1章 6話

みーさんとは機嫌良く話したらしい正だが、夕食に降りて来る気配はなかった。実はそれをちょっと期待していただけにがっかりする。まあそんなものかもな。世の中そんなに甘くないてことだ。

 で、いつものごとく奴の部屋に飯を運びドアの外から話しかけた。

「お前、みーさんと喋ったらしいな」

 返事があるかとしばらく待つ。

「…」

 何も無しか。何だよ昨日はベラベラ喋ったくせに。ムカついてくる。

「お前、また失礼な事聞いただろう。夕べあんだけ注意したのに…」

 返事があるわけないが「いいやと開き直り、沈黙相手に喋る。

「人間として最低だな。みーさんは心が広いから許してくれたけど」

「…」

「おい、返事がないって事は死んでるのか? 開けて確認するぞ」

 すると、中からドカンと音がする。生きてるっていうよりむしろ、開けるなって事だろう。開けねえよ、そんな汚ねえ部屋誰がのぞくか。

「明日は森崎が来るからな。おかしな事するなよ」

 俺はひとことだけ申し渡し、自室に戻った。

 次の日、日課の両親見舞いを済ませて帰ってくると、門の前に森崎が座っていた。彼女は俺に気がつくと立ち上がった。

「待ってたの。チャイム鳴らしても誰も出て来ないし。弟さん、お出かけ?」

「え? あ…まあ、そうじゃないかな? 怪我も大分よくなったみたいだし」

 っていうか、あのバカ森崎の前には出て来れないらしいな。

 鍵を出し玄関を開ける。森崎はスーパーの袋を片手に台所に入って行った。そして手際良く料理を始める。その後ろ姿を見てなんか良いなと俺は思った。結婚したら毎日こんな感じなんだろうか。小さな幸せってやつだよな。もっとも、その小さな幸せすらつかめない奴も最近は多いんだけど。だからって結婚イコール幸せでも無いらしい。全く、複雑だよ。複雑すぎる。

「みーちゃんは、何作ってくれたの?」

「うん、ああ。筑前煮に魚を焼いてくれた」

「おいしかった?」

「おいしかったよ」

「みーちゃんは一人暮しだから強いよね。私は簡単なものしか作れないの。ごめんね」

「いいよ、作ってもらうだけでありがたいのに…」

 森崎が料理してる間に、持って帰って来たおふくろと親父の下着を洗濯する。正のも混じっている。いつの間に入れやがったんだか。その後、風呂を洗い湯をためる。それから洗濯を取り込みたたむ。家事をこなす俺を見て森崎が言った。

「河井君て、良い旦那さんになりそうね」

「なんで?」

「家事、うまいもん」

「一人暮らししてたからね」

「東京で?」

「そう」

「やっぱり今でも東京に行きたいの?」

「まあね」

「そんなにあっちが好きなのに、どうしてここに戻って来たの」

「まあ、色々事情があってね」

「色々な事情の中身が聞きたいんだけど」

「うん、まあ色々」

「何それ?」

 その日、森崎が作ってくれたのはオムライスとサラダだった。「弟さん、遅いね」と言いながら森崎は7時頃帰って行った。弟は待たなくていいからと無理矢理俺が帰らせたのだ。なにしろ奴ならずっと上に隠れてるんだから。

 そして、今日も例のごとく奴のために食事を運ぶ。会話は無い。

 それから半月というもの、みーさんと森崎は約束通り毎日のようにやって来て夕食を作ってくれた。正はみーさんが来た時は多少顔を出すらしい。俺はその事を森崎から聞いて知った。

「弟さん、みーちゃんと仲良いみたいね。私が来た時はいつも居ないのにね」

「ああ、森崎が来る日がちょうど通院日になってるらしい」

「よく、病院に行くのね」

「おふくろ達の見舞いも兼ねているみたいだよ」

「ふうん……」

 そうこうしてるうちに母親が退院し、その付録のように親父も退院して来た。おふくろはまだ杖を必要としたが、俺と親父の協力でなんとか家事一切は行われていった。みーさんと森崎の役目は終わり、俺は1ヵ月ぶりに社会復帰することができた。

 長い間休んだにも関わらず、会社は俺を受け入れてくれたが、俺の居た場所には既にばあさんが補充されており、何となく自分があぶれもののような感じがして来る。さらに、そのばあさんと元からいるじいさん達が対立し、障害者3名を巻き込んでのくだらん争いがはじまっていた。

 やれ、杉村さん(新しく入ったはあさんの名前だ)は楽をしたがるだの、それは金ちゃんがやり過ぎるからだの、両者に言い分があり、板挟みになった俺は「そろそろここも潮時だな」と漠然と思う。

 しかし、ここを辞めてどこに行くか。小遣い稼ぎだけの為に、また他の工場で働くのか? 本当にそれでいいのか? 刻々と時間は過ぎて行く。気がつけば夏が終わり秋が近付いている。そして、きっとあっという間に冬が来て、正月に紅白なんぞ見ながら「またこの日が来ちまったか」とかぼやくんだろうか? 冗談じゃねえ。そんな事は2回も繰り返せば十分だ。

 しかし、どう考えても俺が東京に戻れる可能性は感じられなかった。正は、みーさんにこそ懐いたようだが、おふくろ達が戻って以来は相変わらずの引きこもりっぷりで改善の気配はみられないし、それ以上に、日に日に老いぼれて行く親父とおふくろを見るにつけ、家族を見捨てて勝手な事をする事はもはや出来ないような気になって来る。長男としての責任感が芽生えたのか? 腹立たしい事である。そんな事ばかりぐるぐると考え眠れない夜が続く。

「なんか最近元気ないよ」

 と、森崎が肩を叩いた。

「分かる?」

「やっぱりそうなんだ。何かあったの?」

「うん、そろそろここ辞めようかなって」

「東京に行くの?」

「違うけど」

「でも、行きたいんでしょ」

「行きたいけど、でも…」

 それから俺は思わず本音を言った。

「もう無理なような気がする」

「なんで? 行けばいいじゃない」

「そりゃ、究極に身勝手になれば行けるさ。でもなあ、もし、それをやったら、親父とおふくろ死んじまいそうな気がして無理」

「心配し過ぎじゃない?」

「そうかな?」

「そうだよ。行きたければ行けばいいじゃん。人生一度きりだよ。好きに生きないと」

 なんだか、やけに援護してくれる。どうした? 森崎。

「もういいよ、とりあえずは。それよりさ、前に森崎が言ってたようにイラストの仕事ちゃんとしてみようかなって」

「いいと思うよ。でも、甘くないよ」

「分かってるって」

「そう。それじゃ応援するよ。頑張れ!」

 森崎の応援に励まされて力を得た俺は、ヒマを見つけては面接を受ける事にした。しかし、イラストレーターのみの求人などほとんどなく、たまにあっても年令制限と学歴にひっかかる。その上、俺程度の絵の描ける奴など星の数程いるのだ。せめてクリエイティヴな仕事をとデザイン会社等も受けてみたが、今度はスキルがないと断られる。俺は初めて自分の立ち位置を知った。

.

 そんな10月の、ある晴れた昼休み。みーさんが言った。

「ねえ、今度の土曜日二人とも何か予定ある? もし、ヒマなら、3人で遊びに行かない?」

「いいよ。私は大丈夫だよ」

 森崎が答える。

「でも…どこに行く?」

「優ちゃんはどこ行きたい?」

 みーさんが話を俺に振って来たから、「どこって?」と、スケッチブックから顔を上げ、俺、「そうだなあ」と考える。手元には精密な線で模写されたプレス機が、仕上がりかけていた。ここは、第一工場の敷地内。この間までテリトリーにしていた休憩場所から見えるものは、あらかた写し取ってしまったので、他に模写すべき対象物を探してここに移動してきたのだ。みーさんと森崎には黙っていたはずなのに、なぜか探し当てられてしまった。

「紅葉にはまだ早いよね」

 と森崎。

「早すぎるだろう」

 と、俺。

「別に紅葉がなくたって、この辺りを走るだけで十分楽しいよ。あたしが車出すしさ。行こうよ。きっとスカッとするよ」

 と、みーさん。その言葉に俺は慌てる。

「それは、悪いよ。車なら俺が出しますよ」

「あ、あたしの運転の腕を信用してないな」

「そうじゃないですけど…」

「いいじゃん。みーちゃんにお願いしようよ。腕前見せたいんだって。みーちゃんが疲れたら、私達で交代すればいいだけの話だしさ」

 森崎が話に割って入って来てみーさんとなにやら目配せする。

「ねー!」

 二人とも妙にテンションが高い。もしかして、俺の事励ましてくれてるつもりか?

 そういえば、ここんところ、就職活動がうまくいかないせいで、我ながら暗くなってたからな。2人に気を遣わせて悪い事したかな。

「森崎の運転が一番コエーよ」

 冗談のつもりで言ったら森崎がマジメにふくれる。

「何でよ? 失礼ね」

「だって、お前、免許とった次の日にぶつけたって言ってたじゃん」

「そんなの昔の話でしょ?」

 二人で言い合ってると、みーさんが口を挟んで来た。

「ねえねえ。アクアリウム・リバースに行かない?」

「え?」

 って同時に言って、ついでに同時に俺らはみーさんを見た。

「アクアリウム・リバースって、何ですか?」

 聞き覚えがない名前だ。

「今年の春にオープンした、淡水魚の水族館よ」

 森崎がフォローする。

 ふーん。淡水魚って事は、川の魚ばっかり集めてるってことか。しかし、そんな難しい事はこの際どうでもいいだろう。水族館、水族館ね。女2人と男1人の、微妙な組み合わせでいく先としちゃ悪くないかも。

「そうしよ、そうしよ。私も一度行ってみたかったの」

 森崎のひとことでアクアリウム・リバース行きが決定した。

.

 みーさんが、細い手で器用にハンドルを動かす。本音を言えば、はじめは、この人に運転を任せる事が怖かったのだが、あっという間にそんな不安は解消してしまった。要するに、みーさんは普通レベルで運転がうまかった。

 青空の下、快適に車を走らせ、1時間程でアクアリウムに着く。人込みをかき分け、イワナやら鱒やらカワウソ達が遊ぶ水槽をめぐり、敷地内の喫茶店で軽く昼食をとる。

「川の魚も結構面白いね」

 と、サンドウィッチをほおばり森崎が言う。

「意外にね」

 みーさんが答える。

 俺は、白い建物の上のイワシ雲をぼんやり見上げ、ついでに、本物のイワシが食いたいとか思う。正直、ここの野菜サンドは、たいしておいしいくはなかった。とかいって、しっかり全部食ったけどさ。

「晴れてよかったねー」

 と、みーさんが伸びをしながら言った。

 『食べた後に伸びしちゃ行儀悪いのよ』とか言ってた、母親の顔を思い出すでもなく思い出してた俺に、みーさんが、ほぼ何の脈絡もなく、唐突に同意を求めて来た。

「やっぱり、正ちゃんもくればよかったのにねえ」

「はい?」

 誰って?

「あれ? 正ちゃんから。何も聞いてない?」

「聞いてない…あいつ、忙しいらしくてさ…しばらく顔を合わせてないんだ」

 俺は死んだら地獄に落ちるだろう。

「そうなんだ。あたし、今日の事、正ちゃんも誘ったんだけど。断わられちゃったの」

「そりゃあ、そうだろうね…」

 思わず本音が口にでる。あいつが来るはずがない。いや、そんな事よりも…。

「みーさん、正と連絡とってるの?」

「とってるよ。あたし達、メル友なの」

「メル友?」

 嘘だろう? あいつ携帯なんて持ってねぇよ。必要ねぇもん。…あ、そうか。パソコンのメールか。 しかし、あいつ、いつの間にアド交換なんて生意気な事してたんだ? てな事思ってた俺は、さらに驚愕の真実を知る。

「正ちゃんからメル友しよって言ってくれたんだよ」

「うそだ…」

 あいつからだって? 天変地異が起きてもありえない。ってな、てな事思ってた俺は、さらに、さらなるおそるべき真実を知る。

「正しちゃんて、おもしろい子だよ。『みーさんの事を考えると、僕は勇気がわいて来るようです。そんな体なのにまじめに働くなんて、大変でしょう? 今日もお互いに仕事頑張りましょうね』って毎日メールしてくれるのよ」

「うそだ…」

 俺は再びつぶやいた。あいつに、そんな人間みたいな心があるはずがない。あいつも死んだら地獄に落ちるに違いない。

「河井君の弟さんてみーちゃんとは仲いいんだ…」

 森崎が不満げにつぶやいた。

「私とは、顔合わせようともしなかったのに…」

 まずい、やつが避けてた事に気づいたか。

「私って、もしかして嫌われてたりするのかな…?」

「そんな事ないって。タイミングの問題だって」

 とか、嘘の上塗りをして、「そろそろ、あっちの建物行こう。あっちはまだ、見てないだろ?」と、東の青い建物を指さした。

 それから、熱帯の湖のカラフルな魚達や、でかいメコン大ナマズや、小型ワニ、ピラニアなんぞを見て、こいつら、ナカナカ絵心をそそるなと思いながら、その後は隣接するオアシス・ランドなる公園で、子供連れの家族に混じり観覧車を見つめながら、精一杯秋の一日を満喫する。そうこうしているうちに、夕方になった。俺達は、ライトアップされた『オアシス・キャンドル』や噴水を後にし、車に乗り込んだ。

 帰りの運転は、頑として俺が引き受けた。行きは結局全部みーさんにまかせてしまっただけに、今度こそ、男としても引き下がるわけには行かない。

 バイパスを走る道すがら、森崎が聞いて来る。

「就職活動、どう?」

「うん。ぼちぼちやってるよ。でも、全然ダメ。しばらくは、あの工場に厄介になるかな。…へたすると、一生…」

「何? 優ちゃん工場やめるの?」

 みーさんがちょっと驚いたみたいな顔する。

 …なんだ、なんだ。何も知らねーのか? この人。…って、俺も、なんにも話してねーんだけどさあ。けど、森崎から少しぐらいは事情を聞いてるものと思ってた。だから、今日の、コレ、誘ってくれたのかと…俺が転職うまく行ってないの知ってて元気づけてくれようとしたのかと…もしかして、単にへこんでたから誘ったってだけ?

 つーか、遊ぶのに理由なんかいらねーか。

「俺ね、転職しようかと思ってるんだ」

 俺はみーさんに告白した。

「は? 何って?」

 しかし、何言ってるか分かんねえらしい。

「工場辞めようと思ってるんです」

「え? 辞めちゃうの?」

 …通じたようだ。

「そう。でも、次に働く所がナカナカ見つからなくてね…困ってるんです」

「そうかー。優ちゃん辞めちゃうのかー。あたしも辞めたいなあ。杉村のババア大嫌いだし」

 と、彼女は自分と敵対している、例の新入りのおばちゃんの名前を憎々しげにつぶやいた。…やれやれ、と思う。

 それきり、しばらく話題が途切れ、カーラジオから音楽ばかりが流れる。音の途切れ目で、ふと気がつくと、みーさんが、すーすーと寝息を立てていた。それで、俺は森崎と二人きり、薄闇の中にとり残される。

「無邪気でうらやましいな。みーさんは」

「疲れてたのよ。行き、ずっと運転してたし」

「結局、行きの道全部ね。すげえよな」

「あたし、障害者の人が免許とれるって知らなかった」

「俺も」

「ガッツのある人だよね」

「確かに」

「ねえ、ところでさ」

「何?」

「この間、デザイン学校時代の先輩が独立して事務所持ったんだって」

「ふぅん。すごいね」

「それで、今、イラスト描ける人を探してるんだって」

「そう」

「よかったら、河井君、やってみない?」

「え?」

 俺は驚いてミラー越しに森崎を見た。

「…いや?」

「いやじゃないよ。そりゃ、嬉しいけど…なんで、俺を…」

「河井君の絵が好きだから、このまま埋もれさせたくないの…」

 なんだそんな理由かよ、と少しがっかりする。

 …って何を期待してたんだ? こんなところで、レンアイしてるヒマはないって決めてたじゃないか。いや、まてよ? 俺は東京はあきらめたんだっけ…

 とか、何とかうじゃうじゃ考え込んでると「あのさ」とやけに真剣な声で森崎が言った。

「私、前に勤めてた会社でつきあってた人がいたんだ」

「ふうん…そう…で、今でも付き合ってるの?」

「ううん…」

 森崎の否定に、なぜかホッとする自分がいる。

「妻子持ちだったし、このままずるずる続けてちゃダメだと思って…それで、前の会社辞めたの」

「そうなんだ」

 確か『デザインの方向性が合わなくてやめた』とか言っていたが、嘘だったか。しかし、俺はあえて深くはつっこまなかった。

「会社辞めてからしばらくは、立ち直れなくて、働く気が起きなくて、引きこもっていたんだけど…」

 森崎が何気なく口にした『ひきこもる』という言葉にドキッとする。

「でもさ、生きてると不思議なことが起きるもんだね」

「不思議な事?」

「そうよ。奇跡よ」

「奇跡?」

「変?」

「別に変じゃないよ。でも、何が奇跡だったの?」

「そうね、今、こうして、河井君やみーちゃんと3人でドライブしてる事かな?」

「何それ?」

 思わず吹き出したら、みーさんが目をさましてしまった。それで、俺は森崎のその言葉の真意を知ることはできなかった。

 けれど、確かに、生きていると、時々奇跡みたいな出来事が起きる時がある。だから、生きようと思えるのだ。その先に出会うかもしれない、奇跡を信じて…。

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