第5話 それは黒い暴風のよう

 浮世離れした世間知らずの箱入りとはいえ、商人だった男の娘である。エリシュナは、資金がないことには今後、何もできないことは理解でき、深刻になれた。


「ルース、どうしましょう?」


 しかし、打開策は分からない。方法は、唯一頼れる眼前の青年に聞くしかなかった。しかしルースも、今すぐにどうこう出来る策は打ち出せるはずもない──話しかけた瞬間は、そんな顔をしていた。


 しかし、次の瞬間、そのルースの表情が驚きに、次いで怒りに変化した。


 呑気なエリシュナに驚き呆れ、次いで怒った──訳では、無論ない。ルースの視線はエリシュナの背後、別のものに向けられていた。


 一瞬、ルースを怒らせたかと怯んだエリシュナもすぐにそのことに気づき、追いかけるようにルースと同じ方向、自らの後ろに振り替える。と、


 ──漆黒の猫。


 一言で言い現わすならそれしかないという程、毛並みが黒一色の猫がそこにいるように錯覚できた。


 錯覚、といったのは、それが正確には猫ではなかったからだ。


 フェルパー──人からは猫人間と呼ばれる、亜人の一種である。人の祖が猿なら、フェルパーは猫と言われており、猫のそれを彷彿とさせる体毛と顔、二足歩行の人間大の猫という表現がピタリとくるくらい、“猫人間”の名に相応しい者たちだった。


 ルースが驚き、怒った相手は、そのフェルパーに対してだった。そのフェルパーは一切の無駄がない動きで店内の人の海を巧みにかき分け、酒場を後にしていた。


「どうしたのですか、ルース──」


「お嬢様、お話はあとで。今日1日分の支払いは済ませてありますので、お嬢様はここでゆっくり食事をなさっていてください」


「あ、ルース!?」


 エリシュナがどういうことか事情を聴く間もなく立ち上がり、ルースもまた酒場を出た。




 言いつけ通り、エリシュナはしばらく酒場の中で一人、食事を行っていた。しかし、お世辞にも客質が良いとは言えぬ庶民の酒場でエリシュナのような美人が一人で食事をしていれば、よくも悪くも注目を浴びた。居心地は悪く、出て行ったルースと、後を追ったのであろう漆黒のフェルパーのことが気になって仕方がない。


 2つの心のつかえは、エリシュナにとてもではないが食事を楽しませる気持ちを失わせた。エリシュナもまた立ち上がると、二人の後を追うべく酒場を出た。


 そして、途方に暮れるのに数分も必要としなかった。


 事の最初から追跡すると決めていなかったのだから、二人がどこに行ったかなどエリシュナに分かりはせず、後など追えよう筈もない。それでも一人では居心地悪い酒場に戻る気にはなれず、二人の姿を求めてあてもなく町の中を歩いた。


 それは偶然を期待した行動で、慎重か軽率かと言われれば間違いなく軽率の側に針が振り切れる行為だったが、今回に限ってはそれが正しく報われた。二人の位置が、分かったのだ。


 フェルネシュタイン中央噴水通り、市も出る場所で二人が騒ぎを起こしていたからだ。


「いい加減にしろよ、優男。知らねぇと、言ってるだろ?」


「そちらこそいい加減にするがいい。貴様がお嬢様からすり取った金貨袋をしまう姿、あの酒場で私は間違いなく見ていたのだからな」


「埒が明かねえな」


 にらみ合っていた人間とフェルパーの男同士が、互いに目を光らせる。それは殺意と呼ばれるものにあと一歩で届こうかという危険を孕んだ、物騒な光だった。


「これ以上ひとに難クセつけようてんなら、相応の覚悟はあんだろうな、優男?」


「なんだ。実力行使か? こちらとしてはその方が話は早いが」


「よく言った」


 ルースの言葉に、フェルパーの眼光の危険度が一歩進んだ。──すなわち、殺意のそれへと。


 いつの間に抜いたのか。エリシュナが意識した時には、すでに漆黒のフェルパーは短剣を左手に携えていた。握りは逆手。まともな剣技の使い手でないことは、それで知れる。


 一方で、これまたエリシュナが意識する間もなく、ルースが長剣を両手で構えていた。得物の長さ、重さを考えれば、それはフェルパーの技よりなお地味ながら凄まじい領域のものであったかも知れぬ。


 エリシュナが気づくくらいだ。わずかに及ばぬとは言え、見事に隙なく短剣を構えるだけの実力がある対手のフェルパーが、ルースの底力に気づけぬ筈はない。だがフェルパーの、怒りと殺意の籠った眼光と不敵に笑みの形に歪む口元に変化はなかった。そのまま、揶揄ではない真実の命のやり取りである死闘へと突入するつもりらしい。


 対するルースは、静かなものだった。


 どちらも騒がしくはない。だがフェルパーの静けさが嵐の前のそれだとすると、ルースの静かさは止水のそれ。それもこの上ない、身を切るような冷たさの止水を思わせる静けさだ。それを暴風と冷気の刃のぶつかり合い、などと称しては、いささか幼少じみた感想であったろうが、しかしエリシュナにはそう見えた。


 しばしにらみ合い。実際の時間にして、2分もなかっただろう。本人たちの感覚は分からぬ。だがエリシュナには、それが1時間にも10時間にも感じられる、長く重苦しい緊張の時間だった。


 そして、動く。先の幼稚な感性のままなぞらえ称するなら、フェルパーがまさに、漆黒の暴風となって。


 躍りかかってきたその黒い暴風を、ルースは一切の表情が浮かばぬ顔で迎える。


 1回。鉄と鉄が、正確には薄い刃と刃が交錯した音が噴水広場に響き渡った──


 

 

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惑乱の女帝 翠梟 @suikyou15

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