1章 4話

 それはいつものごとく盆の上に食事を乗せ奴の部屋の前にたった瞬間だった。どどんと音がし、ぐらぐらと家が揺れた。はじめはトラックでも通ったかと思ったが、それにしては揺れ方がくどい。で、俺は思った。こりゃ地震だよ地震。後に確認したニュース速報によれば、震源地は遠く離れた県庁所在地で、このあたりの震度は4。幸い津波の心配はなかったが、かわりに立て付けの悪いドアが開き、目の前に立ってた俺の額を強かに打った。揺れはしばらく続き、どう逃げるか思案した俺が、ふと目の前を見てぎょっとする。なぜなら半開きになったドアの向こうの薄やみの中に、水木しげるの漫画に出てきそうな、目のぎょろっとした、青白い顔の痩せた男があぐらをかいていたからである。ばさばさに伸びた髪と、無精髭のせいで極めて判別つきにくくはあったが、辛うじて面影がある。

「正?」

 俺は、弟の名を呼んだ。しかし返事がない。聞こえなかったんだろう。なぜなら奴はくそ生意気にもヘッドホンなどしていたからである。奴の聞いている音楽のリズムがしゃかしゃか聞こえて来る。ヘッドホン越しに聞こえるぐらいだから余程でかいボリュームで聞いているんだろう。っていうか、お前いつもそんな装備だったのか? そりゃ俺の呼び掛けにも応答できないわな。

「おい!」

 むかついたので、今度は壁を強く叩いてやった。すると、奴は返事のかわりに立ち上がり、ベッドホンを頭からむしり取って乱暴に床に投げ付けた。怒ってるのか? その割に無表情だな。

 やつは能面のような顔で、やる気なさそうにこっちに歩いて来ると、俺の鼻先でばしっとドアを閉めた。おかげで鼻先を擦りむいた。


 次の日、いつものように工場に出かけた俺は、人手が足りんという理由で第一工場の方に回された。そこで任されたのは、運ばれた鉄くず達を選別する仕事であった。ここで、使えると判断されたものは、粉砕、切断、プレス加工され、最終的には溶鉱炉で溶かされて再び世間に有用な金属に生まれ変わる。

 俺のすぐ側で黄色いプレス機が音を立てている。四角い穴の中で鉄くず達が箱型に潰されていく。その様子は俺の絵心を強烈にに刺激したが、それ以上に夕べ見た貧乏神のごとき正の顔を思い出させもした。

 なぜだろう? 狭い空間に息苦し気に収まってる姿が似てるせいか? そういえば奴も人間としちゃスクラップだしな。そこも似てるかもな。違いといえば、この鉄屑達はここで生まれかわり社会に戻るチャンスを与えられるのだが、弟にはそのチャンスがあるのかどうか予想できない事ぐらいだ。

 …で、俺は哲学者のごとく考えた。人間もあの鉄くずみたいにに簡単に再生できればいいのになって。そういえば、俺らがガキの頃、『学校で大量生産的に教育される子供達』なんて陳腐な物言いがあり、当時はいちいち大袈裟な大人を笑ったものだが、あの言葉は案外真実をついていたのかもしれない。確かにオレ達は大量生産された商品に似ている。しかも、自分で自分の商品価値を見定める目まで持ってやがる。だから、自分を粗悪品と判定した商品は、さっさと人生を廃棄しちまうんだ。それも別に能動的に選ぶわけじゃなくてさ、この消費社会の価値観に照らし合わせれば、そうせざるを得ないだけだ。いわば運命ってやつだな。って、なんだよ、俺も結構陳腐な物言いしかできてねえじゃん。

 そこまで考えた時、サイレンが鳴り響いた。昼休みだ。




「私、免許とったから、今度みんなでドライブしようよ」

 外れかけたスリガラスのこっち側でみーさんがフライをつっつきながら言う。

「嘘つけ」

 作業着の、金定さんが答えた。60過ぎのこのじいさんも出荷倉庫課の仲間だ。

「お前なんかに免許がとれるか」

「嘘じゃないもん。とれたもん」

 金定さん…通称金さんのきつめの冗談にみーさんがムキになる。俺は、クソまずい工場の弁当を食いながら二人のやりとりを片耳で聞いていた。

 今日は第一工場にいるんだから、向こうの食堂に行けばいいのに、ひねくれ者の俺は、あえていつもの現場で昼飯を食ってる。しかし今日は、絵を書くのは無理っぽいな。なにしろ、第一工場からここまでは、移動に10分はかかるからな。そこで、なぜか俺は森崎の顔を思い浮かべていた。

「もう。金ちゃんは乗せてやらない。真希ちゃんと、ユキちゃんと、優ちゃんと、村さんと、いっちゃんとでドライブするんだもん」

「そんなに乗ったらタイヤがパンクするぞ。真希はデブだし」

「デブじゃないわ!」

 口の悪い金さんを、真希さんが思いきり叩いた。

 いつもながらの平和な風景だ。しかし、みーさんも、真希さんも難聴なのにこういう会話は噛み合うんだよな。金さんが大きな声で喋るからかな。口は悪いけど結構気を使ってるよなこの人。

 水槽の向こう側を眺めるようにしてそんな事考えてたら、いきなり10年程前に流行った失恋ソングが鳴りはじめた。携帯の着メロだ。センス悪いな。どいつんだ? って俺のだよ。彼女にメールが届かなくなった日に着メロ設定したのが悪かった。この曲はねえよな。いい加減かえねえとな。にしても、誰から? 森崎か? いつもの場所に俺がいないから「どうしたの?」ってかけて来た? まさか。

 妄想まじりに携帯を取り出してみると、おふくろからの電話だった。なんだよ、会社に電話してくんなよ。恥ずかしいな。ぼやきつつも、なぜか嫌な予感がする。なんだ? この悪寒は? 俺は同僚達から離れ、携帯に出た。「もしもし」言うか言わぬかのうちに、おふくろのテンパリ気味の声が聞こえて来る。

『ああ、優? すぐに帰って来て、大変なの、正が、正が、自殺……自殺』

「はぁ?」

 一瞬、事態がのみこめない。

『お父さんが止めてるけど、お母さんは歩けないの』

「おい、何がなんだかさっぱり分からないよ。正がどうしたって? じさ…つって?」

 最後の方は声をおとして言う。

『いいから、帰って来て。正が…、あ、お父さん!』

 そこでガシャーンとガラスが割れるような音が聞こえた。

「おい、どうした?」

 しかし、そこで電話が切れてしまう。これは、ただ事ではない。俺はすぐに課長に許可をとり自宅へ向かった。

 車に乗り込み、少ない情報から事態を推測していく。おふくろの言葉『正が自殺』『お父さんが止めている』『お母さん歩けない』そして、ガラスの割れる音…。そして、夕べ見た正の暗い怒りを秘めた瞳。…そうか! あいつ、自殺未遂しやがったな。それを親父が止めてる違いない。さらにおふくろは歩けない状況にいるようだ。怪我でもしたのか? それにしても正が自殺未遂とは。部屋から出る度胸もないあいつが…。



 帰宅してみると、大体推測した通りだった。

 2階の奴の部屋の割れたガラスの前で、親父と正が揉み合っている。正は頭から血を流し、その手にはバットが握りしめられていて、殴られたんだろうか親父の顔には痣ができている。おふくろはといえば、ドアの側にうずくまって唸っていた。10メートル程先に子機が転がってツーツー音を立てている。なんだ? この有り様は。

 俺は、おふくろを飛び越え、親父と正の間に割って入った。弟は俺を見て一瞬怯んだが、すぐにバットを振り上げ鬼のような形相で飛びかかって来た。辛うじてそれを避けると、後ろに回り奴の腕をつかんでひねり上げる。ずっと家に引きこもってた正に抵抗する力はない。俺は奴の手からバットを取り上げ、ぼさぼさの髪をひっつかみ、やせこけた顔を床に押し付けてやった。正が悲鳴をあげる。

「何やってるんだ? お前は」

 兄貴の威厳でもって叱りつけた。しかし正はひいひい悲鳴を上げるばかりで答えない。

「正ちゃん、自殺しようとしたのよ」

 おふくろが顔をしかめながら言った。

「自殺?」

 やっぱりそうか。

「この部屋の中から、おかしな音がするから、お母さん不思議に思って開けてみたんよ。そしたら、正ちゃんがバットで自分の頭を叩いていたの。頭から血が出てたから慌てて止めに入ったんだけど、つきとばされちゃって」

「怪我でもしたのか?」

「足の骨が折れたかも。でも、お母さんは大丈夫。それより、正ちゃんは?」

「こんな奴にちゃん付けするなよ」

「でも、正ちゃんの方がすごい怪我だもの」

「関係ないだろ」

「ごめんね、正ちゃん。部屋を覗いたりしてごめんね」

「なんでおふくろが謝るんだよ? むしろ謝るのはこいつだろ?」

 ったく、おふくろがそんなだから弟はこんな風に立派な馬鹿野郎になっちまったんだろうが。腹を立てながら、床にうずくまって呻いている正を見下ろし、そして俺はぎょっとした。なぜなら正の頭を中心に、どくどくと流れる血液が床を赤く染め、俺の足にまで達していたからだ。慌てて足をずらす。なんじゃあこりゃあ? あ、そうか、奴の割れた額から流れる血のせいか。はっきりいって引いたぞ。いや、引いてる場合じゃないって。「おい、大丈夫か正?」と弟に声をかける。

「病院へ連れていこう」

 親父が言った。俺に話しかけているのだろうか?

「母さんは、お父さんが支えて車まで連れていくから、お前は正を連れて来てくれ」

 どうやら俺に話しかけているらしい。それは、俺がこのくそ親父に勘当されて以来、実に2954日ぶりの出来事であった。

「分かった。運転も頼めるか? このバカ絶対に暴れるから俺が押さえておかないと」

「その怪我では、もうその元気もなさそうだが、いいだろう。運転しよう」

 こうして家族4人が車に乗り込み、川向こうの大学病院に向かった。正はすっかり観念したのか大人しい。応急処置でまいてやった包帯の上から額を押さえている。「大丈夫か?」と時折声をかけながら、俺は小学6年生の時に行った長野旅行の事を思い出していた。ビーナスラインで俺が車酔いした時に、こいつ心配して背中さすってくれたよな。あれが最後の家族旅行だったな。



 10分程で病院に辿り着いた。おふくろは本人が言った通り足を骨折しており、軽い手術が必要との事でしばらく入院する事になった。正の怪我は10針程ぬう事にはなったが、見かけ程の重傷でもなかったようでその日のうちに家に帰ってよしという事だった。痛がるおふくろには親父が付き添う事になった。正の治療は時間がかかるとのことなので、俺はおふくろの着替えをとりに一旦家に戻ることにした。戻りついでに正の部屋の割れたガラスの処理や、よごれた床の始末をする。デスクトップ型パソコンと山積みの漫画とテレビの置かれた小さな城。なる程、ここでなら何年でも暮らせるかもしれない。


 4時すぎに再び病院に戻る。会計のコーナーに正がうつむいて座っているのを見つけ、声をかける。

 それにしても、久しぶりにこの世に戻った正の青白い姿は、清潔な病院のロビーにはあまりにも不釣り合いだった。襟の伸び切ったグレーのTシャツに、紺色のジャージ。治療の為に切ったのか、髪が短くなり多少はこざっぱりしたのが救いだが、初夏の陽光の中の生き生きとした景色にはとても溶け込むような代物でもなく、奴もそれを自覚してか逃げ込むように車に乗り込んだ。


 帰る道すがら俺は弟に聞いた。

「なんで、自殺しようなんて思った?」

 どうせ返事はないだろうと思っていたが、意外にも奴は答えた。

「お前のせいだ」

「俺の? なんで?」

「お前が俺の部屋をのぞいからだ」

「のぞいた? ああ、昨日の夜のことかよ。あれは地震で勝手に扉が開いたせいだろ? 俺のせいじゃないよ」

 っていうか、お前は鶴か。

「こんな風に全身を見られたからには、今度こそ必ず死んでやる」

「おいおい…」

 俺はため息をついた。

「一体、何に絶望してるんだ? 兄ちゃんに言ってみろ。できる限りの力になるから」

「絶望だって?」

 と奴は鼻先で笑った。

「絶望だって? 元々なんの希望も持ってなかった僕が、絶望だって?」

「あのなあ」

 腹が立って来る。

「何も知らないくせに、いっちょ前の哲学言うんじゃねえよ。お前のおかげで、周りがどれだけ迷惑してると思ってる? お前がそんな風にならなけりゃな、俺だってこんな所に戻らずにすんだんだぞ」

 個人的恨みであった。

「結構な身分だな。大学中退して好き勝手やって」

「結構な身分で好き勝手やってるのはそっちだろう? 働きもせずに」

「偉そうに言うなよ。お前だって、たかだかフリーターだろ?」

「なんだと」

 なんだか目くそ鼻くそみたいな言い争いである。だんだん空しくなって来たころ、奴も同じ事を感じたのか黙りこくってしまった。そして外界から身を守るがごとく体を丸める。バックミラー越しにその姿を見て、俺はさすがに哀れみを覚えた。

「なんで、他人に姿を見られたくないんだ?」

「……」

「一体、何が面白くないんだ?」

「……」

「無視かよ」

「……」

「ああ、いいよ。勝手にしろよ」

「……」

「だが、兄貴としてひとことだけ言っておく。世の中確かにそんなに楽しいもんじゃないが、悪い事ばかりでもないぞ」

「……」


 家に帰ると、奴は再び自室にこもってしまった。それで俺は、奴の部屋のドア越しに奴に宣言してやる。

「おふくろがいないから飯は自分で作れよ。俺は自分の分以外は作る気ないし、あの親父が飯作るわけがないからな」

 相変わらず返事はないが、この際放っておこう。人間、腹が減りゃ嫌でも働くものさ。俺は甘やかさないぞ。ざまあみろ。スパルタだ、スパルタ。悦にいりつつ階段の手すりを握った時、俺はふいに立ち止まった。一度自殺未遂を謀った弟が餓死を選ぶ危険性が頭をよぎったのである。

「おい!」

 俺は再びドアの前に立ち怒鳴った。

「やっぱり飯ぐらいは用意してやる。それから、お前がまた変な気を起さないようにしょっちゅう見に来る。ドアをノックした時に返事が無ければ、容赦なくここを開ける。分かったな」

 返事が無い。

「分かったかと聞いてるんだ」

 無反応。

「開けるぞ」

 ドアノブに手をかけ、力を入れる。すると中からうっとうしげにドンドンと床を鳴らす音がした。

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