第17話(第1部最終話) 『アウトロダクション』

 霜山が控え室とは名ばかりの雑多な武道場を訪ねたとき、相澤たちは床に胡座をかき、食事を摂っている真っ最中だった。


「えっもう出番? 早すぎね?」

「ああ。伊藤がヘマしやがった。いま吹部が繋いでるけど客席では既にダイブと乱入が始まってる。暴動一歩手前の感だ」

「えっあいつ何したらそうなるの」

「あっもしかして、あたしがボラプのソロ断ったのが原因だったり?」

「瀬戸さん鋭い」


 指差す霜山に、芽衣子が照れる。しかし意味がわからない。何故芽衣子がソロを断ったら暴動が起こるのだ。頭の中が疑問符でいっぱいな相澤の横で、尾津が無邪気に拍手をしていた。何に対して拍手してんだおまえ。


「……芽衣子。断ったのなんで?」

「だってあたし、つかさちゃんと一緒じゃないと弾きたくないもん」

「あ、そっかそっか。ははは……」


 まだ理解できそうな部分を確認してみたら、余計にわけがわからなかった。考えるのを辞めた相澤は紙皿に残る星野お手製のビリヤニを一気に掻き込み、急いで立ち上がる。


「よぉしおめーら出番だ。行くぞ」

「リーダー! 飯食ってないよ、腹ペコだよお!」

「仕出しにスパイスたっぷり超本格ビリヤニ作る奴が悪いんだ。あとでおにぎりもらって来い。今は強行する」

「予定してたステージセット組んでるとドラムの移動が間に合わねえな。どーする」

「おめーは機材にこだわるタイプだったか?吹部のやつ借りな。それなら移動はバスドラ1個で済む。ステージセットは諦める。後ろの絵がありゃ十分だ」

「……!」

「テリー、さすがに視線じゃわからん」

「『つかさちゃんは制服に着替えなくていいの?』って言ってるよ」

「……あー、忘れてたわ」


 柔道部連中がやってきて、えっさほいさと機材運搬が始まる。その巨漢たちに時折指示を出しながら、相澤は頬を掻いた。寺嶋に言われて思い出したが、自分はいつものジャージのままだ。出番前には皆に揃えて着替えようと思っていたが、うっかりしていた。気を遣った霜山の「仕切りを作ろうか」という提案は「キモい」と却下し、相澤はギターストラップを肩にかける。


「いいや。このままで」


 胸に十字架があるだけで充分だ。そういう意味を込めてペンダントを握りしめると、芽衣子の大きな瞳が微笑む。服なんてどうでもいい。仲間たちが隣にいるから。


***


 しかしまあ今年の予餞会は何なんだ。幾ら映画『ボヘミアン・ラプソディ』が空前のヒットを飛ばしているとはいえ、あまりにもアレすぎる。1年生の合唱は『クイーンⅡ』だし。曲単位じゃないぞ。約30分かけてアルバム丸ごと歌ってた。どこで楽譜買ったんだ。


 かと思えば2年生の演劇は、学校のロッカーから現代転生したジミ・ヘンドリックスが身分を偽って学生バンドに加入し、放課後ティータイムな日常を送りながらフジロックでオアシスを歌うという闇鍋を極めた内容だった。ふつうにめちゃめちゃ面白かった。ただ、主役を務めたアメリカからの留学生ジャスティスくんが台本を理解していたのかは、若干の謎が残る。


 重音楽部の活動に専念しろとの御触れで学年の催しに参加できなかった相澤たちは、武道場のモニター越しに予餞会を眺めていた。ちゃんと客席から見たかったな、と思いながら。


「はいはーい、どいたどいた。危ないよー」


 体育館の舞台袖、舞台上手側でギターを抱いたまま立っていると、急ピッチで機材のセッティングが進んで行く。本来ならば舞台転換にはもう少し余裕があった筈なのだが、1時間も巻けば仕方がない。大柄な栗栖がチューバを片手に大きなティンパニをゴロゴロと運んでくる。それに軽く挨拶し、「今日もよろしく」と微笑むと、栗栖は腹肉を揺らして笑った。


「ハハハ、失敗しちゃったあ」

「だからおれは伊藤だけはマズいって反対したんだよ!」


 呑気な栗栖の背後から、恨みがましい古川の声。相澤は自分の微笑みが嘘っぽくなっていないか不安になった。


 いよいよ本番が近付き、屈強な男たちによってアンプが運び込まれて行く。積み上げられて行く機材の山に客席から感嘆の声が上がるのは、外からの来訪者が多いからだろうか。それでも体育館の中は次第に静まり、ギャラリーへと繋がる階段に腰掛け、チューニングの確認をしている芽衣子の弦の音が、気持ち悪いほどにはっきりと聞こえてくるようになった。


「芽衣子」


 呼べば、大きな瞳がこちらを見る。冬でも薄いスカートの裾からすらりと伸びる脚が、冷たい床へそっと爪先をついた。身軽な足音が近付き、「なあに?」と幼げな顔が覗き込む。


「もう出番。暗くなると見えなくなる」

「えー、あたしが見えなくなるのやだ?」

「ン。だから呼んだ」


 適当に答えれば、芽衣子があわあわと赤くなる。それを見ていると、なんだかこっちまで恥ずかしくなった。


 客電はまだ落ちていないが、ステージの上は薄暗い。手伝いの運動部員たちは客席へ帰って行って、上手側には自分と芽衣子の他に誰もいなかった。まだ明るいうちに、と手を伸ばし、芽衣子の乱れた襟元を整えてやる。そうすると細い身体の骨格に指が触れて、言い表しようもなくどきどきした。


「……呼びに行かなくていいの?」

「大丈夫だよ。勝手に来る」

「そっか。信頼してるんだね」

「当たり前だ。芽衣子は信用してないのか」

「あたしは……転入してきたばかりで、みんなのこと、あんまりわかんないから」


 尾津たちは下手側にいる。組み上がった簡易的なステージセットは沈黙したまま、背景の絵を見上げている。あれは加藤が描いたそうだが、なかなかにいい絵だ。スポットライトが当たった時の煌めきは、計算してもなかなか出せるものではない。


「つかさちゃん、髪伸びたね。可愛い」

「そう? 切ろうと思ってたけど伸ばそうかな」

「もう少し長いほうがアイオミっぽいよ。伸びたらあたしが編み込みしたげる」

「編み込みかあ。キャラじゃねえなあ。そしたら芽衣子はパーマかけなきゃな」

「うん……そだね」


 パチンと小さな音がして、驚きの声とともに体育館が闇に包まれる。スモークマシンとは名ばかりの金盥とドライアイスが、扇風機の風に吹かれて煙を蒸す。ギターを抱えなおしてピックを指に挟むと、ふと芽衣子が呟いた。


「――つかさちゃん。あたしね。ブライアン・メイになりたいわけじゃないの」


 その言葉に何かを返す前に、空襲警報のサイレンが体育館中へ鳴り響く。紅く染まり複雑な陰影を形作るスモーク。こちらを振り向いた芽衣子の瞳に映るのはスポットライトの銀河。それに導かれるように、舞台へ躍り出た。


 歓声が上がるかと思ったが、何も聞こえない。緊迫感に満ちた喧しい静寂。舞台にいる仲間たちは赤い光の中で影となり、こちらを見ている。ドラムの前に座った和田へ片手を上げて合図すると、和田は左手のスティックを高く掲げ、静かに4つ、カウントを打った。


――霜山に無理を言ってセットリストを丸ごと変更し、1曲目に選んだのは「War Pigs」。1970年にリリースされたブラックサバスの2ndアルバム『パラノイド』の冒頭を飾る、グロテスクな反戦歌だ。


 重苦しく気怠く、煙を吐き出すような8分の6拍子。観客席は見えないし、自分たちの出す轟音以外には何も聞こえない。音が矢鱈と不安定で不気味に聞こえるのは、生徒会の井上がPAの微調整をしているから。パワーコードをたっぷりと掻き鳴らすと、大仰なビブラートがサイレンの悲鳴に混じる。


 赤い霧の向こうからバリバリと鼓膜を揺するベース。ただひとり、優雅に音を刻むシンバル。ふと見上げれば、芽衣子のギターのボディが赤く艶やかに煌めいた。ヴァイオリンの音色のようにも聞こえる重厚なフィードバックは、レッドスペシャルの特徴だ。身を委ねるように聞き入れば、音が切迫し、急速にリズムが変化する。


――行くぞ。


 心で合図すれば、視線なんて合わせる必要がなかった。たった2音のメインリフ。それに合わせて照明が青く切り替わる。緊迫感に満ちた空白。闇の中を歩み出てきた尾津が、マイクを掴んで引き寄せた。


***


「――ふうん。戦争豚か。ふんふん、いいねいいね。やっぱつかさっちの音はいいねえ」


 ギャラリーという特等席から舞台を見下ろす加藤は、傍で手すりに頬杖をつく星野の独り言へぼんやりと耳を傾けていた。階下の異様な盛り上がりは、ここまでは届かない。しかし高校の部活が鳴らしている音とは思えない轟音は、耳鳴りがするほどによく聞こえた。


「知ってるかい?『War Pigs』は本来『ワルプルギス』の名でアルバムのタイトル曲になるはずだったんだ。諸事情あってアルバムの名前は、穴埋め曲として作られた『パラノイド』になったんだけどね」

「……はい」

「そしたら『パラノイド』が大ヒットさ。ほんと、人生わかんないよね」

「……はい」


 そんなWikipedia知識、ニルヴァーナのファンの自分が知らないはずもない。しかし生返事だけをしてやるのは、星野へのせめてもの情けというか。


 楽曲は中間部の仄明るいギターソロへと移行していた。元々ベースとギターが2声で激しく絡み合うソロは、芽衣子が加わりより複雑なものになって、より禍々しく変容する。彼女たちの十八番のブラックサバスでも、1人加わるだけで大違いだ。不協和音すれすれのソロで競い合う相澤と芽衣子の前を、フリーダムな寺嶋が飛び跳ねて行く。


「いやあ、セトリ変更したいなんて言われた時はどうしようって思ったけどねえ。盛り上がってるから無問題じゃない?」

「盛り上がってますね。すげえです」

「まあ、本当のお楽しみはこの後だけどね」

「え? 何か特別な曲やるんですか?」

「教えない。ってか、わたしセトリ細かくは見てないし。そーゆーのはお楽しみに取っとくタイプなんだ」

「はい……?」

「ま、見てなさい」


 短絡的なリフの合間を縫う銃声めいたドラムソロ。鋭いシンバル。和田は学生とは思えない良いドラマーだ。音の細やかな調整や配分が巧く、全体を引き締めるだけではなく、より良いものに聞こえさせる。


 それに、今日は尾津の声も絶好調だ。走り込みなんてして何か意味があるのかと思っていたが、学校説明会の時と比べ、声量が明らかに増している。しかし、彼が身につけたのは肺活量ではないだろう。今の尾津は、根拠のない自信に満ち溢れている。だから上手いのだ。悔しいことに。


「……」


 埃臭いギャラリーの暗がりから見ると、頭を振って髪を払う相澤の視線はギラギラと輝いて見えた。重音楽部は進化している。駆け回る記者たちの邪魔なカメラをものともせずに胸を張り、自分たちだけの音を作って。


 それと比べて、自分はどうだ。いつまでも描けない描けないとうだうだやって、停滞してばかり。けれどそこから逃げ出す手段がわからない。絵を描くのは孤独だ。これまではその孤独が楽しかったのに、今はそれが、苦しくて仕方ない。


――ああ、でも。


 音楽は最後のリフへ移行し、翼を広げて羽ばたかんとする。2台のギターが向かい合ってリフを奏でる光景は幻想的で、そして力強い。木漏れ日のように降り注ぐ芽衣子の音色は、地響きのような相澤の音と絡み合って、体育館の窓までを震わせる。その背後で照明を受けて輝く、自分の筆跡。誰かに似た煌めく視線。


――あの絵は彼女たちの背景にあって、初めて完成した。


 ざらつく唇を舐めると、不思議と笑みが浮かぶ。ギターの轟音をかき消すほどの歓声を浴びながら、相澤と芽衣子が腕を振り上げる。


 ひとつの曲が終わり、盛大な拍手に包まれながら、芽衣子がメインマイクの前に立つ。そういえば、今日はステージにマイクが5本も立っている。きっと今日はクイーンの曲も演るのだ。本家のブラックサバスと違い、相澤たちはコーラスも平気でこなす。だからサバスでもクイーンでも演奏してしまえる。そう納得していた思考は、淡いブレス音の後に聞こえた華麗なハーモニーにかき消された。


――何だこの曲? クイーンか?


 明るく重く、しかし軽快なリフ。メインヴォーカルを務める芽衣子の楽しげなスキャット。しかしこれは、クイーンでもサバスでもない。この曲は知らない。戸惑う加藤は、傍で笑顔を輝かせる星野に肩を抱かれて転びそうになった。


「――『Driven by You』!『Driven by You』だよ加藤くん!」

「……え?」

「知らないのかい? ブライアン・メイのソロ曲だ! スゴい選曲で来たぞ! 今年の重音はひと味違うッ!」


 叫ぶ星野のよく通る声に、芽衣子が少しだけ顔を上げ、こちらを見た。その瞳に引きずり込まれるような強い酩酊感。ああ、あれがスターなのだ。知らず浮かべた笑顔で夢中になって手を振れば、身体が音楽の波に飲み込まれていく。加藤はこの光景を、カート・コバーンに見せたいと思った。


***


 木津と肩を組んで歌いまくっていたら、4曲目にして喉がガラガラだ。足元の水筒を拾い上げて素早く水分補給しながら、服部はニヤついて疲れた頬を手のひらで挟み、マッサージする。


「いやー、楽しいですな」

「楽しいですなあ」


 舞台は転換の真っ最中だ。相澤がSGを降ろしてアコースティックギターを持つ様子は初めて見たが、小柄な相澤に合った小ぶりなギターはなかなかに似合っている。服部は木津の肩に寄り掛かり、腕を組んでため息をつく。


「底力ってやつですかねえ。あんなに色々演れるなんて知りませんでしたよ」

「逆に今までサバスばっかやってたのは何だったんでしょうな」

「だって旦那、サバスにいるアイオミはサバスしか弾かないでしょ」

「ふむむ。まるで禅問答ですなあ」


1曲目からエンジン全開の「War Pigs」。間髪入れずに続く2曲目は「Driven by You」、ブライアン・メイのソロ曲だ。そこからロニー・ジェイムス・ディオ時代のサバスの大曲「Children Of The Sea」に急転した後、ライブ・エイドでも演奏されたクイーンの「Hammer To Fall」へ。映画のヒットを受けた選曲が盛り上がらない筈もなく、取材に来ていたカメラマンやレポーターたちがカメラを放り出し、本気で楽しんでいる様子は面白かった。


 しかし演奏技術の高さはもちろん、尾津の巧さには驚かされた。これまで「音程は取れてるけどそれだけ」「サバス以外は壊滅的」だったのに、今はどうだ。堂々と胸を張り、フレディ・マーキュリーが乗り移ったように歌っている。まあ、何かが吹っ切れたのだろう。まさか相澤が「アイオミの親友のバンドの曲なんだから実質サバス」なんて言ったわけは、さすがに無いだろうし。無いよね?無いと思いたい。


「あー楽し……でもそろそろ終わりか。何曲くらいだっけ?」

「通例ではアンコール入れて5曲だな」

「つまり演ってもあと2曲か。あー、もっと聴きたいな」


 木津の角張った肩の居心地は悪いが、昔馴染み故に安心はする。ふわふわとあくびをしながらぼやくと、木津も同意してくれた。素直な木津は不気味だが、まあ、敢えて何も言うまい。


 スモークが充満した薄暗い体育館は、いつもと全く違う、フェスさながらの景色を見せていた。もう椅子に座っている者なんていない。見上げれば、1年生の加藤がギャラリーにいる。良い絵を描いてくれたものだ。後で褒めてやろう。


 この夢のような時間が終われば、瞬く間に卒業だ。そのことはなるべく思い出さないようにして、服部は適当な歌を口ずさむ。楽しい時間に寂しさは不要だ。そう考えていたら、何故か木津に肩を抱かれた。何故だ。


「――ねえ。イチャイチャしてるとこ悪いんだけど、今いい?」


 意外にもガッチリと抱き込まれて身動きが取れなくなり、焦る服部は、人の群れを掻き分けてやってきた染井の声に視線を上げる。


「イチャイチャしてねえけどいいよ。どした?」

「葦原くん見なかった?」

「アッシー? そういえば見てないな。一緒にいるんじゃなかったのか」

「うん……お手洗いに行くって言って、15分もいなくなっちゃって」

「ふむ? そりゃ長えトイレだな」


 細い眉をひそめて首を傾げる染井は、葦原を心配しているのだろう。服部からすれば、生命力が強い葦原は心配するに値しない。しかし、木津に「心配だね」と言われた染井は、あっさりと首を横に振った。


「葦原くんは生命力強いから倒れてるかなとかは思わないんだけど、今日、いっぱい撮りたかったから……」


 なるほど、彼女は葦原の身を案じているのではなく、首から提げたカメラを向ける先がいなくなったことに困っているのだ。最初から欠片も心配していないにもかかわらず、服部は葦原を不憫に思った。


「まあでも、こんな演奏聞かないのは勿体ない……し……」


 続く言葉でも葦原を心配していない染井の声は、舞台から聞こえたアコースティックギターの音色に掻き消された。弾かれたような勢いで舞台を振り返る染井に、服部と木津は顔を見合わせる。


「……なんだっけこの曲? 聞いたことあんだけど」

「また誰かのソロ曲じゃ――」

「黙って」


 染井に睨まれると、男どもは黙るしかない。染井は細身に見えてけっこう喧嘩が強いから怖いのだ。服部は頬を掻きながら、大きく見開かれた染井の瞳越しに舞台を眺める。そして、小さく「あ」と呟いた。


――これ、葦原が書いた曲だ。


 脚の長い椅子に浅く腰掛けた相澤が、優雅にギターをかき鳴らす。それとともに静まり返っていく会場と、反面、ざわつき始める3年生たち。染井の大きな瞳は、黙ったまま、真っすぐに舞台だけを見詰める。


 淡い音色に満ちて行く体育館。訪れる静寂の瞬間。一人きりの舞台でギターを爪弾く相澤は青い照明で影となる。その舞台袖から歩み出た人影を見て、染井は誰よりも早く口元を抑え、彼の名を呟いた。


***


 白いスポットライトが葦原の姿を浮かび上がらせたとき、観客席の3年生たちからは悲鳴に近い歓声が上がった。しかし微笑む葦原が人差し指を立てて唇に軽く当てると、会場は静まり返る。髪を軽く掻き上げてマイクを撮った葦原は、ちらと相澤のほうを見て、唇だけで「ありがとう」と囁いた。


 予餞会のステージに立たせてほしいと頼んで来たのは、葦原のほうだった。彼曰く、「声は全く出ないわけではない。ただ、音域が狭くなった」そうで。

 まあ、音域が狭いだけならば問題は無かった。相澤のバンドは男女混合で、全員が歌える。葦原には無理な音域を回避して貰い、その分を他のメンバーでカヴァーする手段は幾らでもあるのだから。


 ただ、セッションをしてみてわかった。葦原の喉は極端に弱い。3回も合わせれば、声が掠れて出なくなる。声量は十分で、音程も正確だが、確かにこれではレコーディングすらできないだろう。歌振りやコーラス合わせは難航し、葦原は何度も謝罪の言葉を口にしていた。


 しかし、やはり彼は天性のシンガーだった。葦原と合わせていると、部室に積み上げられた埃まみれの椅子や机が、スタジアムを埋め尽くす観衆に見えた。喉が詰まって掠れた声すら仄かな色気となり、ぞっとするような病的さを伴って輝いた。葦原の歌声を知らない芽衣子は彼の姿に怯えていた。相澤たちは、葦原と共に演奏できることにただただ感動していた。


 そして今日、葦原は舞台に立った。その反響は想像通りだ。食い入るようにステージを見詰める数千の瞳。雷鳴のようなシャッター音。葦原は眩しそうに天井灯を見上げ、長く、長く息を吸った。


「――“私の眼に映るのは ただ碧に揺れる光の網”……」


 柔らかく囁く詞は静謐さを伴い、深い深い渦を巻く。「乱反射」をリクエストしたのは相澤だった。『葦原聖の最後の舞台』に相応しい曲だと思ったからだ。はっきりとそう伝えたとき、葦原は優しく微笑んで頷いた。


 光を浴びる制服の後ろ姿。その背中越しに僅かに見える、唖然とした観客の表情。呼吸のひとつすら音楽の一部にして、眩しそうに葦原は歌う。


「――“夢に翼を奪われて 孤独の舞台で独り踊る”」

「――“破れたドレスで着飾れば 見慣れぬ化粧が崩れ落ちる”」


 誰も、歓声を上げない。声を上げられない。その曲はあまりに重く、あまりに哀しい。相澤は慣れないエキゾチックな音階に縺れそうになる指を必死で動かす。慣れたはずの弦の重さが、いつもよりも暴れているようだ。己の心臓の鼓動と向き合い、相澤は前を向く。


「“恨めども怒れども焦がれども あなたはきらきら乱反射”」

「“微笑みで私を包んで そしてああどうか どうか”」


 曲が膨らんでいくと、闇の中からベースの音色が聞こえてくる。降り注ぐシンバルに、行進曲風のドラム。葦原がふわりと腕を上げれば、ストリングスの音色に乗って、レッドスペシャルが鳴る。


 原曲のハープからアレンジしたアコースティックギターソロを弾きながら、相澤は思う。結局、この曲は誰に向けて書かれたものだのだろう。もちろん、自分の中のインスピレーションだけで書いた曲は山ほどあるから、葦原が特定個人に向けて作ったものだと断定することはできない。


 だが、やはりこの「乱反射」は、誰かに向けて書かれたものであるような気がする。そしてその“誰か”は、たぶん、染井なのだろう。自然と綻ぶ頬は、観客席で葦原を見守る染井の顔を想像したからだ。


――染井先輩、喜ぶかな。

――葦原先輩も、染井先輩の前で歌えて、きっと。


「“神様お願いあと少し 最後の台詞を歌わせて――”」


 水草の浮く湖面に細波が立つが如く。そしてそれが大きな流れとなり、全てを押し流すが如く。繊細な歌声は哀しい言葉を紡ぎ、光の中に消えていく。ヴァイオリンの旋律をなぞる芽衣子の音色。コーラスを作りながら、歌声を重ねられる喜びに、相澤は幸福を感じる。


 憧れていた。大好きだった。舞台を見上げた中学生の頃から。彼のようなステージを作りたくて、重音楽部へ入った。そして彼の苦しみを知った。悲しみを知った。大好きだった彼のバンドが、虚構に満たされていることを知った。


 それでも、思い出の中のステージは色褪せなかった。葦原の姿は闇の中に輝き続けて、それどころか光を増した。そして今日、このステージで知った。彼はもう伝説となってしまった。どんなに手を延ばしても、憧れても、絶対に届かないのだと。それは星に手を伸ばすように。海の底から、空を夢見るように。


「“ああどうか私を 愛さないで私を”」

「“ああどうか私を 愛さないで私を”」


 曲の最後は、幾度も繰り返される拒絶の言葉だ。瞼を閉じた葦原は、やはり微笑みながら歌い続ける。それがやがて消えて行ったとき、拍手は上がらなかった。静まり返った体育館は薄気味悪さすらあり、しかしそれは好都合だった。


 いつの間にか舞台の上に揃っていた仲間たちと顔を見合わせ、相澤は頷く。さあ、アンコールの時間だ。芽衣子がイントロの最初の一音を鳴らすと、やっと誰かが悲鳴を上げた。


「おい。相澤おい」


 背中をつつく霜山が、変な顔をしながら愛機のSGを手渡してくる。まさかここで彼がローディー役を買って出るとは思わなかった。使わないアコースティックギターとSGとを交換し、肩にかけると、いつもの重さに安心する。


「おい。次のライブのときは――いや、なんでもねえわ。頑張れよ」

「おう? おうよ。ありがとね」


 意味も無く鼻を掻いて去って行く霜山。顔を上げると、マイクを引き寄せた葦原と目が合った。いつもは嘘くさい葦原の笑顔が、今日は綺麗だ。いつも自分を偽っている葦原が、素直な顔をする。それがたまらなく嬉しい。


 ざわつく観客たち。温かい色の照明が降り注ぐ。咳払いをした葦原が、優雅な仕草でマイクを持つ。奇跡なんていうのは起こらない。できること以上のことはできない。このステージでだけ、葦原の声が元に戻るなんてことは無い。だから自分たちは、できる限りのことをするだけだ。


 最後に選んだ曲は女王蜂の「緊急事態」。派手だがヴォーカルの音域が低めで、重苦しい自分たちのバンドのサウンドにも合う曲だ。この曲は葦原の希望だった。葦原はレッドツェッペリンを歌いたがるだろうと思っていた相澤たちが選曲の理由を問うと、葦原は恥ずかしそうに笑ってこう言った。


――「この曲はきっと、ボクがいちばん大好きな人の道しるべになれるから」


 爆発する音楽。両手を上げて応える観客たち。葦原の声は次第に出なくなっていくが、誰もそんなこと気にしていない。始まれば終わりに向かって進むだけなのは、音楽も人生も同じこと。疾走する音楽の中で、相澤は確かに、葦原の最後のステージを一秒たりとも見逃すまいと微笑んだ。


***


 知らない曲だった。明るくて前向きで、ひたすらに疾走するメロディ。それなのにネガティブなのかポジティブなのかわからない片想いの歌詞。周囲の友達が「女王蜂だ」と騒いでいるが、染井はそれが曲のタイトルなのか、アーティストの名前なのかということすらわからない。騒ぎの中でぽつんとひとり立ち尽くし、染井はひたすらに葦原の姿を見詰める。写真なんか撮っていられない。このステージを見届けなくては。自分には、その義務がある。


 葦原は多分、半分も歌っていなかった。前曲の「乱反射」で喉のほとんどを使い切っているのが、染井の耳にもわかった。けれど、相澤たちが随所でコーラスを入れ、葦原を休ませている。乱高下する旋律は、重苦しいオケは原曲の通りなのだろうか。わからない。この曲を知らない。知らないけれど、惹き込まれる。


 間奏で曲調が広がると、芽衣子のギターソロが入る。葦原は華麗に彼女を紹介しつつ、踊るように音楽を感じている。色素の薄い髪が暖かい光に揺れ、きらきら輝く。飛び跳ねる観衆が回すタオルの海の向こうで、音楽が繰り広げられる。


 知らない曲だった。間奏が明けると、授業の終わりを告げるチャイムのメロディのようなリフの上で、振り絞るように葦原が歌う。もう限界だ。きっと喉は焼けるように痛んでいる。けれど彼は幸福そうな表情を崩さない。相変わらず、前向きなのか後ろ向きなのかわからない歌詞。視線が囚われて離せない。頬を伝い落ちる涙を拭う瞬間すら惜しい。


――そんな高い声、あなたには出ないでしょう。


 音楽が終わっていく。終わっていってしまう。今この瞬間が終われば、どんな記録を見返しても時が巻き戻る事はない。気づけば周りのみんなが泣いていた。唇が塩っぱくて、やるせない気持ちが込み上げる。けれどそれ以上の喜びが胸に溢れる。


 やっぱり自分は葦原が好きだ。ステージに立つ葦原が好きなのではない。葦原の全てが好きなのだ。彼が嘘つきなことは知っている。本当の葦原の姿を見抜いていないわけがない。理不尽で屈折して、そのくせ真っ直ぐな幼馴染。彼を守りたかった。自分は、彼をちゃんと守ってやれただろうか。それもわからないまま、自分たちはもうすぐこの町を去る。


 降り注ぐ光と轟音めいた音色。激しい喝采の中で音楽は終わる。ステージへ押し寄せる観客たちから逃げるように、葦原は踵を返す。ほんの一瞬こちらを見て、悪戯っぽく笑いながら。


***


 伝説の学生バンドのヴォーカルが、ワンステージ限りの華麗な復活を果たした。そんな話題で音楽界が騒然となった1週間後、住川市立第5高等学校の卒業式は、父兄に見守られながら、粛々と執り行われた。


 卒業生代表のスピーチに立ったのは染井遥。本来ならば元生徒会長である葦原が喋る予定だったのだが、予餞会で無理をした葦原は声が酷く嗄れていて、急遽代打となったのだ。成績優秀で品行方正な染井は、慣れた口調で代役を見事にこなし、最後に、こんな話をした。


「本来ならば結びに、高校生活で1番の思い出の話をしようと思っておりました。けれど、林間学校、予餞会、文化祭、体育祭、修学旅行……どれを取っても大切な思い出で、ひとつに選べなくて」


染井ははにかみ、髪を耳に掛ける。アイロンの当てられた染井の詰襟は皺ひとつ作らない。卒業生たちは、軽く頷きながら染井の話を聞いていた。


「でも、みんなに伝えたいことがあります。普通の女子高生として過ごした毎日が、私にとっていちばんの幸せでした。私が私らしくいられたこの学校での学生生活を、この先もずっと誇りに思います」


しっかりと胸を張り、大きな声で語った染井は、言ってから恥ずかしくなったのか、うつむき気味に微笑んだ。在校生席で膝を揃えてその話を聞いていた相澤は、そんな染井へ心からの拍手を贈った。


そうして、胸に花を飾った126人の卒業生たちは体育館を後にした。なお、本来の計画ならば卒業生の退場時に「緊急事態」を演奏する予定だった軽音楽部は、楽譜を重音楽部に盗まれてしまっていたため、仕方なく「3月9日」を演奏していた。


***


「あーあ。終わっちまったな」


 空っぽになった教室で、服部は誰に言うでもなく呟く。机に座っても、もう誰かに怒られることは無い。


「おめーら盆暮れ正月には帰ってこいよ? おれひとりで寂しいかんな?」

「どうだろね。ぼくは飛行機の距離だからさ。遠いからなかなか帰ってこられないかも」

「おれは帰るつもりだぜ。おまえが寂しがってピーピー泣いてるのが目に見えるからな」

「やっぱ木津は帰ってこなくていいや」

「は?」

「ハハハ、同意」

「は?」


 軽口を叩きつつも、背中合わせの木津から伝わる体温がなんだか寂しい。窓の外に広がる見慣れた校庭の景色。クラスメイトたちは既に帰ってしまった後で、校門の近くにはパラパラと、別れを惜しむ見慣れた顔が見える。


「やり残したことは?」

「おれはある」

「ぼくはないね」

「嘘だろアッシー」

「後悔はあるよ」

「何さ」

「予餞会、あのバンドだしさあ。やっぱ『イニュエンドウ』歌えばよかったかなあって」

「見え透いた地雷を踏もうとするなアッシー」

「せめて『愛という名の欲望』にしとけアッシー」


 盛大に装飾された黒板を撫でる葦原の指が、ふと空中を彷徨う。葦原は明日、この町を発つ。この夜に予定されている打ち上げには出席しないのだという。引越し業者の都合でそうなったそうだが、本当のところはわからない。


「聖ってなんの勉強しに行くんだっけ。おまえって成績良かったよな」

「なんてことない文学部。やりたいことはそこで見つける」

「作曲すりゃいいのに。歌えなくてもできるだろ」

「音楽科の受験には歌とピアノが必要だから」

「おっ、考えはしたんだな?」

「バレちゃった。ま、今ってパソコンあればどこでも作曲できるしね」


 全くもってその通り。頷く服部と木津を振り返り、葦原がはにかむ。まだ声は掠れているが、その表情の清々しさは今までに見た事がないほどだ。


 葦原のラストステージは、それは見事なものだった。昔と比べて声が細くなっていたものの、その物哀しい雰囲気が寂しいバラードとよく似合って。そして続くナンバーでは、振り絞る高音が強烈で。最後の上がりまで見事にやり切ったのは、少々やり過ぎだったが。


 予餞会は盛り上がった。相澤は舞台作りが上手い。少ないカードで最善策を見つけるのが得意なのだ。しかしバンドの成長には目を見張るものがある。瀬戸芽衣子を手に入れてからの重音楽部は、明らかにレベルが違っている。ただ、そもそも重音楽部のレベルや人気やモチベーションが落ちていたのは――。


「あの子たちに十字架を背負わせてしまって、申し訳ないと思ってるよ」


 寂しく呟く葦原も、自分たちのいる机に腰掛ける。3人分の体重がかかると、オンボロ机の軋みは嫌な類の音となる。


 結局、重音楽部が堕ちていた理由は、葦原の一件があったからなのだ。この学校の生徒たちはクイーンのファンが6割、ツェッペリンのファンが5割。そういう人間たちに囲まれている重音楽部が不人気になる理由なんて、そういうトラブル以外に無い。


 葦原はそのことにずっと気を病んでいた。重音楽部を潰してしまったのは自分だと、そう漏らしていた。だから彼のラストステージは、重音楽部の門出のためのファーストステージでもあった。あのステージを見た3年生たちが皆涙を浮かべていた理由は、その日訪れた一朝一夕の観客にはわからない。


 けれど、葦原が責任を感じる必要なんてどこにもない。終わりよければ全て良し。そういうものだ、青春なんて。


「ばーか、サバスのファンだぜ。十字架なんか大喜びで背負うさ」

「むしろ進んで背負うかもな」

「……そうだねえ。そうかもねえ」


 眠気を誘う教室の生温さも、少しずつ消えていく。それはまるで役割を終えて命を全うした生き物の、末期の体温のように。あれほど嗅ぎ慣れた灯油の匂いも愛おしい。深呼吸して、3人で背中を預け合う。


「遥の言う通りだな。色々あったけどさ、こーして過ごしてんのが楽しかったや」

「いやァ? おれは林間学校楽しかったぜ? ほら、伊澤と徳光が新幹線乗り遅れて……」

「仲良し鉄ちゃんコンビの日本縦断大冒険。あったなあ。正直わざとやったんじゃないかって思ってる」

「徳光はともかく伊澤はやるだろうな。あとあれ、プールの授業のときさ、おめーと小井手がシャワーぶっ壊したことあったじゃん」

「人聞き悪ィな! あれは床が古くて抜けただけだ。まあそこから行方不明だった30年前のタイムカプセル出てくるとか誰が予想したよって話だが」

「そーいやアッシー、相澤ちんに裸見られたことあったよな?」

「その話マジやめて。それマジの黒歴史」

「それ知らんのだが。何があったらそうなる」

「こいつおおむね半裸じゃん。着替えるときとかライブ後半のロックスター状態じゃん。で、2年ンときさ、ズボン下ろし流行ったじゃん。そんころ、相澤よくうちの教室来てたじゃん」

「あー、パンツまで行っちゃったか。それは悲惨な事故だな……」

「いやそもそもパンツ履いてねーからこいつ」

「は? キャラ付け?」

「キャラ付けでパンツまで脱ぐと思う?」

「じゃあ普通に好みでノーパンなのかよ。おれ知らなかったんだけど。は? おれずっとノーパン野郎と同じ教室で勉強してたの?」

「むしろおめーなんで気づかなかったんだよ木津クンよぉ」

「……ちなみに相澤の反応は?」

「LINEで謝ったら『ありがてえモン拝ませていただきやした』って」

「うっわ逆にキツい。心遣いが苦しい」


 そんな相澤からLINEが届いたのは、その時のことだった。アプリを開いてメッセージを確認し、葦原は笑う。


「『葦原&木津&服部先輩、どーせ感傷的な気分なって一緒にいるんでしょ。下で一緒に写真撮りましょうよ。染井先輩も待ってますよ』だって。見透かされてるね」

「そろそろ行くか。いやー、長居しちまったな」

「ああ、名残惜しいがな」

「……こういうとき、誰にLINE届くかで人望って見えるよねえ」

「やめろノーパン野郎」

「ノーパン野郎のくせに」


 軽口を叩き合いながら、軽い鞄を肩に掛ける。そして筒に入った卒業証書で互いの頭をポカポカやりつつ、二度と戻らない教室を後にした。


「この窓割ったの誰だっけ? はっとりくーん?」

「あれはマジで事故だって! 死ぬかと思ったぞマジで!」

「おれも死ぬかと思ったわ。おめーは怪我が多すぎんだよ慌てんぼめ」


 誰もいない廊下を歩いても、ドラマのように思い出が蘇ったりはしなかった。見慣れた景色は見慣れた景色のままそこにあり、感傷も何も、あったものではない。胸に花を飾ったままの3人は、子供の頃と同じ笑顔で薄暗い階段を降りて行く。その足がふと止まったのは、傾きかけた陽が指す昇降口へ差し掛かったときのことだった。


***


 葦原の存在に気付き、クラスメイトの女子たちと記念写真を撮っていた染井が戻って来た。詰襟の前を内側から手で合わせ、居心地悪く感じていた相澤は、傍らの芽衣子と共に顔を上げる。


「……染井さん」


 名前を呼ばれた染井が、恥ずかしそうにセーラー服のスカートの裾を摘まんだ。サイズがほんの少しだけ合っていないのは借りものだからだ。帰って行く同級生たちに軽く手を振り、染井は少し首を傾げる。


「重音のみんなが用意してくれたの。似合ってる……かな」

「……」

「もう。こういうときはお世辞でいいから何か言ってよ」


 校門の脇に植わった桜の木のおかげで、この辺りは薄暗い。しかし春に向かおうとする仄かに温かな木漏れ日が挿し込み、向かい合う染井と葦原を柔らかく照らす。見守るのも野暮だなあと思いつつ、相澤は芽衣子と肩をくっつけあって、少し離れた場所からふたりを眺めていた。背中に隠れた尾津たちも、顔だけ覗かせて様子を伺っている。


 卒業式後のホームルームが終わってから、生徒会の星野が中心となって、染井をセーラー服に着替えさせた。彼女によれば、本来は卒業式も女子制服で良い筈だったのだが、それは染井本人が拒否したらしい。3年間共に過ごした制服と一緒に卒業したい、と言って。


 身長が180センチを超える染井にサイズが合う制服を探すのには苦労した。住川高の中でいちばん大きなセーラー服の持ち主は柔道部主将の佐々木という少女だったが、彼女の体格はふくよかで、華奢な染井には合わなかった。


 最終的には和田の姉のものが程よい感じだということで結論付いたが、古い物ゆえ、シルエットの雰囲気が違っているのはご愛敬。住川高の制服は現在のデザインでリニューアル3度目なのだ。ただ、その微妙な違いも、星野がほんの数か所仮縫いするだけでほとんどわからなくなった。その様子を見て、相澤は初めて星野を尊敬した。


 そんな星野は、2階の窓から昇降口の様子を見守っている。相澤と目が合うと、彼女は元気に手を振った。


「……ねえ葦原くん。なんで黙ってるの。恥ずかしいじゃん」


 困って眉尻を下げ、染井は少しもじもじしている。それはそうだ、葦原の表情は真剣すぎて怖い。やがて染井は痺れを切らし、不躾な視線を送ってくる葦原にずいとにじり寄って、その胸を小突いた。


「レディをじろじろ眺め回すのは失礼よ。紳士のあなたらしくない」

「……ぼくは――」


 静かな風が吹く。春一番には遠いが、雪を解かす熱を微かに孕んだ風だ。染井の細い紙がふわりと広がり、葦原の頬にもかかる。不思議な沈黙。それを破るように、色素の薄い葦原の瞳から雫が落ちる。


「ぼくは……ぼくはハルちゃんに何をしてあげられたんだろう。わからないよ、いくら考えてもわからない。わからないんだ……」


 いちど流れ出した涙は止まらず、頬を濡らし続ける。染井は両手を伸ばして葦原の輪郭を包む。光に滲むふたりの姿が、酷く遠くに見える。


「ぼくは独りよがりで、馬鹿で……ハルちゃんに、何もしてあげられなかった。ぼくはいつも、自分のことばかりだ。ぼくは……ハルちゃんに、幸せに生きて欲しいってふりをして、それで……」

「そうね。葦原くんって馬鹿だなあって思う」

「だから……でも、わかったんだ」


 ぐずぐずと洟を啜る葦原の声は、掠れてほとんど聞こえない。染井の瞳に映っているのは、ステージで観客を熱狂させる青年ではなく、まだ幼い少年が泣きじゃくっている姿だ。また風が吹き、桜の芽が揺れる。


「――ぼくは、ハルちゃんが大好きだ」

「わたしもだよ。ひーくん」


 染井の迷いない言葉に、葦原がやっと笑った。涙にまみれたその表情はどこまでもあどけなく、平素の彫刻めいた美しさなんてどこにも無い。染井の親指にむにむにと頬を弄ばれ、葦原は唇を尖らせる。良く晴れた穏やかな午後。しかし少しずつ陽は傾き、影が淡くなっていく。


「さよなら」

「うん。さよなら」

「会いに行くよ。絶対だよ」

「わたしも。ひーくん家事できるか心配だし」

「できるよ。ちゃんと練習したもん。ハルちゃんだって――」


 こんな時代だ。物理的な距離が離れても、言葉が、時間が遠くなることはない。今日だってきっと葦原は、新天地へ向かう電車の中で、染井とメールのやりとりをするだろう。それでも「さよなら」を言うのは、新しい道へ歩み出すためだ。


「……先輩、良かったな。何年か前は『愛さないで』って言ってたのにさ。ちゃんと『好き』って言えて」


 ずっと黙ってふたりの会話を見守っていた相澤は、眩しさに目を細めながら呟いた。相澤の肩に頭を凭れさせつつその言葉を聞いた芽衣子は、しばらく口を閉ざした後、小さな欠伸をする。


「つかさちゃん。あの『乱反射』って曲ね。たぶん、染井先輩に宛てて書いたんじゃないと思うよ」


 芽衣子の言葉に問い返そうと思ったが、芽衣子は瞼を閉じて微笑むばかりだ。これはきっと、もう何も言うつもりが無いのだろう。相澤は頭を掻き、スカートの裾が脚に絡むのを厭いながらため息をつく。


 春への期待を胸に、誰もが微睡む静かな日。126人の卒業生たちは、振り返りもせずに旅立って行った。


***


 煙臭く薄暗いスタジオにただひとり座って曲を書く。秋の終わり、冬の始め。わかりやすい嫌がらせで、大した理由もなく没を喰らうのはどうでも良い。慣れたから。


 シングルのカップリング曲を作るように、と言われた。シングル曲は古くさいロックだから、2曲目はバラードにしてくれ、というのがボスの注文だ。まあ、どうせ正解なんて無い。締切日ギリギリまで書きなおしさせられて、良い悪いも無く、最後のものが採用される。そして「仕事が遅い」「レベルが低い」などと詰られる。それにも慣れた。慣れてしまった。


 青い壁のスタジオは、空調が切れていて酷く寒かった。時折咳き込みながら、白い紙にペンを走らせる。ここのところ調子があまり良くない。体調を崩しかけている。しかし、既に日付は真夜中を遥かに過ぎた。ボスの一行はとっくに夢の中だろう。悴む指先へ吹きかけた息は、微かに白く見えるような気がした。


「……うーん」


 バラードを書け。そう言われたときから、主題は決めていた。大好きな同級生の少女へのラブソングを書きたかったのだ。だが、これが難しかった。何を書いても何かが違う。それに、歌にするのが気恥ずかしい。やっぱり、まだ16歳にしかなっていない自分に「本物の」ラブソングを書くのは無理かと思って、今は行き詰っている。


 足元に散らばる紙の山は、書いては消して、ぐしゃぐしゃになった音楽の断片だ。頬杖をついても、部屋を歩き回っても、なんだか何もしっくり来ない。尤も、今悩んでいるのは新たな主題を何にするか、ということだ。


「……」


 迷ったり歌ったりしているうちに、意味も無く、先日の学校説明会の時のことを思い出した。何ということもないいつものステージで、いつもの演奏をして。照明も何も無かったし、つまらないライブだったと思う。


 ただ、とても印象的だったことがある。最前列でステージを見ていた子のことだ。綺麗な黒い髪をした、知らない子だった。なんとなく見覚えがあったのは、地元の中学校に通っている子だったからだろうか。


 その子は大きな黒い瞳を輝かせながら、ステージを見詰めていた。どこまでも真っ直ぐで、一点の曇りも無い眼差しで。夢中になって身を乗り出しながら、幸福そうに。気付けば自分はその子のために歌っていた。乱反射するその子の瞳に、歌声が届くように。そして自分の想いの全てが、悲しみの全てが届くように。


――そうだ、あの子に曲を書こう。


 思い付けば、ペン先が踊り出す。海底のようなスタジオの中で孤独に身を沈ませながら、憧れの視線に応えるように。この曲をあの子に聴いてほしい。採用されたら聴いてくれるだろうか。そんなことを考えていると、口元に笑みが浮かんだ。


 それはきっと、ラブソングだった。名前も知らないあの子への。しかし最後の一言に「愛して」と書いて、消してしまう。


――ぼくは、きみが期待しているような人間じゃないんだ。

――どうかきみは、ぼくみたいにならないで。


 「愛して」と書いていたところに「愛さないで」と書きなおすと、久しく忘れていた悔しさが込み上げて、紙の上に涙の滲みを作る。どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのだろう。自分はただ、歌っていたいだけなのに。考えないように、思い出さないようにと封じ込めていた感情が喉元へ込み上げて、嗚咽となって背中を震わせる。


 青さの中に沈みながら、涙の海に溺れながら、震える手で顔を覆う。咳き込む喉は熱を持ち、腫れている。きっとこの声はじきに出なくなるだろう。そう遠くないうちに。それでいいんだ。声なんか、出なくなればいい。そうすればきっと、ここから抜け出せる。


――けれどどうしよう。歌えない自分には何が残る?

――歌えない自分には。


 零れ落ちる涙を拭い、「乱反射」と、その詞に名をつける。鼻歌を歌いながら机の上に突っ伏せば、やがて疲れた瞼は重くなり、意識が青さに溶けていく。


――そうしたら、あの子の思い出に縋りついて生きよう。

――そして、あの子に愛される人になろう。

――そしていつか、あの子と一緒に、この歌を歌うんだ。


 その寒い夜、青年は夢を見た。満員になった体育館で、碧い光を浴びながら歌う夢。灼けつく様に痛む喉。掠れる声。ちっとも酸素を吸わない肺。それでも夢の中の自分は、幸福に歌っていた。何故ならその傍らには、かつてステージの下から自分を見上げていたそのひとが、ギターを爪弾いていたから。


(2019年11月3日 第1部 完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さらば青春の狂気ども 雨宮夏樹 @N-amemiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ