1章 12話

 その女は、胸に十字架を抱いて花の上に横たわっていた。

 栗色の長い髪が色とりどりの花の上を川のように四方に流れ出している。

 美しい女だが、その体には、まるで陶器に入ったひび割れのような、細かな線が無数に入れられている。


『つぎはぎのマリア』

 というタイトルから、この女性が聖母である事が分かる。しかし、それはいわゆる聖母には少しも似ておらず、むしろ、今風のどこにでもいる日本人の女のように思われた。

 それにしても、不思議な絵だ。

 技巧的には、とりたてて優れているとは思えない。線の引き方は大雑把だし、デッサンも正確とはいいがたい。適当に走り描いたような線の上に、これまた無造作に色がのせられている。にもかかわらず、なぜか、背景の花々は光り輝くように見えた。何よりも俺を圧倒したのは、その女の姿だった。それは、今にも…そう今にも声を立て起き上がりそうな、そんな命の息吹を感じさせたのである。

 …なんんだろう? このリアルさは?

 俺は、無造作に重ねられた線と色の集合体に見入った。

 しかし、どう眺めても、やはりとりたてて何が優れているとも思えない。正直、技術だけなら俺の方が上とすら思われる。なのに、なぜ、こう胸に迫って来るのか? その謎を解くために俺は一本一本の線を指でなぞってみた。しかし、謎は解けそうにもない。結局、最後にこう思いついた。

 …そうだ。実際に描いてみればいいんだ。

 思いつくや否や、俺は傍らの画用紙と鉛筆を手にとり、目の前の絵を丹念に模写し始めた。それは、さほど難しい作業ではなかった。その証拠に、俺はあっという間に、色も線も、キャンバスの大きさまで正確にその絵を写し終えたのである。そして、それをオリジナルの絵と並べてじっくりと眺めてみた。何の遜色もない。寸分の違いもない。優れたコピーである。ただ一つを除いては。

「ダメだ…」

 俺はため息をついた。

 俺の絵は生きていない。魂がこもっていない。

 俺は、自分の絵をカッターで引き裂くと、もう一度模写をはじめた。しかし、やはりうまく描けない。何枚描いても結果は同じだった。俺の絵は断じて魂を持つ事はなかった。

 ついに断念し、俺は別なモチーフを求めてその場を離れた。その頃には忘れていた絵への情熱をすっかり思い出していたのだ。

 街はモチーフで溢れていた。

 捨てられた空き缶の屑、薄汚れた標識、ガード下に停められた車…すべてが俺の絵心をそそる。しかしとりあえずは、でかい墓石のようなビルの数々を写し取っていく。決して命のやどりようのない無機質な物体ではあったが、それらを正確に写し取る事は自分の性にひどくあっており、出来上がりにも十分満足できた。いつしかその作業に俺は没頭しつづけ、そして、何度も月は昇り、日は沈み、描き散らした絵が100枚を越える頃、俺は試しに自分の絵を売ってみる事にした。

 駅前の人通りの多い路上。

 そこは、夢の吹きだまりだった。

 明日のスターを夢見るストリートミュージシャンが、あちこちで声を張り上げている。自分の絵を並べて売っている奴もいるし、インチキくさいアクセサリーの販売をしてる外人の姿も見える。

 俺も仲間に加わり、その一角に自分の絵を並べてみた。時おり、足を止めて眺めてくれる人も居たが、大方は一瞥もせずに通り過ぎていく。しかし、それでも稀に買ってくれる奇特な客も居た。

 時間を持て余した時は、画用紙に絵を描いていた。そんな時は、いつもあのマリアを描くのが習慣になっていた。

 売っている絵は無機質な物が多かったが、あの、生き生きとしたマリアを自分の手で再現する事を、俺はまだあきらめてはいなかった。しかし、最近ではすっかりあの絵の記憶がおぼろになっており、消えかかった思い出の線を辿っていっても一向にうまく描けない。…なぜだろう? あの展覧会の間中、あの絵を見るために、毎日のようにあの画廊に通ったのに。心の奥底。深層心理には、しっかり焼き付いているはずなのに…。

 朧げな記憶を、さらにかき乱すように、北風が頬をうつ。その冷たさに、雑念が戻る。…集中力が途切れると、ケツが痛くなってくる。おまけに寒い。手も冷えて来た。無理もない。もう、11月も半ばだもんな。そう、もう11月だ。早いもんだ。そういえば、俺いつから大学に行ってなかったっけ。8月に退学届けを出したんだっけ。お袋、泣いていたなあ。親父は怒っていたなあ。正の奴はあの場に居なかったが、元気なんだろうか? それにしても、本当にこれで良かったのかな。いや、これでいいんだ。思ったんだ。俺にはやっぱり絵しかないって。それを思い出させてくれたのは、あのマリアだ。彼女が俺に絵を描く事を思い出させてくれた。そう。あの時、あの絵に出会ったのが運命なんだ。あれは、啓示だ。言いかえるなら奇跡だ。そう、奇跡は時おり起きる。例えば、こんな風に…。


 それは、12月の寒い夜の事だった。

 俺はいつものように駅前で絵を売っていた。

 人通りも少ない日で、時間を持て余した俺はかじかむ手で例のマリアの絵を描いていた。

 その時、目の前で人が立ち止まる気配がした。

 無頓着に落書きを続ける俺の手元を覗き込み、その客は言った。

「ちょっといいかな?」

「はい?」

 俺は無愛想に顔を上げて返事をした。返事をしてから驚きのあまり目をぱちくりとさせた(と思う)。なぜなら、そこに立っていたのは、あの『つぎはぎのマリア』の作者であり、そして後に俺が師匠と呼ぶ事になる、菊池大成だったからである。

 彼は屈託のない笑顔で俺の描いた東京タワーの絵を指さして俺に尋ねた。

「この絵、いくらかな?」


 …生きていると、時おりこんな奇跡に出会う事がある。だから生きていこうと思えるのだ。たとえそれが果てのない迷路だとしても。

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