1章 2話

「また描いてるね」

 俺は振り向きもせずに答えた。

「ええ。描いてますよ」

 すると、相沢美咲…みーさんは「上手だね」と言って、俺の隣に腰をおろした。

 『当然ですよ、これでもプロ目指してたんだから』と思ったが、俺は「ありがとう」と笑顔を浮かべた。この人もよくここに来ては珍し気に俺の絵を覗いていくんだ。お互い、暇だよな。

「優ちゃんの絵は、工場とかトラックとかばかりだね。たまには女の子でも描けば?」

「なんで、女の子なんですか?」

「優ちゃんの好きな女の子描いたら?」

「いませんよ、そんなの」

「え? 何って? 工場が好きなの?」

 なんだか会話が噛み合ってない。俺は声を張り上げた。

「違いますって。好きな女の子はいないって言ってるんです」

「うっそだあ。優ちゃん嘘つき」

 やっと通じたみたいだ。

「嘘じゃないですよ」

 と、言いながら俺は東京で別れた彼女を思い出した。こちらに戻ってからしばらくは毎日メールのやり取りをしていたが、だんだんその回数も減り、1日中が1日おきになり、1日おきが一週間おきになり、一ヵ月も忘れ去り、ある日、久しぶりにメールしたら送信不能になっていた。色んな意味でさらば青春だな。あの日、ここに帰って来た時全て終わったのか? いや、終わらせるものか。

「俺、人物は苦手なんですよ」

 俺ぼそっと本音をつぶやく。でもみーさんには分からない。

「早く、彼女見つけないと。合コンでもやったら?」

「もう、いいですよ。やだなあ。俺は人物画は苦手なんですって」

 苦手というより、むしろ人物画は嫌いである。しかし、それについてうだうだ語るより

先に昼休み終了のサイレンが鳴り、俺達は場内に戻った。


 キッチンでおふくろが黙々と夕食の準備をしている。親父は居間の黒いソファに座り新聞を読んでいる。親父の目の前ではチカチカとニュースが流れていて、どこやらで、また奇怪な殺人事件があったとアナウンサーが告げている。仕事から戻った俺はダイニングから障子越しに親父に声をかけた。

「具合はどうだ?」

 1年前、親父は突然の腹痛に襲われ近くの大学病院に運ばれた。結果、大腸にガンが発見された。ポリープがガンになってしまったらしい。しかし、発見が早かったのと、幸いガンが潰れていなかったのとで、切除するだけで事は済んだ。医者の言葉によればこの類いのガンの再発は99%無いそうだ。しかし、『ガン』という単語が気の弱いおふくろや、俺にもたらしたショックは恐ろしく大きなものであった。

「そろそろ検診だろ? 面倒くさがらずにちゃんと行けよ」

 親父を思いやった言葉が空しく宙を舞う。親父の中での俺の地位は今だに勘当ムスコらしい。ここに戻って1年と言うもの、俺と口をきこうとしないどころか、まともに顔を見ようともしない。はっきり言ってムカツクが、すっかり痩せこけ、おんぼろになった親父に対して本気で怒る気にはとてもなれない。

 それからしばらくすると、家族3人のこの上なく気まずい夕食がはじまる。誰も何も喋らない。居間のテレビだけがやたらと陽気にはしゃいでいる。黙々と食事を済ませると、おふくろがもう一人分の食事を用意する。茶わんに白い飯をよそい、赤い椀に味噌汁を注ぎ、皿にその日のメインディッシュを盛り付け、それら全てを四角い盆にのせる。それを2階に運ぶのは俺の役目だ。俺は盆を受け取り、黙って食堂を出る。

 いよいよ、今日の最後の大仕事……俺の人生をかけた戦いがはじまる。勝負は毎晩繰り返されるが、残念ながら今の所全敗である。


 階段を昇りきり白いドアの前に立ち、2回ノックして俺は弟の名前を呼んだ。

「正」

 しかし返事はない。いつもの事だ。奴はもう7年もの長きに渡りこの部屋に引きこもっている。よく飽きないものだ。

「飯置いておくぞ。体調悪くないか?」

 やはり返事はない。あきらめずにもう一度声をかける。

「親父の術後の経過は良好だ。おふくろのノイローゼもなんとか直ったようだ。俺も仕事大変だが頑張っている。家族はみな元気で頑張っている。お前をのぞけば」

「……」

 敵は頑だ。しかし、ここであきらめるわけにはいかない。

「なあ、いい加減に出てこいよ。親父もおふくろも待っているぞ。俺も信じている。おふくろなぞ、お前の顔を見たら泣いて喜びその場でひっくり返る事だろう」

 敵の良心に訴えかけてみる。が、こんなぐらいで屈服する相手なら、俺がここに帰って来る必要もなかっただろう。あきらめずに、俺は今度は思い出作戦を使う事にした。

「覚えているか? お前が小学校の頃、クラスで優秀賞を取った習字が今でも玄関に飾ってあるぞ。ほら、あの『みんな仲良く』ってやつだよ」

「……」

 全く反応がない。だんだん腹が立って来る。一体誰のために俺はこんなところでくそつまらん思いをしていると思っているんだ? しかし、ここで怒っては負けだ。

「なあ、正。俺には分かっている。お前はそこらの引きこもりとは違う。子供の頃のお前はとても明るくて元気で、兄ちゃんは常々うらやましく感じていたものだ」

「……」

「何。お前なら大丈夫だ。すぐに社会復帰できる。後はお前のやる気次第だ」

「……」

 何を言っても返事はない。しまいに『嘆きの壁』に祈りを捧げてる気分になってくる。『嘆きの壁』なんて単語持って来たが、それがなんなのか実はよく知らねえけどさ。けどこのドア見てたらそんな言葉が浮かんで来ちまうわけだ。なにしろ、ここで東京に帰る望みをかけつつ沈黙を相手に喋ってると本当に泣きたくなるからな。しまいには必ず空しくなり、こうして日ごとに連敗記録は更新されるていくってわけだ。


 自室に戻るといつもの日課でCDをかけ絵筆を握った。

 キャンバスに向かってため息をつく。正の事を考えるからだ。

 正直言って、出て来たくない奴に出て来いと強要したって無駄だと思っている。もし、俺が奴の立場なら出て来いと言われれば言われる程絶対出て行くものかと思うだろう。しかし、こっちにはあきらめきれない理由がある。奴さえ部屋から出て来てくれれば、おふくろとの約束も果たし俺は気持ちもさわやかに東京に戻れるのだ。

 正は俺が大学を辞めた次の年、16才の時に不登校になった。あれから7年ということは今年23才か。

 奴のひきこもった原因がさっぱり分からんとおふくろは嘆いていた。弟は優等生の俺と違い、子供の頃から明るく、やんちゃで、社交家で、元気なやつだった。だから、ますます原因が分からない。おふくろは「優がああなるなら、まだ分かるけどね」と失礼千万な事を言いやがったが、まあ、そうかもしれん。おとなしくて真面目で人間不信のケのあった俺ああなるのなら、原因は種々考えられもしよう。

 しかし、今時は色々複雑怪奇だからな。学校も、世の中のしくみも、人の心も、人のつながりもな。だから、みんなが心に爆弾をかかえとるんよ。いつ何がきっかけで爆発するか分からん爆弾をよ。俺だって、正直無性にドアを閉め切りにしたくなる事があるさ。ただそうしたところでどうしようもない事が分かっているから、外に出て行くだけだ。そんな風にモノローグし、俺は描きかけの工場に灰色を重ねて行った。

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