第4話   春

「えーっ! ちょっとそれホントなのぉ? うわぁ、マジでショックだわぁ……」未奈は左の掌を額にあて、首をのけぞらせた。

「でしょ? もうショックなんてもんじゃないわよ。せっかくCDまで出して、いよいよこれからメジャーデビューって時だったのにぃ」香織はそう言うと、半分ほど残っていたジョッキのビールを一気に飲み干した。それに連られるように未奈もジョッキを空ける。

「ちょっとちょっと二人とも、まだ飲み始めたばっかりだよ? 一杯目からそんな飲み方してると、またこの前みたくトイレの個室占領しちゃうんじゃないの? もうイヤだからね、あんなのは!」夏妃は呆れ顔で目の前の二人を交互に見つめた。

「ぷはぁっ、あっ、店員さぁん、生中二つおかわりね! まったくもう、これが飲まずにやってられますかっつぅの! だいたい、あたしがあのバンドにどんだけ情熱注入して来たと思ってんのよ。それをいきなり解散だなんてさ!」

「そうよそうよ! あぁん、もう太陽君に会えなくなっちゃうよぉ」未奈は、まるで小さい子供がダダをこねるような仕草をしている。

「太陽君? あぁ、前に言ってたイケメンボーカルのバンドの話ね。へぇ、解散するんだぁ。それはそれは、ご愁傷さまでございます」夏妃は完全に他人事のように明るめのショートヘアーを掻き揚げ、セーラムに火を点けながら言った。

 夏妃にとってはバンド、特にロックの類は、その音楽も、そしてそれをやっている人間も、まったく興味を覚える対象ではなかった。

 どちらかといえば彼女は、ドラムやギターが目立つような音楽よりもバラード調のものが好きだったし、なにより日本人のアーティストにはまったくと言っていいほど魅力を感じていなかった。

「ちょっとぉ、ずいぶん冷たい言い方じゃない? こうやってあなたの親友が嘆いてるっていうのにさぁ。だいたい、夏妃はいっくら誘ったってライブにも来ないし、全然あのバンドの良さもわかってくれようとしないよね。どうせこの前貸したCDだって聴いてないんでしょ?」そう言いながら香織は、夏妃の目の前に置かれたジョッキに手を伸ばし、自分の前に持って来ると、喉を鳴らしながら二口ばかり呷った。

「あぁ、あのダッサい曲の入ったCDね。はいはい、一応ちゃんと聴きましたよ。って言うか、なんなの?あの曲は。まぁコンセプトが公的なものらしいから、しょうがないっていうのもあるかもしんないけど、それにしたってセンスの一かけらもない曲じゃない? 詞は問題外だし。って言うか人のビール勝手に飲まないでくれる?」夏妃はジョッキを取り返しながら言った。

「あーっもう、またそうやってけなすぅ! どうして夏妃はオブラートに包んだような言い方が出来ないかなぁ。なんでもハッキリ言えばいいってもんじゃないでしょ?」未奈はそう言うと、夏妃のビールジョッキをひったくるように取り、残りのビールを一気に飲んだ。「ぷはぁっ、あっ、すいませぇん、ここ生中もう一杯追加ねぇ! それにしてもさぁ、夏妃も一回くらいライブ観に行けばよかったんだよ。そうすればもっとプロミネンスの良さも伝わっただろうし、太陽君の魅力も絶対わかったはずなのに。あぁもう、何がいいって、太陽君のあの声がたまんないのよねぇ。ロックバンドなのにあんなに声がきれいで歌の上手い人、芸能界にもいないんじゃないの?」

「そうそう、プロミネンスの最大の魅力は、ボーカルの太陽のあのルックスと声だよね。って言うか、別にバンドのボーカルじゃなくてもソロで十分やって行けるんじゃないの? ギターの日比野もいい線いってるけど、たぶんみんな、太陽目当てでライブとか行ってるはずだしさ。でもね、これは噂なんだけど、デビューの話を蹴っちゃったのは太陽がメジャーでやる気がないからなんだって。それが引き金で解散になっちゃったって話なんだけど、なんか、すごいもったいない話だよね。なんでメジャーでやろうって思わなかったのかなぁ……」香織がマルボロの煙をくゆらせながら言った。

「ふぅん、なるほどねぇ、あんた達はそこまでその太陽って人を崇拝してる訳だ」新しく運ばれてきたジョッキに口を付けながら夏妃が言った。「まぁ確かにね、あのCDの曲には何のフォローも出来ないけど、あのボーカルの声にはアタシもちょっと心動かされたかな? 何て言うのかな、透明な中にも重厚さがあるみたいな感じ? 高音も低音も何の無理もなく、きれいに心地よく聴いてられるのよね。アタシが知る限り、日本人アーティストじゃあんな声質の人はいないんじゃないかな? それと英語の発音。あの曲の最後の方に、ちょっとだけ英語の歌詞があるじゃない? ちょっとびっくりしちゃったんだけど、そこをネイティブ並みの発音で歌ってるのよね。相当英語ペラペラな人なんじゃないの? 日本の曲を歌わしとくのがもったいないって思っちゃったもん」

「なんだ、夏妃にもちゃんと太陽君の良さがわかってるんじゃない。それにしても、さすがは海外留学経験者。私達とはやっぱり目の付け所が違うのね。まさか英語の発音に喰いついて来るとは……」

「うんうん、さすがは夏妃だわ。それだからこそ生で太陽を見てもらいたかったよね。太陽って、日本とアメリカのハーフなんだよ? お母さんがアメリカ人だったかな?」

「えーっ、そうだったの? 何でそれを一番最初に言ってくれないのよ。アタシがアメリカ大好きなの知ってるでしょ? なぁんだぁ、そんなんだったら一回くらいライブ行っとけばよかったなぁ。ホントにあんた達は、そういう大事な情報をいっつも後回しにするよね。ちょっとぉ、その太陽って人の写メとか持ってないの?」

「えっ? あの貸したCDに載ってたじゃん。あれ見てないの?」

「ダメダメ、あんなちっちゃな写真じゃ何がなんだかわからないよ。もっとハッキリ映ってるやつじゃなきゃ」

「あっ、私持ってるよ! ちょっと待っててねぇ……。ほいっ、どうぞ」

 未奈が差し出したスマートフォンの画面に映っていたのは、プロミネンスのライブで熱唱している太陽の姿だった。どうやら未奈は、かなり前の方の席から撮影したらしい。そのライブの熱気と臨場感が伝わって来るようだ。

「ふぅん、なるほどねぇ……。父親似なのかな? 思ったよりも日本人っぽい顔してるのね。あっ、でも瞳は灰色なんだぁ……。ねぇねぇちょっと、もっと他の写真見てもいい?」夏妃はなんとなく気分が高揚して来て、もっと別の写真を見たいという衝動に駆られた。

「おやおやおや? 夏妃も太陽君のカッコ良さに気付いちゃったのかな? どうぞどうぞ、どんどん見てやってくださいな」

「バカ、そんなんじゃないってば。ちょっと気になっただけじゃない。それに、残念ながらアタシのタイプとはちょっと違うしね」

 夏妃はスマートフォンを操作して、プロミネンスの写真を、そして太陽の写真を次々と見て行った。そこには、ライブ中のもの、ライブハウス周辺でのもの、打ち上げの席らしい居酒屋とおぼしき場所のものなど、数え切れないほどの写真が詰め込まれていた。

「へぇ、こう見ると、このバンドのファンは女の子ばっかりでもないんだね。ちょっと意外だなぁ。それにしてもまぁ、ワンマンでやってる訳じゃないんだろうけど、すごい客の数だね。これだけ客を呼べればメジャーからもお声が掛かる訳だわ」

「でしょ? 毎回ライブのたんびに、平気でそんくらいの人数は集まっちゃうんだから。去年の暮れに新宿であったライブなんか、当日券まで全部売り切れちゃって、あたし達、中に入れなかったんだから。ねっ、未奈」

「そうそう、打ち上げまですごい人数だったもんね」

 実際、その日のライブは、収容人数が三百人程のライブハウスに、まるで雲霞のごとく人が押し寄せ、会場に入り切れなかった客達が、表の道路の歩道まで塞いでしまうといった有様だった。

「それはそうとさぁ、この、あちこちに写ってる色白で黒髪のきれいな女の人はいったい誰なの? いっつもメンバーとか太陽って人と一緒に写ってるからファンってことでもなさそうだし。まさかメンバーって訳じゃないでしょ? ほらっ、ここにも、あっ、こっちの写真にも写ってる」

「あぁ、それはね、真冬さんって言って、プロミネンスのスタッフの一人だよ。太陽の幼馴染みなんだって。あたしも何度か喋ったことあるけど、とっても気さくで、すっごくいい人だよ。あれっ? もしかして太陽の彼女だと思って少し妬いちゃったとか?」

「違うわよ! なにバカなこと言ってんの? やたらとあちこちに写ってるからちょっと気になっただけじゃない。それに……ちょっと似てるなって思ったんだよね……」

「似てる? 誰に?」香織はそう言うと、スマートフォンの中の真冬をじっと見つめ、そして数秒後、緩んで来た口元と共に驚きの声を上げた。「あぁ、なるほどね、言われてみれば似てるわぁ。っていうか超そっくりじゃん! なんで今まで気付かなかったんだろ? ほらぁ、見てよ!」

 その声に未奈もスマートフォンの画面を覗き込む。「どれどれ? えーっ、誰に似てんのぉ?」

「ほれほれっ」香織は夏妃に向かって親指を突き出した。

 それを見て未奈は、夏妃と真冬の写真を見比べる。

「あーっ、ホントだぁ、すっごい似てるぅ! なんで今まで気付かなかったんだろ? マジでそっくりじゃん!」未奈は必要以上に驚いて大きな声を上げた。

 店員や他の客達が、チラッと三人を一瞥いちべつする。

「そんな大袈裟に驚くほど似てないでしょ? 髪型だって全然違うんだし。でもさでもさ、アタシの方がちょっとだけ可愛いよね? この子、なんか色が白すぎて身体弱そうな感じするし」

「はいはい、その意見採用でいいんじゃないですか? どうですか? 未奈さん」

「あっ、はい……それでいいんじゃないですかねぇ……。それはそうと、そう言えば最近、真冬さん全然見かけなかったと思わない? どうしちゃったのかなぁ?」

「さぁねぇ、あたしに聞かれてもなんとも答えようがありませんねぇ。だいたい、あたしよりあんたの方が真冬さんとは仲良いんじゃないの? あたしは何回かしか喋ったことないんだから」

「えーっ、だって香織の方がプロミネンスに関しては詳しいじゃない。私よりファン歴長いんだしさ」

「そんなこと言われたって、それとこれとは全然話が違うでしょ? だいたいねぇ、あたしがそんなに……」

『――真冬さん、か……』二人のやり取りを余所に夏妃の頭の中には、言葉では何とも表現し難い、今まで開いたこともない、記憶の奥底が疼(うず)くような不思議な感覚が渦巻いていた。そしてこの時以降、その不思議な感覚は、度々夏妃の頭の中を支配するのである。

「ねぇねぇ、全然話変わるんだけどさぁ……」香織が話の進行方向を直角に曲げた。「春人君、元気にしてる? 今こっちに戻って来てるんでしょ?」

「えっ、春人? あぁ、うん、元気だよ? っていうか、喧しくてしょうがないよ。家ん中でじゃんじゃかギター掻き鳴らすしさぁ」

 一瞬、自分の弟の話を振られたことにも気付かず、夏妃は意識が固まってしまっていたが、次の瞬間には笑顔で答えていた。

「そりゃぁしょうがないでしょ? 春人君は知る人ぞ知る、有名ギタリストなんだから。そんくらい我慢しなさいって」

 香織がこう言うように、夏妃の弟“春人 ”は、日本のインディーズシーンではかなり名の知れたバンド、“ヒールレイン ”の元ギタリストである。現在そのヒールレインは、メジャーデビューしてそこそこの人気を誇っているのだが、デビューする間際、音楽性の違いを理由に、彼はバンドを脱退してしまったのだった。

「でもあいつもバカだよね。おとなしくヒールレインに納まってりゃ、今頃ちょっとは有名人だったんじゃない? でっかいホールでコンサートとかやってさ。そうすればアタシも姉としてちょっとは鼻が高かったのに」

「それはしょうがないんじゃない? 太陽君もそうだけど、きっと本物のミュージシャンっていうのは、私達凡人には想像もつかないくらい妥協点が高いんだよ」

「そうそう、別に日本でメジャーデビューするのが、ミュージシャンの最終形って訳でもないじゃない? きっと春人君もそう思ってるからアメリカに渡ったんだよ。あっそうそう、この前、深夜番組だけど春人君のことテレビでやってたよ? あっちでもそこそこ活躍してるみたいじゃん。その番組の司会者も絶賛してたし」

 春人はヒールレインを脱退した直後、日本でのライブを通じて知り合ったロサンゼルスのミュージシャンのところへ、ギターを一本担いで単身で行ってしまったのだった。そしてそこでロックバンドを結成し、ロサンゼルスを中心に活動中なのである。

「へぇ、あいつがテレビにねぇ……。そんじゃぁそれなりに頑張ってやってる訳だ。あいつ、その辺のところ何にも言わないから全然わかんないのよねぇ。まっ、バンド嫌いの姉には何言ってもしょうがないって思ってるんだろうけどさ」

「テレビで取り上げるってことは、向こうでもかなり有名人なんじゃないの? 夏妃はバンドのことあんまり詳しくないから知らないかもしんないけど、日本でメジャーデビューしてるバンドよりも、インディーズの最前線にいるバンドの方が、海外では有名な場合って結構あるんだよね。メジャーデビューしちゃうと、一般受けするためにオリジナルとは違う詞になっちゃったり、ギターのリフやらドラムのオカズまで変えられちゃったり、早い話がせっかく鋭角的にカッコ良く完成されたロックが、メジャーっていうフィルターを通すと、牙の抜けた“芸能ロック ”っていうジャンルに変わっちゃったりする訳よ。だから海外、特に欧米では、日本のメジャーアーティストよりインディーズに目を向けてる人が結構いるって訳ね」香織はそこまで一気に喋ると、ジョッキのビールを喉を鳴らして旨そうに呷った。

「それじゃぁあれだね、ヒールレインの春人って言ったら日本のインディーズじゃすごい有名だったから、もしかしたら春人君は向こうでも有名人なのかもね」未奈が瞳を輝かせながら言った。

「えーっ、そうなの? なんかいまいちピンと来ないなぁ……。あの春人がねぇ……」夏妃はセーラムの煙を燻らせながら、春人の顔を思い浮かべた。


 春人が生まれたのは、桜の花びらが人々の目を和ませる頃の四月四日、暦の上では清明と呼ばれる、とても春らしい日だった。その時まだ物心さえもついていなかった夏妃には、当然ながらその時の記憶などないに等しいのだが、ふとした時に、母親がまるで天使のような微笑で春人を抱いていたのを、ほんの僅かだが記憶の片隅に思い浮かべることは出来る。

「春人はねぇ、ママとパパを、そしてママとなっちゃんをしっかりと結び付けるために生まれて来てくれたのよ? 家族みんなを一本の糸でしっかりと繋げるために……」

 幼い夏妃に、母親はやはり天使のような微笑で歌うようにそう言ったのだが、その言葉の意味を彼女が理解するのはもっとずっと後、彼女が中学を卒業する頃のことだった。 

 夏妃の本当の母親は、夏妃が一歳の誕生日を迎えるとすぐ、家を出て行った。父と母の間にどんな事情があったのか、その当時の夏妃にそんなことがわかるはずもないのだが、酔った父親が、「あの女はオレと夏妃を捨てて、遠いところへ行っちまったんだよ……。女ってのは冷てぇよなぁ。雪乃だってなぁ……」と、愚痴るように言っているのを聞いたことがある。

 その台詞を初めて聞いたのは、夏妃まだ小学三年生だった頃。その頃の彼女には何のことを言っているのかまるでわからなかったが、彼女の心にはその時の父親の台詞が、まるで白い布に付いた染みのように残った。

 その後、そんな台詞のことなど忘れ、夏妃は家族と共に幸せこの上ない生活を送っていたのだが、中学を卒業するにあたり、それまで母と信じて疑わなかった人が、実は本当の母親ではないことを知らされた。当然、感情が敏感な年頃の彼女の心には、強烈な衝撃と言葉では言い表せない絶望に近い感情が生まれる。そしてその衝撃と共に、彼女の心の中で蓋をされていた父親の台詞と、幼い頃に聞いた母親の言葉がシンクロしたのである。

 当然夏妃には、そう簡単に受け入れられる事実ではなかったが、それまでの家族の絆がとても強かったせいだろうか、彼女の心には負の感情が生まれるといったようなこともなく、時間の経過と共に、自然とその事実に正面から向き合えるようになった。

 だが、そんな夏妃とは裏腹に、その事実を現実のものとして受け入れることが出来なかったのが春人である。

 まだ中学一年という年齢だったにも拘わらず、春人は情熱的で責任感が強く、また正義感のとても強い子供だった。自分で納得の行かないこと、間違っていると判断したことに対しては、そう簡単に妥協や容認をしないタイプである。

 そんな性格の彼は、自分と姉が半分しか血が繋がっていないという事実、また、大好きだったその姉に、素性の知れない他人の血が流れているという、覆すことの出来ない現実に対して、やり場のない怒りと悲しみを覚えていたのだろう。

 二年生になると春人は、その矛先の定まらない感情を、“非行 ”という形で表すようになった。同い年よりも年上とつるむようになり、左耳にはピアスをし、タバコも吸うようになった。三年生になる頃には学校にもほとんど行かなくなり、卒業した先輩が一人暮らしをしているアパートに入り浸るようになる。当然、家にもあまり帰らなくなり、それまでかろうじて保っていた生活のリズムと呼べそうな一線も崩れ去り、彼の生活は堕落という言葉がもっとも相応しい、荒んだものへと変わって行った。

 毎日を気ままに、そして自由奔放に過ごしていた春人だったが、そんな生活をしていれば必然的に、金策という避けては通れない問題に直面する。その結果彼は、つるんでいた先輩達と共に、あらゆる犯罪に手を染めるようになり、警察の厄介になることも月日を重ねるごとに増えていった。それに加えこの頃の彼は、それまでの人生で経験したことのない、様々なことも経験するのである。

 酒、薬、女、ギャンブル……。

 精神的に、そして肉体的にまだ未成熟だった春人には、それらのアイテムは快楽は得られても必ずしも満足出来るものではなかった。とはいえ彼も血気盛んな、思春期真只中の一人の少年である。自分の中で思い描いた理想と、リアルな現実との溝を上手く埋められるほど大人ではなかった彼は、欲望や惰性、虚脱感といった見えない力に操られ、その掃き溜めのようなリズムからいつまでも抜け出せずにいた。

 だが、そんな堕落したリズム、荒んだ生活の中にあって唯一、そこに心を和ませる特別なアイテムがあったのは、春人にとってとても幸運なことだったのかもしれない。

 ――エレキギター。そのギターはフェンダー社製のもので、ピックアップ部にアームが付いている、黒いストラトキャスターだった。

 春人は荒んだその部屋で、来る日も来る日もその黒いストラトキャスターを、まるでそこから這い出るための儀式のようにいじくり回し、少しずつだが演奏の基礎となるものを習得して行った。きっと左手と右手で織り成す音というダイレクトな反応が、彼をその楽器の虜にさせたのだろう。

 良い音が出ようが腐った音が出ようが、それはすべてその音を奏でた自分の責任。そういうところも責任感の強い春人にとっては、この楽器に向いていた要因の一つなのかもしれない。

 かくして春人は、ギターという楽器を通して音楽という分野にのめり込むようになり、いつしか大勢の観客の前で演奏してみたいという、淡い夢を抱くようになった。

 その後、中学を卒業した春人は、隣街にある高校の定時制に進学し、そこで知り合った仲間と念願のバンドを組むことになる。J-POPのコピーを主体としたバンドだったが、彼はそこで、複数の楽器の音で創り出す、本当の音楽の素晴らしさを身をもって知ることになった。それまでの人生で、これほどの衝撃と感動を彼は味わったことがなかったのだ。

 ドラム、ベース、ギター、キーボード、そしてボーカル。その五つの楽器が創り出す、言葉ではとても言い表せない奇跡のような世界に、感動以上のものを覚えたのである。

 その後、音楽に対して完全に覚醒し始めた春人は、高校を辞め、これは!と思うバンドを求め、あちこちのライブハウスを渡り歩くようになった。もちろん彼にも好みの音、ジャンルというものはあったが、その垣根までをも越えて、本当に様々な音やバンドを観て、聴いて、そして身体中で感じた。そしてその中で、彼の心を鷲掴みにするような、強烈な個性と鋭角的な感性を持った究極の音と出会うのである。

 ――プロミネンス。それが彼の心を鷲掴みにしたバンドの名前だった。

 U駅近くにある、“N ”という、小さなライブハウスでの演奏だったが、そのバンド自体の音楽性やテクニックもさることながら、空間を切り裂きまくるそのやいばのような超攻撃的なギターの音と、ビジュアルセンス、客を惹きつける力、そして何より、透明な中にも重厚さを織り交ぜたような、とても言葉では形容し難いボーカルの声が、春人の心のど真ん中を電光石火に貫いたのだ。

「すげぇ……。このバンド、カッコいいなんてもんじゃねぇ……」

 これがプロミネンスを初めて見た時の彼の感想である。それは春人が十八歳になったばかりの頃のことだった。


 それからの春人はますます音楽の世界に没頭するようになり、ライブハウスへと足を運ぶ回数も、以前より格段に増えて行った。もちろんプロミネンスのライブにも、その鋭角的な究極の音を自分のものとするべく、毎回欠かさず姿を見せている。

 そんな春人のもとにある日、あるバンドのギタリストが結婚のためバンドを去ってしまうので、その後釜を探しているという知らせが舞い込んで来た。

 ヒールレインというそのバンドは、メロコア系の老舗のバンドで、そのテのインディーズシーンではかなり名の売れた、カリスマ的な存在である。

 もちろん春人も、ヒールレインのライブには何度か足を運んだことがあったのだが、全体的な音、例えばとてつもなく攻撃的なドラムのツーバスや、良い意味で展開を裏切ってくれるベースラインなどには、かなりの魅力は感じていたものの、その完成された低音の上に乗って来る、恐ろしくセンスのない、ただテクニックがあるだけのギターの音がどうにも許せなかったのだ。

『なんであのギターは自分の音だけ種類が違うことに気が付かないんだろう? なんでこの客達もそれがわからないんだろう?』

 ヒールレインを初めて見た彼の心には、こんな疑問が真っ先に生まれたのだが、同時に、『あれなら俺の方が上だな』という自信以上のものも生まれていた。

 いつ頃備わったのか、あるいは天性のものなのか、どうやら春人には常人には理解し難い、音についての特殊な感性があるらしい。 

 それは例えるなら、一口食べた料理に対して、どんなレシピを使っているのか、またどんな調味料を加えればさらに美味しくなるのかが瞬時にわかってしまうといったような類の、いわゆる天才と呼ばれる人達に共通するような特別な能力である。

 そのことに彼自身が気付いたのは、あちこちのライブハウスで様々な音を観て、聴いて、感じた様々な矛盾、違和感、意外性などからなのだが、そのことによって彼自身に自信が備わり、またそれ以前のテクニック重視の演奏から、もっと繊細な感性重視の演奏へと変わって行ったのは言うまでもない。それは彼のギターに対しての、進化と覚醒と言っても過言ではないだろう。

 春人は、ギタリストとしての自分の居場所を確立させるべく、ヒールレインのギタリストのオーディションを受けることにした。そしてそこで彼は、メンバーやスタッフ達を唸らせる音とテクニックで、そこにいた全員を完全に魅了し、見事にヒールレインのギタリストというポジションを手に入れたのである。

 そしてこのことにより、後に天才と言われることになる、彼の本当の意味でのギタリストとしての第一歩を踏み出したのだった。彼が十八歳の秋のことである。


 それからの春人は、水を得た魚という言葉がもっとも相応しい、すばらしい活躍を見せた。

 もともと人気、実力、そして伝統のあったヒールレインだったが、そこに春人という新進気鋭の天才ギタリストを加えたことにより、以前よりも確実に全体の音が充実し、バンド自体の魅力が増したのである。

 当然、それまでのファンの支持もさることながら、着実に新しいファンや支持者も増え、それに伴ってライブの回数やバンドの認知度も増して行った。さらにそれまでは、東京を中心に一都六県で催していたライブも、仙台、新潟、名古屋、大阪など、大き目の地方都市にまで遠征するようになる。自主制作ながらCDもリリースし、しかもそれがインディーズでは考えられないような売り上げ枚数を記録したりもした。小さいながらも、イベントプロモーターやレコードレーベルからも声が掛かるようになり、ローカルだがテレビ出演することも何度かあった。

 まさに順風満帆、春人はこれ以上ないくらいの充実感をヒールレインに感じていた。だが、その満足感や充実感も、あるきっかけを境にまったく別のものへと変わって行くことになる。

 それはあるイベントプロモーターが企画した、エイズ撲滅キャンペーンと題打った大き目のライブイベントでのことだった。

 場所は日比谷の野外音楽堂。ヒールレインの他、そこそこ名の通った五つのパンク系インディーズバンドが出演する、そのテのファンにとってはたまらない、スペシャルなイベントだった。

 春人をはじめ、ヒールレインのメンバーは、その大きな会場でたくさんの黄色い歓声に包まれながら、最高の演奏とパフォーマンスを披露したのだが、会場には、その姿をまるで猛禽類(もうきんるい)が獲物を狙うような鋭い目付きをした、スーツ姿の二人の男がいた。会場の隅にいたにも拘わらず、なぜかその存在感を発揮するようなオーラが出ていて、ステージからでもその二人の視線を感じた程である。

 ステージを終え、楽屋でくつろいでいた春人達ヒールレインのメンバーのもとにその男達が現れたのは、ちょうど次のバンドのステージが終わり、アンコールの声が会場に響いている時だった。

 春人達は初め、その得体の知れない二人の客を訝(いぶか)しい目で見ていたが、差し出された名刺にそれぞれ、レコードレーベルと芸能プロダクションの名前を認めると、たちまち居住まいを正し、笑顔を浮かべて歓迎のムードを作った。

 そう、早い話がその二人は、ヒールレインをメジャーデビューさせるべく、正式にスカウトしに来たのだった。しかもレーベルもプロダクションもそれなりに世に名の通った、一流どころと言ってもいいような会社である。

 当然、メンバー達の間には薔薇色の空気が流れ、メジャーという憧れの世界への扉が開かれたことに、興奮と歓喜の感情を誰もが隠せずにいた。メジャーデビューを目指していた彼等にとっては、至極当然の反応だろう。

 その後、話はとんとん拍子に進み、彼等はまずメジャーデビューに向けて、リリース候補の何曲かのデモ音源を作ることになった。その音源をもとに、レーベルの担当者やディレクター、マネジメントのプロダクションなどと打ち合わせを重ね、最終的にディレクターがゴーサインを出した状態でリリースのためのレコーディングをするのである。

 メンバー達にとってはこんなことは初めての経験だったので、最初のうちはディレクターの言うがまま、流されるまま素直に従っていたのだが、打ち合わせを重ねるに連れて、誰からともなくその明らかに変わって行くヒールレインらしさに対して、疑問を抱くようになった。

 まず歌詞を大幅に変えなければならなくなってしまったこと。

 もともとメッセージ色が強く、アグレッシブな内容の詞が多いのがヒールレインの特徴の一つだったのだが、もっとソフトな、どんな人にでも受け入れられるような詞に変更しろという指示を受けたのだ。そうなると当然、ギターのリフ、ドラムのパターンやオカズなど、変更しなければならないことは山のように増えてしまう。その曲のイメージや詞のイメージなど、バンドの曲というものは、それぞれのパートの微妙な調和が上手くシンクロして、初めていい曲、カッコいい曲へと育って行くのである。詞だけ変更してはいお終いという、そんな単純なものではないのだ。

 そしてこれは曲によってだが、ヒールレインの音を構成している四つの楽器に加え、新たにキーボードを入れるというもの。

 確かに単純に考えても、キーボードを入れれば全体の音の幅は広がるし、要所要所で様々な選択肢も生まれるだろう。曲によってはもしかしたら、マッチする場合もあるかもしれない。

 しかし、今やヒールレインの音の中核と言っても過言ではない春人のギターの音に、どんな音を使うにせよ、キーボードの温かみのない機械的な音がシンクロするとは、メンバーの誰もが思わなかった。それどころかキーボードの音が入った時点で、もはやパンクロックとは言えなくなってしまうのである。

 こうして出来上がって行った曲は、鋭角的でなおかつ攻撃的なヒールレインらしさが完全にそぎ落とされた、金を稼ぐのが第一の目的というのがみえみえの、ジャパニーズポップロックそのものだった。インディーズバンドだったヒールレインが、芸能ロックバンドへ進化?の過程を踏んで行くための、記念すべき最初の曲の誕生である。

 この時点で、メンバー達の間にもちろん不満や憤りがなかった訳ではないが、メジャーという、選ばれた者だけが立てる舞台を目の前にしては、我慢と妥協という蓋で本心を塞ぐことは、一人の男を除いてそれほど難しいことではなかった。


「君のギターの音は何て言うのかなぁ、一言で言ったら日本人向きじゃないんだよね。なんかこう、まろやかさがないっていうかさぁ。もうちょっとディストーションも抑え目にして、上品な音にしてくんないかなぁ」

 詞や細かいメロディラインの変更などに伴って、春人なりに創り出した、その曲のための音に対するディレクターの台詞である。

『こいつ、何言ってんだ? 日本人向きじゃない? おまえの方こそディレクター向きじゃないんじゃねぇのか?』

 春人はよっぽど口に出してそう言ってやりたかったのだが、バンドの今後のために、そしてせっかく掴みかけているチャンスのために、その言葉は胸の中に収めておくことにした。

 だが元来、情熱的で曲がったことの大嫌いな彼の性格が、この納得のいかない状態のまま、おとなしく心の隅っこで収まっていられるはずもなく、彼の心の中は苛立ちともどかしさから負の感情が渦巻き、まさに一触即発の状態だった。彼がなにか問題を起こさないのが不思議なくらいだったのである。

『疑問、違和感、そして嫌悪感。こんなイヤな思いまでして音を創り上げなきゃならない上に、こんな耳の腐った奴が音を創り上げる現場のトップにいるんじゃ、俺の目指すもの、追い掛けるものは、このメジャーっていうフィールドには、もしかしたら存在しないのかもしれない……』残念ながら、妥協という、世の中を上手く渡って行くための武器を持ち合わせていなかった春人の心には、こんな思いが生まれ始めていた。そして同時に、『少なくともオレの目指す音楽は、こんな腐った奴らに制限されるようなチープなものじゃない』こんな考えも育ち始める。

 音を、そして音楽を、その類まれな特別な才能で感じることの出来る春人にとっては、日本のメジャーシーンという利益優先主義的な世界は、生理的に、そして体質的に合わなかったのだろう。

 ある日春人は、メンバー達に自分の中にあるその思いを打ち明け、自分はメジャーでやって行く気がないという意思を伝えた。当然メンバー達からは猛烈な反感とバッシングを受けることになる。だが彼にとって音、音楽というものは、彼の生き様そのものと言ってもいいくらい、とても大切なものだったし、他人の意見で己の信念を曲げてしまう程、彼はお人好しではなかった。

 こうして、そのメジャーデビューとなる曲のレコーディングを目前にして、春人はヒールレインを脱退し、自分の求める音楽を追求するべく、単身、アメリカへと旅立って行った。

 そこに自分の求めるものがあるという確証はまったくと言っていい程なかったが、アメリカという広い国では、少なくとも日本のような窮屈さを感じることはないだろうと考えたのである。

 この時春人は二十一歳、初夏の風が爽やかな、五月のある日のことだった。


「そんで? 春人君ってどんくらい向こうにいたんだっけ? っていうかあれっ? 春人君っていくつだっけ?」香織が新しく注文したジントニックを飲みながら首を傾げた。

「やだ、香織ボケちゃったの? 私達の二コ下じゃない。私達が中三の時、一年にいたでしょ? 春人君は」未奈がすかさず答える。

「そう、だからあいつ、今年で二十二になったのよね。ってことは、あいつが向こうに行ったのがたしか二十一になってすぐだったから、向こうには一年ちょっといたのかな? そう考えると月日が流れるのってめっちゃ早いよね。あぁやだやだ、アタシ達ももう今年で二十四だよ? こんなとこで酒飲んで騒いでる場合じゃないんじゃないの? いいかげん、彼氏の一人や二人作っとかないとさぁ」

「そんなの言われなくたってわかってるっつうの! だいたい、あたしのまわりにはイイ男がいなさすぎなのよ。その点未奈はいいよね。OLっつうのは四六時中、男性陣と一緒にいる訳でしょ? ある意味選び放題じゃない」

「ちょっと香織、本気でそう思ってるの? 考え方がちょっとお下品ですわよ? だいたい、他の会社はどうか知らないけど、ウチの会社はハゲたセクハラジジイと使えない男ばっかりだし。恋愛の対象になる人なんて一人もいないんだから」

「ふぅん、そうなんだ。でもその割には、会社の帰りによく飲むなんて言ってたじゃない。まさか毎回女子だけってことはないでしょ? なんか怪しいわねぇ」夏妃は疑いの視線を未奈に向けた。

「それはただの付き合いだっつうの! ウチの会社には、ホントにそんなまともな男性陣はいないんだから。もしいるんだったら、私も今頃こんなトコにいないだろうし、毎回毎回、女三人でつるんでないっつぅの! それより何より、うちの会社はね……。あっ、ちょっと待って…… って言うか私、いいこと思いついちゃった」未奈は瞳をキラキラさせながら甲高い声で言った。口元には意味あり気な笑みを浮かべている。「あのさぁ、春人君ここに呼ぼうよ! 久し振りに顔も見たいし、それに向こうでのバンドの話も聞きたいしさ」 

「おっ、たまにはいいこと思いつくじゃない? よっしほら、夏妃、早く電話でんわ!」

「えーっ、なに言ってんのよ。なんであいつを呼ばなくちゃなんないのさ。だいたい、あいつを呼んでアタシになんのメリットがあるっていうのよ」

「メリットとかそんな損得みたいなことじゃなくてさ、私達はミュージシャンの春人君の一ファンとして会いたいの! ねっ、香織?」

「そうそう、お酒の席っていうのは一人でも多い方が楽しいでしょ? 早く電話しちゃいなさいよ!」

「ダメだめ! だいたい今日はあいつ、友達と会うなんて言ってたから、別にヒマしてる訳じゃないだろうし」

「あっ、そんじゃその友達ごと呼んじゃえば? それだったら問題ないでしょ?」

「あらぁ、未奈ちゃんどうしちゃったの? 今日はやけに冴えてるじゃない? よっしほら、夏妃、早く電話でんわ!」

「なによもう、ホントにいっつも勝手なんだから。だいたいなんでアタシが自分の弟と酒飲まなきゃなんないのよ。アタシだってホントはねぇ……」

 こうして夏妃は春人を呼び出し、一緒に酒を飲むことになったのだが、実は彼女は口で言ってる程、自分の弟と酒を飲むことに嫌悪感を持っている訳ではなかった。

 彼女自身、自分の弟と酒を飲んだこともなかったし、またそんな状況を想像したこともなかったので、驚きと照れ臭さが前面に出てしまい、必要以上に嫌がって見せたのだった。

 実際は春人のアメリカでの生活にもとても興味があったし、それ以上に、酒の席という心の扉をかなりオープンに出来る場であれば、あの日以来、微妙な距離が出来てしまっていた春人と、お互い自然に向き合えるのではないか、夏妃はそう考えたのである。

「あっ、ねぇねぇあのさぁ……」未奈が再び瞳をキラキラさせながら、明らかに意味あり気な笑みを見せた。「来月のディズニーランドさぁ、春人君も連れてっちゃおうよ! いっつも女三人じゃさ、なんかこう、悲しいものがあるじゃない? それに春人君だってまだしばらくは日本にいるんでしょ?」

「未奈ちゃんホントに今日はどうしちゃったの? 超名案じゃん! そんであれだ、ついでにその友達も連れてっちゃえば一石二鳥って訳ね! よっし、その線で行こう!」香織は未奈に連られてキラキラした瞳でそう言うと、残りのジントニックを一気に飲み干した。

「ちょっとちょっと、何がよっしなのよ! あんた達まさか、ウチの春人を狙ってるわけ? もう信じらんない、どこまで男に飢えてんのよ! だいたい香織あんた、年下は絶対イヤって言ってたじゃない」

「えっ? そうだっけ? そんな昔のことは忘れちゃったよ。それによく言うじゃない? 恋愛に年齢は関係ないって」

「そうそう、それに春人君って、昔から背が高くて存在感あるから、全然年下って感じしないもんね。それにあの、なんとなく攻撃的な雰囲気が私のハートをくすぐるのよね」

「えーっ、あんた達どっちかと春人でしょぉ? うわぁ、やだやだ、気色悪い、絶対ありえないわぁ」

「なによその言い方ぁ、気色悪いってことはないでしょ?」

「そうだよ、恋愛なんていつ、どんなきっかけで始まるかわかんないんだからね? 油断してると、そのうち突然私に、お姉ちゃん って呼ばれちゃうんだからね?」

「はいはい、さようでございますか。でもねぇ、残念ながらあいつのこと誘ってもたぶん無駄だと思うよ? あいつ、昔っから遊園地とか、そういう子供じみた所にまったく興味持ってないのよねぇ。高い所は苦手だしさ。そんで子供の頃から人混みとかが苦手みたいでさ、デパ地下の人混みで顔を青くしてたこともあったくらいだもん」

「そんなの子供の頃の話でしょ? 今はまったく逆で、遊園地大好きで人混みも全然オッケーかもしんないじゃん」

「そうだよぉ、ディズニーランドは神聖で特別な場所なんだから。そこらの普通の遊園地と一緒にしないでくれる?」

「はいはい、わかりましたよ。そんじゃぁどうぞ誘ってみてくださいな。それはそうと未奈さぁ、あんたホントにディズニーランドを愛してるんだね」

「えっ? あぁ、まぁね。だってあんなに心の底から楽しいって思える場所って、他になくない? もう、入り口を一歩入った瞬間から世界が変わっちゃうんだよ? 現実からディズニーの世界に入っちゃうみたいなさぁ。私に言わせれば他の遊園地、例えば富士急ハイランドとかはね、楽しいは楽しいんだけど、絶叫マシンに頼りすぎっていうか、とにかく夢がないのよねぇ。そこへいくとディズニーリゾートはね、理想と現実の融合っていうのかなぁ、そういうのがね……。あっ、そう言えばディズニーランドの日、太陽君の誕生日だね! 太陽君と二人っきりで行けたら最高なのになぁ……。でもまぁ、それはありえない話か。はぁっ、儚い夢……」香織はそこまで一気に喋ると、両肘をテーブルについて両手で顎を支えた。

 

 それからしばらくの後、その酒宴の席にそれぞれ楽器を抱えた、背の高い二人の男が現れた。

 一人はもちろん春人、そしてもう一人は色白で線が細く、縁なしの眼鏡を掛けた、いかにも秀才という言葉が似合いそうなタイプの男だった。

 夏妃は、その男の眼鏡のレンズの奥にある瞳と目が合った瞬間、ついさっき真冬の写真を見た時に感じた、記憶の奥底が疼くような不思議な感覚が、また再び心に渦巻くのを感じた。

『この感覚って……いったいなんなんだろう?』

 そんな夏妃を余所に、その男は満面の笑みを浮かべながら席に着いたのだが、その彼を見て香織が素っ頓狂な声を上げた。「あれぇ? コウちゃん、だよねぇ……? めちゃめちゃ久しぶりじゃん! どうしちゃったの?」

 そこにいた全員の目が一斉に香織に向けられた。

「えっ? この人、香織の知り合いなの?」夏妃は、不思議な感覚の正体のヒントがこの二人の関係から得られるような気がして、期待を込めて聞いてみたのだが、どうやらそこには彼女が望むような答えはなさそうに思われた。

「うん、知り合いっていうかね、プロミネンスのライブとかその打ち上げとかでよく一緒になったんだ。未奈も覚えてるでしょ? ねっ、コウちゃん」

「そう、香織さん、すっごい久しぶりですね。最後に会ったの、たぶん去年の秋くらいじゃないですか? あっ、すいません俺、春人の友達のコウスケっていいます。よろしくお願いします」コウスケは夏妃の方を向くと、ペコリと頭を下げ、再び満面の笑みを見せた。

 その瞳に見つめられ、夏妃の心臓はなぜか、急速に鼓動を速めていった。

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