未来サイド

神たらん彼の結末は、

 時刻は昼時、午後一時。男は狭苦しい個室内で一人、黙って座り込んでいた。清潔感の漂う黒い髪、眼鏡のフレームの奥から覗く切れ長の双眸。憮然とした表情で腰掛ける彼は、ただひたすらに虚空を睨み続けている。

 両膝の上に肘を置き、手の平を組んだ状態で、寡黙に何かを考え込むその姿は気品さすら感じさせた。みんみんと、外から届く僅かな蝉時雨。それを耳に流し込み、一点を睨み続けていたその視線がようやく上向うわむく。そして彼は、口を開いた。


「──紙が、足りない」


 ぽつり。

 ただそれだけを口にした彼は、再び険しい表情で虚空を睨んだ。下半身に身に付けていたスキニーパンツは中に履いていたボクサーパンツごと足首まで降ろされており、白く長い脚が空気に晒されている。──そう、彼は今まで此処で用をたしていたのだ。強烈な便意に耐えかねてこの場に駆け込み早数分、ようやく毒素を全て出し切ったと安堵した途端、襲いかかった悲劇がこれである。


「紙が無い」


 彼はまた静かに繰り返した。

 カラン、と切ない音を奏でるからのペーパーホルダーを今一度確認する。しかし何度見た所で、ペーパーホルダーの中からは空虚な音が響くだけ。僅かに残された紙の亡骸を一瞥し、彼は再び両手を組んで状況を整理し始めた。

 亡きトイレの個室。当然のようにウォシュレットも存在しない。腹に溜まっていた毒素は丸ごと排出したものの、尻は未だに毒に侵されたままだ。


 俺の運もここで尽きたか、と彼は嘆息した。──否、ウンは付いているのだが。


(まずいな……もうかれこれ二十分以上はこの個室に籠っている。そろそろ戻らんと怪しまれてしまう……)


 静かに眼鏡を掛け直し、彼は残して来てしまった連れの姿を脳裏に浮かべる。ふんわりと揺れるシフォンワンピース姿の可憐な少女。密かに憧れを抱いていた彼女との初デートにようやく漕ぎ着けたというのに、こんな所で足止めされる訳には行かないのだ。


(……しかし、彼女とは今からレンタカーで海までドライブだ。高速道路では窓も開けられない。密室に二人きりだというのに、ケツを汚したままなのはまずい……)


 悪臭によって彼女を失望させてしまうかもしれない、と懸念しつつ、彼は下半身を露出したまま何かないだろうかと周囲を見渡す。しかし予備のペーパーどころかゴミ箱一つ見当たらない。何故かラベンダーの香りの「消臭力」だけが個室の隅っこに予備も含めて複数配置されており、何で消臭剤だけ潤沢じゅんたくしてんだよと軽く苛立ちを覚えた頃──座りっぱなし・汚れっぱなしの尻穴がひりひりと痛むような気さえし始めた。


(くっ、まさか……! の吉兆……!?)


 生唾を飲み、彼は戦慄する。いよいよまずい、このままでは元々デリケートな尻が完全に切れるのも時間の問題だ。ともすれば、とうとう座って運転する事すらも危ぶまれてくる。いやそもそもケツが汚れているのだからレンタカーに座った時点でジ・エンドだ。痔だけに。


(……神よ……どうかお救い下さい……)


 大して信じた事もない神に祈る。だが“どうか己の尻を救いたまえ”などと神に祈ったところで、わざわざ紙が舞い降りて来てくれるはずも無い。

 そうこうしている間にふと、スマホが震えてメッセージの受信を報せる。まさか、と生唾を飲み、彼は恐々とスマホを手に取った。──案の定、差出人は彼女である。


『どこ行ったの? 今何してる?』


 ごめんなさいウンコしてます。


 そう答えたいところだがプライドが許さず、既読は付けずに頭を抱えた。いよいよ追い込まれてしまった、マジでどうしよ。焦る己の心を冷静に制するが、これは本当にまずい。Hey Siri、助けてくれ。俺は尻を拭きたいだけなんだ──額を押さえたまま、彼は絶望の便座の上で死刑執行を待つ事しか出来なかった。


 何か無いか、何か。起死回生の手立ては。

 尻が拭けて臭いが誤魔化せれば、もはや何でもいい。


 飢えた虎の如き眼光をギョロギョロと動かし、個室内に視線を巡らす──そんな彼の視界に入ったのは。


「……っ! 消、臭……力……!」


 個室内に満ちる臭気をラベンダーの香りで制する騎士──消臭力。あのシャバシャバする部分を薄紫色に染め、それは此方を見つめている。


 ──青年よ。神たる力が欲しいか。


 そんな声が聞こえた気がした。

 青年は震える手を伸ばし、神々しさすら感じるそれを手に取る。ラベンダーの香りがつんと鼻の奥に染みた。


 ──そうか、欲しいと申すか。ならば使え、我が聖剣シャバシャバを。このシャバシャバする部分を引き抜いた者だけが、神となれる。


「……消臭力……!」


 ──抜け! 青年! 我が聖剣シャバシャバを! 貴様の尻をおびやかす悪、我が香りで平伏ひれふせてみせよう!


「……っ!」


 彼は涙ぐみ、消臭力のシャバシャバする部分を握り込んだ。──尻はもはや限界、汚れも落ちぬまま、時間だけが経過している。だが、俺はまだ死ねない。俺には待たせている女が居る。温もり始めたこの便座の上で、我が生涯を終える訳には行かないのだ!


(……消臭力……っ! 君に託すぞ、俺の未来……!)


 彼は覚悟を決め、汚れた尻穴を引き締めて消臭力のシャバシャバするやつに力を籠める。そしてとうとう、それを引き抜いた。


「うおおおぉぉッ!!!」


 ──らん彼のケツ末は、神のみぞ知る。



 ◇



「……ねえ、何か臭くない?」


 海へと向かう高速道路。助手席に腰掛けているシフォンワンピースの似合う可憐な彼女は眉を顰めて言い放った。


「あれ? ごめん。古い車だからさ、エアコン最初だけ臭いかも。もう少ししたら普通になるから、」

「……いや、そうじゃなくて……何かラベンダー? みたいな……芳香剤の匂いしない? てか大丈夫? なんかさっきからお尻もぞもぞさせてるけど……」


 彼女は訝しむように運転席の彼を見つめた。一方の彼はにこりと穏やかに微笑み、眼鏡を掛け直して口を開く。


「最悪のエンドは、回避したんだけどね」

「……うん?」

「“ジ・エンド”だけは、回避出来なかったみたいなんだ」


 遠くを見つめて破顔する横顔。彼女は首を傾げたが、彼はそれ以上深く語る事は無く。


 聖剣によって拭われた尻を少しだけ浮かせ、・エンドを迎えた彼と不思議そうな彼女を乗せた車は、ラベンダーの香りと共に海へと走り去って行った。

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