1章 3話

 次の日の昼休み、いつものごとくスケッチをしていると背後から声がした。

「また絵を描いてるんだね」

 みーさんとは声が違う。誰だ? 不思議に思って振り返ると、真っ黒なセミロングの女性が立っていた。紺のベストにタイトスカートといういでたちだ。これは3階の事務フロアの女性の制服である。彼女は黒目がちの瞳でにこにこしながらこちらを見下ろしていた。

 おや? 俺は彼女を知っている。いや、確かに知っているはずだ……確かめるように左胸の名札に目を移す。白いプレートに『森崎』の二文字。やっぱり……俺は手を打ちかけたけれど、もちろん実際に打つわけもなく、彼女の次の言葉を待った。

「河井君。河井優君だよね?」

 予想通りのセリフだ。

「私の事、覚えてる」

 俺は頷いたが、照れくささもあり記憶があやふやなふりをした。

「森崎……だったよね」

「そう。森崎紀美香」

 彼女は嬉しそうに頷くと「こんなところで河井君に会うなんて、すごい偶然!」と笑い、すとんと隣に腰をおろした。俺はといえば、元クラスメートの無邪気さに、少しばかりの戸惑いを感じた。なぜなら、森崎紀美香は確かに記憶にこそ残っていたけれど、たいした付き合いがあったわけでもないからである。高校時代の森崎はどっちかといえば控えめで大人しい女生徒だった。故に、同じく大人しくて控えめだった俺には接点の持ちようもなかったのである。にもかかわらず彼女を記憶している理由は、その整った容姿がしょっちゅう男友達の噂の種になっていた事と、他でもない自分が彼女に淡い思いを抱いた事があったからである。

 しかし、今の森崎はそれらもろもろの溝を微塵も感じさせる事なく、一足飛びにこちらに近付いて来た。


「東京の大学に行ったって聞いていたけど、ここに戻っていたんだね」

「見ての通り」

「いつ戻ったの?」

「1年ぐらい前」

「こっちで永住するの?」

「多分しないと思う」

「ふうん…」

「森崎…さんはここの社員?」

「さん付けいらないよ。社員じゃなくてバイト。フリーターしてるの。ここには3日前に入ったばっかり」

「その制服は、事務? 3階にいるの?」

「そう。入力やってる」

「ずっとフリーターしてるの?」

「ここ半年ぐらいね。その前はデザイン事務所にいたけど……」

「デザイナーだったの?」

「うん。まあ。でも、事務所のやってる事と自分のやりたい事の方向性が違ってきたからやめちゃった」

「ふうん…」

 森崎ってデザインなんかやるのか。意外だな。でも、そういえば、高校の時の文化祭で森崎の描いた絵を見た事あったっけ。青が基調の淡い絵だった。女らしい優しいタッチの……。

「河井君も絵なんか描くんだね。意外」

 森崎が手元のスケッチブックを覗いて言った。

「それが、描くんだよなあ」

「高校の時も描いてたっけ?」

「全然」

「だよね。いつも難しい顔で参考書を睨んでたイメージがある。でも……うまいね。

これ、工場でしょ?」

「分かる?」

「すごく細かい所まで描くね」

 そう言って彼女はスケッチブック上のトタンの影の一つ一つ、フェンスの一本一本まで詳細にかたどった線の集合体をまじまじと見つめた。

 と、その時だ。

「ゆ〜うちゃん」

 聞きなれた声がして、思いきり背中を叩かれた。誰だか分かっていたが、俺は振り返り声の主を見上げ大袈裟に顔をしかめる。

「なんですか?」

 すると、みーさんはニヤニヤ笑った。

「優ちゃんがナンパしてる〜」

「違いますよ。彼女は高校時代のクラスメート」

 しかし、聞こえてるのか、聞こえてないのか、分かっているのか、分かってないのか、

「優ちゃんやーらしー」

 と、人さし指をこっちにむけた。まったく。絵に書いたようなベタな反応だな。まあいいか。どうせいつもの到底ナイスといえないジョークだ。俺は適当なところで引き下がると、森崎をみーさんに、みーさんを森崎に紹介した。

「彼女は森崎紀美香。高校の時のクラスメートです。今はうちの会社の3階の事務所に

います。で、この人は相沢美咲さん。俺と同じ出荷倉庫課の…ヌシです」

「ヌシってなに? 失礼ね」

 そこは聞こえたようだ。みーさんが怒る。

「本当の事じゃないですか」

 森崎との事を囃した仕返しにからかってっやる。そんな俺の声を無視して、みーさんは森崎ににこにこと会釈をした。森崎もノ何故かこわばった表情で会釈を返す。それを見届けるとみーさんは、

「じゃ、あたしは真希ちゃん達に呼ばれているから」

 と、やけにあっさり退散した。

「元気いいなあ」

 その後ろ姿を見送りつぶやく。そして、同意を求めるように森崎を見ると、彼女は相変わらず顔をこわばらせていた。どうした? まさか、みーさんの下らない冗談にマジに腹立ててるとか? まさか。

「悪い人じゃないんだけどね」

 微妙に焦点をずらして、森崎の気持ちを探ろうとする。すると、森崎が返事するでもなく口を開いた。

「あの人……あの傷は何?」

 それで、あっと思う。そうだ、毎日接しているうちにすっかり忘れていたが、みーさんのあの傷は始めて見る人間には物凄くショックだろう。しかし、敢えて何でもないように、つとめてさり気なく答えた。

「あ、あの人障害者なんだ。あの傷の事は聞いた事ないけどいい人だよ。

「障害者?」

「ああ。こういう工場では、必ず何人か雇わなきゃいけないって、法律で決まっているらしい。他にも2人いるよ」

「河井君の部署に?」

「うん」

「一緒に働いてるの?」

「そうだよ」

「そっか」

 森崎は一旦深く頷き、そしてこんな事を言った。

「偉いよ、河井君。良い経験してるね」

「え?」

 一瞬返事に困る。

「良い経験かな? 別にそんなに意識した事ないけど。あ、始めは驚いたけど」

「ううん。良い体験だよ。貴重だよ」

「そうかな?」

 と首をかしげる。なぜなら、俺はみーさん達に障害があるからといって、特別優れているとも劣っているとも思わないからだ。ましてや、そういう彼女らと仕事している自分が、素晴らしい経験しているなんぞとは天地がひっくり返っても思わない。敢えて言うなら、彼女らはあくまでも仕事場の同僚である。さらにいえば、なにかと面倒を見てくれるみーさんに対しては尊敬の念を抱いてはいるが、それはあくまで相沢美咲という個人に対してであり、そこに彼女が障害者だからという理由は微塵も存在しない。

 とはいえ、森崎のごく女性らしい優しい反応は世間基準としてごくまっとうなものであり、それにとやかく物申す程俺は不粋でもなかった。



 その日から、俺の昼休みはみーさんに加え、森崎と過ごすものになった。正直言って、工場内で唯一自分らしくあれる場所と時間を2人もの女性に侵入されるのはいかがなものかとも思ったが、予想していた程それは不快なものでもなく、そして俺の携帯には新たに森崎の名前が加わった。


 新たなつながりは、新たな時間を与えてくれた。その春から俺は休日のイベント会場で、似顔絵を描く仕事を始めることになった。森崎の大学時代の友人や仲間が多く属するとある似顔絵のプロダクションに俺も加えてもらったのだ。つまり、森崎のつてで得た仕事であった。

 といっても、似顔絵書きだけで食べていける程の稼ぎは期待できない。前にも書いた通り俺は人物画が苦手だからである。工場や、車などの人工物を病的に正確に写し取るのは得意でも、人の顔を当たり障りなく見栄え良く描く才能には欠けるのだ。いや、苦手というよりむしろ嫌いと言った方が正確かもしれない。なにしろ、じっと人の顔を見ているといやでもアラが見えて来る。どんな美女にも必ず崩れた線を発見する。その現実を眺めるのがどうにも辛い。それでもじっと見ていると、しわやしみや肌のキメがやけに目について来て、しまいにはピノキオのような木の人形が、半魚人を書いているような気がして無気味な気持ちになる事がある。その苦痛は絵を描くという行為によってギリギリ相殺する事ができた。だから、俺はなんとかその仕事を続けられた。考えてみればわがままな悩みだよな。

 俺の描いた絵を見て森崎が感心したように言う。

「河井君の描く線は本当に緻密で綺麗だね」

 美咲さんも褒めてくれる。

「写真みたい」

 しかし、ひねくれものの俺は彼女らの言葉を素直に受け取れない。写真みたいな絵を描くぐらいなら、写真をとれば済む話じゃないのか?

「でもこれだけ正確に模写できるのは持ち味だと思うけどな」

 森崎がフォローしてくれるが、やっぱり釈然としない。

「河井君、設計図とか好きそうね。細かいし」

 しかし、今どき設計図なんてCADかなんかで作るんじゃないのか?

「優ちゃんてA型でしょ?」

 残念。O型である。


 イベント会場には森崎と一緒の事が多かった。彼女も同じバイトをしていたからだ。まれにみーさんも来た。工場付近の大型ショッピングモールで似顔絵を描いていると必ず現れた。みーさんが自分の顔を描いてくれとは言う事はなかったが、かわりに友達を連れて来てくれ、不人気な似顔絵描きとしては随分助かった。

 大方は森崎と二人きりだった。賑やかなイベント会場で、行き交うカップルや家族連れなんかを暇にまかせて見ていると、自分達までデートしてる気分になって来る。森崎と俺か…と、彼女を盗み見る。彼女は一心に目の前の客の顔を描いている。

 …それもいいかもな。森崎は嫌いじゃないし。と、一瞬幸せな想像をし、すぐに首を振った。…おいおい。妄想はよせよ。キモがられるぞ。っていうかそれ以前に、お前、東京に戻るつもりじゃなかったっけ? こんなとこで彼女作ってる場合じゃないだろ?

 それにしても森崎は、快活に喋り、よく笑う。学生時代とは180度な印象だ。学生時代はニコニコと人の話を聞いているだけの奴だった気がするのに……。


「ちょっと、何描いてるの?」

 森崎の声に俺は筆を止めた。

「いや、暇だからさ」

「だめじゃん。UFOキャッチャーなんか描いてたら」

「だって、客こないし」

 ある、大雨の休日。俺と森崎は、ショッピングモールの一角にあるゲーセン前の広場でやる気なく座っていた。

「もしかして来るかもしれないじゃん」

「来ないって、こんな日。警報でてるんだよ。自分がここにいる事自体が不思議だって」

 やる気のない俺の言葉に「まったく」とつぶやき、森崎がスケッチブックを覗き込んだ。

「にしても、河井君は機械物描かせると天才的よね」

「森崎程じゃないよ」

「また…茶化す」

「茶化してないって」

 森崎と話しながら俺はUFOキャッチャーの中にぶら下がっている銀色のアームを丁寧に写し取って行く。

「ねえ。河井君てさ、ずっとあの工場にいるつもり?」

「なんで?」

「もっとその…絵に関する仕事したいんじゃないかと思って。例えば、デザイン会社とかさ」

「この才能を埋もれさすのはもったいない事だとは俺も思ってる…でもさ」

「でも、何?」

「それ系の会社に就職するつもりはない」

「どうして?」

「俺、自分の絵嫌いなんだよ」

「なんで?」

「なんか……。森崎はそんな風に感じる事ない? 自分の絵が嫌いだって」

「スランプの時とか感じるかな?」

「俺は、半永久的にスランプかも」

「半永久的?」

「そう。何か足りないから自分の絵は大嫌い。でも、描かずにいられない」

「じゃあ、納得せずに描いてるって事?」

「そう」

「私はとりあえず描いたものはある程度納得してるよ」

「俺も前はそうだったよ。ずっと前は」

 森崎がふーんと首を傾げた。よく分からないというように。そりゃそうだよな。自分の絵が嫌いなくせに描き続ける奴も珍しいよな。

「じゃあ、一生工場のバイト?」

「それはない」

「じゃあ、他の職種目指すわけ?」

「違う、東京に戻る」

「東京?」

「東京に絵の師匠がいるんだ。その人の元で修行して納得いけるような絵をかけた時に、プロの画家になりたいと思う」

「…」

 顔をあげると森崎が目を丸くしていた。そのとぼけた顔に思わず吹き出す。

「何? その顔」

「…東京に戻るつもりなんだ」

「そうだよ」

「そっか…」

 結局、その日は誰も客が来ず、おかげで目の前の雑然としたゲーセンの風景を全て写し取る事ができた。森崎も時間を持て余したのかなんだか力の入らぬくまやひよこの絵を描いていた。どうやら目の前のぬいぐるみを描いていたらしい。


 「東京に戻って画家になる」とか威張ってみたものの、帰りのチケットを得るためのネックである弟、正の状況は一向に改善の兆しが見えない。毎日ドアに向かい声をかけてみるのだが当たり前のように返事はなかった。その間にも時間はどんどん過ぎて行く。まったく嫌になる。よくそれだけ人を無視できるもんだな。お前には情ってもんがないのか? ていうか、本当にお前はこの部屋にいるのか? もしかして居ねえんじゃねえか? お前は本当は引きこもりになんかならずにちゃんと就職して、遠い街で一人暮らしていて、おふくろは俺をここに呼び戻すためだけにウソをついているだけじゃないのか? じゃなきゃこのありえねえ気配の無さはなんだ? 大体トイレはどうしてるんだ? いくら引きこもりでも用ぐらい足すだろう?

 故郷に戻って2度目の夏が来る頃、半ばノイローゼ気味の妄想を抱き始めた俺の目の前に、7年と9ヵ月ぶりに弟が姿を現した。

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