第9話

 登校日とうこうびの放課後。授業を終えた祀莉まつりは教科書やノート代わりのタブレット端末をカバンに放り込む。バーチャル世界ではわざわざデータを教科書と同じ見た目にして使用しているというのに、現実世界ではタブレットを使っているのも妙な話だと思う。


 それ以外は現実世界の学校だからといって何が変わるというわけでもない。歩くのに多少疲れるとか、その程度だ。


 あとはアバターではなくリアル肉体の容貌で登校をする必要もあるが、現実とほとんど同じアバターを使っている祀莉まつりにはあまり影響はない。多少背を高くしていたりする以外はバーチャル世界とほとんど変わらないのだから。


 問題は、今日の風見からの呼び出しだ。結局は誰にも相談せずに来てしまった。


 気は進まないが、風見たちとの約束をすっぽかすわけにもいくまい。祀莉が勝手をすれば、また友人の弥沙夜みさやが被害を受けるかもしれない。


 祀莉はSNSをチェックしたりするフリをして、他の生徒たちがいなくなるのを待った。


 風見もお友達の女子と教室の真ん中でお喋りに夢中になっているフリをしているようだが、こちらを意識しているのは明らかだった。風見の取り巻きの女子はいつもはもう一人いるはずだが、今日は一人だけだ。風邪でも引いたのだろうか。


 やがて教室から皆が去ると、風見が祀莉の方にやってきた。それを合図にしたように取り巻きの女子が教室のドアを閉めに向かう。一人だと前方のドアを閉めてから後方のドアを閉めに行かねばならず、大変そうだった。


 風見は優美な微笑みを湛えている。


「柳崎さん、約束通り来てくれてありがとうございます」


 凛とした美人だ。風見の容姿はバーチャル世界で使っているアバターと全く変わらない。ほんの数センチ背を高くしたりしている自分はもしや小細工に走っているのだろうかと思わず疑念を抱きそうになるほどだった。


 取り巻きの女子――猫塚ねこづかと言ったか――は小走りで風見の後ろに戻ってくる。どこか不安そうな顔をしていた。呪いとやらを気にしているのだろうか。だとしたら、随分と非現実的なことだと思う。


 祀莉は呪いがどうこうという話はこれっぽっちも信じていなかった。彼女が本当は三國に何をしたのか。そして、祀莉に何をするつもりなのか。それだけが気がかりだった。


「それで、何の話だっけ」


「呪いの話ですよ。あれ、知りませんでした?」


 風見は蟲惑的こわくてきな笑みを浮かべる。


「私、魔女なんです。魔女というか、巫女みこと呼ぶ方がいいかもしれませんが」


 まだその路線でいくのか。祀莉は辟易した。


「魔女ってほうきに乗って空を飛んだりするの? “魔女宅まじょたく”は好きだよ、私」


「信じてませんね。本当ですよ。私、人を呪うことができるんです」


「やっぱりこう、魔法の杖で?」


「火を焚いて、イイズナ様へのお供え物として生首と生き血と狐の死骸を並べて、呪文を唱えるんです。こういう風に、『おんきりかくそわか』って」


 風見が手を合わせる。その仕草が妙に堂に入っていた。祀莉はこの場に至って僅かに背筋が寒くなった。


「……思ったよりおどろおどろしいね」


「あら、それだけですか。三國さんはぶるぶる怖がって震えたのに」


 猫塚が嘲るように笑う。風見と猫塚はどこまでも真剣なようだった。祀莉は腕を組んで、少し考えた。


「うーん。じゃあさ、悪いけど言うよ」


「言うって何をです?」


「風見さん、あなたがどれだけお金持ちか知らないけどさ、生き血だの動物の死骸だの手に入らないでしょ。両親の若い頃とかには野良犬やら野良猫やらいたらしいけど。今はいないでしょ。わざわざペットショップで飼ってきて殺す? そんな行儀の良い呪いの儀式がある?」


 一気にそうまくし立てた。呪いなんてあるはずがない。今を西暦何年だと思っているんだ。2049年だぞ。


「どう。何か言い返すことは?」


 自信満々にそう告げてやる。風見は深い溜め息を吐いた。


「あなた、本当につまらない」


 風見が冷めた目で祀莉を見る。美人で肌が白いからか迫力がある。


「いいです。じゃあ、あなたも呪ってあげる」


「ええ、どうぞ。呪いでもなんでもやれるものなら!」


 祀莉は胸を張った。


 風見は耳元のARフォンを操作する。何かのファイルが祀莉に送られてくる。ウイルスセキュリティ機能が自動でスキャンを開始し、安全であることが告げられると自動的にダウンロードが始まる。


 ファイル名は『イイズナ様』。ウイルスではない。セキュリティを通過したのだから、そのはずだ。だが、視界にノイズが混じった。ウイルスではないはずの何かが祀莉を侵していく。


「何これ」


 いつの間にか自分の体がまだら色になっていた。思わず教室の床にへたり込んだ。


「体がおかしい。何をしたの?」


「何って、呪いだって言ったでしょう」


 風見が祀莉を見下ろして笑う。その顔は塗り潰したように消えていた。取り巻きの女子の顔も無くなっている。風見の口の辺りがぐにゃぐにゃと動いた。


「あなた、もう二度と私の前に現れないでよ」


 世界が滅茶苦茶めちゃくちゃになっていた。これが呪いだというか。


 風見がひらひらと手を振る。その手が布のように細長く伸びて床に付いた。気持ち悪くて吐きそうになる。


 弥沙夜はずっとこんな思いを味わっていたんだ。悔しい。何も気付けなかった自分が情けなくて泣きそうになる。祀莉は思わず拳を握りしめた。


 そのまま立ち上がろうとすると、床がどろどろと溶け始めた。真っ直ぐに立つこともできない。


 何もない床で溺れるようにもがいた。風見たちが大笑いしながら去っていこうとする。


 握りしめた拳が空を切る。また転ぶ。


 誰かが、その拳をつかんだ。灰色のコート姿の男がそこに立っていた。


 男は帽子を傾けて一礼した。背が高く顔立ちの整った男だ。しかし、顔色は蒼白で、髪も真っ白だった。異様である。


 歪みきった世界の中でその男の姿だけはやけにハッキリとしていた。


「AR端末を外せ。ARへのウイルスの影響が無くなれば、多少はマシになる」


 男は祀莉の耳元に顔を近付けるとむしり取るようにしてARフォンを奪った。途端に視界を覆っていた虹色の歪みが消え去る。吐き気はまだ残っていたが、ようやく綺麗な空気を吸えた気がした。祀莉は何度も息を吸って、吐いた。


 教室の窓からは夕日が差し込んでいた。赤い日の光を浴びて灰色のコートが影を作っていた。


「君が本物の柳崎祀莉りゅざきまつりだな」


「あなた、誰?」


「僕か。僕は探偵の幽霊だ。この事件の調査をしていた。AR端末にハッキングをかけさせることで君の姿になった風見優から依頼を受けて、な」


 風見は青ざめた顔で探偵を見る。


「どうしてあなたがここに……」

 

 探偵と一緒に教室に入ってきた少女が祀莉の体を抱き止めた。


「ごめん、祀莉。ごめん。この人が、あなたが危険な目に遭っているって教えてくれた。あなたまで巻き込んでごめんなさい」


 三國弥沙夜みくにみさや。この探偵を名乗る人が連れてきたのか。数週間ぶりに会った。引きこもっていただけあって不健康そうな顔だ。


 探偵は不敵に笑いながら立ち上がった。


「風見優。キミは魔女ではない」


「何を言ってるんです。私は……!」


「僕を襲った化け狐もARをハッキングさせることによる視覚攻撃だな。僕が思い外、事件の真相に近付きすぎたことに焦ったか。愚かな探偵が事件を解決できず、魔女の呪いが原因でしたと匙を投げることを期待していたんだろうが、お生憎だったな」


「デタラメばかり言わないで。私は正真正銘の魔女です!」


「いいや、違う。本物の魔女はこの子だ」


 探偵は芝居がかった様子で三國弥沙夜を指し示した。


「何を訳の分からないことを――」


 風見は苛立ったように探偵を睨む。


「まだ理解できていないようだな、風見優。キミは三國弥沙夜にベラベラと儀式の手順を喋ったね」


「そ、それが何だっていうんですか」


「残念ながら彼女はキミよりもバーチャル空間に熟達じゅくたつしている。キミに送り付けられたウイルスでARやVRの機器を破壊され、絶望した彼女はキミから教わった通りにバーチャル空間で儀式を執り行った。キミが呪いと称したのはただのコンピュータウイルスだが、三國弥沙夜はバーチャル空間で呪いの手順を完全に再現したんだよ」


「そんな、まさか」


 風見は三國を見た。血の気が引いた三國は無言で頷いた。


「三國弥沙夜は死体や狐の生首のデータを集め、データの生き血をき、データの火を焚いて真言しんごんを唱えた。そして――」


 祀莉には弥沙夜の体が震えたのが分かった。


「キミを呪った」


 風見の唇が震え、弱々しいうめき声が漏れる。


「キミが柳崎祀莉のフリをして僕の事務所を訪れた時にも言ったじゃないか」


 探偵は風見の後ろを見た。


「キミ、呪われてるぞ」


「もうやめて!」


 風見は声を荒げる。


「あ……」


 猫塚が震える指で風見の背後を指差した。風見は後ろを振り返る。


 そこには青黒くぶよぶよとした肉塊のようなものが立っていた。両肩から垂れ下がった不格好な腕は地面につくほどに長い。黒くぶよぶよとしたものは肉塊のような顔を歪め、小さく唸った。


 教室の電気が明滅し、窓ガラスがヒビ割れる。風見は悲鳴をあげた。

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