第2話 蒼き月の伝承

 急速に、心に不安が広がっていく。何も解らない。自分が、何者であるかすらも。


「そんな……何で、どうして、何で」


 譫言のようにそう呟きながら、僕はもう一度周囲を見る。確かなものが欲しかった。何でもいいから、僕の知っているものが。

 不意に、隣にある鏡台が目に入る。……そうだ。自分の顔を見れば、何か……!

 僕はふらつく足も構わず勢い良く立ち上がり、そのまま倒れ込むように鏡台に飛び付いた。そして顔を上げ、鏡面を覗き込む。

 見えたのは白い服に身を包んだ、さっきの少女とさして変わらない歳の少年。浅黒い肌に、空の蒼のような色の瞳。長くも短くもない明るい金髪は、寝癖だろうか、後頭部の方が乱れて見えた。

 暫くの間、その姿をまじまじと観察する。鏡の中の少年もまた、こちらを探るように見てくるのが何となく不気味に感じた。

 どのくらいそうしていただろう。やがて僕は、肩を落としながら大きく溜息を吐いた。


「駄目だ。何も解らない。何も……思い出せない」


 今鏡に映ったこの顔が、見慣れた自分のものであったかすらも僕には解らない。その事実は僕を酷く落胆させ、そして、更に不安にさせた。

 気が付けば、すがるように少女の消えた部屋の入り口に視線を向けていた。あの子なら知っているのだろうか。僕が、一体何者であるかを。


「あっ! 駄目よ、まだ立ち上がっちゃ」


 そう考えていると、間も無く少女が入り口に姿を現した。少女は僕を見るなり眉に皺を寄せて、大股にこちらに近付いてくる。

 そして、僕の目の前まで来ると腰に手を当て凛とした口調で言った。


「さっきも言ったけどあなたは酷い熱で、しかも三日間も寝込んでたのよ。まだ安静にしてなきゃ駄目!」

「う、うん……ごめん」


 その迫力に押されるように、僕は足を動かし再びベッドに座る。それを見届けると、少女の顔に笑顔が戻った。


「ふふ、良し! でも本当に良かった。この村にはお医者様がいないから、怪我人だけじゃなくて病人もここで診るしかないの。魔法では怪我は治せても、病気は治せないでしょう? だから良かった。無事にあなたが目を覚まして」

「これ、弱っている方をあまりお喋りに付き合わせてはいけませんよ、アロア」


 とめどなく話し続ける少女にどうこちらの話を切り出すか悩む僕の耳に、不意に少女とは違う年のいった男性の声が響く。その声に少女は入り口を振り返り、僕もまた少女のその視線を追った。

 そこにいたのは上下とも黒色の服を身に纏い、少女と同じ形のペンダントを首から下げた少し腰の曲がった老人。薄い白髪をオールバックにし、柔和そうな笑みを浮かべるその老人は、少女と僕を交互に一瞥するとゆっくりと歩を進め部屋の中に入ってきた。


「神父様、ごめんなさい。もしかして、このまま目が覚めないんじゃないかって不安になってたところだったから、つい。あっ、まずあなたに謝らなきゃいけないんだった。ごめんなさい、安静にしなさいって言っておきながら煩くしちゃって」

「ううん、気にしてないよ」


 こちらに向き直り、眉を下げ謝る少女にそう首を横に振って笑いかけると、そんな僕達を老人の笑みが一層深くなっているのに気が付いた。それが何だか気恥ずかしくて、僕はさっきまでの不安も忘れて頬を熱くしてしまう。


「あ、あっそのっ。た……助けて貰った、んですよね、僕。その、ありがとうございました」

「いえ。総ては大地母神アンジェラ様の導きのままに」


 頬の熱さを誤魔化すように頭を下げると、老人はそう言って胸のペンダントに触れた。成る程、あれはアンジェラという神様のお守りみたいなものらしい。

 そう一人得心していた僕に、老人が放った次の言葉は僕を酷く落胆させるものだった。


「して、旅のお方。一体如何様な災難に見舞われ、この村まで?」

「旅の……お方?」


 その短い言葉を、何度も頭の中で反芻する。僕は旅の者。それが意味する事は、つまり。

 この二人は、僕の事を知らない。そんな単純で、僕にとっては残酷な事実だった。


「……そう、ですか……僕は旅の者……」

「ど、どうしたの?」


 溜息を吐きながら思わず肩を落とす僕に、少女が心配そうな声をかける。その問いには答えず、僕は逆に二人に問い掛けた。


「その……変な事を聞くかもしれませんが、僕はどんな状態で発見されましたか?」

「ええと……確か、何も持たずに近くの森の入り口に倒れてたそうよ。唯一の荷物はその、右腕の腕輪だけ」


 言われて、右腕に視線を移す。……さっきまでは気付かなかったけど、確かに右腕に腕輪が嵌められている。

 その腕輪は、とても奇妙だった。何の模様もない銀色の腕輪、それ自体は普通なのだが、問題はそれが手首にぴったりとくっつく形で嵌まっている事だった。これでは、掌を通す事なんて出来ない。

 どこかに継ぎ目でもあるのだろうか。そう思い腕輪を見つめる僕に、再び少女が声をかけた。


「ねぇ、本当にどうしたの? さっきから何か、様子が変よ?」

「……」


 一瞬、僕は迷う。記憶のない事を、素直に話すべきかどうか。いきなりそんな話をして、果たして信じて貰えるのか。

 けど、黙ってたって仕方がない。僕は正直に、二人に打ち明ける事にした。


「実は……何も解らないんです。何で倒れていたかも、それどころか……自分自身の事すらも」

「……え?」


 二人の顔に、一気に困惑の表情が広がる。それをどことなく申し訳無く思いながらも、僕は二人の次の言葉を待つしかなかった。


「……ふむ……」


 最初に口を開いたのは、老人の方だった。老人は何事か考えるように顎を擦りながら、その細い目で僕を真っ直ぐに見つめた。


「……嘘を吐いている様子はなさそうですね。しかし、ふむ……まさか蒼き月の伝承が本当に身近に起きるとは……」

「蒼き月の……伝承?」


 戸惑ったようなその言葉に、あの大きな蒼の姿が脳裏にまざまざと蘇る。そうだ。僕はここで目覚める前に、確かにそれを見た。

 夢か現か。解らないけれど、その蒼は確かに記憶の中に焼き付いている。


「蒼き月の伝承っていうのはね」


 少女が口を開く。僕はその話に、ジッと耳を傾けた。


「この世界では一ヶ月に一度、普通の白い月とは違う大きな蒼い月が昇るの。けど……その蒼い月は、自分が昇った晩に外にいた人の記憶を奪い去ってしまう。そう言い伝えられているの」

「その蒼い月の晩が……僕の見つかる前日の事だった?」

「そう。そして、奪われた記憶は二度と戻る事はないって。だからどんな旅人も、蒼き月の晩に外にいる事は避けるって聞いてるわ」


 僕の問いに、少女が神妙な顔で頷く。今の話が本当なら……僕の記憶は、もう二度と戻らない?

 そもそも、なら、何でそんな晩に僕は外に……?


「……とにかく、今は体を休めるべきでしょう。神を信じる者が神の伝承を疑うのは本来罪深き事ですが、もしかしたら、休む事で記憶が戻るやもしれません」

「じ、じゃあ、私、スープを持ってくる。ずっと寝てたんだもの、お腹が空いているでしょう?」


 二人の目に、僕は余程沈んで見えたのだろう。老人は優しく、少女は無理矢理明るく振る舞っていると解る様子で僕に話し掛けてくる。

 そんな二人にこれ以上気を遣わせてはいけないと、僕は一生懸命に笑顔を作って答えた。


「……うん、ありがとう」

「じゃあ、少し待っててね!」


 少女が背を向け、部屋の外に消えていく。僕はそれを表向きは笑いながら、内心では暗澹とした気持ちを抱えながら見送った。


 少女の持ってきてくれたスープの味は、結局、今の僕には殆ど解らなかった。

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