第3話 名前

 僕の食事が終わり、少女が食器の後片付けに、老人が伝承について詳しく調べにそれぞれ部屋を出ると、僕はまた一人になった。あまり一人にはなりたくなかったけど、そんな幼子のような不安を口にするのは情けないと黙って二人を見送った。

 振り返り、窓の外を見る。窓ガラスの向こうでは、舗装されていない土が踏み固められているだけの道と大きな畑、そしてそれを世話する中年の男性が、柔らかな昼の日差しに照らされていた。

 ……畑。あれが畑である事は、解る。僕のいるこの建物がどうやら教会で、あの老人が大地母神……ええと、名前まではきちんと覚えていないけど、その神様に仕える神父様というのも解る。

 食器の使い方も、特に問題はなかった。味は気分が沈んでいたせいで解らなかったけど、それがスープという食べ物である事はちゃんと解った。

 そして、僕が見た、あの大きく蒼い光。あれが二人が言っていた蒼い月だというのも、何となく解る。

 恐らく、生活に必要な最低限の知識みたいなものは覚えている、のだと思う。それさえもなければ、僕は本当に赤子同然だったに違いない。そうでなくて良かったと、心から安堵する。

 けど、それ以外……自分自身の記憶はもう承知の上だけど、それ以外の、例えばさっき出てこなかった神様の名前や、この辺りがどんな地方で、主にどんな生活をしているかなど……そういった細かな知識は、まるで何も書かれていない真っ白な本を読むみたいに、全く頭に浮かんでこないのだ。


「……………………」


 暫くの間、まるで絵に書いたように穏やかな外の風景をただジッと眺める。記憶から抜け落ちてしまった僕の故郷も、こんなのどかな場所なんだろうか。もう、思い出す事は叶わないのかもしれないけれど。


「ねぇ、起きてる? 中、入ってもいい?」


 不意にノックの音とそんな声がして、僕の意識は現実に引き戻された。僕は入り口の方に向き直り、うん、と短く答えた。

 ゆっくりと、閉まっていたドアが開かれる。立っていたのは、あの栗色の髪の少女だった。


「具合はどう? その、どこか痛かったりしない? ほら、ずっと寝てたし」

「大丈夫。……ええと……」

「あっ、私、まだちゃんと名乗ってなかったわね。私はアロアよ」

「アロアだね。アロア、そういえば僕はどこか怪我をしていたの?」

「細かい怪我を幾つか。どれも大した事はなかったから、魔法ですぐに治せたけど。あっ、治したのは私じゃなくて神父様なんだけどね。私はまだ見習いで、上手く魔法が使えないから」

「魔法って?」

「魔法はね、ドワーフ以外で適正のある人だけ使えるの。種類は、私達みたいに神様を信じる聖職者が使う聖魔法。『玉(ぎょく)』って呼ばれてる発動体を通して使う、自分の魔力を別の形にする玉魔法。エルフしか使えない、自然の力に働きかける霊魔法があるの」

「ドワーフやエルフっていうのは?」

「私達人間とは違う文化を持つ種族よ。ドワーフは普通洞窟に住んでて、魔法が一切使えない代わりにとても器用で、力が強いの。エルフは霊魔法の唯一の使い手で、とっても頭がいいんだって。でも人間と暮らす事も多いドワーフと違って森からあまり出ないから、私も実際には会った事がないの」

「そうなんだ。……きっと、三日前までの僕なら今の君みたいにすらすらとそう言えたんだろうな」

「……あっ……」


 僕の漏らした一言に、少女――アロアが、気まずそうな声を上げる。……こんな事が言いたい訳じゃなかった。ただ、僕に聞かれた事を淀みなく答えられたアロアを羨ましいと、そう思ったら今の言葉を思わず口にしてしまっていた。

 だって、今の僕にはそんな事も出来ない。人に何かを教える事も、ただ自分の名前を名乗る事すら。


「あっ、あのね! 違うの、あのねっ」

「……ごめん。君はただ、聞かれた事に答えただけなのに」

「そ、それもだけど! 違うの、ここに来たのはこんな話をする為じゃなくてっ」

「……?」


 アロアが何を言いたいか解らず、僕は軽く首を傾げる。そんな僕に、アロアは興奮気味に、まっすぐに僕を見つめながら言った。


「そう! 私、あなたの名前を考えてきたの!」

「……僕の、名前?」


 無意識に、僕の目が大きく見開かれる。……名前。それは今、僕が一番求めるもの。

 だって名前さえもないなら、僕は何をもって僕だと言えばいいのだろう。確かなものが何もない僕は、果たして本当に存在していると言えるのだろうか?

 そんな僕の心境に気付いているのかいないのか。アロアは、なおも興奮気味に続けた。


「ええ。名前がないって、凄く不便だと思うの。だから、あなたさえ良ければだけど……」

「……とりあえず、聞かせて」

「あのね、私の考えた名前は……リト」


 どくん。その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた、気がした。

 リト。僕はその名前を知っている。それは、とてもとても大切な名前だったような気がする。

 誰の名前で、どう大切だったのかは思い出せないけれど。けれど、何もかも洗い流されてしまって真っ白だった筈の頭の本の片隅に、その名前は小さく、だけど確かに書き込まれていた。


「リトっていうのはね、かつて、アンジェラ様以外の神様が蒼い月へ旅立つ時、地上に残していった使者様の名前よ」


 僕の様子の変化には気付かない風に、そうアロアが続ける。その話も、今の僕には半分くらいしか入ってこない。


「使者リト様は神々から授かった剣を使って、神様達がいなくなってから世界に現れ始めた魔物達と戦って人間達を導いたの。世界で一番古い英雄様よ」

「英雄……」


 アロアの言葉を、噛み締めるように反芻する。英雄の名前だから、僕はリトという名前を知っていたのだろうか?

 ……いや、違う。だってたったそれだけならば、こんなに胸は騒がない。

 この名前は、手掛かりなのかもしれない。失われた記憶、それを取り戻す為の。


「……どう? 嫌なら、また別の名前を考えるけど……」

「いや……うん、いい名前だと思う。……少し、僕なんかが名乗るには勿体無い気がするけど」

「良かった! じゃあ決まりね! 改めてよろしくね、リト!」


 僕がそう言うと、アロアは嬉しそうに満面の笑顔を見せた。それに釣られるように、僕も自然と笑顔になる。

 ……リト。この名前を大事にしよう。仮の名前だからというのも勿論だけど。

 この名前と、あの蒼い月。これらはきっと、僕の記憶に繋がる鍵になると思うから。

 そう、取り戻すんだ、絶対に。

 本当の、僕という存在を――。

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