第4話 祈りはまるで霞のよう

 戦士としての尊厳を引き換えに、自死を思いとどまったルースを連れて、エリシュナは王都シェナーンから東方、東方国境都市フェルネシュタインに来ていた。


 王都シェナーンは当然として、フィスカール王国とその南方に建つパルティシア王国との交易で栄える国境都市・シュネーヴィーゼに次いで、フィスカールにおいてはフィスカールの東方に位置する国家、コールドマイヤー公国との交易によって3番目に富栄えている町だ。


 西に向かうということは、エリシュナにとっては敵の本拠地に近づくということだ。普通に考えたら、自殺行為にも思えるだろう。


 だが、エリシュナにはエリシュナなりに考えがあった。この金髪の美少女は、『灯台の元は暗い』の喩に習い、相手の懐に潜り込むつもりでいるのだ。


 それを成功させる考えもある。ルースが生きているので、協力してもらうのだ。


 ルースが生きて西方の女帝の元に向かっているのなら、それは『エリシュナを誑かして女帝の元に連れて行っている』と強弁できる、という考えだ。


 捕らえられて、というのは、自由を拘束してはいないので少し苦しい。なので『誑かされて』。実際、エリシュナは決定的な事態になるまで、女帝の放った暗殺者であるルースを信じていたのだ。まるきりデタラメを言うのではない。


 いや、今だって信じている。実際、ルースはその気になれば、いつだって自分を殺し、その首だけを女帝の元に持ち帰ることだってできるのだ。


 エリシュナ自身が少しばかり神と交信し、その力をわずかに借りることが出来ようと、それが何になろう。ルースは巌よりなお硬質な鉄塊より製造されし刃を、頑健な肉体と入念な鍛錬の末に獲得した技術を持って操るのだ。その技術がもし死の脅威となって降りかかるならば、エリシュナがごとき20にも満たぬか弱き小娘の微細な抵抗ごとき、ルースにとっては嵐の中に舞い散る羊皮紙にも等しいだろう。


 だから。エリシュナはルースを信じて、以後を過ごす。そう決めた。


 いや、そう決めたというより、それしかないと言う方が正しい。


 仮にルースを信じられぬというのなら、その傍から逃げるしかない訳だが、それはまったく現実的ではない。


 理由は2つ。まず実際問題として、ルースほどの戦士から逃げおおせることが果たして出来るか? ということがある。


 答えは簡単。不可能だ。


 ルースが、死のうとしたことすら自分を騙すための演技で、未だその心が女帝の臣下であったというなら逃がしてもらえる筈はない。


 2つ目。ルースの心が本当で、自分の意思を尊重してくれるものとして。それで離れることができたとして、それでその後どうやって生きていけよう?


 自分のような、世界と言えば王都と実家と神殿の中しか知らない小娘が生きていけるほど、世間は甘くない。箱入りのエリシュナでも、その程度の想像はできる。さらに、一帝国の主という、あまりにも巨大な敵を抱える自分が、ルースという盾にして剣から離れたら、どうなるであろう。


 これも、答えは簡単だ。女帝から放たれる第2、第3の刺客たちに、いつか膝を折ることになろう。女帝の気まぐれはルースたちで終わりで、以後は手出しされないという考えは、楽観に過ぎるというものだ。少なくともそこまでエリシュナは現実逃避できない。


 だから。これから以後は、強靭なルースを信じて共に過ごす。これは大前提だ。


 他の選択肢は、もしかしたらあるのかも知れないが、少なくともエリシュナには考えつかない。


 だからエリシュナは、ルースと共に女帝の足元を目指す。


 女帝が支配する、フィスカールより遥か西方。大陸中部から東部一帯という広大な版図を誇る一大帝国、ヨンロン央雅帝国を。




「お嬢様、宿を取ってまいりました」


 自分自身とルースの今後に思いを馳せていたエリシュナに、当のルースからの声で現実に戻るエリシュナ。宿屋と酒場は一体になっていることがほとんどで、ここフェルネシュタインも例外ではない。エリシュナはルースが宿を取って来てくれる間、酒場の隅のテーブル席でフードを目深にかぶり水を飲んでいた。


 フードを目深にかぶり、その顔を周囲から隠すようルースから言われた時、エリシュナは最初、女帝の刺客から身を隠すためだと思っていた。


 無論それもあるが、それよりもこのような酒場でその美貌を晒すと、変な虫が寄ってくるかもしれないことの方が問題だ、と聞かされた時、エリシュナはよく分からなかった。


 美人なら金持ち、という訳でもないだろう。今の自分は大した財産も持ち合わせていない。顔が良いからといって、構って得する地位にあるとも思えなかったのだ。

その点、裕福で親も優しく美人として生まれたため、のんきに育ったエリシュナには、男が美人に飢えているということなど想像の及ばない事態なのだった。エリシュナを襲った刺客の中には彼女にそうした生臭い欲を向けた者もいたが、それが劣情に基づいてのことだと、今のエリシュナには気づけないことだった。


 ルースはそのままエリシュナの対面へと座り、手を上げて女給を呼ぶ。二人分の食事を頼み、女給がオーダーを告げるべく水場に立ち去ったところで、エリシュナはルースに話しかけた。


「ルース、それでですが。この国を出るにあたって、何か必要なものは?」


 西に立ち、女帝の足元に潜るにしても、この国から出られなければそれもままならない。 


 幸い、路銀には困ることはなさそうだった。生まれ育った屋敷から、携帯できるだけの父が遺してくれた金品を持ってきた。それだけで一財産にはなるだろう。そうなると今度は盗人の心配が出てくるが、無一文で旅などできないのは当然だし、多分長きに渡って留守にすることになる屋敷に置いておいても仕方がない。


「通行税さえ払えれば、出国できます。現状、問題はないでしょう」


 エリシュナの問いに、ルースは微笑する。心砕かれ誓いのために生きることは叶わなくなった身、それはまだぎこちなかったが、死の影はもう見受けられない。エリシュナは内心で安堵の吐息をついた。


 自らの消滅への願望を捨てさせられたなら、あとはルースの壊れた心を自分が癒していくだけだ、と、この時エリシュナは思った。そうすることで、ルースの心から二度と自分がいなくならないように、と。


 この点、エリシュナの心には、神殿で育てられた聖女としての清水に、女の情欲という油が深奥から沸きあがり初めていた。年ごろであり、ルースという器量が傍にあれば、やむないところではあったろう。


 だが、それで惚け過ぎていたのは否めなかった。エリシュナは、その時に致命的な事実に気が付いたのだ。


「あ……コイン袋がない……!?」


「なんですって!?」 


 これから旅するのに絶対必要となる路銀が詰まった袋が、いつの間にかなくなっていたのだ。これにはルースも顔色を変えた。何をするにも金子は絶対に欠かせないのだ。






 エリシュナは、今まさに信仰を試されていた。


 幼い頃より神を信じ、今日この日この時まで信じてきたし、これからもそうありたいと思っている。


 しかし。


 しかし、こうも災厄が自分の身に降りかかってしまうと。こうも、持っていたものを奪われてしまうと。


 神よ。私は、御身の御心に沿わぬ何かをしましたか、と。


 私は、御身に愛されてはいなかったのですか、と。

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