1章 5話

 おふくろに続き、親父が入院してしまった。夜中に付き添っていたおふくろの病室で心臓が痛いとうずくまり、そのまま別室に運ばれた。心臓は悪く無かったが胃に穴が開いていたらしい。正の自殺未遂は70近いじじいにとっては重すぎるストレスだったようだ。

 知らせを受けた俺は、今度は親父の着替えを持って病院に行くはめになった。ベッドの脇にタオルや下着を片付ける俺を親父は無言で見ていたが、やがて低い声でぼそりとつぶやいた。

「正は、なんでああなんだ?」

「俺が知るわけないだろう?」

「お前なら分かるだろう」

「なんでだよ?」

「お前も、私達を恨んでいるだろう?」

「……」

.

 何を言い出すんだこの親父は。俺がこっちに戻って以来ひとことも喋らないと思ったら、心の中でそんな事考えてやがったのか。

 鼻の中にチューブを入れられシューシュー音立てて、そんな事言ってる親父がちょっと哀れになり、今更どうとも思ってねえよと答える。

 いや、恨んでないといってしまえば嘘になる。俺は子供の頃から絵が好きだったが、不幸にも勉強ができてしまった。そのせいで、高校に入り真剣に将来を考え、某芸大の美術科を志望した俺に向かい、両親も、担任までもが猛反対をした。その時、反抗する根性でもあればよかったのだが、割かし素直で人がよかった俺はあっさりと大人達の言葉に従ったのである。そして、T大学工学部という何やら馴染みのうすい学科に入ってしまってから、強烈に後悔するはめになる。

 もし、芸大に入っていればと何度も思った。そうすれば、同じ夢を持つ仲間を…つまり人脈を得る事ができたろうし、基礎から学ぶ事ができただろうから、今のような悪戦苦闘もしなくてすんだかもしれない。俺の絵には、何か肝心なものが欠けている。だから俺は自分の絵が好きではない。もし、芸大に行っていれば、その欠けた何かもやすやすと埋められたかもしれない。

 しかし、そんな過去へのIfが何になるだろう? 第一、両親に従いT大を目指したのは俺自身の選択である。

 しかしそれ以上に俺が親父に対して抱いていた怒りは、弟、正をあんな風にしてしまい、俺をここに呼び戻さざるを得なかったふがいなさに対してであった。しかし、それも、この老いぼれぶりを見れば仕方ないかと思う。昔は怖い親父だったが、今や腕力も口でも俺の方が勝っているだろう。俺が何とかしなきゃしかたねえだろ。

「父ちゃん、余計な事考えると、胃の穴ふさがらねえぞ」

 と言い残し、病室を後にした。

 その日から、両親の見舞いと、弟正の面倒を見る毎日がはじまった。家族のために働くのは苦にならないが、弟の食事を運ぶための一歩一歩が、両親の為に車を走らせるその距離が、東京と自分の間をどんどんと引き離していく距離のように感じる。人生とは旅に似ていると思った。

.

 6月の下旬。1階のソファで居眠りしていた俺は、庭先からのクラクションに起された。ベランダ越しに外を見ると低い垣根越しにシルバーの車が止まっていて、窓から森崎が顔を出している。

 ベランダを開け、声をかけた。

「森崎?」

 森崎は俺の声に気付くとこちらに向かって手を振った。

「元気? お見舞いに来てあげたよ」

「一人で来たの?」

「みーちゃんと」

 森崎が答えるのと同時に、彼女の後ろからみーさんが顔をのぞかせた。

「みーちゃんの運転よ」

「へえ」

 俺は驚いて身を乗り出した。

「上がっていけよ」

「車、どこに停めたらいい?」

 と、みーさんの声。俺はうちの前でいいよと言って、二人に上がってもらった。

「あの車、買ったんですか?」

 キッチンで麦茶を入れつつみーさんに尋ねる。

「うん」

「凄いですね」

 俺は感心した。よく、あの工場の稼ぎでと思ったが、そういえばみーさんは俺と違って正社員だったな。

「夕べ二人でドライブしたんだよねー」

 森崎が楽しげに言う。

「ねー」

 とみーさんが頷く。

「タワー? ああ、あの河原にできた新しいやつ?」

「そう。上まで登って来た。夜景が綺麗だったよね、みーちゃん」

「みーさんの運転で?」

「そうよ、綺麗だったよね、紀美ちゃん」

 内心俺は驚いていた。金定さんじゃないが、まさかこの人に免許がとれると思ってなかったからだ。ガラスのテーブルに置いた麦茶を枯れ枝のように痩せた手で持ち、みーさんはおいしそうに飲み干した。その指先にまで届く無惨なケロイドに思わず眼が行く。

「ああ。おいしい。今日も忙しかったから」

 満足げなみーさん。その言葉に俺は恐縮する。

「すいません。俺が休んでるせいで……人手足りないんですよね」

 実は正の自殺未遂から1週間、ずっと会社を休んでいた。みーさんは首を振った。

「気にしなくていいよ。お父さんと、お母さんが一緒に入院したんでしょ? 優ちゃんも大変だよね」

「うん、まあ。昼間は病院に行かなくちゃダメだし、夜は弟の分まで飯を……」

 しまった! 口を塞ぐ。正の存在は知られたくなかったのに。

「弟さん、いるの?」

 森崎が興味を持ったようだ。

「うん。居るよ…」

 紹介はしたくないけどね。

「優ちゃん、御飯つくるの?」

 しめた、みーさんが話を変えてくれた。

「作りますよ。大してうまくないけど」

 笑顔で答える。

「あたしが作ってあげようか?」

 何?

「そんな事みーさんに頼んじゃ、申し訳ないですよ」

「ねえ、河井君、会社辞めちゃうの?」

 また話が変わった。

「辞める気ないけど、クビになっちゃうかもな。親父とおふくろが戻って来るまで家を留守にできないし…」

 万が一俺が留守の時にまた自殺未遂なんぞされては叶わない。

「大丈夫よ、5年前あたしの兄ちゃんが入院した時も1ヵ月ぐらい休んだけど大丈夫だったもん」

「みーちゃん、お兄さんいるの?」

 森崎が食い付く。

「居たよ。でも、死んじゃったの。5年前入院した時に死んじゃった」

「……」

 思わぬ告白に俺と森崎は言葉を失ったが、みーさんは世間話でもするみたいに淡々と「ずっとベッドに付ききりだったんだけどダメだった」と話した。話し終わると「トイレはどこ?」と立ち上がった。

 みーさんをトイレに案内して居間に戻ると、森崎が涙ぐんでいる。

「あの人は凄いね」

 と感極まったように言った。

「あの人、あんな体で一人暮らししてるの。昨日アパートに招待してもらったの」

「御両親は居ないのかな?」

「居ないって」

 と森崎はにじんだ涙を拭う。余程感激したようだ。

「それより、河井君…」

「うん?」

「あさっての似顔絵のバイトの方は来れそう?」

「ああ、そっちもしばらくは無理だな。行かなくても大丈夫かな?」

「かわりの人が来ると思うから大丈夫だけど…事務所に連絡は入れてある?」

「まだ。今日中に連絡する」

「それがいいわ。いつ頃から働けるの?」

「今の所分からない。おふくろが全快しないと……」

「大変ね。なにか手伝える事ない?」

「そんな…悪いからいいよ」

「水臭いね」

「だって、やってもらう理由…ないし」

「2カ月か…」

「え?」

 何が? と尋ねようとしたその時、廊下から悲鳴が聞こえた。みーさんの声じゃない、あの野太い声は……。

 森崎が驚いて俺を見る。

「誰? もしかして弟さん?」

「…らしいな」

 それ意外に居ないって。しかし、あのバカ、また何をやらかした?

「ちょっと待ってて」

 森崎を残して二階の奴の部屋に向かう。が、奴の部屋に着くより先に奴を発見し心臓が止まりそうになる。弟は薄汚れたパジャマを着て洗面所で呆然と立ち尽くしていた。正面にみーさんがいる。どうやら、便所に行こうとして、ばったりあってしまったってとこだろう。一方のみーさんも驚いている。俺は慌てて二人に駆け寄り、半ば強引に弟の紹介をした。

「あ、みーさん。驚いた? こいつは弟の正。見ての通り怪我してるから、家で休ませている」

 俺は弟が引きこもっている事を隠した。なぜって、こいつだって初対面の相手に引きこもってるなんて事知られたくないだろう。俺は奴の面子を守ってやったのだ。具合のいい事に奴は頭に包帯を巻いていたのでみーさんは俺の嘘をあっさりと信じた。それで安心して、今度は弟にみーさんを紹介する。

「この人は相沢美咲さん。俺の会社の先輩だよ。とても世話になってる」

 弟はやる気のない顔で俺の話を聞いていたが、唐突にみーさんを指差し、

「その傷何?」

 と尋ねた。


「あ、みーさん。驚いた? こいつは弟の正。見ての通り怪我してるから、家で休ませている」

 俺は弟が引きこもっている事を隠した。なぜって、こいつだって初対面の相手に引きこもってるなんて事知られたくないだろう。俺は奴の面子を守ってやったのだ。具合のいい事に奴は頭に包帯を巻いていたのでみーさんは俺の嘘をあっさりと信じた。それで安心して、今度は弟にみーさんを紹介する。

「この人は相沢美咲さん。俺の会社の先輩だよ。とても世話になってる」

 弟はやる気のない顔で俺の話を聞いていたが、唐突にみーさんを指差し、

「その傷何?」

 と尋ねた。彼女の眼の下の大きな傷が気になったらしい。しかし初対面の相手にいきなり指をさしそんな事聞く奴があるだろうか? その上奴はこう言った。

「ぼろ人形みたいだね、あんた」

「おい!」

「なんだよ」

「もう、いいよ。さっさと上に行け!」

 俺は弟を叱りつけた。

「なんだよ」

「人を指さすなよ。失礼だろ?」

「何で? 別にいいじゃん。何が悪いの?」

 あきれ返る。こいつは心の底から悪いと思っていないらしい。いや、思ってない振りをしているだけか? いずれにしろ、これ以上ここに居て失礼な事を言われてはかなわない。

「もう、いいよ。さっさと上に行けよ!」

「小便させろ」

「じゃあ、さっさとして部屋に戻れ」

 俺は弟をトイレに押し込むと、みーさんを連れて居間に戻った。俺らの姿を見ると森崎はソファから腰を浮かせ心配げに言った。

「大丈夫だった? なんか怒鳴り声が聞こえたけど」

「うん。大丈夫。優ちゃんの弟さんに挨拶しただけよ」

 みーさんは笑って答えた。弟のぶしつけな言葉は、幸いと言っていいのかどうか、耳の悪いみーさんに聞こえなかったみたいだ。奴はぼそぼそとしか喋れないからな。

「弟さん?」

「うん。優ちゃんに似て可愛いよ。でも、鬚が伸びてたね」

「可愛くないですよ、あんな奴」

「怪我してたの。可哀想」

「少しも可哀想じゃないですって」

「怪我してるんだ」

 森崎が心配そうな顔する。

「してたよ。頭にぐるぐる包帯巻いてた」

「バッティング練習してて、頭をぶつけたんです。馬鹿でしょう?」

 嘘である。バットを振り回してたのは事実だが。

「大丈夫なの? 頭なんて…」

「優ちゃん、大変ね。お父さんと、お母さんと、弟さんまで怪我しちゃうなんて」

「ねえ、河井君。やっぱり何か手伝わせてよ」

「でも…」

「そうだ、優ちゃん。あたしと紀美ちゃんとで夕御飯作りに来てあげようか?」

「二人で?」

「みーちゃんと二人だったら手伝わせてくれる?」

「手伝わせてくれるなんて…。じゃあ手伝って下さい。お願いします」

 俺はソファから降りて、みーさんと森崎に土下座した。本音を言うと助かる。ただ一つのひっかかりは正だが…大丈夫。奴は部屋にこもって出て来やしないさ。

 二人が帰った後、俺は夕飯を運びついでに正に声をかけた。

「明日から、友達が夕飯を作ってくれる事に決まった。工場が終わった後の夕方、5時過ぎから来てもらう。くれぐれも失礼な事をするな。二人とも仕事をして疲れているのにわざわざ夕飯を作って下さるというのだ。尊敬しろ。感謝しろ。それと、お前は怪我で療養中につき飯は2階に運ぶという事になってるから、別に降りて来なくていい。いつも通り生活しろ」

 言うだけ言うとさっさと夕飯を置いて立ち去ろうとした。と、ドア越しにぼそぼそと声がする。

「あの美人も来るのか?」

 驚いて立ち止まる。

「来るさ。それより、お前見てたのか?」

「見えたんだ。お前の彼女だろ?」

「違う。けど、おかしな事すんなよ。何かしたら容赦なく殺すからな。本気だぞ」

「もう一人の人は?」

「みーさんも来てくれる。お前。さっきみたいな事2度と聞くんじゃないぞ」

「あいつ、変だよ」

「変じゃねえよ。あの人は障害を抱えても自活している立派な人だ。五体満足なのに働きもしないお前の方がよっぽど変だろ」

「皮膚が普通じゃないじゃん。なんであんな風なの?」

「あれはケロイドだろ? あんな風になるには余程の事があったんだ。人の心の傷をえぐるのはよせよ」

「でもなんか笑ねえ?」

「お前……」

 弟の常軌を逸した言葉に腹立ちよりもだんだん悲しみが込み上げて来た。お前、どうしてそんな奴になっちまったんだ? そんな奴じゃなかっただろ?

 

 次の日、遅めに病院から戻る。おふくろのリハビリに付き合っていたら遅くなってしまった。今日から森崎とみーさんが来てくれる事になっている。玄関の鍵閉めて来たし早く帰らねえと。

 俺は慌てて車を走らせ家に戻った。6時を過ぎてしまった。もう、2人とも帰ったかもしれない。ところが、家に着くと玄関の鍵が開いていた。台所でみーさんが野菜を刻んでいる。

「よく、入れましたね?」

 大きな声で言うと、みーさんが振り返った。

「お帰り。ごくろうさま」

「玄関の鍵、開いてました?」

「正ちゃんが開けてくれたの」

「え? 正が」

 嘘だろ? しかし嘘でない証拠にみーさんがここにいる。

 一体、どういう事だ? みーさんが身障者だから? それにしては夕べの発言はなんだ? あれは見せかけで実は奴にも弱者への思いやりが残っていたという事か? それで、7年も引きこもった部屋から自発的に出て来た? 「弱者への思いやり」をきっかけに? いや、違う。はっきりとした根拠はないが、『思いやりで』とかそういうレベルの話でないのは確かだ。そんなぐらいで、奴が救われるなら始めから部屋に閉じこもったりしないだろうと思う。じゃあ、何だ? 興味本位か?

「悪いけど、これ、テーブルに持っていってくれない?」

 みーさんが、器に盛った煮物を差し出す。

「あ、分かった」

 とそれを受け取り「森崎は?」と聞く。姿が見えないようだけど。

「2人で来てもしょうがないから、一日交代にしたの。紀美ちゃんじゃなくてごめんね」

「そういう意味じゃないですよ」

「優ちゃん、紀美ちゃんの事好きなんでしょ?」

「また。そういうんじゃないって、言ったじゃないですか」

「別に恥ずかしくないでしょ?」

「恥ずかしいとか、恥ずかしくないとかじゃないですって」

「早く、結婚しないと」

 みーさんは、結構しつこかった。ぐだぐだと色々語るのもめんどくさくなって来たので話をそらす。

「正、なんか言いました?」

「何って?」

「正、何か話しましたか?」

 多分、なにも話しゃしないだろうがな、あいつは……。

「うん、話したよ」

「え?」

「どうして、そんな変な皮膚なのって聞いて来た」

 あいつ…!

「だから火事でこうなったのって教えてあげた。その後、顔の傷の事も聞いて来たから、それは聞かないでって答えた」

「すいません。あいつ、ちょっと頭が変なんです」

「いいよぉー、別に。その後色々手伝ってくれたし。優ちゃんが帰って来るまでここにいたよ」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ。本当だよ。正ちゃんて優しいね」

「嘘だ」

 ありえない。

 俺のくどい否定をみーさんは笑い、枯れ枝みたいな手で野菜を刻んだ。

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