第3話   陽

 どうもオレには悪い癖があるらしい。

 自分ではそんなに意識してる訳じゃないけど、オレの幼なじみが言うには、とんでもなく気分屋で面倒臭がりって話だ。まぁ、実際に気分屋で面倒臭がりかどうかはともかく、気が向いたことにしか努力しないっていう意味じゃぁ、あいつの言ってることもまんざらハズレって訳じゃないけどな。

 オレは大平太陽、大平家の三男坊だ。たぶんあんたは今、“オオヒラ ”って読んだんだろうけど、こいつは“オオダイラ ”って読むんだ。よく間違えられるんだけどな。

 暦の上では、一年のうちで一番暑いって言われてる大暑って日の七月二十二日に生まれたオレに、オヤジは太陽って名前を付けた。名前のとおり、その日は太陽がギラギラと照りつけるクソ暑い日だったらしい。そのおかげかどうかは知らないが、オレは一年のうちでこの太陽の季節、夏が一番好きだ。そこにはまぁ、大して深い意味はないんだけどな。

 そのオヤジは、関東じゃちょっとは名の知れた、そこそこデカい運送会社を経営していて、オレの二人の兄貴はそれぞれ、そこで専務と部長って役職に就いている。

 下の兄貴とは十一コ歳の離れてるオレも、一応そこで働いてはいるけど、オレの場合はペーペーのドライバー。運転手なんて仕事にオレはまったく魅力を感じてないから、遅かれ早かれ辞めようと思ってるけど、今は収入を得るためにとりあえずそこで働いている。いい仕事が見つかるまでのツナギってやつだ。

 母親は、グレーの瞳をしたブロンドのアメリカ人。つまりオレたち三兄弟は、日本人とアメリカ人のハーフ。その母親は、オレが中二の時に家を出て行った。早い話がオヤジと離婚したってことだな。まだガキだったオレには、その原因はまったくわからなかったが、今思うとその当時、オヤジには女がいたんだと思う。息子のオレが言うのもなんだが、やたらと愛想がよく、背が高くてそれなりにイイ男のオヤジは、何気にモテまくってたらしいからな。

 若い頃からやっている合気道も、その世界じゃ知らないものはなしと言われる程の手練れ者。趣味は精神統一と肉体鍛錬と言い切るオヤジは、まるで格闘系のアニメのような身体つきをしている。

 還暦を迎えた現在でもそのイイ男っぷりとたくましさは健在で、とてもその歳には見えないオヤジは去年、二周りも年下の女性と再婚している。オレにとっては新しい母親って訳だ。

 その新しい母親は、その世界ではかなり有名なネイルアーティスト。まったく、どこでどういうきっかけで知り合ったんだか、いまだに不思議でしょうがない。

 それはそうと、長男として、そして跡取りとして所帯を持って同居している上の兄貴は、複雑な心境なんじゃないかな? なんてったって、上の兄貴と新しい母親は同い年なんだから。そんでその兄貴の子供達、オレにとってはかわいい甥っ子と姪っ子なんだけど、この二人から見ても、父親と祖母が同い年ってのは不思議な気分なんだろうな。まぁでも、この新しい母親、幸恵さんっていうんだけど、とても優しくて文句のつけようがないくらいキレイな人だから、オレにとっては自慢の母親だったりするんだけど。

 そんでこれはちなみになんだけど、オレもまだ独り立ち出来ない身分だからその家に同居してる訳で、まぁ早い話、オレは大平家の居候って訳なんだよな。


 兄弟の中で一番オヤジに似てるせいだろうか、オレは人並み以上に女にモテたりする。いや、女だけじゃないな。男からも告られたことだってある。おっと、自慢に聞こえちゃったらそれは失礼。

 別にオレは自分から積極的に女と話すタイプじゃないけど、なぜか自然といつも、オレのまわりには女の子がいたりする。そのおかげでオレは、まわりのやつらのように女にガッツいたなんて記憶は皆無だ。だけどその代わり、まともに女と付き合ったことが一度もないんだよな。あるとすれば、高校の頃にままごとの延長みたいな恋愛が少々あったくらい。

 それは別に女に興味がないとか、特別な趣味を持っているとか、そんなバカげた理由からじゃなくて、もっとナイーヴな、オレの心の中にある特別な感情がそうさせている。

 その感情とは――実はオレには好きな女がいる。しかもそれは、オレがガキの頃に初めて恋心を抱いた、いわば初恋の女の子。

 真冬って名前のその女の子は、ウチの向かいの白石家の長女で、オレの一歳年下の幼馴染。ガキの頃から頭が良くて、子供のくせに子供らしくないくらいしっかり者だった真冬は、誰にでも気配りと思いやりを忘れない、とても心のきれいな女の子だ。

 親同士が仲良かったせいか、オレと真冬はまるで兄妹のように育ったけど、いつ頃からなんだろな、その真冬をオレは完全に女として意識するようになった。たぶんそれは、小学校高学年くらいの頃の事なんだろうけど、実はそれよりもずっと前、それこそホントに小学生になる前のクソガキだった頃、オレは真冬に告白したことがある。その時は晴れて両想いになって、しかもお互いに将来まで誓い合う仲になったんだぜ? まぁ、ホントのクソガキだった頃の話なんだけど。いいよな、子供って。話が簡単でさ……。

 それからお互いに成長して行くにつれて、性別の違いとか、思春期になると身に付いて来るナイーヴな意識の影響なんかで、お互いの想いは目に見えない透明なものになった。まぁ、もともと目に見えるものでもないんだけど。

 その結果、オレと真冬の間には、恋愛の類の話を避けるといったような暗黙の了解みたいなものが生まれ、せっかく育ち始めた小さな恋もあっさりと自然消滅。

 だけど、あくまでこれはオレの予想だけど……、たぶんあいつは子供の頃と変わらず、今でもオレのことを好きでいてくれてるんだと思う。

 自惚れ? まぁ、そう言われちゃえばそれを否定することも出来ないんだけど、昔から何一つ変わらないでいてくれてるオレに対するその優しさと笑顔は、オレをそう思わせるには十分な材料なんだよな。だから、オレの口からもう一度告白、もしくはそれに近い台詞を言えば、もしかしたらオレと真冬の間には、もう一度恋の花が咲くのかもしれない。でもそれが簡単に出来ないのが大人って生き物なんだよな。

 余計な心配とか、計算高くずる賢い考え、プライド、欲求、そんな類の濁った感情が、自分の中のピュアな心に壁を作ってるんだよ。心のどこかでは、みんないつまでも純粋でいたいって思ってるのにな。


 真冬は生まれつき身体の弱い女の子だ。膠原病こうげんびょうの仲間で、全身性エリテマトーデスっていう、ちょっと特別な病気を患っている。

 オレにはその病気についてあまり知識がないけど、毎日けっこうな量の薬を飲んでる真冬を見ると、そんなに簡単な病気じゃないっていうのはなんとなくわかる。

 でもオレは敢えて、そんな真冬に対して同情の言葉を掛けたり、またその類の視線を送るなんてことは絶対にしない。オレが真冬の立場だったら、そんな言葉や視線が鬱陶しいと思うだろうからな。

 そんな真冬は、自分が病気だってことを自分でも忘れてるかの如く、毎日明るく、優しい笑顔をみんなに振りまいている。

 たしかに紫外線をあまり浴びちゃいけないとか、いくつかの食事制限があったりとか、部分的には不憫なところもあるけど、本人はそんなのどこ吹く風、まったく気にしていないように見える。

 大学に入学した年には中免(普通自動二輪)まで取って、今じゃしょっちゅう、愛車と一緒にあちこちツーリングに行ってるくらいだし。

 確かに昔、たまにだけどあいつを乗せて海まで走ったことがあって、そんな時には決まって、「タイちゃんすごいよ、今わたし、風の世界にいたよ!」なんて台詞を言ってたな。まぁ、オレもその気分はわからないでもないんだけど。

 そんな真冬と、オレは一度だけ二人でツーリングに行ったことがある。もちろん二人とも自分の愛車でだ。

 鎌倉から江ノ島経由で大磯まで、延々と海沿いの国道百三十四号を、ただひたすら潮風を受けながら颯爽さっそうと走る。確かに左手に雄大な太平洋と、波間に見え隠れするサーファー達を臨める、とても気分のいい道路だけど、オレにとっては過去に何度も走ったことのある、そう特別ではないルートだった。

 けど真冬にとっては、なんだかすごく思い入れの深いルートだったらしく、目的地の湘南平の展望台で、湘南の美しい景色を眺めながらあいつは、「タイちゃん、ホントにありがとね。わたしの夢が一つ叶ったよ」なんて言いながら号泣してたっけな。

 そう言えば、あいつが免許取りたてホヤホヤの頃、どうしてもオレと一緒に海沿いの道を走りたいから免許を取ったなんて言ってたけど、まさか叶った夢ってこのことだったのか?

 まぁ、いまさら照れ臭くてこんなことは本人には聞けないけどな。

 そんな訳で真冬は単車にハマってるんだけど、あいつにはもう一つ、どちらかといえば知的な、読書っていう趣味がある。っていうか、どう考えてもこっちの方があいつっぽいんだけどな。


 いつ頃からなんだろなぁ、オレが気付いた時にはもう、真冬の部屋の本棚にはたくさんの童話や伝記、小説や文芸書なんかが山のようにあったけど、たぶん真冬は、小学校低学年の頃からそんな本を読んでたな。

 オレもよく真冬の部屋で本を読んだり、また本を借りたりしてたけど、それはもっと後、四、五年生になった頃からだった気がする。おかげでオレも少しは物知りになれた気がするんだけどな。

 真冬が読む本の量っていうのは、そんじょそこらの読書好きとは違って、オレに言わせれば仙人の域に達してると思えるくらいの半端じゃない量だ。

「月に二十冊読むのがとりあえずの目標かな?」なんてことを中学の頃に言ってたけど、たぶんそのペースは今でも、いや大人になった分、今じゃさらに増えているはずだ。人並みはずれた集中力と、ずば抜けた思考能力の持ち主だからな。オレがあいつのことを頭がいいって言った理由がなんとなくわかるだろ?

 だから今でも、オレはあいつのところへ行くたびに、何かしらの本を二、三冊買って持って行ってやってる。なんにもない真っ白で殺風景な部屋に独りぼっちじゃ、退屈でしょうがないだろうからな。

 そうそう、あいつ今、入院してるんだよ。去年の十二月の真ん中くらいからだったかな? 持病とは別でちょっと難しい病気なんだけど、まぁあいつのことだから、必ず克服してくれるってオレは信じてるけどな。


 実はオレには、あまり人にはわかってもらえない、ある悩みがある。わかってもらえないっていうか、オレ自身がうまく説明出来ないから、ただ伝わらないだけなのかもしれないけど。だからもしかしたら、あんたにも伝わらないかもしんないな。

 その悩みっていうのは、オレが進むべき方向についてみたいなこと。

 まぁ、こんな悩みはオレの世代のみならず、向上心がある一般成人男性だったら誰にでもあるのかもしれないな。だけどオレのやつは、ちょっと一般のそれとは違う気がするんだよなぁ。

 自慢する訳じゃないが、オレはガキの頃から大概のことを、ほんの少しの努力で人並み以上に熟すことが出来た。それは国語や数学、英語といった学校の勉強のみならず、野球やサッカー、サーフィンといったスポーツ、さらにはその場面や状況を、最善の選択で切り抜けるための勘といったちょっと特殊なものから、人の集まりの中心に自然に溶け込むためのちょっとしたコツみたいなものまで、不思議とまわりのみんなが苦労している物事を、なぜか比較的簡単に身に付けることが出来ていた。まぁたぶん、いろんなことに対して、幅広く要領が良かったんだろうな。

 そしてたぶんそのせいだろう。オレは一生懸命努力してなにかを身に付けようとはまったく思わない、ひねくれた子供として育った。

 だって、オレのまわりには高校を卒業するまで、オレより足の速い奴も、テストの点がいい奴も、そして要領の良さそうな奴も誰一人として現れなかったし、とりわけ苦手だって思うことは何一つなかったからな。

 おっと、勘違いしないでくれよ。だからって別に天狗になってた訳じゃないんだぜ?

 ちなみにこんなエピソードがある。


 オレは野球狂のオヤジの言い付けで、小学校低学年の頃から中学を卒業するまで、ずっと野球をやらされていた。

 小学生の頃から走、攻、守、すべてに於いて同学年ではずば抜けていたオレは、中学に入るとメキメキとその頭角を現し、中学二年になるとエースで四番を任され、その年と翌年の二回、ウチの中学校を全国中学生野球大会へと導いた。全国優勝こそ出来なかったものの、中三の時にはベスト四まで進んでいる。

 そんなオレが中三の時のある秋の日、学校のグランドで後輩の指導がてら野球の練習をしていると、バックネット裏の脇の方で、砲丸投げの練習をしている陸上部の同級生に目が留まった。少し興味を覚えたオレは、その同級生にちょっとやり方を教えてくれと頼んだのだが、これがまたあの砲丸の球の重いこと重いこと。それこそ最初の二、三回なんて三、四メートルくらいしか飛ばなかったんじゃないかな?

「違う違う! 力尽くじゃなくて身体中をバネにして投げないと。ほらっ、右の膝からお尻、腰、背中、右肩、右肘と、順番に力を伝えて行く感じでさ」

 確か彼は、オレにこんなことを教えてくれたんだと思う。

「えっ? なんだよ難しいなぁ。こんな感じか? ほいっと!」

「おっ、いいんじゃない? さっきより全然飛んだじゃん。さすがに太陽はスジがいいねぇ!」

 こんなやり取りをしながら何回くらい投げた頃だろうか、だんだんとコツを掴んで来たオレに対して、彼の口数は、なぜかだんだんと減って来ていた。

「なぁおぃ、これって何メートルくらい飛んだらすげぇの? っていうか、おまえどんぐらい飛ばせんの? ちょっとやってみてよ」

 オレは彼にお手本を頼んだのだが、彼は目を丸くして身体を固めたまま、ゆっくりとこんなことを言った。

「――おまえ……すげぇな。すげぇよこれ……。ちょっと、すぐ戻って来るからここで待っててくれ!」

 この台詞の後、彼はダッシュで消えてしまったのだが、程なくしてある人を連れて戻って来た。右手にはメジャーを持っている。

「太陽、ちょっとこの円の中からもう一回、本気で投げてくれよ! 今回はちゃんと計るからさ! 先生、ちゃんと見てて下さいね」

 彼が連れて来たのは、なぜか陸上部の顧問の先生だった。

 それにしても、いったいどうしたというのだろう? 彼はえらく興奮してるし、先生はなにやら何かのデータらしき書類を持って来ている。まさかオレの投擲とうてきがすごい記録だったとでもいうのだろうか。

「そんじゃぁ行くぞぉ! せぇのぉ、うりゃぁぁぁ!」

 オレが力の限り放った五キロの鉄の球は、きれいな放物線を描いて、およそ十五メートル先の地面に叩きつけられた。オレの感触としては、それまでのどの投擲よりもきれいに決まったはずだった。

 すぐに彼と先生が、メジャーを持って計測に走る。そしてその記録を確認した先生は、信じられないものを見たというような表情で、顔を左右に振りながら驚愕の声を漏らした。

「どうなってるんだこれは! おいっ大平、おまえ……どこかで砲丸をやった経験があるのか? そうじゃなきゃ……こんな記録はありえない……」

 実はオレがその時に投げた砲丸の球の飛距離は、その年の全国大会の優勝記録に匹敵するものだったらしい。もちろん公式のフィールド上ではないし、計測もしっかりしたものではないので完全に非公式な記録なのだが、先生がこうやって驚いてしまうのも無理はない。

「おまえ、野球は夏で引退したんだろ? どうだ、陸上はまだ秋の大会が残ってるから砲丸で出てみないか? いや、砲丸に転向してこのまま高校、大学と続けて行くべきだ。このままちゃんとした練習を積んで行けば、おまえはきっととんでもない選手になるだろう。オリンピックだって夢じゃない。どうだ、やってみるか?」こんな風にスカウトまでされてしまう始末だ。

 だが残念ながら、オレはこのスカウトに応えることはしなかった。それは単純に、“砲丸投げ ”というスポーツにオレが興味を持っていなかったからにすぎないのだが、もしあの時、オレが砲丸投げに興味を持ち、情熱を注ぎ、競技を続けていたとしたら……なんてことを時々考えたりする。

 実際は今でも、砲丸投げっていうスポーツにはまったくと言っていいほど興味を持ってはいないのだが、もしかしたらこのことは、オレにとって大きな分岐点だったりしたのかなぁ、なんてことを時々思ったりする。


 ってな具合に、どうやらオレには、なにかしらの才能があるらしい。って言うか、もう小学校高学年くらいの頃には、同級生達より何事に於いてもはるかに能力の高い自分に気付いてたし、自分自身、誰よりも大物になるつもりでいたんだけどな。

 だけど残念なことにオレは、その年代の少年ならば誰もが持っている、いや、必要不可欠と言っても過言ではない、とても大切なものを持っていなかった。それは、将来なりたい職業とか、やりたい事とか、例えば金持ちになりたい、エベレストに昇りたい、人から尊敬される人になりたいなどなど、早い話が、“夢 ”とか、“目標 ”とか、“目的 ”とか、そういったポジティブ的な要素、人間にとってとても大切な向上心の素みたいなものがまるっきり無かったんだよなぁ。

 だからって別に、ネガティブだったって訳じゃないんだけど、この夢と希望を持たない少年時代のオレが、その後のオレ、つまり現在の、“情熱欠乏症 ”のオレを形成する基礎になっちまったのは間違いない。

 例えば、オレがガキの頃にプロ野球の選手になりたいなんて夢を抱いていたとしたら、推薦で入った高校の野球部も辞めるなんて事はしなかっただろう。

 そう、オレは投手としての実力を買われて、野球の名門として名高いU学院に引き抜かれたんだけど、高校一年のある夏の日、オレにしては珍しく熱中出来る、あるアイテムに出会ったことで、迷うことなく野球を辞めちゃったんだよな。これにはウチのオヤジも鬼のような顔して怒ってたっけ。

 あぁ、何に熱中したのかって? そりゃぁあれだよ、十六歳の夏っつったら少なからず誰でも頭に思い浮かべるだろ? バイクに乗りたいっなて。なんでだかオレの場合はその想いが強かったらしくて、当たり前のように気が付いた時には教習所に通ってたっけなぁ。

 ということで、今のオレの趣味らしい趣味って言ったら、一年を通してチョロチョロとやってるサーフィンと、この高校生の頃からの付き合いの単車くらいのもんだな。

 今はステップアップして、七百五十ccと千三百cc、二台のバイクに乗ってるけど、こいつはオレが思うに、この世で一番イカした乗り物だ。全身をすり抜ける風、空気の壁をぶち破る感覚、脳にダイレクトに来るスピード感、腹の底まで響くエンジン音、こいつの良いところを数え上げたらキリがないけど、オレがこいつを気に入ってる一番の理由は、ごまかしが効かない乗り物だってこと。

 まぁ、普通に乗ってる分には安全でとても便利な乗り物だけど、それなりの乗り方をした時には、タイヤが二つしかない分、また車体がとても軽い分、自動車よりもアクセルやブレーキの操作が格段にシビアになる。もちろん、体重の掛け方やトラクションを感じる感覚、そして度胸や胆力に近いものが必要な場面もあったりして、じゃじゃ馬的要素もたっぷり。ごまかしながら乗ろうものなら痛い目にあうのがオチだ。まぁ、それなりの乗り方をした場合の話だけどな。

 おっと、なんだか話がだいぶ逸れちまった。オレの悩みの話だったっけな。

 まぁ早い話、俺の悩みっていうのは、野球にしろ砲丸投げにしろ、その他オレには優れているところが結構あるくせに、情熱を注げる事、やりたい事、自分が進むべき方向性、そういったものが、まったくといっていいほど見えて来ないってことだ。

 オレの友達連中は、「まだ二十四なんだから、そんなのもうちょっと後でもいいんじゃね?」なんてことを、みんな口を揃えて言うけど、どうしてだかオレの中では、早く自分の方向性を定めて落ち着かなければならないっていう、そんな意識が幅を利かせている。

 この辺のところをオレは上手く人に説明出来ないし、わかってもらえないんだよな。なんか、理由はわからないけど、見えないなにかがオレを急かしてる感じっていうか……。やっぱり上手く説明出来ないけど、意外に深刻なんだぜ? オレにとっては。


 趣味の話が出たんでついでにもう一つ。

 実はオレは、大学在学中からあるロックバンドのボーカルを務めている。と言っても、友人達に拝み倒されて手伝ってる状態な訳で、まぁ早い話が助っ人ってやつだな。

 助っ人と言えども引き受けちゃった手前、後でなんか言われるのも癪だから、なんだかんだとそこそこ真剣にやってるけど、これは自ら好んで取り組んでることじゃないから、オレの中では趣味って言う位置付けではない。

 どっちかって言ったら面倒臭い気持ちが先に立つし、いつまでやらされるんだろうって思うことさえあるくらいだからな。

 でもまぁ、オレも歌うこと自体はそんなに嫌いじゃないし、メンバーもみんなそんなに癖のあるやつじゃないから、なんだかんだともう四年も続けちまってる。きっとメンバー達は、すでにオレが正式メンバーになったもんだと思い込んでるんだろうな。

 そう言えばこれは結構最近になってわかったことなんだけど、オレがこのバンドの助っ人をやることになった背景には、どうやら真冬の策略があったらしいんだよな。

 当然ながら、このバンドにはオレの前任者、つまり元々のボーカルがいた訳だけど、そいつが海外留学するんで、ボーカルの後釜を探してるって話を真冬がどっかから仕入れて来たらしくて、オレをそこに入れるために、そのバンドのメンバー達に働き掛けたって話だ。

 まぁ、昔からカラオケなんかに行くたびに、真冬はオレの歌声に心酔してたし、歌とかバンドとか、とにかく音楽の道に進めって口うるさく言ってたからな。

 それに偶然にもそのバンドのドラムはオレと同じ科目を専攻してた奴で、講義なんかでもしょっちゅう顔を合わせる、まぁ割と仲の良い間柄だったから、真冬にしてみればオレを篭絡ろうらくするためのレシピはそこそこ揃ってたって訳だ。

 よくよく考えてみればおかしいと思ったんだよ。そのドラムの奴、あぁ、“タクト ”っていうんだけど、割と仲が良いって言ってもそこまで親密だった訳じゃないにも拘わらず、カラオケを皮切りに飯は奢ってくれるわ、酒はご馳走してくれるわ。まぁその時は気前のいい奴だな、くらいにしか思わなかったけど、今考えるとあれは、完全にオレを釣るためのエサだったんだな。

 だからボーカルをやってくれって頼まれた時も、断るのが難しかった訳で、まぁ、オレにもお人好しな部分があるから、それをしっかりと把握してた真冬の作戦勝ちってとこだな。

 あぁ、どんなジャンルのバンドかって? まぁ、よくありがちな、メロコアとかビートパンクの類に、いくらかブルースを織り交ぜたような、言ってみれば男臭い部類の音楽かな? 少し速めの4ビートに、自然と首が縦に動くような、直感的にカッコいいって思える音楽。

 なんだかんだとこのバンド、あぁ、“プロミネンス ”ってバンド名なんだけど、こいつらの創り出す音は、オレの音に対する感性に合ってんのかな? メジャーデビューを目指してるだけあって、もちろん腕は確かだし、素直にカッコいいって思える曲が多いし。

 特に、そう来たかぁって思わせちゃうベースラインとか、誰も考え付かないようなドラムのオカズとか、ギターのリフ一つにしたって、王道の中にも斬新さを取り入れたような心を惹き付けるものだったり。まぁきっと、このバンドだからオレはボーカルをやってるんだろうな。オレもパンクっていうのは音楽の中じゃ一番好きなジャンルだし。

 でも残念ながらオレは、プロになりたいなんて考えはこれっぽっちも持っていない。それはたぶん情熱の問題なんだろうけど、オレの中で、『これじゃないぜ?』って言ってるもう一人の自分がいたりするのも事実。

 まぁ、オレのこの考えを覆す程の出来事とか、情熱を与えてくれるなにかがオレの身に起こったとしたら話は別だけど、そんなことはまぁ、まずありえないだろうな。考え方とか価値観を変えちまう程の出来事なんて、そう簡単に起こることじゃないだろ?


 このプロミネンスの活動は、主に週に一度のスタジオでの練習&リハーサル、不定期に催す各地のライブハウスでのライブ、そしてあちこちの自治体や公共団体の催すイベントや、学園祭への出演など、インディーズバンドとしては、まぁなかなか活発に活動していた方だろう。

 特にギターの"ヒビノ"さん、あぁ、大学の一つ上の先輩なんだけど、この人がバンド活動の中心で、県議会議員をしている父親のコネで、自治体や公共団体のイベントに出演することが結構多かった。この人はボンボンだけど、ギターに関しちゃこの人の右に出る者はそうはいないと思う。

 だけど一度、とある市の市制何十周年だかなんだかのテーマソングを依頼された時には、さすがのオレもぶったまげた。だって、その市どころか、県全域のCDショップでも発売するって話で、ローカルといえどもテレビ出演の話まであったんだから。そういうのは普通、どこかのレーベルと契約してる、プロの歌手やバンドがやるもんなんじゃないの?って思った訳よ。

 結局オレ達はその依頼を受け、スローな8ビートの、センスの一かけらもない曲をレコーディングしたんだけど、蓋を開けてみれば意外や意外、オレの歌声がそこそこの評判になっちまって、目標売り上げ枚数を予定期間の半分以下で達成しちまったんだな。

 まぁ、オレ達はプロじゃないんで、最初にもらったギャラ以外、ロイヤリティ的なものは一円ももらってないんだけど、その代わりにオレ達は一部の人達から、普通のバンドマンなら泣いて喜ぶような、とても熱い支持を受けることになった。

 まず、その依頼を受けた市の市役所に届いた問い合わせやファンレターの数。

 もともとプロミネンスには、それなりに固定のファンとか、追っかけ、取り巻きの類みたいなものが付いていて、オレもメンバー達も時々、ファンレターをもらったり、時には花束やプレゼントをもらうことさえあった。だから普通の人よりは、そういうものに対して慣れや免疫みたいなものがあったはずなんだけど、市役所宛に届いたそれらの量は、メンバー全員を驚きと喜びの世界へ連れて行くには十分すぎる量だった。しかも、その年齢層の幅の広いこと広いこと。おっと、オレはそんなに嬉しいとは思わなかったけどな。まぁ、悪い気はしねぇけど。

 そして、さらにメンバー達を喜ばせたのは、その世界ではそこそこ有名な、とあるレコードレーベルからの電撃的なオファーだった。

 そう、早い話が、プロのミュージシャンとしてウチのレーベルからメジャーデビューしませんか?って話だ。

 これにはウチのメンバーはみんな狂喜乱舞。真冬に至っては、涙を流しながら絶句してしまう有様だった。まぁ、そりゃそうだわな。メンバー達はメジャーデビューを目指して活動してた訳だし、真冬はそんなプロミネンスを、スタッフの一人として心の底から応援してたんだから。こういう反応になるのは、ごく自然なことなんだろう。

 だけど、そんな嬉しさと感激で心が満たされているメンバー達とは裏腹に、オレの心はと言えば、前記した理由から素直に喜ぶことを拒んでいた。

『メジャーデビュー? そんなのしたって、売れるかどうかなんてわかんねぇぜ? それにたとえ売れたとしたって、それを持続して行けるアーティストなんて、ほんの一握りしかいねぇんだぜ? やめとけやめとけ、おまえはもっと、他のことをするべきだ』オレの中のもう一人の自分が、冷静にそう訴えて来てたんだな。

 確かにこの話は、オレにとってももちろん嬉しくない話ではない。オレのボーカリストとしての実力も、少なからず評価されてるんだから。だけどやっぱり、最後には情熱に行き着いちゃうんだよなぁ。

 バンド活動に対して、そしてプロミネンスに対して、率直に情熱があるのかないのか、そう問われればオレは間違いなく「ない」と答えるだろう。

 ということで、オレはそのメジャーデビューの話について、メンバー達に対してこんな台詞を放った。

「悪いけど、オレが手伝えるのはここまでだ。残念ながら、オレにはプロになりたいって意識はこれっぽっちもないんだよな。だからこの先、メジャーで活動を続けて行くんなら、オレじゃない、誰か別のボーカルを探してくれ」

 オレのこの台詞にはみんな目を丸くして驚いてたっけな。

 やっぱりみんなは、オレが正式メンバーになったもんだと思い込んでたらしくて、「なんでだよ!」とか、「今さらなに言ってんだよ!」とか、そんな類の台詞を、まるでマシンガンのように飛ばしまくってた。そんでやっぱり、こいつもメンバー達と同じように、いや、それ以上に嘆いてたっけ。

「ちょっとタイちゃん、何考えてんのよ? この話がどれだけ大きいチャンスかってこと、まさかわからない訳じゃないでしょ? どうしてそれを捨てちゃうようなことするの? それにタイちゃん一人の話じゃないんだよ? 他のメンバーの気持ち、わかるでしょ?」とまぁ、真冬はオレに腐るほど疑問符をぶつけて来た。

 こいつがここまで感情を露にするのは本当に珍しいことだったから、さすがのオレも一瞬たじろいだけど、付き合いや同情心で不本意に自分の道にレールを敷いてしまう程、オレは甘くはない。ましてや、それが職業だったりしたらなおさらだ。それにもう一つ、その時のオレには時間を作らなくちゃならない、ある大事な事情があったからな。

 まぁ、世の中にはこのオレの考え方に対して賛否両論あるだろうけど、オレはこの時のオレの考え方が、一番オレらしいと思ってる。って言っても、別に頑固に強がってた訳じゃないからな?

 ということで、こうやってオレがダダをこねたことで、プロミネンスのメジャーデビューの話は煙のように消えてしまった。だいたい、そのレーベルの担当者が言うには、プロミネンスの一番の魅力はボーカルのオレの声って話だったから、初めからオレがいなけりゃこの話は無かったってことだよな。

 当然、このことでバンド内には大きな亀裂が入り、オレはプロミネンスを脱退することになったんだけど、この脱退って言葉もどうなんだろ? だってもともと、オレは助っ人っていう身分だったんだから。

 まぁ、なにはともあれまた一つ、オレは大きな分岐点を踏みつぶしちまったのかもしんねぇな。

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