第6話   光

 夏妃は空を見つめていた。

 青く澄み渡った空は視界のすべてを支配し、まさに空色のキャンバスという言葉がピッタリと当てはまる体を成している。

 この青空の色は、夏妃にとってとても心地よく、気分の良いものだった。特に夏の空特有のコバルトのような煌きは、彼女の心をとても高揚させたし、雲一つないその広大なキャパシティは、大宇宙の雄大さを想像させ、自分がこの世界に守られているような気さえするのだった。

 それに加え、これはどういうことだろうか、夏妃は身体中のどの部位に力を入れることをしなくとも、完全にリラックスした、まるで母体の中にでもいるような最高に心地良い状態でいられたのである。それどころか、身体のどこかになにかが触れている感覚、例えば立っているならば足の裏に地面を感じる感覚、そういったものを身体中のどこにも一切感じていなかったのだ。それはとても穏やかな水面に仰向けの状態で、何の苦もなく浮いているような感覚である。

 そんな心地よく、リラックスした状態の夏妃だったが、自分でもその正体がわからない、なにか不思議な違和感が、意識の片隅で小さいながらも沸々と湧き起こって来るのを感じていた。それは、真夏にダウンジャケットを着ているとか、猫が川を泳いでいるとか、そういった視覚的なことではなく、そこで感じるべきことを感じられないといったような類の、もっと感覚的で生理的な違和感だった。

『なんだろう? 何がおかしいんだろ?』

 夏妃はもうだいぶ長い時間、そこにいるはずだった。気分良く、完全にリラックスしていたことで、彼女の思考は完全にストップし、時間が過ぎて行くことにさえも気を留めずにいたのである。だが、心に一点の染みのように出来たその疑問は、それまでほとんど無に近かった彼女の意識をじわじわと支配し、更なる疑問や違和感を与え、時間の感覚を取り戻させ、徐々に彼女をいつもの彼女へと導いて行くのだった。

 そんな時、視界の片隅にゆっくりと直線的に動く、銀色の光が入り込んだ。夏妃がそれを飛行機だと認識するのには当然一秒もかからなかったのだが、その瞬間、彼女は違和感の正体が何であるのかがはっきりとわかった。

『どうしてなんだろう? なんで音がまったく聞こえないんだろう?』

 意外と空港が近いのだろうか、その飛行機はどの会社の機体かが判別出来るくらいの距離を飛んでいる。夏妃がいるその場所から、その轟音を聞き取れない訳がないのだ。

 違和感の正体が完全に疑問へと変わった瞬間、夏妃はいつもの彼女らしい意識を取り戻した。そしてそれと同時に頭の中がめまぐるしく回転しだし、新たな疑問が次々と湧いて来るのだった。

『ここって――どこなんだろう? っていうかアタシ、なにやってるんだろう?』

 夏妃は頭を左右に動かしてみた。が、次の瞬間、彼女はとてつもない恐怖に襲われた。

「ひゃーっ! えっ、えっ、えっ、ちょっとこれっ、どういうこと? どうなってんのよ!!」夏妃はパニックに陥った。呼吸が乱れ、心臓の鼓動が高まって行くのを自分で感じることが出来る程のショックが頭の中を駆け巡る。恐怖で身体中が固まり、指一本動かすことが出来なくなってしまった。

 夏妃の視界に飛び込んで来たのは、きれいに九十度真横になった街の景色、つまり彼女は仰向けになった状態のまま、なぜそんなことになってしまったのかは皆目見当がつかないのだが、空中に横たわったまま静止していたのだ。しかもその高さは、眼下に見える人や車が米粒のように見えてしまう程である。

 なぜか身体全身にまったく重力を感じていなかった夏妃は、仰向けになっている感覚や上下左右を感じる感覚がまったくなく、宙に浮いているなどとは微塵にも思わなかったのだ。

「ヒャーッ!」夏妃は恐怖と驚きで完全に自制心を失い、悲鳴とも泣き声とも付かない声を上げた。だが、かなりの大きさであるはずのその声、自分自身のものであるはずのその声さえもが、彼女の聴覚中枢には届かなかった。

 だが、その不自然さが彼女をいくらか落ち着かせたのかもしれない。恐怖や驚きといった感情が消えてしまった訳ではないが、好奇心という彼女らしい感情が、小さいながらも心に芽生え始めたのである。

 夏妃は思いつく限りのたくさんの言葉を、いろいろな声、様々な口調で口に出してみた。が、相変わらず彼女の耳には一音たりとも入って来ない。

『なによこれ、どうなっちゃってんの? もしかしてアタシ、耳が聞こえなくなっちゃったの?』

 そこで夏妃は、腕や足、肩や腰、そして指先に至るまでの身体中のあちこちを、ゆっくり動かしてみることにした。ちょっとでも体を動かそうものなら、もしかしたら地上へ落下してしまうのではないか、そんな不安や恐怖が彼女の脳裏をかすめてはいたが、彼女の好奇心はそんな心配を余所に、着々と膨らんで行くのだった。

 指先から手首、そして肘、肩と、順番にゆっくりと、そしてだんだん大きく動かして行く。さらには足、腰、背中と、身体の主要な部分を大きく動かしてみた。

『どうやら落っこちる心配はないみたいね』夏妃の心にほんの少しだけ安堵の心が生まれた。だがすぐに新たな疑問が彼女に降りかかる。

 身体を動かすことは出来るのだが、最初の状態、つまり仰向けで宙に浮いている状態からどんなに手足や腰、背中を動かしても、体勢を変えることが出来ないのだ。

「なんなのよもう! これじゃまるで操り人形みたいじゃない!」夏妃は声を出して叫んでみたのだが、相変わらずその世界は静寂を保っていた。

 その後しばらくの間、夏妃は体制を変えようと体中を動かし、もがき続けていたのだが、残念ながら彼女のその努力は報われることはなかった。

『まいったな、これじゃ何をどうすることも出来ないじゃない。そんなことより、アタシはいったいどうしちゃったの? 何がどうなっちゃったの?』

 夏妃は自分の置かれているその現状を解明するべく、自分の記憶をゆっくり辿ってみることにした。が、その作業もすぐに終わりを迎えてしまう。どうしても今朝起きてからのことを思い出せないのだ。

『おかしいなぁ、昨日の夜は翌日になんか楽しいことがあるような気分で寝たはずなんだけど……』

 夏妃は、その疑問のヒントを探すべく首を左右に大きく動かし、自分の見える範囲を見渡してみた。すると、先程まではパニックに陥っていたためわからなかったのだろうか、視界の一番端、ギリギリ見えるか見えないかといったあたりに、空へ高々と昇って行く一本の黒い筋があるのを見つけた。それは彼女から見て左後方、高速道路と思われる幹線道路の上から出ているもののようで、ゆらゆらとしている感じから、彼女はそれを煙だと思った。

 その手前左、さらに視界のギリギリのところには、彼女のよく知っている建物、シンデレラ城やスペースマウンテンといった、おぼろげながらも一目でそれとわかるアトラクション群が、その存在を誇示するかのように並んでいた。

『あっ、ディズニーランド……』夏妃の脳裏を一瞬、なにか閃光のようなものが走った。そしてそれはじわじわと彼女の記憶を呼び覚まし、悪夢のような現実を予感させた。『そうだ――今日は確かアタシ、未奈と香織とディズニーランドに行ったんじゃ……』

 その時、彼女の脳裏に、高速道路を走行中の、流れるような映像が蘇って来た。右手には、夢の国に隣接するように建つ、オシャレでメルヘンチックなホテルが見える。そして前方には、異常な動きをしている二台のトラックが見えた。助手席と後部座席からは、聞き慣れた親友達の声が聞こえて来る。

(ほらぁ、他の車はビュンビュン走ってるよ!)

(この車、ターボ付いてるんでしょ? いつもあたし達に自慢してるじゃない)

(あーもう、うるっさいなぁ、わかったわよ。行けばいいんでしょ? 行けば)

 そして夏妃の軽自動車は加速を始め、車線を一番右へと変えて行く。そして――。

『そうだ、あの危ないトラックを抜いたと思ったら、ものすごい音がして、ハンドルを取られて……アタシ、事故ったんだ……』

 夏妃は、事故を起こすまでの記憶が鮮明に脳裏に映し出されることに、自分でも驚いた。だがそれ以降のことは、いくら考えても思い出すことが出来ない。

『それじゃもしかして……あたしって、死んじゃったのかしら……』頭の中でかたくなにそれを認めようとしない思いと、現実を受け入れ、それを肯定しようとする思いが争いを始め、夏妃は再びパニックに陥った。もちろん彼女の中でも、認めたくない気持ちの方が大きいのだが、事故を起こしてしまった現実と、現在彼女が置かれている説明不可能な状態のことを考えると、どうしても認めざるを得ない。彼女はパニックに陥りながらも頭の隅でそう思っていた。『それじゃぁ、あの黒い煙は……アタシが起こした事故の影響で出てるの? そう言えば香織と未奈はどうしたんだろう? まさかあの子達も……』

 しばらくしていくぶん落ち着いて来た夏妃は、ふと、自分の親友達のことを思い出した。そして次第に心に大きな不安が生まれ、やがて自分の置かれている状態を彼女達に置き換えるようになり、更には絶望に近い考えが彼女の思考を支配し始めた。

『なんとか……なんとかあの事故現場の近くまで行けないかしら? だけどその前に、この体勢をなんとかしないと……』夏妃は、再び体勢を変えるべく身体中を動かし、もがき始めた。なんとか体勢だけでも垂直にすることが出来たら、少なくとも今の状態よりは格段に視界が広がるはずである。だが、相変わらず彼女のその努力は、まったく報われることはなかった。

『ちょっともう、どうなっちゃってんのよこれ! いったい何をどうすりゃいいのよ!』夏妃は、なんの手応えもない自分のその動きに苛立ちと焦りを覚え、いつしかそれは向ける相手のいない怒りへと変わって行った。

『まったく、冗談じゃないわよ! いったい何なのよこれは! いいかげんにしなさいよ、アタシは起き上がりたいんだっつうの!』感情がヒートアップし、夏妃は心の中でそう叫んだ。

 と、次の瞬間、彼女の視界は、直前までの九十度真横だったものから突然、いつもの見慣れた通常のものへと切り替わった。『へっ? どうなっちゃってんの? えっ、なんで? なんで起き上がれたの?』夏妃は頭にたくさんの“? ”を浮かべるのと同時に、急に大きく広がった視界に心を奪われた。

 右手にはキラキラと光る東京湾が広がり、海岸線に沿って房総半島をはるか遠くまで臨むことが出来る。正面から左手、さらには左後方に至るまでの広い範囲には、民家やマンション、そして工場や倉庫、ショッピングモールなど、一つとして同じ顔を持たない、大小さまざまな、数え切れないほどの建物が乱立していた。

 そして夏妃は、自分の左後方に見える、いかにも楽し気な空気を醸し出している夢の国のアトラクション群と、ゆらゆらと不気味に天高く上って行く黒い煙を見つめた。

 彼女の思ったとおり、やはりその煙は高速道路上から出ているもので、夏妃の位置からでも目を凝らすと、パトカー、もしくは救急車のものと思われる赤い回転灯が、そこで事故があったことを裏付けるかのように点滅しているのが見えた。

『やっぱり――アタシあそこで事故ったんだ……。だとしたら……やっぱりアタシ……』

 その時、夏妃は、自分の位置から事故現場と思われる場所を挟んだ反対側、空へと昇って行く黒い煙の左側に、宙に浮かんでいるなにかを視界に捕らえた。それがなんなのかは、彼女の位置からでは遠すぎて判別出来ないのだが、明らかにそれはその場所にあるには不自然なものだと彼女には思えた。

『あれは……なんだろう? 鳥じゃないみたいだし、風船やアドバルーンってこともないわよね。それ以外で空中に静止できるものって……』夏妃はいろいろなものを頭に思い浮かべた。しかし彼女が視界に捕らえているそれに当てはまるものは、何一つ思い浮かばない。

 だが、今自分が置かれている状況を考えた時、暗闇に光が差すように、そのなにかに対して思い当たるものがうっすらと浮かんで来た。

『あれはもしかして……』

 夏妃は、そのなにかの正体を確認するべく、そこに向かおうとした。が、今度はその垂直になった状態から、どんなに体を動かしても何をどうすることも出来ない。

「あーっ、もうホントにイライラするわね! アタシにどうしろっていうのよ!」   

 自分の身体の向きさえ変えられない夏妃の心を、また再び怒りの感情が支配し始め、彼女はその感情を怒号という形で表した。が、例によって彼女の耳には、風の音も街の喧騒も、そして自分の声さえもが届かず、あたり一帯は完全な静寂という目に見えないもので支配されている。

 夏妃は気がおかしくなりそうになり、両手で耳を塞いだ。しかしそこでも、本来聞こえるはずの血管に血が流れる音や、筋肉の微妙な収縮の音といったものが聞こえないことで、彼女はますます矛盾や違和感といったものに苦しめられてしまうのだった。

 だがその時、夏妃の思考の中に、ある一つの考えがじわじわと浮かび上がって来た。ついさっき、なぜか突然起き上がれた時の事が頭にこびりついていて、それについて彼女は、なんとなく心に引っかかるものがあったのだ。

『さっき起き上がれた時って……アタシ、何考えてたんだろ? 確か、めちゃめちゃイライラしてて……。そうだ、たしか起き上がりたいって思ったんじゃなかったっけ……?』夏妃は、つい数分前の自分の記憶を辿り、なんとか自分で納得出来る答えを導き出すことが出来た。

『それじゃぁ……なにかをしたいって思えばそうなるってこと?なのかしら……』

 そこで早速彼女は、自分の左後方の例のなにかに目を向け、そちらの方向に向きたいと心に念じた。と、次の瞬間、夏妃の体はくるっと回転し、例のそのなにかを正面に見る形となった。

『おぉ、すげぇ……。考えただけで動くって、なんか超能力みたい……。幽霊とかもこんな感じで動くのかな? っていうか、アタシって……もしかして今、幽霊なのかな……?』

 自由に動ける方法を見つけたことで、夏妃の心には小さいながらも安堵の心が生まれ、また自分の思考を分岐させることが出来る程の余裕も生まれた。実際、先程まで空中で仰向けのまま手足をバタつかせ、もがいているだけの状態だったことを考えると、それこそ本当に猿が人間に進化したのと同じくらいの劇的な進歩だ。思考の幅が広がるのも、当然と言えば当然のことなのかもしれない。

 夏妃はその状態からさらに、例のなにかに向かって進めと心に念じた。すると思惑通り、彼女の体はゆっくりと目標に向かって進み始めた。傍目から見たらきっと、目に見えないエスカレーターかなにかに乗って、機械的に進んでいるように見えることだろう。

 夏妃はすっかり上機嫌になった。もちろん未奈や香織のこと、そして前方に見える例のなにかのことが、彼女の意識の大部分を占めているのだが、今、自分自身に起きている奇跡のような現実に対して、彼女の人一倍強い好奇心が素直な反応を見せていたのだ。

 前方左下には、悲しみや苦しみとはまったく結びつきそうもない、ディズニーリゾートの広大な敷地が広がっている。その嫌でも目に飛び込んで来るアトラクション群を眺めながら進み、しばらくすると、眼下に高速道路上の事故現場が見えて来た。その光景は、夏妃の予想していたものとは大きく違っており、自分が死んでしまったのが納得出来ると思えてしまう程の、これ以上ないくらいの凄惨さを見せていた。

 二台のトラックが横転しており、そのうちの大きい方が完全に道路を塞ぐ形で横たわっている。その影響で通行止めにでもなっているのだろうか、後続の交通は完全に麻痺し、多種多様の自動車が、まるでそこが三列の細長い駐車場であるかのように、延々と長い列を作っていた。

 そして大きい方のトラックのすぐ脇には、二台のパトカーと消防車、そして救急車があり、さらに向かって一番左の車線には、二台のトラックに挟まれるようにして、一台の軽自動車が仰向けの状態で無残な姿を晒している。空高く立ち登っている黒い煙は、この車から出ているものだった。

 すでに火は消え、乗っていた人間もいち早く車外へと運び出されているようだが、先程より少なくなったとはいえ、まだその車からはかなりの煙が出ている。

『――あれってもしかして……アタシの車?なのかな……』

 事故の惨事を目の当たりにして、夏妃の頭の中には、黒くもやもやした重苦しいものが広がって行った。

 夏妃の人生の中で、事故現場というものは何度か目撃したことがあったのだが、これだけ規模が大きく、なおかつ悲惨さを醸し出している事故には、後にも先にも一度も遭遇したことがなかった。ましてや彼女は、その事故の当事者なのである。その現場を見て、平常心でいられるはずがなかった。

 だがその時、夏妃の視界に彼女の最も考えたくない、最悪の結果を予感させるあるものが飛び込んで来た。

「あっ……」夏妃は声にならない声を漏らした。が、例によってその声は完全な静寂の世界へと吸い込まれて行く。

 パトカーと救急車の間にあるそれらは、薄い茶色一色の毛布であり、その形状からなにかを覆い隠しているのが明らかである。数は三つ、夏妃の脳裏には、その数と形状から、それらが何であるのかがはっきりと映し出された。

 夏妃の頬を一筋の涙が流れた。家族との思い出、幼い頃のこと、親友達との思い出、嬉しかったこと、悲しかったこと……、様々な記憶が一気に彼女の思考を駆け巡る。

 それは自分自身の、そして親友達の死を、自身の中で確定的に裏付ける衝撃的なものだった。

 次から次へと涙が溢れ出し、視界がぼやけ出す。しかし彼女はそれを止めようとはせず、むしろ感情を開放して悲しみの声を上げた。

「――ごめんね……未奈、香織……。アタシのせいで……アタシのせいで……うぅっ……」

 その時、ぼやける視界の中、夏妃は前方右上になにか動くものがあることに気が付いた。

 先程までの位置からでは煙で死角になっていたらしく、その存在にはまったく気付かなかったのだが、今彼女がいる場所からはありありとその姿が映し出されている。しかもそれは、正面に見える例のなにかよりもずっと距離が近く、夏妃はそれが何であるのかを瞬時に判断することが出来た。

「香織!」夏妃は大声で叫んだ。

 だがもちろんその声はまったく音にはならない。当然、三十メートル程先にいる香織にもその声は届かず、彼女も夏妃には気付いてはいないようだった。

 夏妃は即座に体の向きを変え、香織の方に向かった。

「香織! アタシだよっ、夏妃だよっ!」大声をあげ、大きく手を振りながら近付いて行く。が、やはり音声がまったくないせいだろうか、香織はまったくこちらには気付いてくれない。

 そうこうしているうちに、香織との距離は十メートル程になったのだが、ここで突然、ある異変が起こった。突然夏妃の体がピタッと止まってしまい、なぜかそれ以上、香織の方に近付くことが出来なくなってしまったのである。

『えっ? ちょっとどうしちゃったのよ! 進みなさいってば!』それは何度心に念じ直しても変わることはなかった。しかも、体の向きを変えることや違う方向に進むことは出来るのに、香織の方向にだけ、まるでそこにバリアでも張ってあるかのように、まったく進むことが出来ないのである。

『どうして? なんで進めないのよ!』

 そんな夏妃を余所に、香織は、直立した状態で空のある一点を見つめていた。ちょうど夏妃には背を向けている格好で、彼女にはそれが、香織がまるでなにかを待っているかのように見えた。

「ちょっと香織! 香織ってばぁっ!」夏妃は、声が擦り切れてしまうのではないかと思える程の大声を出したつもりだったが、相変わらずその声は音として認められることはなかった。

 その時である。香織が見つめていた先の空が一瞬オレンジ色に裂けたかと思うと、そこから眩いばかりの光が溢れ出し、さらにそこから三つの光の塊が飛び出した。そのうちの一つが香織の目の前に現れ、彼女のことを金色の光で包み込む。他の二つの光は、片方は例のなにかのところへ、もう一つは夏妃と香織の真下、大きな倉庫のような建物の屋根の上あたりで止まっていた。

 よく目を凝らしてみると、若い女性と思われる人が一人いて、香織と同じように金色の光で包まれている。

『あれはもしかして……未奈? そうだ、間違いない、あれは未奈だ!』

 夏妃は、かけがえのない二人の親友を探し出せたことに、大きな喜びを覚えた。それは、死という完全に孤独で、暗黒のような未知の世界に足を踏み入れようとしている彼女にとっては、これ以上ないくらいの心の支えであった。それまで彼女の心を牛耳っていた心細さを考えると、その感情は至極、当然のことなのかもしれない。

 だがここで、彼女の脳裏に、ある一つの疑問が浮かび上がって来た。

 今、目の前で起こっているまるで異次元のことのような現実に対して、彼女の目で認識し、予想した展開に、疑いようのない不一致が生じたのだ。

『なんでなんだろ? たぶんあの三つの毛布って、アタシ達三人でしょ? でもそれじゃぁ、あっちのあれはなんなの? 香織達みたく光の塊も飛んでったし……。まさかまだ、ほかにも死んじゃった人がいるってこと? それにしたってあの光の塊、なんでアタシのとこには来ないんだろ……?』

 そんな疑問に駆られながら、香織の目の前にある光の塊を見つめていた夏妃は、その眩しさに慣れてきたせいだろうか、その光の正体がなんであるのかが次第にわかって来た。それは身体全身のありとあらゆるところから光を放ってはいるが、まぎれもなく人間だったのだ。しかもその光の人物は、夏妃にも見覚えのある、とても懐かしい女性だったのである。

『あれは……もしかして香織の……お母さん? そうだ間違いない、香織のお母さんだ……。でもたしか一昨年亡くなったはずじゃ……。ってことはもしかして、香織のことをお迎えに来たってこと?なのかしら。それじゃぁ、未奈のところの光も、あっちの光も誰かがお迎えに来たってこと?』 夏妃はわからないことだらけで頭が混乱して来た。

 あの高速道路上に寝かされている三つの毛布はいったい誰なのか、あの遠くに見える例のなにかはいったいなんなのか、なぜ自分のところには光の塊、お迎えの人物が飛んで来ないのか、そして自分のところにお迎えが来ないのであれば、なぜ自分はこんなところで宙に浮いて、しかも非現実的なことを体験しているのか。

 確かに当然、死というものを経験したことのない夏妃にとっては、わからないことだらけなのが当たり前なのだが、この短い時間の間に彼女の身に起こったことと、今目の前で起こっている神秘的で奇跡のような光景は、彼女にとっては納得し難い、矛盾としか言いようのないことだった。そんなことを考えていた矢先、彼女を取り巻いていたその矛盾に、ある異変が起こり始めた。

 ついさっき香織が見つめていた先の空が、再びオレンジ色にゆっくりと裂け始め、香織の体を包み込んでいる神々しい光から、そのオレンジ色の裂け目の中心に向かって、ゆっくりと光の粒が吸い込まれ始めたのだ。それは眼下の未奈を包み込んでいる光からも、さらには夏妃の位置からは約百メートルは離れている、例のなにかを包み込んでいる光からも同様に起こっている。その光景は、それまでの彼女の人生では経験したことのない、言葉では表すことの出来ない程の、とても壮大なものだった。

 オレンジ色の裂け目は、際限なく光の粒を吸い込んではいるものの、香織達を包んでいる光は、それがまるで無限のものであるかのようにまったく衰退することがない。それどころか、逆にその光はますます強さを増し、夏妃には彼女達自身が自ら光を放ち始めたように見えた。

 夏妃は、完全にその常識では考えられない幻想的な光景に魅了され、先程までの疑問や矛盾といった思考が、自分の脳裏からゆっくりと剥がされて行くのを感じた。そして、これ以上ないと思えるくらいの安心感と開放感を心身ともに感じ始め、次第に意識さえもが薄れて行くのがわかった。なぜだろうか、気が付くと彼女自身もうっすらとだが光を放っているようだ。

『――そっか、とうとうアタシも天国へ行くのね……』夏妃は、薄れて行く意識の中、そんなことを考えていた。

 と、次の瞬間、夏妃は誰かの声を聞いたような気がした。いや、正確には彼女の心の中に、誰かが問い掛けて来たという表現の方が近いだろうか。

 夏妃は我に返りあたりを見回した。するといつの間に現れたのだろうか、彼女の背後に、煌々と光を放っている女性と、その光を受けたように全身を光に包まれている女性が、まるで彼女を見守るような優しい瞳をたたえて浮かんでいる。

 夏妃は、あまりに突然のことで心臓が止まりそうなほど驚いたが、その瞳を見た瞬間、自分でも不思議に思える程の安堵感が心に生まれ、それほど時間を必要とせずに落ち着きを取り戻すことが出来た。そしてまた再び、彼女の心に先程の声が、優しくゆっくりと響いて来た。

「夏妃――あなたはまだあそこに行ってはいけません。あなたはまだ、行くべきではないのですよ……」

 その声は、目の前にいる、煌々と光を放っている女性のもののようだった。その証拠にその女性は、夏妃が不思議そうな顔を向けると優しい笑顔を浮かべ、ゆっくりと目を閉じ、頷いてくれたのである。

 夏妃は、その例えようのない程の優しい笑顔を見た瞬間、なぜか記憶の奥底がくすぐったくなるような懐かしさを覚えた。と同時に、また新たに二つの疑問を抱え込んでしまった。

『なんで? どうして声が聞こえるんだろう? それに――どうしてこの人はアタシの名前を知ってるんだろう……?』夏妃は、まるで狐に抓まれたように、驚きで思考が固まってしまったが、その疑問を察したかのように、また再び心に声が響いた。

「――言葉で話すのではありません。相手の心に問い掛けるのです」そう言って、その光を放っている女性は再び優しい笑顔を見せた。

 その時、その女性の光に包まれているもう一人の女性が自ら光を放ち始め、光の粒が香織たちと同じように、オレンジ色の裂け目へと吸い込まれ始めた。まわりを見渡すと、眼下にいたはずの未奈は夏妃とほぼ同じ高さにまで昇って来ており、百メートルほど離れていたはずの例のなにかも、すでにそれが人間だとわかるくらいの距離にまで近付いて来ていた。香織に至っては、すでにオレンジ色の裂け目に向かってかなりの距離を進んでいる。

「さぁ、もう時間がありません。早く自分の身体に戻りなさい。あなたはまだ亡くなってはいないのですから……」

 再び夏妃の心に声が響いた。振り向くと、光を放っている女性が相変わらず優しい笑顔をしたまま、右手で眼下の事故現場を指差している。その瞳には、無限を思わせる優しさの色がありありと浮かんでいるのだが、その奥には、有無を言わせぬ強さの色が混在していた。

『えっ? まだ死んでないって……それ、どういうこと? アタシ、まだ生きてるの? でもこの状態って……』夏妃はさらに新しい疑問に包まれ、再び頭が混乱してしまった。

 そんな夏妃の感情を見抜いたかのように、再び心に声が響く。

「――そう、あなたは死んでしまった訳ではないのですよ。あなたの身体にとても大きなダメージがあったから、あなたの魂がこうして外に出てしまったのね。でも、このままあの光のところへ行ってしまうと、本当にあなたの人生はここで終わってしまうわ。さぁ、急いで。私達はもう行かなくてはならないの」光を放っている女性は、相変わらずの優しい笑顔で瞳を閉じ、ゆっくり頷いた。

 その時、それまでうつむき加減だったもう一人の女性が、オレンジ色の光の方へと顔を向けたことで、夏妃は初めてその女性を正面から見る形となった。

『あっ……』夏妃の脳裏に電撃が走る。

 黒いサラサラのロングの髪、透きとおるように白い肌、そしてまるで自分を映したかのようなその顔立ち。夏妃はある一人の女性を思い浮かべずにはいられなかった。

「もしかして……真冬さん……?」夏妃は、彼女の心におそるおそる問い掛けてみた。すると彼女の方も夏妃に目を向け、優しく微笑みながら問い掛けを返して来た。

「――はじめまして、あなたが夏妃さんね。あなたのことはついさっき、この叔母から聞きました」真冬は笑顔のまま軽く会釈をし、話を続けた。「出来れば、あなたとはもっと早く、下の世界で会いたかったけど……残念ながらそれは叶いませんでしたね。でも――本当にこうして最後に会えてよかった……」真冬は、微笑みながら瞳に涙を浮かべた。

「ちょっと待ってちょっと待って、えっ、どういうこと? 真冬さんって、もしかして――死んじゃったの? それと、えーっと、真冬さんの叔母さんって……なんで? どうしてアタシのこと知ってるの?」夏妃は、次々と湧いてくる疑問を心で整理し、それを言葉として組み立て、真冬に問い掛けるのに四苦八苦した。

 夏妃にしてみれば、真冬への疑問はともかくとして、彼女の叔母というその女性のことは、名前や年齢、面識はおろか、どこかで見かけたという記憶さえないのである。どうして自分のことを知っているのか、夏妃は不思議でしょうがなかった。

 ただ、この真冬の叔母に対しては、先程からその理由はわからないが、心が落ち着くような不思議な懐かしさを感じているのは事実である。

「――そう、わたしは大病を患って、その病気とずっと闘ってたんですけど……残念ながら勝つことが出来ませんでした。本当は、まだやらなくちゃいけないこととか、見届けなくちゃならないことがたくさんあったんですけど……。それから叔母のことですけど、実はわたしも先程、初めて会ったばかりなので詳しくは知らないのですけど……叔母は夏妃さん、あなたのことを誰よりもよく知っていて当然なのです。なぜなら、叔母にとって夏妃さんは――」

 真冬の言葉が夏妃の心の中でそこまで伝えられた時、夏妃の背後でオレンジ色の裂け目がさらに大きく割れ、そこからこの世のものとは思えない程の眩しい光が溢れ出した。

 真冬と彼女の叔母は、自らが放っている神々しい光がさらに強まり、夏妃に至っても、先程までのうっすらとした光がまるで嘘のように強い光を放ち始めた。

 振り向くと、ちょうど香織がその眩しい光の中に吸い込まれて行くところで、光の中心に向かってだんだんと加速しているのが夏妃にもわかった。

「香織!」夏妃はほとんど無意識のうちに、香織の心に向かってそう叫んでいた。その瞬間、香織は夏妃の方に一瞬だけ顔を向け、彼女らしいとびっきりのスマイルを見せながら、眩しい光の中に溶けて行った。続いて、未奈が速度を上げながら眩しい光の中へと吸い込まれて行く。

「未奈っ! ちょっと待って、未奈ってば!」夏妃は必死に未奈の心へと問い掛けた。すると未奈は、夏妃に驚きと喜びの笑顔を見せ、ゆっくりとした口調で問い掛けを返して来た。

「――夏妃……寂しいけど、さよならだね。夏妃に会えてすっごく楽しかったよ……」夏妃の心にそう問い掛けると、未奈は笑顔を見せ、大きく手を振りながら眩しい光の中を進み、やがてその中へ溶け込んで行った。

「未奈ぁっ!」夏妃は、知らず知らずのうちに心の中で叫ぶのと同時に、実際に声に出して叫んでいた。しかし儚くも、その声は未奈に届くことはなかった。

「さぁ夏妃、もう時間がありません。急がないとあなたもあの光に吸い込まれてしまうわ。一刻も早く自分の身体に帰りなさい。さぁ、早く」悲しみに暮れる夏妃の心に、再び真冬の叔母の声が響いた。しかし先程とは違い、声に優しさはあるものの、明らかに有無を言わせぬ強さが込められている。

 見ると、徐々にだが、真冬と彼女の叔母もオレンジ色の裂け目の方に向かって吸い込まれつつあった。吸い込まれている光の粒も、先程までとは比べ物にならない量に増えている。

 そしてその時、例のなにかが眩しい光の中心に向かって吸い込まれて行くのを、夏妃は視界の隅に捕らえた。その瞬間、彼女はまた新たな疑問に悩まされてしまう。『あれは……誰? っていうかあれ、男の人じゃなかった?』

 様々な思考が頭を駆け巡り、夏妃は時が止まってしまったかのように固まってしまった。

 そんな夏妃を叱咤するように、再び真冬の叔母の声が心に響いた。「何をしているの、早く行きなさい! あなたの人生をこんなところで終わらせてしまってもいいの? さぁ、急いで!」

 夏妃には、真冬とその叔母に聞きたいことが山ほどあった。それに、親友達を先に逝かせてしまって、自分だけが生きているということに対して、少なからず抵抗や罪悪感、そして嫌悪感すら感じていたのだ。真冬の叔母の、他に選択の余地のないような強い言葉を持ってしてもなかなか行動を起こせずにいたのは、彼女にしてみればやむを得ないことだったのかもしれない。

 だが、真冬の叔母の言うとおり、刻々とその時は迫っているのである。その証拠に、夏妃が放っている光からも光の粒が溢れ出し、オレンジ色の裂け目へと吸い込まれ始めている。そして少しずつだが、彼女自身もそこに向かって引き込まれ始めていた。

「さぁ、何をしているの、早く行きなさい! 早く!」再び心に真冬の叔母の声が響く。しかし夏妃は心の中の葛藤に決着がつけられず、また、親友達との永遠の別れが心を強く締め付けたことで、なかなか行動を起こすことが出来ずにいた。

 彼女にしてみれば、この短い時間の間に衝撃的なことが起こりすぎたのだ。いや、夏妃に限らず、人並みの普通の精神の持ち主であれば、誰でも彼女と同じようにあらゆる行動に躊躇してしまうのではないだろうか。

 だがその時である。これまでに起こった、まるでテレビや映画の中のような奇跡的な体験の中で、様々な思考や憶測、理解や否定を繰り返して来た夏妃だったが、それまでの自分の脳裏にはまったく登場しなかった衝撃的な言葉が、彼女の心をまるで大きな槌で撃ったかのように、電光石火に貫いた。

「夏妃っ、何度言ったらわかるの! お母さんの言うことが聞けないの? 早く行きなさい!」

「えっ……!?」

 その瞬間、夏妃は石のように固まってしまった。が、すぐに今、自分がしなければならないことを思い直し、体を自分の身体のある事故現場の方に向けると、ゆっくりと進み出した。

「――おかあさん……なの? あなたはアタシのお母さんなの?」

 しかし真冬の叔母はそれには答えず、すべてを包み込むような優しい笑顔を返すだけだった。

 そして無常にも、二人の距離はだんだんと離れて行く。真冬達が吸い込まれるスピードは、次第に速度を増しているようだ。

「お願い、答えて! あなたは、あなたは本当にアタシのお母さんなの?」

 途中で途切れたとはいえ、夏妃は先程の真冬の言葉によってほんの一瞬、実はそれに近い考えが頭を過っていた。ただ否定する気持ちが思考の大部分を占めていたため、その言葉自体が彼女の奥底に埋もれてしまっていたのだ。実際にはっきりとその言葉を聞いたことで、彼女は今まで自分でも感じたことのない、なにかとても熱く激しい、それでいてとても穏やかで優しい感情が、内から沸々と湧き上がって来るのを感じていた。

「ちょっと待って! まだ行かないで! 本当に、本当にあなたはアタシのお母さんなの?」夏妃は再び先程と同じことを必死に問い掛けたが、真冬の叔母は、相変わらず優しさを含んだ笑顔を湛えているだけだった。

 そうこうしているうちに、真冬たちが吸い込まれるスピードはどんどん速度を増して行く。吸い込まれる光の粒も、その残像が重なり、まるで光の糸のように見え始める。夏妃との距離が広がりつつあるせいもあるが、オレンジ色の裂け目から放たれる光と、真冬たちが放っている光が融合し始めたことで、彼女達の表情すらわかりづらくなり始めた。

 やがて彼女達は、オレンジ色の裂け目から放たれる光と同化し、その姿を光の中に溶け込ませ始めた。その姿は、黄昏時に空と海が水平線を境に同化していく様を夏妃に思わせた。そしてだんだんと二人のシルエットが形を失って行く。

 夏妃は切なさと惜別の涙を湛え、その瞬間を見つめていた。

 その時、それが真冬なのか真冬の叔母なのかはもう判別出来なくなってしまっていたが、一瞬どちらかが振り向いたように夏妃には思えた。そして次の瞬間、心に真冬の声が優しく静かに響いた。

「――そう、叔母は夏妃さん、あなたのお母さんです。だから――わたし達は従姉妹っていうことになるの……」

『――アタシの……お母さん……従姉妹……』

 夏妃は自分でも不思議に思えるほど、それらの事実に驚きを感じなかった。その代わりに、それらの言葉がまるで回転木馬のように彼女の頭の中をくるくると回り始める。

 ――おかあさん……いとこ……おかあさん……いとこ……

 そして再び、心に真冬の声が届いた。

「――残念だけど、これで本当にもうさよならです。夏妃さんのこれからの人生を、どうか、どうかわたしの分まで輝かしいものにしてください。それから……」真冬はそこで少し言葉に躊躇したが、すぐに思い直したように話を続けた。「それから――タイちゃんを、タイちゃんのことを、どうぞよろしくお願いし……」

 真冬の言葉が夏妃の心にそこまで伝えられた時、それは突然起こった。オレンジ色の裂け目が放っていた、太陽を思わせる程の光が一瞬にして収まり、空中にその裂け目の姿が露になったと思った次の瞬間、先程の光よりもさらに眩しい光が溢れ出し、夏妃の視界に入るものすべてを包み込んだ。

 すべてのものが真っ白に見えるほどの眩しさに、夏妃は手のひらで目を覆い、顔をそむけたが、それでもその光は指の隙間から容赦なく彼女の瞳を攻撃して来る。瞳を閉じていても眩しいと感じるその光を彼女は、照明や車のライト、さらには太陽や月の光など、自分の知っているものとは違う種類のものだと思った。これだけの光なのに熱をまったく感じないこともあったが、なにか言葉では説明することの出来ない、母親の胎内にでもいるかのような、心地よいものを与えてくれている気がしていたのである。

 やがてその光がゆっくりと勢力を弱め、目に入るものが徐々に色を取り戻すと、夏妃はゆっくりと顔を上げて視線をもとに戻した。だがそこには、青く澄み渡ったコバルトブルーの空が、夏を象徴するかのように広がっているだけだった。

「――真冬……さん?」夏妃はその空に向かって問い掛けをしてみた。だが、それに対して返事が返って来ることはなく、すべてを反射するような眩しい夏の日差しが、彼女の頬を照らすだけだった。

 空を見上げ茫然としている夏妃の心には、そんな明るさの象徴のような太陽の光とは裏腹に、切なさ、悲しさ、辛さといった、悲観的な色ばかりが映し出されていた。

 親友を亡くし、初対面とはいえ従姉妹を亡くし、さらには心のどこかでその存在をいつも想っていた実の母親までもが、もう二度と会えない存在になってしまったのである。

 夏妃は瞳から溢れる涙を止めようとはせず、むしろその涙で切なさや悲しみを流してしまいたいと思った。自分にとって大切な人達との永遠の別れが、あまりにも突然やって来たことで、胸はおろか、身体中が張り裂けそうだったのだ。

 そんな夏妃の心中をよそに彼女の目前には、高速道路上の事故現場が迫っていた。そこには、相変わらず悲惨という言葉意外は当てはまらないような光景が広がっている。

 夏妃は悲しみを捨て去るように自分を奮い立たせると、パトカーと救急車の間にある、三つ並べられた薄茶色の毛布のところへ向かった。自分の身体がどこにあるのかがわからない彼女には、そこ以外に思い当たる場所がなかったのだ。

 渋滞している多種多様の車の上を通過し、横転している四トン車のすぐ脇まで来ると、そこにはたくさんの警察官や消防士が慌ただしく動き回っていた。おそらくそこには二十人程の人間がいたのだが、その中の誰一人として、そこに突然現れた夏妃に目を向けるものはいない。どうやら彼等には彼女の姿が見えていないようだった。

 そのままそこを通過し、パトカーのところまで来ると、目前に三つ並べられた薄茶色の毛布が見えた。間近で見ると、やはりその毛布が何の役目を担っているのかが一目瞭然で、夏妃は再び深い悲しみに包まれ、瞳から大粒の涙が溢れ出した。胸が締め付けられ、嗚咽の声が漏れる。だが相変わらずその声は、完全な静寂の世界へと吸い込まれて行った。

 それにしても、いつまでこんなところに放置しておくつもりなのか、夏妃は悲しみと共に苛立ちが沸々と湧き起こったが、今の彼女の状態では何をどうすることも出来ない。その悔しさを堪えながら、彼女はその薄茶色の毛布の方へ体を進めた。

 が、ここで不思議なことが起こった。薄茶色の毛布の方へ進めと念じているはずなのに、どうしても体が右の方へ逸れてしまうのである。

 再び進行方向を念じ直すと、ちゃんと薄茶色の毛布の方へ向かうのだが、またすぐに右の方へ逸れてしまう。まるでなにかに引っ張られているような感覚だ。

 そこで夏妃は、引っ張られるまま、その方向に進んでみることにした。最初のうちこそ、進行方向が逸れるたびにいちいち直していたのだが、だんだんそれが面倒臭くなって来たのだ。

 引っ張られるまま、流されるままに進んで行った先には、そこに立ち塞がるように救急車が停まっていた。そのまま進み、救急車の側面ギリギリのところまで来ると、夏妃はぶつかるのを避けようと腕を伸ばし、体を支えようとした。

 が、また再びここで不思議なことが起こる。自分の体を支えるために伸ばした腕が、救急車の車体に触れることなく、すんなりとそのまま車内へのめり込んだのだ。

 夏妃は一瞬、何が起こったのかわからなかったが、驚いている暇もなく次の瞬間には、体ごと救急車の側面に飲み込まれていた。そしてなにかを考える余裕もないままあたりを見回すと、救命士によって懸命の蘇生処置を受けている女性が目の前に現れた。

「あっ……」夏妃は思わず声を漏らした。

 茶色のショートヘアーに見覚えのある白地にピンクの文字のTシャツ、そして左耳に光る三連のピアス。そこに寝かされていた女性は、まぎれもなく夏妃自身だったのである。

 見ると、応急処置はされているものの、直視するのも憚られるほどのひどい怪我を負っており、夏妃の心の中では、それが自分だということを認めたくない気持ちさえ働いた。身体中いたるところが血だらけで、大きな切り傷でも出来てしまったのだろうか、特に顔面からの出血がひどい。そして同じ方向に揃っていなければならないはずの両足は、片方が不自然な方向に曲がってしまっていた。

 そのあまりにも悲惨な自分の姿を、第三者的な視線で見た夏妃は、それが自分だということを認めたくないという思いがある反面、なんとかして目の前の瀕死の状態の自分を助けたいという思いに駆られた。

 そう思うことで、瞳から溢れかかっていた涙も止まり、自然と落ち着きを取り戻した夏妃は、今自分が取るべき行動を自分の思考の中で確認し、自分の肉体へと戻るべくその方向へ進めと心に念じた。

 わずか一メートルばかりのその距離を進む間、それまでに起きた様々な出来事が、夏妃の脳裏に早送りで映し出される。思えば常識では考えられない、まるで映画の中のようなことばかりだったが、どれもみな彼女にとっては、生涯忘れることの出来ない、強烈な印象を残すものばかりだった。

 その距離を進むためにかかった時間はほんの一、二秒にすぎないはずなのだが、夏妃にはそれが数分かかったように感じた。

 もう手を伸ばせば自分の身体に届く距離である。夏妃は迷うことなく右手を伸ばし、自分の身体に触れようとした。すると突然、身体が後ろに倒される感覚を感じ、次の瞬間、彼女は仰向けのまま自分の身体の真上で宙に浮いた状態となった。そしてゆっくりと降下しながらやわらかい光を放ち、自分の身体と融合し始める。

 夏妃は、例えようのないほどの心地良さと開放感を覚えながら、だんだんと意識が遠のいて行くのを感じていた。目を閉じると、再び先程までの、まるで奇跡のような出来事が甦って来る。

『――香織、――未奈、――真冬さん、――そして、お母さん……』

 薄れて行く意識の中、親友達、従姉妹、そして母の顔が順々に浮かんで来る。そして真冬が最後に残した言葉が、何度も何度も、まるで針飛びを起こしたレコードのように、繰り返し頭の中で響いていた。

『――タイちゃんを、タイちゃんのことをどうぞよろしくお願いし……、タイちゃんを、タイちゃんのことをどうぞよろしくお願いし……、タイちゃんを、タイちゃんのことを……』

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