第2話 バック転するアイドル
この世界では、戦えば戦うほど強くなれる。それは清太郎君たちも例外ではなく、スライム討伐を重ねていくと報酬ついでに肉体的強さまで付いてくる。
これまでできなかった動きができるようになった事例も多い。
「やった! やったの! 清太郎君!」
その日の朝、雛子さんは小さな家の中をピョンピョンと跳ね回っていた。
わけも分からないまま、雛子さんに起こされた清太郎君。満面の笑みではしゃぐ彼女を見て、清太郎君は「子どもみたいだな」と思いつつ、無表情でベッドから立ち上がった。
「どうしたの?」
「私ね、ついにバク転ができるようになったの!」
バクテン。
バクてん。
獏点とは。
バク転……。
後方転回。
ああ、あの派手な体技のことか。
朝起きたばかりで、清太郎君の頭は回らない。バク転という言葉の意味を頭の中に収納された辞典を広げて理解できるまで、一分近く要した。
その間にも雛子さんの話は進み、すでに清太郎君には追いつけなくなっていた。何を言っているのか分からない。これが会話に取り残される主なメカニズムである。
「どうしてそんなに嬉しそうなのさ?」
「グループの中で私だけバク転できなかったからさ、感動してるんだよね。皆、こんな景色を見てたんだなぁ、って」
日本にいた頃の雛子さんは運動音痴。それ故、ダンス中に大技を繰り出すことは不可能であった。雛子さん曰く、「大きい胸が邪魔だったから」らしい。巨乳とは、人体の動きに制限をかける、他人には見えない鎖なのだ。
「ああもう! この世界にもインスタがあったら、絶対に動画を載せているのに!」
「そうだね」
「私を陰で馬鹿にしてきたメンバーにも見せてやりたかったなぁ」
「そうだね」
「ほら、清太郎君にも外で見せてあげる!」
「そうだね」
清太郎君は、全自動相槌マシーンと化した。雛子さんのテンションに追いついていけず、「そうだね」と言葉を繰り出すだけの傀儡となった。
社会的承認を欲する社会人にとっては、精神力回復のためになかなか有用なアイテムとなれるであろう。
雛子さんは目が半開きの彼を引っ張り、家の外へ連れ出した。
「見てて!」
雛子さんは清太郎君の前で後方に跳ねると、地面に手を着けてさらに跳ね、華麗に着地を決めた。見事なバク転である。
「ほーん」
「どう? 凄くない?」
「うん。凄い凄い」
全自動相槌マシーンの動作は続く。
雛子さんのバク転に全く感動していないわけではないが、拭い切れない眠気が清太郎君の感性を邪魔していた。
顔も声もフラットになる時間。清太郎君は緊張しそうな場面になると、敢えて眠り、自分の感覚を鈍らせてプレゼンテーションや面接に臨んだ過去がある。
「これで、モンスターからの攻撃なんかも避けられるね!」
「バク転で?」
「そうに決まってるじゃない」
ここで、清太郎君にはとある疑問が浮かんだ。
バク転とは、本当に戦闘で使える技術なのか、と。
ゲームや特撮で、敵の攻撃をバク転で回避しているシーンをよく見たことがある。雛子さんはあれをリアルで再現しようと意気込んでいるらしい。
しかし、清太郎君にはバク転が、どうも無駄な動作に思えていまう。
攻撃を避けるなら、後方を振り返りながら走った方が安全で速い気もする。バク転を多用すると目が回るだろうし、一瞬敵が視界から外れるので危険だと思う。
敵が突進してきたら、回転中に自分の背中へ攻撃が当たるかも。着地した瞬間を狩られるかも。そんな不安が清太郎君の頭を過った。
清太郎君はバク転したことがないので、実際はどうなるか分からないが。
ゲームや特撮でのバク転は、画面を映えさせるために敢えてそうしているのだ。多分。
しかし、清太郎君はそんな疑問を口には出さなかった。せっかく雛子さんが嬉しそうなのに、水を差したくなかったのである。
妻の機嫌が良いのは、良いことだ。
雛子さんの眩しい笑顔を邪魔してはならない。清太郎君の掴んだ、夫婦円満の秘訣だ。口下手で対人経験の深刻な不足を抱える清太郎君だが、場の雰囲気を険悪にしてしまう介入の判断くらいはできる。清太郎君が先程思い浮かんだ疑問はまさにハピネスクラッシャーで、雛子さんの気分をどん底にまで引き落とすであろうことは容易に想像できた。
ここは「おめでとう」と祝うついでに、拍手を送っておく。ただ、清太郎君の目はずっと半開きの状態であり、端から見ると本気で祝う気持ちはあまり感じられないが。
そのとき、突然植え込みの陰から小さなスライムが飛び出した。唐突の展開。
「わっ、スライムだ」
「かかって来なさい!」
雛子さんは闘牛士の如くスライムの前に立って挑発する。雛子さんの瞳の奥では闘志がメラメラと燃えていた。バク転で避ける気満々である。
しかし、スライムはすぐに飛び掛かることもなく、ジリジリと地面を這って距離を詰めてくるだけ。雛子さんもスライムの動きに合わせて後退していく。
生物とは肝心なときに限って思い通りに動いてくれないものだ。清太郎君は大学時代の生物実験でそんな出来事を何度も体験した。
左右左右の順に角を曲がらないダンゴムシ。
なかなかペアが成立しないメダカの交配。
設置した巣箱を利用しないモモンガ。
清太郎君はスライムと雛子さんを後からのんびりと追いかけていく。散歩をするには良い天気。村の住人に「おはようございます」と挨拶をしながら、昇る太陽に眠気を飛ばしていった。
「ねぇ、もう家に戻ろうよ?」
「まだ! バク転で避けてないじゃない!」
そして、ついにスライムが跳ねた。
「ほっ!」
雛子さんは後方へ身を浮かせ、スライムの着地点から遠ざかる。
彼女の描いた未来通り、バク転による攻撃の回避に成功したのだ。
「ああっ! 雛子さん!」
しかし、雛子さんは後方を確認していなかったのだろう。
彼女の身体は村を囲む川の中へ落ちていった。大きな水飛沫と音を上げ、清太郎君にも冷たい水が降りかかった。
「アアアーッ! 冷たい!」
「手を伸ばしてください、雛子さん!」
清太郎君は雛子さんを川から引っ張り上げると、急いで家の中へ駆けていった。
炎魔法で暖炉の薪に火を点け、その前に雛子さんを座らせる。彼女の服は下着までビチョビチョだ。清太郎君は濡れた服を脱がし、代わりに毛布で彼女の肌を包んであげた。
その間、雛子さんは一言も喋らず、肌に纏わり付く冷たい雫にブルブルと震えていた。じっと炎を見つめ、身体を丸めて二の腕を擦る。
「……もう二度とバク転なんかしない」
その後、雛子さんは風邪で寝込んだ。
ダンサーや体操選手でもない限り、バク転ができることに意味なんてあまり無いのかもしれない。
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