2章 1話
意識が戻ってからしばらくして、俺が入れられているのがICU(集中治療室)である事を知った。
たかが溺れたぐらいで大袈裟だ。水さえ吐き出させればそれでOKじゃないのかと看護師に尋ねたところ、肺に水が入っていた場合、肺水腫や感染症などで死ぬ事もある。一見元気に見えても、時間がたってから感染症で死ぬケースもあるから、これは決して大袈裟な処置でもなんでもないんですよとの返事だった。なるほど。納得する。
幸い、俺は肺水腫にもならず、感染症にもかからず、2週間ほどで退院できる事になった。しかし、入院した時期が年末だったため、病院から出た時にはすっかり年が改まっていた。
「去年は大変な1年だったわね」
車に荷物を運び入れながら、おふくろが言う。
「もう、こんな事はこりごり。今年は、何ごとも無く過ごしたいものだわ」
まったく、おふくろの言うとおりだ。去年は大殺界かというぐらい、次から次に大事件が起きて心が休まるヒマも無かった。今年は平穏無事に過ぎて欲しいものだが…。
しかし、願いも空しく、次なる事件が退院早々の俺を直撃した。
なんと、正の奴が失踪したのだ。
『お父さん、お母さん、お兄ちゃん
少し出かけて来ます。
いつ帰るか分かりませんが、
ちゃんと帰るので心配しないでください
お兄ちゃんへ
お兄ちゃんの言うとおりにやってみようと思います』
という書き置きをテーブルの上に残して、ある朝、家族が目を覚ました時には、既に姿をくらましていた。
はじめは、冗談だと思った。
なにしろ、鶴のごとく他人に姿を見せるのを拒否っていた弟だ。
それが、よりによって家出などという大冒険に踏み出すとは到底信じ難い。
しかし、弟の部屋を覗けば誰も居ないし、おふくろの10年来の友である赤色のママチャリも消えている。それだけではない。おふくろが通販で買った黄色の風水財布も無くなっていた。その中には生活費3千円と、残高10万円のキャッシュカードが入っていたらしい。それだけの装備で奴は世間という大海原へ漕ぎ出したわけだ。
大丈夫。あいつにそんなに遠くへ行く根性があるわけがない。すぐに戻ってくるさ、…という俺の見解も空しく、弟は戻って来なかった。5日、6日たっても、1週間たっても戻って来なかった。
日が経つにつれ、おふくろは無口になり、ひたすらテレビの画面ばかり追うようになっていった。もしかして、何かのニュースで弟の消息が分かるんではないかと思っているようだ。時おり、テレビから目を離した時には、俺に恨みがましい視線を向けて「あんた、一体あの子に何をそそのかしたんだ?」と詰問する。それは、奴の書き置きの最後のフレーズによるものだろうが、残念ながら、まことに遺憾ながら、何ひとつ記憶にない。「そんなはず無いでしょう? ちゃんと思い出しなさい!」
おふくろはガキを叱りつけるように言った。その迫力に寝小便をたれていた頃のトラウマが疼いたりもしたが、そんな事言われたって、思い出せないものは思い出せない。大体、引きこもりきりだったあいつと、働き通しの俺が、口をきくヒマなどほとんど無かったのだ。その数少ない記憶を何度掘り返しても思い出せないのだから、俺、やっぱり何も言ってないんじゃないかな? そう言ったら、おふくろはますます恨みがましい目で俺を睨み、最後には「そう、思い出せないなら仕方がないわね」と悲しげにため息をつく。良心が痛む。俺のせいなのか? いいや。絶対に違う! 弟よ、よくも兄に冤罪を着せて、のうのうとママチャリなんぞに乗って明日の風に吹かれていられるな。お前に人の心があるなら、今すぐ連絡して来い!
無口の時期を過ぎ、おふくろはとうとう寝込んでしまった。
警察に届けて欲しい、という願いをオヤジはなぜか却下する。
「大丈夫だ。あいつも男だ。何とかするだろう。お父さんも若い頃、自転車で随分遠くまで行ったもんだ。男には冒険が必要だ!」
遠い目をして語るオヤジを、おふくろが叱りつけた。
「何が冒険よ! あなたとあの子じゃ、条件が違い過ぎるでしょう!」
確かに、大学時代に柔道部の副主将まで勤める体力と根性の持ち主だったオヤジと、モヤシ男の弟では条件が違い過ぎる。しかし、この件については、俺もオヤジの肩を持ちたかった。
「ああ見えて、あいつも子供の頃はスポーツが好きだったじゃないか。大丈夫だよ。あいつは、オヤジに似てる」
すると、またおふくろが恨みがましい目を俺に向ける。その目が『あんたのせいで正ちゃんはいなくなったんでしょう?』と訴えかけている。おそれをなした俺は慌ててフォローを入れた。
「どっちみち、金がつきたら帰ってくるさ」
「あの子はキャッシュカードを持ってる」
と、おふくろ。
「大丈夫だよ。暗証番号が分からないだろう?」
「すぐに分かるわよ」
そういって、おふくろは背中を向ける。
「分かったなら、分かったで…」
そこまで言って、俺は膝を叩いた。
「そうだ。通帳があるだろう。通強記入すれば、いつ、どこでおろしたか分かるぞ」
その言葉でおふくろが目を輝かせた。
「そうね。通帳は和室のからくりダンスの中にあるわ。頼める?」
「分かった、すぐに調べて来る!」
善は急げとばかりに、通帳を持って駅前の郵便局に駆け込む。その結果判明したのは、弟が家出した翌朝、隣町の駅前郵便局で残高全てをおろししてしまっていた事だった。
この結果を両親に知らせたところ「だから、お父さんの誕生日を暗証番号にするなんてやめようって言ったのに」と、おふくろがオヤジを責めはじめた。すると、オヤジはオヤジで「何年前の話だ。今はキャッシュコーナーでも手軽に番号の変更ができるのに、そのままにしておくお前が悪い」と言い出す始末。
阿呆らしくなって、弟の部屋に行く。
部屋の中は見違えるように綺麗になっていた。おふくろが掃除をしたらしい。
乱雑に散らばっていた雑誌類は壁際にきちんと積み上げられ、布団もたたまれて部屋の隅に置かれている。奴が中学の頃買い入れた勉強机はそのままで、その上に寡黙なパソコンが暗い画面をこちらに向けていた。壁にはカレンダーが貼られていて、なぜか1999年の7月になっている。いまさら、ノストラダムスかよと失笑するが、ふと素に帰って思う。あいつはこの日付けを…世界最後と言われた日付けを…どんな思いで見ていたんだろう?
失踪の手がかりになるものでもないかと、机の引き出しをあけてみる。すると、雑然とした中に1葉の写真を見つけた。修学旅行の時のものらしい。数人の女子高生が写ってるものが1点。なんだこりゃ? さてはこの中に好きな娘がいるのか? しかし、どの娘だろう? 右端は…ちがうな。派手すぎる。まん中右も…違うな、右端と大して違わない。左端は、絶対にないな。じゃあ、まん中左の彼女か? そうだ。違いない。あいつにも、こんな頃があったんじゃないか…なのになんで、引きこもったんだろう?
写真を片付けると、俺はパソコンに目を向けた。正直、俺はインターネットと言いうものに全く興味がない。というか、興味を持っているヒマがなかった。何しろ、東京時代は金がなくてパソコンを買うどころではなかったし、こちらに戻ってからも、特に必要とする事がなかったから、敢えて近付こうとも思わなかった。
しかし、ひきこもる人間にとっては、これが全世界の事もあるらしい。弟もそうだったんだろうか? …そういえば…と、そこまで考えて甦る記憶があった。弟は、パソコンのメルアドから、みーさんと連絡をとっていたと聞く。もしかして、彼女なら何か知っているんじゃないだろうか?
思いつくや否や、俺は携帯を取り出し、みーさんにメールをうった。
『正から、何か連絡来ていませんか?』
打ち終わるとすぐに、着信があった。
みーさんから!? と思い画面を見る俺。
しかし、それは、みーさんからの着信ではなかった。
そこに表示されたのは、もっと、思いもよらぬ人の名前だった…!
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