35

 直後、身体を巡る血液が、一瞬で沸騰したような感覚を覚える。

 同時に周囲に流れる時間が、一気に遅くなったように思えた。


 セシリアのあらゆる能力は、鎧に隠された力によって、一気に数倍の高さにまで引き上げられていく。

 彼女は疲労が蓄積したはずの全身に、むしろ力がみなぎるような感覚を覚えた。

 そして、これまで翻弄され続けていた枝の動きも、その小さな揺らめきまでもが、手に取るように把握できるようになる。


 セシリアは迫り来る枝を即座に斬り捨てると、続く一撃を屈みながらかわした。

 迫る枝を次々にいなしながら、どんどんと大魔樹エルダートレントの醜悪な顔へと近づいていく。


 行ける――!!


 彼女の中でその思いが、一気に強くなった。

 ところが直後に、セシリアは視界の外からの一撃を、察知できずに背中に受けてしまう。

 思わず蹌踉よろめいてしまったが、火花が飛び散り、殴りつけた枝の方が弾き飛ばされてしまった。

 どうやらその反発力によって、ダメージは相当軽減されたようである。

 セシリアは脚に力を込めて踏ん張ると、そのままの勢いで再び前へと進み始めた。


 カイが作った陶器の鎧が、この身を守ってくれている――。


 その思いを噛み締めながら、彼女は迫る枝を剣で叩き斬った。

 すると、右から来る枝が、彼女の上腕を掠めていった。

 直後、その枝は火花を受けて、地面にぼろぼろと落ちていく。

 続いて上から襲い掛かってきた枝が、青い髪飾りをギリギリに掠めていった。

 そのあまりの勢いに巻き込まれて、金色の髪が数本宙を舞う。

 次にセシリアは真っ直ぐ突き込まれてきた枝を、盾を使って防いだ。

 だが、あまりの枝の鋭さに、盾に大きな傷跡が残ったのがわかる。


 それでも彼女は止まらない。

 無謀とも言えるその突進を追うように、いくつもの枝が、彼女の背中を狙って大きく迂回してきた。

 セシリアは勇気を持って大魔樹エルダートレントの懐に潜り込むと、一気に右手の剣を大きく振り抜く。

 すると、カンッ!という甲高い音がして、剣が大魔樹エルダートレントの唇の辺りに命中したのがわかった。

 ところがセシリアが想像したよりも、大魔樹エルダートレントの幹はずっと堅い。

 片手で握った剣の威力では、表皮を削る程度にしか、傷をつけられていないようだった。


 セシリアはそのまま円を描くように走ると、今度はできるだけ大魔樹エルダートレントから距離を取ることを試みる。

 その背を穿うがとうとした枝が、放たれる火花に阻まれて、ぼろぼろと地面に崩れ落ちていった。

 セシリアは元の場所辺りに到達すると、再び大魔樹エルダートレントと正面から対峙した。


 ところがその時、ドクン――という極大の鼓動を感じて、セシリアは一瞬ハッとする。


 この能力には時間制限があるのだ。

 しかもその時間は、どれくらい続くか判らない。

 その時間を一秒たりとも無駄にしないためには、もはや自分に取り得る手段は


 セシリアは右手に持つ剣を掲げると、『剣のつば』にある陶器の小札をグッと力を込めて押し込んだ。

 すると、途端に触媒の小札から濃い紫色の煙が立ち上り、刀身をどす黒い色に染めていく。


 一撃必殺の、超猛毒ベノムの剣。

 その能力の恐ろしさを思って、セシリアの額からは汗が流れ落ちた。


 失敗は許されない。

 この能力が、何度も使えるとは思えなかったからだ。

 セシリアは覚悟を決めてしまうと、一気に大魔樹エルダートレントの顔へ向けて、真っ直ぐに駆け込んだ。


 一撃で決める。

 迫り来る攻撃を切り抜け、顔のある幹に超猛毒ベノムの一撃を叩き込む――!!


 それを確実にするために、彼女はあらゆる攻撃を、一切受け流さずに避けた。

 前に進むごとに繰り出される枝は、彼女の鎧をどんどんと削りとっていく。

 頬や腕、脚を掠めた枝は、無数の出血と切り傷を、彼女の身体に刻んでいった。


 それでもなお、セシリアは目を爛々らんらんと輝かせ、枝の動きを見極めて、ジリジリと太い幹へと近づいていく。

 苛烈な枝の攻撃を盾で払い、足下の攻撃は、飛び上がって避けた。


 すると、身をよじったところに、死角から迫った枝が、左手に持っていた盾を引っ掛けてしまう。

 枝はそのまま彼女の左手から、盾を弾き飛ばしてしまった。


 だが、セシリアは表情を変えない。

 彼女は剣を両手で持つと、一気に大魔樹エルダートレントに詰め寄った。


「ハァァァァッッ!!」


 気合いの叫び声と共に放った渾身の一撃が、大魔樹エルダートレントの固い顔をガチリと打ち抜く。

 すると乾いた音がして、非常に小さな傷が大魔樹エルダートレントの幹に刻まれたのがわかった。

 直後、その小さな傷口の中へ、真っ黒な瘴気のようなものが潜り込んでいく。


「入った!?」


 彼女は、それを確かめようと半身はんみの体勢で振り返った。

 すると、大魔樹エルダートレントは一瞬ピタリと動きを止めた後に、地面を揺るがすような得も言われぬ絶叫を上げる。


「ヴヴォアアアアァァァ――!!」


 そのあまりの声量に、セシリアは思わず顔をしかめた。

 大魔樹エルダートレントは苦しみを隠さずに、あらゆる枝を盛んにくねらせていている。

 セシリアは巻き込みを恐れて、改めて剣を構えると、その場から駆け出した。


 しかし、効果を確かめようと振り返った先ほどの一瞬が、彼女の体勢を防戦一方に追いやってしまう。

 セシリアは速度を上げられずに、剣を振りながらじりじりと後退していった。

 大魔樹エルダートレントは苦しみの元凶をもたらした彼女を、狂ったように追い始めている。


 即効性はない――そんなカイの言葉が頭をぎっていた。

 だが、さほど時間が経過しないうちに、いくつかの蠢く枝が、黒く変色して崩れ落ちていったのが分かった。


 効いている――その実感を持ちながら、セシリアは何とか攻撃を凌いだ。

 剣を両手で力一杯振り抜き、討ち漏らした枝は、ほとばしる火花が阻んでいる。


 だが、疲労の蓄積し始めた身体は、徐々にその重さを増し始めた。


 セシリアは足下を狙う攻撃を、その場で飛んで避けようとした。

 ところが飛んでから着地しようとした瞬間、バランスを崩して倒れそうになってしまった。

 大魔樹エルダートレントはその隙を見逃さずに、彼女の右足首に枝を絡みつかせる。


 足首は稼働する部分であるために、魔法が付与された陶器の板で守られていない場所だ。

 従って身を守るはずの火花が発動せず、セシリアはそのまま右足首を取られて転倒してしまった。

 即座に枝を斬り払おうとするが、今度はその右手首が、別の枝に絡め取られてしまう。


「ぐぅっ――」


 セシリアは歯を食いしばると、無理矢理膂力りょりょくで拘束から抜け出そうとした。


 今、彼女の身体能力は数倍に高められている。

 力を込めれば枝を引き千切ることすら、できると考えたのだ。


 ところが――。


「ま、まさか――」


 驚くほどの勢いで、全身に脱力するような感覚が襲い掛かる。


 ――いいや、これは違う。自分の力が落ちているではない。

 身に纏った陶器の鎧が途轍もなく、のだ。


 急激に増す鎧の重みのせいで、大魔樹エルダートレントは持ち上げようとしたセシリアの身体を地面に投げ捨てた。

 彼女はしたたかに背中を打って、呼吸ができずにあえぎの息を吐き出す。


 すると仰向けに倒れたセシリアに対して、間髪容れずに複数の枝が襲いかかってきた。

 しかし、下手に触れれば火花を放つ彼女の陶器の鎧を、枝は上手く攻略することができない。


 ――だが、火花を放つ魔法の掛かっていない、金属板の部分は別だった。


 大魔樹エルダートレントは盛んに枝を動かすと、無理矢理、右の脛当てグリーブを引き千切ってしまう。

 次に右手の籠手ガントレットが、剣ごと強引に引き剥がされた。

 そして直後、左手を守る籠手ガントレットがぐにゃりと、いびつな方向にへしゃげてしまう。

 同時にボキッという嫌な音がして、左腕が折れたのが判った。


「うぐっ――うああぁぁ――!!」


 セシリアはその苦痛に、堪らず絶叫を上げる。

 だが声を上げたところで、蹂躙じゅうりんされる自分の身体を見ていることしかできない。

 蠢く枝は、セシリアの胴体を貫こうと、盛んに胸元に集中して攻撃を仕掛けてきた。


 だが、セシリアのは、彼女をよく守った。

 作られた曲線によって、多くの攻撃が受け流された。

 何度も何度も叩きつけられる固い枝の攻撃にも、へこみを作りながら彼女を守り続けた。


 父に、守られている――。


 セシリアは攻撃に抗うことも出来ないまま、の父の金属鎧プレートメイルを呆然と眺めていた。

 するとセシリアの頭の中に、父との思い出が走馬灯の様に流れていく。


 だが、その守りも、しばらくすると限界を迎えた。

 直後、ぼろぼろになった胸当てに、いくつかの枝が引っかかる。

 枝はそのまま強引に、胸当てを引き千切ってしまった。

 すると、所々に白い肌が見える、セシリアの胸元が無防備にさらけ出される。

 途端、金属鎧プレートメイルの内側を覆っていた陶器の板が、まるで断末魔を上げるかのように、大きな魔法の火花を発生させた。

 大魔樹エルダートレントはその直撃をまともに受けて、再び大きな悲鳴を上げている。

 バラバラといくつもの枝が落ちて、急速に大魔樹エルダートレントの生命力が失われていくのがわかった。


 超猛毒ベノムは確実に効いている。

 恐らくもうしばらくすれば、大魔樹エルダートレントは絶命してしまうだろう。

 だが、そのためにはもう少しだけ、時間が必要そうだ。


 ――そう、無防備となったセシリアが、止めを刺されてしまう程度の時間が。


 セシリアの頭上で何本かの枝が絡み合うと、それが一本の太い杭のようになった。

 絡み合ってできた一本の太い枝は、セシリアの身体を貫こうと、真っ直ぐ彼女の頭上に振り上げられている。

 セシリアが見上げるとくらい夜空の中に、月明かりを反射している鋭利な突端が見えた。


 次の一撃で――


 籠手ガントレットを引き剥がされたせいで、右手だけは素手に近く、鎧の重みを感じなかった。

 彼女が動く右手で折れた左腕に触れると、そこが激しく痛んだ。

 だが、そのまま手探りしてみると、手首の辺りにがあるのが判る。


 ――良かった。これは無事だった。


 今、まさに死の一歩手前で、これから止めを刺されようとしているにもかかわらず、何故かセシリアの唇には、笑みのようなものが浮かんでいた。

 この後、何が起こるのかは、全くわからない。

 カイはこれが何を引き起こすのかを、セシリアには教えなかった。

 だが、何が起こったとしても、彼女には受け容れる準備ができている。


 何しろこれは彼がセシリアのために、用意してくれた特別な鎧なのだから――。

 何が起こったとしても、セシリアはこの身を委ねる覚悟ができていた。


 そして、大魔樹エルダートレントがセシリアの胸を一突きしようとした瞬間――。


 彼女は、左手首にあったを、グッと押し込んだ。






◇ ◆ ◇






 目覚めた時、視界に飛び込んできたのは、夜の暗闇に浮かぶ星々の光だった。

 即座に自分がどこか知らない場所で、仰向けに倒れていることを知覚する。

 ふと、どこか遠くでキーン、キーンという小さな音が、断続的に響いているような気がした。


 ――死を賭した戦い。そして、止めを刺されて死ぬはずだった自分。

 なのに、その直後に一変した風景。

 なぜ、あの絶体絶命の危機から、逃れることが出来たのだろうか――?


 自分の身に起こったことを、上手く知覚することが出来ない。

 まるで時が止まってしまったかのように、目の前の風景は静かで現実離れしているように思えた。


 しばらくの間、千々ちぢに混乱した思いが、頭の中をぐるぐると駆け回り続ける。

 だが、既に戦闘の音は周囲になく、ただ静かで昏い夜の闇が、彼女の身体を包み込んでいた。


 セシリアは空を見上げながら、これまでに起こった出来事を一つ一つ思い返してみた。

 そのどれもが、まるで夢のような、非現実的な出来事だと思った。

 一方で、直前に起こった戦いが、夢であれば良かったのに、とも思った。


 無残に失われていく仲間たちの生命。

 握り返す力を失ったヨシュアの柔らかい手――。


 彼女は漫然とそれを思い起こしながらも、状況を把握するために立ち上がろうとした。

 だが、全く動けない。

 躍動していたはずの身体は、まるで鉛の塊になってしまったように、ピクリとも動かなかった。


 そうか、これがなのね――。


 そんなどこか他人事のような思いが、セシリアの頭の中に浮かんで消えた。

 全てが語っていた通りのことだ。

 使えば使った分の反動を引き起こす。


 ふと、死闘を演じていた大魔樹エルダートレントが、どうなったのか気になった。

 だが、大魔樹エルダートレントは、超猛毒ベノムの一撃を受けて虫の息だったはずだ。

 きっと敵を見失って、呆然と息絶えてしまったことだろう。


 ――そう考えた時、身動きの取れない自分の周りに何者かの気配を感じた。

 恐らく夜の闇を掻き分けて、この身を狙う小鬼オークか野獣のようなものが、近づいて来たに違いない。

 何とか視線だけを動かすと、予想に違わず小鬼オークらしきものの姿が視界の隅を横切った。

 見れば手には危険な武器を持ち、まさにこの身を狙おうと数匹が集結しつつあるようである。


 ここで、死ぬのか――。


 どこかぼんやりとした意識の中で、何となく素直にそう思った。

 そして、迫り来る脅威を感じながらも、それもと思った。


 そう、このひつぎにできるのなら――それも幸福しあわせなことかもしれないと、素直に思ったのだ。


 ただ、出来ることなら最後に一目だけでも、に逢っておきたかった。

 彼に逢って、この胸にある想いを、しっかりと伝えておきたかった。

 彼のたくましい腕に抱かれて、ただ心安らかに眠ってしまいたかったのだ。


 だが――それも、もうかなわない。



 そうして、その身に向かって振り上げられた武器を見て――、


 セシリアはただ静かに、ゆっくりと目を閉じた。



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