きだった遊び、そして……。

「あっ……もしかして……」夏妃は、記憶の中にほんの一瞬だけ過った一人の少女の面影に、とても深い印象を抱いた。「その子ってもしかして、アタシ達にお母さんを取られたって言ってた子?」

「そうだよ。確か、トランプしてたら、急におっかない目をしてお母さんを取られたって言ってたな」

「あぁ……」夏妃は、晴人の記憶力の良さに感服するのと同時に、少しずつだが、千秋のことを思い出し始めた。

 長くてさらさらの髪、大きな目、同い年なのに千秋の方が背が高かったこと、そして、どんなに楽しくてもあまり笑顔を見せなかったこと。 

「そっか……あの子が千秋さんなのかぁ……。でもあんた、よくわかったわね? アタシなんて全然思い出せなかったんだよ?」

「えっ? あぁ、最初は俺もわかんなかったんだけど、なんだろ? なんか、あの女の顔が変に頭にこびりついちゃったんだよな。プロミネンスのライブでも何回か見掛けたことあった気がするし……。なんとなく、思い出さなくちゃいけないみたいな暗示に掛かってさ。だけどまぁ、思い出したからって、別に何にもないんだけどな」晴人はグラスのズブロッカを一気に飲み干すと、苦笑いを作りながら言った。

「そっか、でも何でなんだろう。なんとなくあの子、いつもあんまり楽しそうじゃなかったイメージがあるんだよね。何度も遊びに来てたんだから、少なくとも嫌で来てる訳じゃなかったんだろうけど……」

「あぁ、それな。たぶんそれは……俺達のことを恨んでたからだと思うぜ? なんでか知んないけど、自分の母親を俺達に取られたって思い込んでたみたいだからさ。たぶんいつも、自分が母親だと思ってる人に会いに来てたんだろうけど、意味わかんねぇよな。なんでおふくろがあの女の母親なんだよ。それともホントにおふくろはあの女の母親なのか?」

「へ? なにバカなこと言ってんの? そんなことある訳ないじゃない。そしたらあんたとあの子は姉弟ってことになっちゃうじゃないの! そんなの……」その瞬間、夏妃は自分の脳裏の端に閃光が走るのを感じた。

『あの女はオレと夏妃を捨てて、遠いところへ行っちまったんだよ……。雪乃だってなぁ……』

 幼い頃、酔った父が夏妃に放ったその台詞が、強烈な光を放ちながら、彼女の中に眠っている遠い記憶に刺激を与え、ある一つの疑念を抱かせた。

『雪乃だってなぁって……どういうこと……? 母さんが……? まさかそんなことある訳ないじゃない……』その言葉は夏妃に、恐怖に近い感情を与え、そして悪夢のような予感を与えた。『まさか、そんな……そんなこと、ある訳ないじゃない。そんなの絶対……アタシ、なに考えてるんだろ……』

「おいっ、お姉! お姉ってば!」気が付くと、晴人が眉間にしわを寄せながら、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「えっ? あぁ、なに? どうしたの?」

「どうしたのじゃねぇよ。話の途中で急に固まっちゃってさ」晴人はマルボロに火を点けながら、呆れた顔で姉を見つめた。「まったくどうしちゃったんだよ。なんか顔色悪いぜ? 大丈夫か?」

「あぁ、ごめんね。ちょっと一瞬、考え事しちゃってさ……」

「なんだそれ? まぁいいや。とりあえず、あれだな。太陽さんのバンドにはもうあの女がいる訳だから、今すぐギタリストを必要としてる訳じゃないだろ? だから悪いけど、いくらお姉の頼みだからって、ちょっとその話は無理だな。それに、もしツインギターでやるにしても、俺はあの女と組む気なんてさらさらないしな」晴人はそう言うと、マルボロの煙を真上に向かって吐き出した。

「そっか……。まぁ、しょうがないよね……。わかったよ……」夏妃はまるで他人事のように、小さな声でポツリと答えた。彼女の脳裏は、幼い頃に聞いた父の台詞と、悪夢のような疑念で埋め尽くされ、そう答えるのがやっとだったのである。

『まさか……晴人と千秋さんは……』今日、初めて生まれたこの疑問は、その後しばらくの間、夏妃の心の大部分を支配するのだった。


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