第10話

 青黒くぶよぶよとしたものがゆっくりと動き出す。細長い両腕が教室の床に擦れる。風見は尻もちをついて後ずさった。


「何これ……!」


「本物のイイズナ様だろうな。キミが父親の会社の従業員に無理強いして作らせたウイルスプログラムなんかとはわけが違うぞ」


 探偵は帽子のツバを下げる。


「ネットで調べたのか本で読んだのか知らんが、その儀式の手順だけは正しかった。呼べてしまったんだな。これは、狐なんかじゃないようだが」


 屋内だというのに風が吹いた。ごうごうと鳴っている。外はもう暗い。


「自分でやったことの落とし前くらい自分で付けるんだな」


 探偵は壁に背を預けてその様子を静観する。


 四つん這いになって逃げようとする風見の体に猫塚がすがりついた。


「風見さん、助けて。あなた、魔女なんでしょ。なんとかしてよ。あれを追い払って」


「知らない。知らないよ! 私にどうにかできるわけないじゃない!」


「そんな……!」


 猫塚は化け物を見た。青黒い肉塊のようなそれは、口とも目とも取れないようなものを曲げて醜く笑った。


「ひっ!?」


 猫塚は風見の体にすがりついたまま罵声を浴びせた。


「あんたのせいだ! せっかく私と烏谷が盛り立ててあげたのに、魔女とか呪いとか変なこと言い出すから。リアルの学校にも通えない偽お嬢様の癖に分を弁えないから! あんたのせいで私まで――」


「知るか!」


 風見は猫塚の体を蹴り飛ばした。ぐえっ、とうめいて猫塚の体が床を転がる。猫塚が顔を上げると、目の前に不格好な細長い腕があった。


 教室の電気が明滅する。猫塚は泡を吹いて倒れていた。イイズナ様は肉の塊のような顔を歪めて小さく笑う。


 イイズナ様は青黒いぶよぶよとした体でぐるぐると回り出した。やがて、風見の方を向いてぴたりと止まる。イイズナ様がゆっくりと歩き始めた。体から垂れ下がった両腕が地面に擦れてずるずると音を立てる。


「嫌だ……!」


 風見は嗚咽混じりの悲鳴をあげた。


「ちょっと意地悪してやるだけのつもりだったのに……」


 風見はボロボロと泣き出す。


「何で私だけこんな目にわなきゃいけないの……」


 その様子を見つめていた弥沙夜が祀莉から離れた。引き止めようとすると、彼女は祀莉を安心させるように微笑んだ。弥沙夜はイイズナ様の前に飛び出す。そして、両腕を広げて遮るように立った。


「もういい。私はこんなことを望んだわけじゃない」


 弥沙夜は怪物を睨みつける。怪物の動きが止まった。


「誰も呪ったり呪われたりしたくありません。お願いです。帰ってください」


 怪物は肉塊のような頭を傾ける。唸り声がした。


 怪物は一歩進み出る。すれ違いざまに、怪物の体が弥沙夜に触れた。


 弥沙夜の体がねじれて倒れる。背の低い体が床に転がった。


「三國さん!」


 風見が絶叫した。怪物は進路を変えずに風見に近付いていく。


 祀莉はただひたすら混乱していた。体は震えて動かない。


 呪いなんてものがあるとは一度も思ったことがなかった。祀莉にとってお化けや怪物はゲームのキャラクターだ。それが、急に目の前に現れたのだ。

 

 電気が明滅する。祀莉は小さな悲鳴をあげた。体の震えが止まらない。恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。何か悪いことをしたかなとか両親にはもう会えないのかなとかそんなことばかりを考えてしまう。


 ふと探偵を見る。彼は退屈そうに腕組みをしていた。どうして余裕そうなのだろう。祀莉はなぜか無性に腹が立ってきた。祀莉や友人がこんなに怖い目に遭っているというのに理不尽だ。


「探偵さん。あなたは何をしているんですか」


「結末を見届けている。それくらいの義理はあるかと思ってね」

 

 その言葉で余計に腹が立った。


「なんとかしてください。できるんでしょう」


「さあ、どうかな。僕は君のアバターをコピーして君に化けた風見優の依頼で事件を追っていただけだ。依頼に虚偽きょぎがあった時点で契約は解消。僕の仕事は終わりだ。これ以上、僕がすることは何もない」


「ふざけないで」


 祀莉は怒った。


「何が仕事だ。目の前で困っている人がいるんだよ。助ければいいでしょう!」


「『人を呪わば穴二つ』って言葉を知ってるか。呪いというのは、呪った本人にも返ってくるものなんだそうだ」


 祀莉は思わず探偵の胸倉をつかんだ。探偵は冷たい目で少女を見下ろす。


「探偵さん。あなた、柳崎祀莉からの依頼で動いていたんですよね。だったら、私――柳崎祀莉の依頼だったら受けられるでしょう」


 探偵は祀莉の手をつかんだ。ぞっとするほど冷たい手だった。


「いいか。僕は高いぞ」


 いくら高くつこうが、これ以上怖い思いをすることはないだろう。そう、腹をくくった。


「弥沙夜と風見を助けたいの。お願い、探偵さん。魔女の呪いを解いて」


「いいだろう。その依頼、承った」


 長身の男は灰色のコートを翻しながら前に出る。


「ただ、僕は荒事が不得手でな。こういう時はいつも相棒の手を借りることにしている」


 電気が明滅する。いつの間にか探偵の隣に学生服姿の赤髪の少年が立っていた。少年の姿はどこか透けているように見えた。


 どこから教室に入ったのだろう。学校ではあまり見かけたことがない気がする。というか、そもそも祀莉の学校の制服はブレザーで、あんな古めかしい学ランではなかったはずだ。もしやという疑念が湧き、祀莉は背筋が凍りついた。


「な、何ですか、その人……」


「これか。これは人の幽霊だ」


「ギャー!」

 

 今までになく大きな悲鳴が出た。赤髪の少年は祀莉に向き直って愉快そうに笑う。着崩した学生服の胸元にはナイフが突き刺さっていた。血が滴り落ちる。


 落ちた血が教室の床に垂れる。少年の姿が掻き消えた。


 探偵の白い髪が真っ赤に染まった。手の中にナイフが現れ、構えたその刃が長く伸びていく。赤髪の探偵はかぶっていた帽子を投げ捨てた。


「こいつ、いつも話が長いんだよ。呼ぶならもっと早く呼べっての」


 赤髪の探偵は腹立たしげに長い刀を振った。刃がしなり、教室の壁を切り裂く。それから、赤髪の探偵は思い出したように祀莉を指差した。


「そう、お前。お前だよ、お前!」


「は、はい! 私ですか!?」


「お前、いいこと言うじゃねえか。そうだよな。困ってる奴がいたら助けなきゃいけねえんだよ」


 赤髪の探偵は刀を肩に担いでしゃがみこむ。


「俺も善人じゃねえけどよ、曲げちゃいけねえ筋ってのはあるよな。そこんとこお前はよく分かってるよ」


「あ、ありがとうございます……」


 祀莉は震える声で礼を言った。


 赤髪の探偵は満足げに頷く。そして、長く伸びた剣を構えた。


「さあて。それじゃあ、始めるぜ。お前の言う人助けってやつをよ」


 倒れ込んでいた風見が雰囲気の変わった探偵に気付く。


「何なの……?」


 イイズナ様が青黒いぶよぶよとした体を揺らしながら振り向いた。赤髪の探偵は挑発するように指を曲げる。


「来い。地獄の底に連れていってやる」


 低い唸り声をあげながら怪物が走り寄ってくる。電気が明滅した。ずるずるという音が響く。細長い両腕が床に擦れる音だ。


「悪いけど、俺」


 電気が明滅する。赤髪の青年は身を低くして怪物をかわした。


「オバケとか怖くねえんだわ!」


 振り向きざまに刀を振る。長く伸びた刀身がしなり、怪物の体を切り裂く。


「学校ってのはよ! 学生のもんだろうが! なあ!」


 もう一度刀を振ると、伸び切った刀身が縮んで手元に納まっていく。探偵は反動を使って刀を逆の手に持ち変えた。その勢いで伸びた刃が怪物の体を横薙よこなぎに引き裂く。再び刀身を縮めながら青年は一気に距離を詰めた。


「ここはお前がいていい場所じゃねえんだわ。消えな!」


 一文字に刀を振り下ろす。怪物が頭から真っ二つに両断される。低い断末魔が轟く。


 ぶよぶよとした体の断面から黒いモヤが溢れ出た。怪物の姿が徐々に薄れて消えていく。


「さすが俺。決まったぜ」


 赤髪の青年が刀を背に担ぐと、刀身が縮んでナイフほどの大きさに変わっていった。探偵の髪が深紅色から白へと戻る。その隣には学生服姿の赤髪の少年が立っていた。


 赤髪の少年はヘラヘラと笑って祀莉に手を振ると、どこへともなく消えていく。背の高い青年は投げ捨てられていた帽子をかぶりながら祀莉のもとに戻ってきた。


 祀莉は気を失いそうになりながらも、必死にこらえていた。目を背けてはいけない。そう感じていたのだ。


 その場に踏み止まるために足に強く力を入れようとして、祀莉はふらついた。倒れそうになった祀莉の体を探偵が優しく支える。


「終わったぞ」


 消え行きそうな意識の中で、この人も悪い人ではないのかもしれないなと思った。探偵は祀莉を抱き抱えながらその顔を見つめる。


「お前、偽物よりも胸が小さいな」


 祀莉はバーチャル空間のアバターで見栄を張ったことを初めて後悔した。と同時に、この人は絶対に、何があっても、善良な人なんかではないと心に強く刻んだ。


 窓の外に目を向けると、黒雲に覆われた夜空に煌々こうこうとした月が覗いている。月はただ青白く光っていた。

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