第16話 『Some Day One Day』

「――よし」


夕暮れを過ぎた体育館で、加藤は顔を上げた。極寒の室温。凍える爪先。煌々とした白い灯りと対照的に、外はとっぷり闇の中だ。新聞紙の上を慎重に歩き、絵の具まみれの手足を拭いて周りを見回すと、一緒に作業していた美術部の部員たちは誰もいなくなっていた。


「おーいカトゥー、まだやってる?」

「……お、イトゥーにアクトゥ。居残り?」

「んだよアクトゥって。声に出して読みたい日本語かよ」

「ブハハ、なんかインド語っぽいな。ちなみにインドって少なくとも30の異なる言語と2000の方言があるらしいぜ」

「おまえの変なとこ博識なのクソむかつくんだけど」


 タイミングよくひょっこりと現れた阿久津と伊藤に軽く手を振ると、体育館の寒さが不意に骨身に沁みた。どうやら2人は、明後日に迫った予餞会のため、それぞれ作業をしていたらしい。阿久津の抱える巨大なビニール袋には、薄紙でできた花が大量に咲き乱れている。この花は確か、ステージの下にたくさん貼り付けるのだ。少々どころではなくダサいが、まあ、そういうチープなところも学校行事らしくて良いだろう。


「おー、すげえじゃん!」


 暫く声を出していなかったせいで、喉が渇いていた。靴下を履き、上着を羽織っていると、ステージに上がった伊藤が歓声を上げる。薄っぺらい鞄を肩に掛けた加藤は、ぼんやりした頭で足元を見下ろした。


 敷き詰められた新聞紙の上にそっと置かれた発泡スチロール製のカンバス。今日一日かけて描いた巨大な絵は、予餞会のステージの背景に飾るものだ。分割して運べるように切れ目を計算して張った濃紺の模造紙には絵の具の星が散らされ、銀で描いた燃えるような横顔は碧い視線を爛々と輝かせている。伊藤に倣ってステージへ上がった阿久津の「すげえ!」という声に、加藤は少しだけ照れた。


「すげえじゃん! これデカい筆で描いたの?」

「いや。筆の跡みたいに描いてるだけだよ。主線はペンキ塗るローラーで描いて、そのあと細かく加工してる」

「ほーん。言われてみりゃそんな感じだな。やー、めっちゃカッコいいわ」

「こんな背景の前で演奏できるとか最高だね」

「まあ加藤はおまえのために描いてねえけどな」

「ひっ、ひでえ!」


 長い時間集中していたせいで身体が冷えている。全身から漂う絵の具の匂いにため息をつきつつ、考えるのは見下ろす新作のことではなくて、美術室に残した下描きすらままならない絵のことだ。


 何週間か前から取り掛かったフレディ・マーキュリーの絵は、どれだけ描いても納得がいかなかった。有るはずのない正解を求めて幾らライブ映像を見ても、映画を見ても、筆が進んでくれない。それに落ち込む自分がダサくて、塞ぎ込んでしまう。


「――なあ、これのモデルって相澤先輩?」


 不意に聞こえたその声に、加藤は顔を上げた。特定の誰かに似せようと意識はしていない。言ってしまえば、男にも女にも見えるようにデザインしている。けれど、言われてみれば相澤に似ている気がする。何故そうなったのだろう。まあ、この舞台で重音楽部が演奏する様子を想いながら描いていたけれど、それで無意識に相澤に似せてしまう、なんてことは――。


「……いや。特に誰かがモデルとか決めてなくて……」


 静かに頭を横に振ると、阿久津は興味なさげに「ふうん」と鼻を鳴らした。


「おれ、おまえの絵の中でコレがいちばん好きだわ」


――え?


 阿久津に言われ、加藤は瞬きをする。こんな絵が「いちばん好き」だって? いつもと描き方を変えたところなんてほとんど無い。むしろ、デザインを考えてくれと言われて30分ほどで作ったもので、今まで描いた絵のような葛藤なんて欠片も抱かなかった。制作期間だって3日ほどだし、背景があるわけでも、丁寧に塗ったわけでもない。それが、どうして。


「……阿久津、おまえ何で――」

「よーし帰るぞ。明日は朝イチで装飾だ」

「おれは合わせだァ。ったく、そっちが合わせろってーの」

「おーアクトゥ。おれら帰りに華陽軒寄ってくけどお前はー?」

「……うん。行く」


 喉まで出かかった疑問符を胎の内に飲み込んで、加藤は無理に笑顔を作った。既に絵から興味を失くした阿久津と伊藤は「先行ってるわ」と体育館を後にする。取り残された加藤は、凍える体育館の中で、ただひとり呆然と描き上がった絵を見下ろしていた。


***


 3月某日。住川市立第5高等学校の予餞会は、校門の桜の蕾も綻ばないまま、雪の中で幕を開けた。


 その年の予餞会には観覧希望者が殺到したため、生徒父兄を除く一般客には急遽抽選制が採用され、倍率は実に10倍にも膨れ上がった。その騒ぎを受けて、いくつかのネットメディアと音楽メディア、そして全国ネットのテレビ局の取材も決定。雪に閉ざされた静かな町に取材陣が集まる珍しい風景に、生徒たちは震えあがった。


 予餞会の会場となる体育館へ入った観客たちは、まず目に飛び込む巨大な背景画に驚嘆した。体育館のステージ背面を彩る美しい横顔。濃紺の星空に煌めくその視線。そしてステージの周りに何百枚と飾られているイラストは、名盤のジャケットを在校生の似顔絵でパロディしたものだ。それらのアートディレクションを担当した加藤は記者からの質問攻めに合い、体育館裏のトイレに逃亡した。


 なお、加藤の代打として登場した阿久津は見事にインタビューをやり切り、その発言は立派に記事の一角を飾った。


 午前10時。軽音楽部の演奏する「3月9日」を聴きながら3年生が入場。取材陣は隙を見て葦原へ話しかけようとしたが、生徒たちに遮られて叶わなかった。代わりに矢面に立ち、いろいろ喋ったのは染井だったが、彼女の話も阿久津の話と同じく出鱈目もいいところで、隣にいた服部は笑いを堪えるのに精一杯となり、伊藤の演奏するインギーメドレーを聴き損ねた。


 1年生の学年合唱、軽音楽部のステージ、2年生の学年演劇を経て昼休み。午後の部は吹奏楽部の「ディープ・パープル・メドレー」によって幕を開け、続いて演奏された「ボヘミアン・ラプソディ」はソロに伊藤が登場したことによって大ブーイングが巻き起こった。


 観客の不満は霜山が披露した火吹きマジックでも収まらず、吹奏楽部は再び「ディープ・パープル・メドレー」を演奏。まあ常識的に考えて、そんなことで血の気の多い高校生たちが静かになる筈もなく。


 結局、星野はトリの重音楽部の出番を1時間繰り上げることを決断。これにより、控室でけっこう呑気していた相澤たちは、着の身着のままステージへ駆け上がることになったのだった。


 それは3月某日、校門の桜の蕾も綻ばない、良く晴れた午後のことだった。

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