第5話   月   

   第五章   月



 その日も朝から雨が降り続いていた。

 一週間前にテレビが梅雨入りを伝えてからもう七日、時々小雨にはなるものの、ずっと降り続いていることになる。

「まったく、よく振るなぁ。いいかげん、青空が恋しくなって来たよ」太陽は窓際に立ち、灰色の空を眺めながらいくぶん気怠るそうに呟いた。

 窓の外は、どんよりと曇った雨雲が六月の空を占領している。

「しかたないでしょ? 梅雨なんだから」真冬が太陽と同じように、灰色の景色を映し出している窓に目を向けながら、笑いを含んだ声で言った。「梅雨に雨が降らなかったら、それはもう梅雨じゃなくなっちゃうでしょ? 季節が夏へと移り変わるための準備だと思えばなんてことないじゃない」

「そりゃまぁそうなんだけどな……。ただなんていうのかな、暦の上ではもう、すでに夏になってる訳じゃん? だったらちょっとくらい青空が覗いてくれてもいいんじゃねぇかなって思う訳よ。こう天気が悪いとバイクにも乗れねぇしな」太陽は右手で軽く握り拳を作り、アクセルを捻る仕草をした。

「オートバイかぁ……。わたしも乗りたいなぁ。もう半年くらい乗ってないもんね。わたしのバリウス君は元気にしてるかしら」真冬はため息と共に、いつも風の世界へと連れて行ってくれていた、ワインレッドの自分の愛車を思い浮かべた。

「あぁ、相変わらず絶好調だよ。心配すんなって、ちゃんとオレが週に一度はエンジンに火、入れてるからさ。そんなことより体を治すことを第一に考えないとな。乗り手がいないとバイクだって寂しいだろうし」

「うん……そうだね。梅雨が明ければ夏だし、せっかくの季節が台無しになっちゃうもんね。ねぇタイちゃん? 梅雨が明けたらさ、また行こうよ、湘南。もうあれから四年も経つんだよね……。わたしね、あれから一人でいろんなとこ走ったけど、あんなに気分のいい道路って他になかったなぁ。だからもう一度ね、タイちゃんと走りたいんだ、あの道を」真冬はその時の情景を思い浮かべ、懐かしい目をしながら言った。

 真冬が入院してからのこの半年、太陽は時間の許す限り彼女のもとを訪れていた。

 仕事が休みの日曜、祝日はもちろんのこと、平日でも仕事が早く終わった時などは、まるでそれが日課であるかのように彼女の病室を訪れている。

 最初の頃――年末から年明けの頃はそうでもなかったのだが、バレンタインデーを翌日に控えた、ある雪の降る日に彼女の病名を聞かされて以来、彼の心の中にある、大きくて、神聖で、愛しくて、そしてとても大事な何かが崩れていくのを感じ、太陽は一分一秒でも真冬と一緒にいる時間を作りたいと思うようになったのだった。

 彼女をむしばんでいる病、それは急性骨髄性白血、いわゆる白血病であった。

 もちろん太陽にも、そして真冬にも、それがどんなに恐ろしい病気かはわかっていたが、お互いにそれを表情や態度に出したり、ましてやその病気について話すなどといったようなことは決してしなかった。それは現実を受け入れられない、その病と正面から向き合えないなどといった、悲観的な感情から来るものではなく、きっと真冬の持病によって幼い頃から二人の間で培われて来た、暗黙の了解のようなものがそうさせていたのだろう。

 事実、病名を知らされた後の真冬は、最初こそショックで絶望の淵に立たされたような状態だったが、その後は以前よりも口数が増え、さらに笑顔さえもが増えているように太陽には感じられた。

 太陽はそれを、彼を含めたまわりの人達への、出来るだけ心配を掛けまいとする、彼女なりの気配りや気遣いと感じていたので、彼もまた真冬に対して、出来るだけ明るく、普段と変わらない態度で接するように努めていた。

「ねぇタイちゃん? 今日は買って来てくれた?」真冬はベッドの上から、子猫のようなまんまるい瞳で太陽を見上げながら聞いた。

「えっ? あっ、いっけね、本屋で本選ぶのに集中しすぎて忘れちまったよ。ゴメンごめん」

「えーっ、この前、次来る時は買って来るって言ったのにぃ」まんまるい瞳にほんのりと不満の色が浮かび上がる。

「なんてな、ほらっ、ちゃんと買って来たよ!」太陽は白い箱を取り出すと、ふくれっ面をしている真冬の前に差し出した。とたんに彼女の瞳が喜びの色でいっぱいになる。

「やったぁ、タイちゃんサンキューね! やっぱり雨の日はエンゼルフレンチに限るよね。いっただきまぁす」

 真冬は箱からドーナツを取り出すと、至福の笑顔を見せながら一口ほおばった。「うーんおいひい! 超ひあわせぇ!」

 まわりの人をも幸せにしてくれそうな笑顔である。

『こんな笑顔作られちゃったら、どんなに怒ってる奴でも大概のことは許せちゃうんだろうな……』

 彼女のその笑顔は、太陽に束の間の小さな幸せを与え、またとても暖かい気持ちにさせてくれた。そして同時に、真冬を愛惜しいと思う心をあおり立て、胸に暑いものを込み上げさせ、やり場のない怒りと、とりとめのない悲しみを彼に思い出させもした。

『どうしてこいつがこんなに不幸にならなくちゃいけないのか、どうしてこいつだけがこんなに可哀想な思いをしなくちゃならないのか、そしてどうしてこいつだけが人と同じ普通の人生を歩めないのか。こいつは人より上のものなんて何も望んじゃいないのに、ただ普通に暮らしたいって思ってるだけなのに、いったいこいつが何をしたっていうのか、なぜこんな試練を与えるのか、なぜ普通に暮らすことを許してもらえないのか……。人間の一生の内で一番楽しい時期を、一番美しい時期を、一番輝いてる時期をなぜこいつから取り上げてしまうのか……』

 太陽の胸は急に悲しみでいっぱいになった。そして矛先の定まらない悔しさと怒りが込み上げ、神さえをも恨みたい気持ちが湧き起こった。だがそれに矛盾するように、真冬の病気の回復を、そして代われるものならその病を自分が代わりたいと、神に祈る気持ちがあるのも事実だった。

「ねぇタイちゃん、どうしたの? そんなおっかない顔して」気付くと、真冬が相変わらず子猫のような瞳で太陽を見上げていた。笑顔ではあるものの、なんとなく不安の色をうかがわせる顔つきだ。

「あ、あぁ、なんでもないよ。ちょっと最近、仕事が忙しくてさ……」太陽は、その場を取り繕うようなありきたりな言い訳をすると、まっすぐに真冬を見てニッコリと笑った。

 そこには純真無垢な、まるで人形のように笑っている天使の笑顔があり、頭にかぶったニット帽と、その今にも壊れてしまいそうな儚い雰囲気が彼の涙腺を緩ませ、太陽は危うく涙を溢しそうになった。

「あっ、ちょっとオレ、飲み物買って来るわ」そう言い残すと、太陽は急いで部屋を出て自動販売機のあるホールへと向かい、溢れて来る涙を堪えながら思った。『もう何度、こんな辛い気分を味わって来たんだろう。そしてあと何度繰り返せばこの悲しみから開放されるんだろう……』

 それはまさに、神のみぞ知る、出口の見えない迷路のような疑問だった。そしてこの疑問は、太陽にしてみれば最も考えたくない、“真冬の死 ”というものを連想させる、これ以上ない程の辛い疑問でもあった。

 だが無情にも、悪魔のようなその病は、刻一刻と真冬の身体を、心を、そしてすべてを侵し続けているのである。


 7月の初めの日曜日、太陽が病室を訪ねると、そこに珍しい先客が訪れていた。

 痩せていて背が高く、縁なしの眼鏡を掛けたその男は、真冬のベッドの傍らに立ち、窓から外の景色を眺めていた。

「よぉ、珍しいな、おまえが見舞いに来るなんて。しかもこんな朝っぱらから」太陽はその先客に声を掛けた。

「あっ、タイちゃん久し振り!」笑顔で振り向き、そう答えたその男は、真冬の弟、“康介 “だった。「いや、今日はたまたまなんだよ。今から友達のとこへ行くんだけど、そいつが急用が入ったから約束を一時間遅らせてくれって言うんだよね。だからたまにはアネキのところにでも顔出そっかなって思ってさ。ちょうどそいつん家に行く途中にあるんだよ、この病院って」

「そうなのよ、タイちゃんちょっと言ってやってくんない? この子、さっきからたまたまとかついでとか、まるでわたしを見舞うのが面倒臭いみたいな言い方ばっかりするのよね。まったく、姉弟愛ってものがないのかしら、この子には」真冬が両方のほっぺを膨らませながら言った。

「まぁまぁ、そんなにカリカリするなって。そんなことより、今日はだいぶ調子いいみたいだな。顔色もいいし」

「うん、そうだね。昨日の夜もよく眠れたし、今日は朝から、だるさとか吐き気も少ないんだ」

「そっか、そりゃいいことだな。そんじゃぁ、あとでまたあれ買って来てやるよ、例のやつ」

 太陽は真冬に向かってニッコリ微笑むと、両手の親指と人差し指を合わせ、ドーナツの形を作った。

 このところの真冬は、日を追うごとに元気と明るさが失われている、太陽はそう感じていた。いつも見せてくれるとびっきりの笑顔も、まんまるで黒目がちの大きな瞳も、そしていくぶん高い透きとおったその声さえもが、どこか無理をしているように感じられ、グラスの氷がだんだん解けていくような、そんな切なさに近いものを彼に感じさせた。髪が抜け、薄くなってしまった頭を隠すためにかぶっているニット帽も、よりいっそう白くなり、いまや蛍光灯の光のように生気を失ってしまった彼女の肌も、彼をそう思わせるには十分な役目を担っている。そして日によっては、一日のほとんどを寝て過ごしていることがあることも、彼をそう思わせる大きな要因だった。

 間違いなく病魔は真冬を侵食し続けている、太陽はそう思わざるを得なかった。そして同時に、なんとかならないのかと思う焦り、苛立ち、歯痒さ、そして行き場のない怒り、悔しさ、さらには、もしかしたら真冬を失ってしまうのではないかといった不安や恐怖など、彼の脳裏には負の感情ばかりがめまぐるしく渦巻いていた。

 その背景には、真冬に適合する骨髄が見つからないという、まるで神が彼女を見放したかのような絶望に近い現実があった。

 病気が発覚してからというもの、家族はもちろんのこと、親戚や友人知人に至るまで、適合の可能性のありそうな人の骨髄を片っ端から採取、検査したのだが、残念ながら真冬の身体に拒絶反応を起こさず、適合する骨髄はそれまでのところ見つかっていなかったのである。

 その結果、治療らしい治療というものは何も行われず、薬の投与、つまり抗癌剤による病気の進行の抑制だけがその時の真冬に施されていた唯一の治療だった。

「あっ、そうだ!」康介が突然、なにかを思い出したように声を上げた。「あのさぁ、その今から俺が会いに行く奴なんだけど、そいつがね、どうしてもタイちゃんに会いたいんだってさ。タイちゃん知ってるかなぁ、一年くらい前までヒールレインってバンドでギター弾いてた春人って奴。今はロスで活動してるんだけど、ちょうど今、日本に帰って来てるんだよね」 康介は両手を使ってギターを弾くまねをしてみせた。

「ヒールレインって、それって今メジャーでやってるヒールレインのこと?」真冬が首を傾げながら康介を見上げるようにして聞いた。

「そう、バンド自体はメジャーデビューしたんだけど、あいつだけその直前で辞めちゃったんだよね。本人は音楽性の違いって言ってたけど、もったいなかったよなぁ。だってそこそこ売れてるじゃん? あのバンドって」

「ねぇタイちゃん……」真冬は記憶を探るような顔つきで太陽の方を向いた。「その春人君って……昔よくプロミネンスのライブに来てくれてた春人くんじゃない? ほら、まだタイちゃんが学生だった頃にさ」

 その言葉に太陽は少し思考を巡らせていたが、やがて考えるのをやめ、口を開いた。「その頃のことはあんまり覚えてねぇけど、ヒールレインの春人なら知ってるぜ? そのテの世界じゃそれなりに有名人だからな。そんで? その春人がなんだってオレに会いたがってんだ?」太陽は康介に向き直り、訝しい顔をしながら聞いた。

「さぁ、なんでだろね。ただプロミネンスのことと、タイちゃんの声と表現力のことをすごく褒めまくってたから、たぶん音楽関係のことで話をしたいんじゃないかな? なんか相談したいことがあるなんて言ってたし」

「ふぅん、そっか。そんじゃ伝えといてくれ。音楽とかバンドの話をしたいんなら、オレじゃない他の誰かとしてくれってな。悪いけど、オレは好きで音楽やってた訳じゃないし、それにもう、やるつもりもないんでな」太陽はそう言うと、つまらなそうな顔でパイプ椅子を開き、腰を下ろした。

「ちょっとタイちゃん?」すかさず真冬が割って入る。どうやら少々、ご立腹のようだ。「まだそんなこと言ってるの? 自分に才能があること、わかってない訳じゃないくせに、どうしてそうやって音楽から離れようとするのよ。いいじゃない、会って話すくらい。相手は会いたがってるんでしょ? 別にタイちゃんにデメリットがある訳でもないのに」 

「そうそう、頼むよ。なんとか俺の顔を立てると思ってさ。俺、言っちゃったんだよね。タイちゃんって、すげぇ気さくでいい人だから大丈夫じゃない?って」康介は首をすくめると、ペロッと舌を出して見せた。

「おいおい、勝手にオレをそんなお人好しみたいに作り上げるなよ。だいたいおまえはなぁ……」

「おっと、もうこんな時間だ。そんじゃぁ俺、もう行くね。悪いけど頼んだよ、タイちゃん」そういい残すと、康介は足早に病室を出て行ってしまった。

「やれやれ、まいったな」太陽は康介を目線で見送りながら、溜め息と共に呟いた。「相変わらずせかせかと忙しい奴だな、勝手に決めちまいやがって」

「まぁまぁ、そんなこと言わないでさ、なんとか聞いてやってくださいよ、わが弟の頼みを」真冬はペコリと頭を下げた。

「いや、別にオレも会うのが嫌とか、音楽から離れようとしてるとか、そういうのじゃないんだよな。ただ……なんていうのかな、気乗りしないっていうか興味が湧かないっていうか……」

「はいはい、要するに面倒臭いのね。もう、タイちゃんも大人なんだから、そういうところは少しずつでも直さないとダメだよ? 自分の気分だけで行動を決めちゃうみたいなさ。そんなんじゃいつまでたっても、結婚どころか彼女も出来ないわね」

 真冬は呆れた顔を作りながら太陽を諭すように言ったのだが、急に自分の言った言葉の内容に照れ臭さと気まずさを感じ、顔が真っ赤になってしまった。

「えっ? あぁ、まぁ、そうだな……」太陽もそんな真冬の雰囲気を感じ取り、言葉に詰まってしまった。

「それはそうと――あれだね……」そんな雰囲気を打破するように、真冬が話を繋いだ。「あの子もよくそんな有名人と友達だったりしたもんよね。いったいどこで知り合ったのかしら」

「そりゃぁあれだよ。音楽やってりゃ横の繋がりなんてどんどん広がって行くからな。その中で気が会う奴がいれば、結構すぐ友達になっちゃったりする訳よ。もともと同じ趣味な訳だしさ。まぁ、それだけあいつが真剣に音楽をやってるってことなんじゃないの?」

「へぇ、ミュージシャンってそんなもんなんだぁ。でもまぁ、なにはともあれ、あの子が夢中になれるものを見つけられたのも、みんなタイちゃんのおかげだね。当の本人はなんにも夢中になれるものがないっていうのにねぇ」

「ん? なんでよ。なんでオレのおかげなの?」

「あれっ? もしかしてタイちゃん知らないの? あの子、タイちゃんに認められたくて、ちゃんと音楽やるようになったんだよ? 最初はね、あの子の高校の女の先輩と仲良くなりたくて始めたらしいんだけどさ」

「へぇ、そりゃ初耳だなぁ、あの生意気な康介がねぇ。なんだかんだと、あいつもオレの偉大さに気付いてたって訳だ」

「はいはい、さようでございますか。まったくもう、タイちゃんには言うことが何もなくなっちゃうわねぇ」真冬は両方の手のひらを上に向けると、外人のように肩をすくめてみせた。

「そう言えばさ、全然話変わるんだけど……タイちゃん、ウチのお父さんに妹がいるって知ってたっけ?」真冬は太陽に向き直ると、いくぶん真剣な表情で言った。

「あぁ、いつだったかチラッと聞いたことあるよ。確か双子じゃなかったっけ? そんで? その、えーっと、おまえには叔母さんにあたるのか。その人がどうかしたのか?」

「うん、実はね、わたしもさっき康介から聞いたばっかりなんだけど……その叔母さんがね、先週亡くなったんだって。っていうか、わたしも康介もその叔母さんには一度も会ったことないんだけどね」真冬は太陽に要らぬ同情心を与えないように、明るい口調で話した。が、死というものに敏感になっている太陽にとっては、会ったこともないとはいえ、真冬の身内の死というのは、必要以上に心を刺激するものだった。

「えっ? 亡くなったって……マジかよ。そんで? どうして亡くなったの? おまえの親父さんと同い年なんだから、まだ五十かそこらだろ? まだ全然若いじゃん」

「うん、それがね、詳しいことはわたしもわからないんだけど……なんか事故にあったって……大型トラックにね、交差点で巻き込まれたって……」

 意識して明るく話しているはずの真冬だったが、さすがに内容が内容なだけに、心に感情を締め付けるような悲しみが押し寄せ、ついには瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「えっ? 事故?」ある程度予想していた答えを聞いたはずの太陽だったが、なぜか自分でも意外な程のショックを受け、彼はしばらく言葉を失ってしまった。 

「その叔母さんね、もう二十年以上も前の話らしいんだけど、恋人と駆け落ちして家を飛び出したまんま、ずっと居所がわからなかったんだって。ウチのおじいちゃん、すごく厳しい人だったらしいから。でもまさか、こんなことで居所がわかっちゃうなんて……。人の運命って、ホント残酷だね」真冬はシーツで涙を拭い、なるべく平成を装いながら浮き沈みのない声で言った。

「駆け落ち……。ずいぶん、情熱的な人だったんだな、その叔母さんって」

「そうだね、今の時代じゃあんまり聞かないもんね、そんな言葉。――どんな人だったんだろう? 会ってみたかったなぁ……」真冬は遠くを見つめる目になって言った。

「そういえば亡くなったのが先週って……葬式とかはもう済んだのか?」

「うん、おばぁちゃんの家でね。お父さんだけが行って来たって。でね、その叔母さん、独身だったんだって。だからホントに質素な、寂しいお葬式だったって……」

「えっ? どういうことだ? だって駆け落ちしたって……。んじゃ、離婚したってことか?」

「それはわたしにもわからない。もしかしたらそうなのかもしれないけど、でも、もしそうなら、その旦那さんは亡くなったこと知ってるのかしら? 子供だっていたかもしれないし……」

 その時一瞬、長い間閉ざされていた扉を開けたような、懐かしさにも似た不思議な感覚が真冬の中で湧き起こった。彼女自身、その正体についてなんの心当たりもなかったので、その感覚自体はすぐに忘れてしまったのだが、本人の意思とは裏腹に、心の奥底ではまるで植物の種のようにその感覚が根付くのだった。

「そっか。もしその叔母さんに子供がいたとしたら、おまえにとってはいとこってことになるのか」

「そう、だね。そういうことになるんだね。いとこ、かぁ……」

 真冬はまだ会ったこともない、いや、いるかどうかさえもわからないその、“いとこ ”という存在に想いを馳せながら、窓の外の雨を見つめていた。


 真冬の様態が急変したのは、それから十日ほど経った、小雨の降る日のことである。

 真夜中に急に咳き込み出し、呼吸困難におちいり、そのまま意識を失ってしまった真冬は、その日たまたま付き添いで泊まっていた母親のナースコールで駆けつけた看護師と医師によって一命を取り留めた。だがこの日を境に呼吸をすることさえもが苦しくなり、また、普通に喋ることも以前のように簡単にはいかなくなってしまったのである。明らかに彼女に取り憑いた悪魔のような病が、その恐ろしい猛威で彼女の身体を侵食し始めたのだ。

「残念ながら決して良い状態とは言えません。適合する骨髄が見つからない限り、病気の進行を食い止めることは難しいでしょう」

 真冬の主治医のこの言葉は、真冬の母親を通して、その日の夕方に駆けつけた太陽も知ることとなったのだが、それにより彼の胸中には絶望に近い、ネガティブな感情がうごめくようになり、同時にこの世の終わりを感じさせるような、ドロドロとした不快なもので覆われてしまうのだった。

『どうすれば、どうすればいいんだ……。なんとかしなきゃ……』

 決して悲しみが生まれなかった訳ではない。ただこの時の太陽は、自分の手に負える問題ではないということも忘れ、頭の中で焦燥を空回りさせ、見えない答えを求めていた。だが無常にも、彼に出来る術はまったくと言っていい程何もない。彼は医者でもなければ超能力者でもないのだ。そのこともまた彼に苛立ちを与え、ネガティブな思考を作り出す要因の一つとなり、彼は完全に負の感情の悪循環から逃れられなくなって行った。

 そんな太陽に、真冬が快活さを失った声で話を切り出して来たのは、雨がやみ、久し振りの青空が覗いた日の、夕方と夜の境目と言っていい時間のことだった。南西の空には半分の形をした月が姿を見せている。

「ねぇ、タイちゃん? 今日は――月がきれいだね。半分しかないけど――あんなにきれいな月――久し振りに見たよ……」

「あぁ、そうだな、久し振りだな」太陽は、ちょうど真冬の寝ている位置から窓の外に見える月を見上げながら呟いた。

 月明かりは、暗くなり始めた景色を支配するかのように、煌々とあたりを照らしている。

「そう言えば――春人君とは会ったの?」しばらくの静寂の後、真冬が口を開いた。

「あぁ、先週一緒に酒飲んだよ。康介も一緒にな」

「そっか――よかった……。そんで――どんな話をしたの?」

「ん? うんまぁ、あれだよ。おまえの喜びそうな話」

「そっか――やっぱり、音楽の話だったんだ」真冬の顔にいくぶん赤みが差し、嬉しそうな笑顔が覗いた。「その話――きっとあれでしょ。春人君に、一緒に組まないかって――誘われたんじゃない?」

「えっ? あぁ、まぁそんな趣旨の話だったけど……。でもおまえ、よくわかったな。あっ、そうか、康介に聞いたのか?」

「うぅん、違うの。なんとなくね――そう思ったの」真冬は軽く目を閉じ、深呼吸を一つすると、話を続けた。「この前わたしが意識を失った時にね――夢を見たんだぁ。タイちゃんと春人君が――同じステージに立ってるとこ。すっごい――大きな会場だったんだよ? 何万人も――入れちゃうくらいの。そこでね、二人がすごく――情熱的なステージを披露してるの。だからきっとね――近い将来、それが実現するんじゃないかなぁって――思ってるの。だから――春人君と会ったことは――そのための布石なんじゃないかなぁって……」言い終えると、真冬は太陽を見つめた。瞳には嬉しさの色が溢れている。

 太陽はそんな真冬の視線を受けながら、自分と春人が同じステージに立っている姿を想像し、そんなことがありえるのか?と、心の中で自分に疑問をぶつけていた。

 確かに春人は、太陽にロスで一緒に組まないかという話を持ち掛けて来たが、太陽自身、やはりバンドや音楽に対する情熱が大きく欠落していたこともあり、その話に対して彼は、良い返事をすることをしなかった。それどころか、どうしても諦めきれないと言って聞かない春人と、酒の席というせいもあったのだろうが、軽い口論となってしまい、気まずい別れ方をしてしまったのだ。そんな相手と果たしてバンドを組むなんてことがあり得るだろうか。

 だが、目の前で嬉しそうな瞳であれこれと想像している相手にそんな内容を言える程、太陽は冷たい男ではなかった。

「それで? タイちゃんは――春人君になんて答えたの?」当然、真冬にしてみれば最も聞きたいであろう質問を彼女はした。

「えっ? あぁ、それはあれだよ。オレは今あれじゃん、仕事とか忙しいだろ? それにほら、おまえのことだってあるし。だから急に言われてもすぐに返事は出来ないって言っといた」太陽は真冬を落胆させないように事実を伏せ、思いつくままにでたらめを並べてその場を見繕った。

「なんだ――わたしのことなんかいいのに……。そんなことよりタイちゃんには――音楽をやってほしいのに……」急に真冬の瞳に失意の色が現れた。まるで大切な宝物を失ってしまったかのような、とても悲しい色を瞳に映し出している。

 今の真冬にそんな瞳をされてしまうと、太陽はとてもいたたまれない気持ちになり、自分の信念すら揺らいでしまうのだった。

 その結果、彼はこんな台詞を口にしてしまうのである

「あのな真冬、オレはおまえがオレに音楽をやらせたいって思ってるのを十分わかってるつもりだ。だからおまえのそんな気持ちを踏まえて、前向きに考えようと思ってるよ。だけどやっぱり――やっぱりおまえがこんな状態の時に、大切な時間を割いてまで音楽をやろうとはオレには思えない。オレにとっては、音楽よりもおまえの方が何百倍も大事だからな。だから……とりあえずおまえの病気が治ってから、それから話を進めようと思ってる。オレだってあの男の天才的な才能は認めてるし、それにあそこまで音を追求して、なおかつそれを形に出来るギタリストなんて、日本にそう何人もいないだろうからな」太陽は一気にそこまで喋ると、ベッドの傍らにあるテーブルの上から缶コーヒーを手に取り、口をつけた。

 確かに太陽は、春人のことを認めてはいた。それどころか何年か前、プロミネンスのメンバーに連れられて観に行ったヒールレインのライブで、春人の奏でるギターの音を聴いて以来、その音がしっかりと記憶に刻まれていたのである。もしあの男と組んだら、おそらくそこそこ、いや、かなりアグレッシブな究極の音を創り出すバンドを作れるかもしれない、そんなことが頭を過ったことさえあったのだ。

「そっか、よかったぁ。やっと――前向きになってくれたんだね。そんじゃ――早く治さなくちゃだね」真冬は嬉しそうな笑顔を作ると、ゆっくりと目を閉じ、話を続けた。「ホントはね、タイちゃんのことだから――春人君と話がこじれちゃったり――してるんじゃないかなぁって――ちょっとだけ心配してたんだけど――ほらタイちゃんって――たまに意固地なトコあるじゃない? だから――ホントによかった、本当に……。わたし――頑張って早く治すからね。だから――タイちゃんも必ず音楽をやってね――約束だよ……」そう言うと真冬は、左手の小指を立てて指きりのポーズを作り、太陽の前に差し出した。太陽は笑顔でそれに応え、指を絡ませた。

「わかった、約束するよ。だからおまえも、絶対に治さないとな」太陽は胸の奥に熱いものが込み上げて来るのを堪えながら、精一杯の笑顔でそう答えた。

「そう言えばね……」ふと、思い出したように真冬が声を漏らした。「――タイちゃんと春人君の夢にね――もう一人、女の子が出て来たの。その子はね――茶色のショートヘアーの女の子でね――なんて言うんだろ、一度も――会ったことないんだけど――なんか懐かしい雰囲気を持ってる――不思議な女の子だったの。何が――不思議かっていうとね、その子は――タイちゃんのことを、タイちゃんって呼んでたの。タイちゃんのことを――タイちゃんって呼ぶの、わたしと――康介くらいしかいないでしょ? ――他の人が呼ぶと、タイちゃんいつも――怒ってたもんね」真冬は笑顔で太陽を見つめた。

「それで?」太陽が先を促すように聞いた。

「うん、あとはね……、その子の顔がわたしに――そっくりだったの。でもそれは間違いなく――わたしじゃなくて、全然別の人なの。声とか――雰囲気とかも違うし……」

「ふぅん、変わった夢だな。自分にそっくりの登場人物か……。そんでおまえ、その子となんか話したの?」

「うん、でも――どんな話をしたかは覚えてないの。ただ……」真冬は少し俯き加減になると、呼吸を一つ置いて話を続けた。「もしも……、もしもわたしがいなくなっちゃったら――タイちゃんのことをよろしくねって――頼んどいた」

「なっ!?」太陽は絶句してしまった。

 一番想像したくない言葉がその本人の口から発せられたことに対して、驚きと否定する心がごちゃ混ぜになり、彼の思考を真っ白にしてしまったのだ。

「なにバカなこと言ってんだよ! たった今、頑張って治すって約束したばっかじゃねぇかよ!」太陽はむきになって大きな声を出した。が、次の瞬間、個室といえどもここが病院だということを思い出し、頭を下げた。「ごめん……」

「うぅん、いいの……」真冬はまっすぐに太陽を見つめ直し、笑顔になって言った。「そうだよね。夢の中だからって――そんなにネガティブになってちゃダメだよね。頑張って――早く治さなくちゃ。バリウス君だって待ってるし」

「そうだよ、早く治して、そんでまたツーリング行くんだろ? 元気になりゃなんだって出来るんだから」太陽は真冬の肩を軽く叩き、優しい笑顔を見せた。

 

 それからしばらく二人は、窓の外のすっかり暗くなった街のシルエットを眺めていた。月明かりは優しく、そして煌々とこの街を照らしている。

「タイちゃんちょっと――電気消してもいい?」

 太陽が頷くと、真冬はベッドの脇のスイッチで部屋の明かりを消した。とたんに月は明るさを増し、二人をその優しい光で包み込む。

「ホントに、きれいな月だね。半分しかないのに――あんなに輝いて……。今が半分だから――あと一週間くらいで――満月になるのかな? そしたら――ちょうどタイちゃんの誕生日の頃に――満月だね」真冬は月を見つめながら言った。

「あぁそうか、オレ、もうすぐ誕生日なのか……。全然気にしてなかったよ」太陽は頭の中で日付を確認しながら、時の流れの速さを改めて感じた。

『そう考えると、人間の一生なんてホントにちっぽけな時間なのかもしんないな』同時にそんなことも頭に浮かんでいた。

「そう言えばね――誕生日が満月にあたる確立って――だいたい十九年に一回なんだって。それに――天候なんかを考えると、誕生日に――満月を見られるのは一生のうちにそう何回もないんだよね。なんか――そう考えると、月って神秘的だよね」

「へぇ、そうなんだ。満月ってもっと身近なものって思ってたけど、考えてみりゃ年に十二,三回しかないんだもんな。そりゃ確かに神秘的かもしんねぇなぁ」

 月を見上げながら、太陽はその神秘的という言葉を心の中で繰り返し呟いていた。理由はわからないが、この言葉に不思議と愛着を覚えたのだ。

「ねぇタイちゃん?」少しの沈黙のあと、真冬が月を見上げながら口を開いた。「さっきの話……音楽よりも――わたしの方が何百倍も大事って、ホント?」

「ん? あぁ……ホントだよ」太陽は照れ臭さを隠すために、身体を窓の方に向けながら答えた。

「そっか……。やっぱり――タイちゃんって優しいんだね」真冬は少しはにかみながら優しく微笑んだ。「わたしもね、タイちゃんのこと――すごく大事だよ……」

 真冬のこの言葉に、太陽は心臓を射抜かれたような気がして、一言も言葉を発することが出来なくなってしまった。

 そして再び二人の間に、しばらくの沈黙が流れた。完全に日が沈んだせいだろうか、月はますます明るさを増し、この世界のすべてを支配するかのように優しい光を放っている。

「ねぇタイちゃん?」月を見上げたまま、再び真冬が静かに口を開いた。

 それに反応するように、太陽は真冬の方に顔を向ける。

「わたしね……ホントはすごく怖いの……。怖くて怖くて――それこそホントに――死んじゃうんじゃないかっていうくらい……」

 真冬の頬に一筋、光るものが流れた。太陽の位置からはそれが月の光を帯びて、まるで宝石のように見えた。

「でもね……、病気なんかに――わたしの人生奪われちゃうの、すっごく悔しいから――そんなの絶対我慢出来ないから、わたし――いつも笑ってることにしたの。だって――いつも笑ってれば、最期の時までも笑ってたら――病気に負けたふうに見えないでしょ?」真冬は太陽に顔を向け、涙ながらにとびっきりの笑顔を見せた。

「真冬……」太陽は真冬の手を取り、まっすぐに彼女の瞳を見つめ返した。彼の瞳からも気付かぬうちに涙が溢れ出ている。

「おまえは――強いんだな……。オレもそういうところは――見習わなきゃな……」太陽も口元を緩め、真冬に微笑んで見せた。

 真冬は優しい目で頷くと、太陽の手を強く握り返した。

「それとね……、あともう一つ、今のうちに言っておくね……」手を強く握ったまま、真冬はゆっくりと話し出した。「わたしね、ずっとずっと――ちっちゃい頃からずっとね――タイちゃんのこと……」

 真冬がそこまで言った時、太陽は人差し指でそっと彼女の唇を押さえた。そしてその唇にそっと唇を重ねると、優しく真冬の頭を撫でた。

「真冬……、オレは、世界中でおまえだけを――愛してる……」そう言って太陽は優しく真冬を抱きしめた。

 窓の外からは、位置を少し低くした月が、相変わらず優しく、そして煌々と二人を照らしていた。

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