1章 13 話

 そのアトリエは十字路のまん中にあった。


 8畳ぐらいの日あたりの良い部屋で、真冬でも暖房がいらぬほど暖かく、平凡な会社員のアトリエとしては上出来だった。


 壁には大小の絵が飾られていて、花や、和服の女、ピンクのドレスの童女、陽光を受ける海原、なぜか懐かしい田園風景等々が描かれていた。空中にも絵が浮いていて、その中からは、風のそよぐ音や、潮騒が聞こえていた。驚いた事に、絵はその世界の入り口になっていたのだ。もし、それらが頭より低い位置にあれば、くぐって行ったかもしれないが、残念ながら全て高い所にあるために、それはできなかった。 アトリエの左の壁には、菊地大成の住む郊外の平凡な風景が描かれていた。それはまだ描きかけだ。


 右側には例の『つぎはぎのマリア』が飾られているが、他の絵のごとく世界の入り口にはなっていなかった。にもかかわらず、師匠は「この絵は『右のアトリエ』に続く扉なんだ」と言った。それがどういう意味かは分からない。


 正面はアーチ型の出口になっていてその先は霧で隠れている。「この道はどこに続くのか」と尋ねたら、「知らない」と師匠は首を振った。 そして、俺の後ろにも道があって、それは駅の路上やら、大学のキャンバスやら、もっと向こうには俺の家まで続いていた。




 それにしても、奇妙な風景だ。


「師匠のアトリエって、こんなんだっけ?」


 俺は思わず口に出してしまった。


 あの、路上での出会いから半年、もうすっかりここはおなじみの場所のはずなのに、どうにも違和感を覚えて仕方が無い。ところが、師匠は返事もせずに、真剣そのものでキャンバスに向かっているから、仕方なく俺も持って来たスケッチブックになんやかやと描いてみた。しかし、相変わらず思うように描けないので、すぐに飽いて目の前の大成の横顔を眺めた。


 40過ぎの師匠の横顔は、どことなく高校時代の美術の教師を思い出させた。画家ってのはみんなこんな感じなのかと自分の顔を鏡に映してその差にがっかりする。



 それにしても、相変わらず師匠の描く絵は美しかった。人も、町並みも、路傍の花でさえ、なんでそんなつまらないモチーフがそんなに綺麗になるんだって感じに写し取られていく。つまり、この人には世界がこんな風に見えるのかと、その事自体が俺には不思議だった。


 そして、もう一つ特筆すべきは、彼が左手で絵を描く事だ。別に左利きだというわけでは無い。右手が不自由なわけでも無い。それである日、なんでそんな妙な事をするのかと聞いてみると「この方が、いい絵が描けるから」との答えがかえって来た。


 そういうものなのかなと首をひねりつつ、俺も試しにやってみたが、にわか仕込みの左利きでうまくかけるわけも無い。どうやら、俺にとっては右手とか左手とかいう事と、絵の良し悪しとは関係なさそうなので左で描くのはあきらめた。それでも師匠の絵の秘密をどうしても知りたい俺は、とりあえず師匠の筆遣いを見て学ぶ事にした。



「パパ」



 突然可愛い声がして、小学2年生になる師匠の娘さんが入って来た。



「おやつだよ」



 少女はそういうと、可愛い手でお茶とロールケーキを置いて行く。それを機に、師匠は筆を止め、「少し休もうか」と屈託のない笑顔を浮かべた。その表情を見た時、もしかしてこの笑顔こそが、師匠の絵の秘密かもしれないなと思う。もしそうだとするなら、俺にはひどく遠い世界だ。



 それでも、師匠と過ごす日々は、ひどく楽しかった。


 師匠を通じて知り合った人々、同じく絵を描く人、そうでない人、みな気さくで優しかった。


 いつしか、俺と同じく師匠の絵に魂を奪われた彼女…彩香と付き合うようになった。バイト三昧の貧しい生活だったがかつてない充実感を覚えていた。後から続く道、今いる場所、そして霧のかかるはるか向こうを眺めながら「これでいい、このまま行けばいい」と、心のどこかで思えていた。そうこうしているうちに、師匠の絵が認められるようになり、とうとうそれだけで食べていけるまでになった。それが実力の差である事を思い知らされはしたものの、俺達は素直に師匠の出世を喜んだ。事務所を立ち上げたあの日は、彼女と俺と師匠の3人、徹夜で祝杯を上げた。2月の寒い夜の事だった。ビルとビルの間に浮かんでいた月の姿を今でも覚えている…










「優?…優?」


 どこからか声が聞こえる。


 聞き覚えのある声だ。

 あれは、おふくろの声じゃないか?



 俺はゆっくりと目をあけた。

 やけに白い。霧がかかっているようだ。




 …どこだ? ここは?




 しばらくぼんやりとしているうちに、ピッピッと規則正しい音がしているのに気が付く。音がする方を見たら、武骨な機材のてっぺんのモニターの黒い画面の上に緑色の光が波打っているのが見えた。


 だんだん記憶がはっきりして来る。…そうだ。俺は正を助けようとして、橋から川に落ちたんだ…


 おふくろが泣いている。よく見ると背後にオヤジも立っている。…正は…?


「正は家にいる」


 と、おふくろが言った。相変わらず部屋にこもっているらしい。が、しかし、あの夜俺を川から助け出し、救急車を呼んでくれたのは正なんだとおふくろが説明する。


「そうか」


 と俺はうなずいた。あいつがなあ…と思う。



 そうだ、これが俺の今いる場所だった。俺は戻って来たんだ。あの、十字路の霧のかかった道のはるか彼方に。



 俺は再び目を閉じた。しかし、もうあの夢は見ないだろう。なにしろ、もうすっかりここに戻って来たのだから。


 別にだからといって残念とも思わない。


 ただ一つ後悔があるとすれば、あの十字路の上のアトリエで『右側のアトリエ』を覗かなかったことぐらいだ。


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