第4話 『Sheer Heart Attack』

「り、リーダーが女の子連れてきたぞォ!?」

「女の子じゃなくて芽衣子だよ! あなたのお名前は?」

「尾津真人です!! 高校2年生!!」

「尾津くん! 可愛い名前ね、偉い偉い。撫でたげる。きみは何を担当してるの?」

「褒められた!! おれはね、ヴォーカルやってるよ!!」

「ヴォーカルやってるの?! 凄いじゃん! 偉いねえ。偉い子にはキャラメルをあげようね!」

「ありがと!! でもおれ虫歯あるの……」

「そっかそっか。あとでおねえさんと歯磨きしようね?」

「うん!! おれ、芽衣子のこと好き!!」


 部室に入ってから僅か10秒で尾津を懐柔した芽衣子の手腕と尾津のどうしようもなさに、傍観していた和田が盛大なため息をつく。相澤は苦笑して、部室の片隅に置かれた大きなアンプを引っ張り出した。

 まったく尾津というやつは、一事が万事この調子で買収されやすい。こいつは高校生にもなって飴玉で誘拐されかけたことがあるんだから、本当にどうしようもないやつなのだ。まあ、キラキラした目でキャラメルを頬張る尾津の背後に並んでちゃっかり撫でられ待ちをしている寺嶋は、もっとどうしようも無いが。


「おいテリー、おめーは下心あんだろ。どいてろ」

「……」

「恨めしそうな目でおれを見るんじゃねえよ。おめーまたエロ本没収されてたろ。学校でそんなもん読むなや」

「……チッ」

「舌打ちやめろ舌打ち」

「えっ、いまどきエロ本で抜いてんの?」

「瀬戸さんは驚くポイントが違ァう」


 半ば物置のような――というか物置を間借りして作られている部室の中に芽衣子がいると、場違いな違和感ばかりがあった。文化祭終わりで出入りが多かったためか、今日の部室は特別に埃の臭いが酷い。あまり換気ができない窓を開けるために相澤が動くと、和田がジャージの裾を引っ張ってくる。


「なあリーダー、なんであの子連れてきた? ありゃどう見てもウチ向きじゃねえだろよ。名前がメイ子だから?」

「んなわけあるか。勝手についてきたんだよ勝手に」

「まあさ、名前がメイ子だから連れてきてもさ、悪い理由だとは言わんよ。仕方ないもんな、名前がメイ子だから」

「んなわけあるか。勝手についてきたんだよ勝手に」

「いやあ、おれたちも常々さ。リーダーに足りないのはさ。ブライアン・メイだと思ってたからさ」


 ぼさぼさ頭を掻きながら背中をボスボス叩いてくる和田の笑顔に裏拳を食らわせ、相澤は窓を開けた。ギリギリと軋んだ音がするのは、窓枠の溝を長いこと掃除していないせいだ。北向きの窓は光も風も大して入れてはくれないが、それでも部屋の熱気は少しだけマシになる。骨董品に分類される域で古めかしく黄ばんだ扇風機をつければ、男臭くて仕方ない室内は、やっとひと息つけるような状態になった。


「みんな2年生なんだっけ? そこそこいい機材持ってんじゃん。これ全部私物?」

「散らかっててごめんな。ドラムとか壁際のデカいスピーカーとか以外は大体私物だよ。あ、でも、そこの白いギターは備品。10年前の寄贈品らしい」

「寄贈品ってこれガチのテレキャスじゃん。太っ腹な人ね。つかさちゃんはこれ使ってるの?」

「……弾けない。左利きだから」

「だからたまにテリ……寺嶋が弾いてるよ。おれも弾くけど、あんまギターって得意じゃなくてな。先輩とかが来たときのために部活前にチューニングだけはしておいてるから、もしギター弾きたくなったらぜひ使ってね」

「おれはね! なんも弾けない!」

「そっかそっか。えっと、そこのロン毛の彼が寺嶋くん?で、きみが――」

「和田です。寺嶋がベースで、おれがドラム。よろしく」


 尾津の頭を撫でながら好奇心を湛えた瞳でガラクタの山を見回す芽衣子に、和田が軽く手を挙げて挨拶する。適当な椅子を引っ張り出して座った相澤は、鞄の中を探ってペットボトルを掴んだ。暑さのせいで温くなった水を喉の奥に流し込むと、胃の辺りに不快感が溜まる。


 なるべく視界に芽衣子を入れないようにしていたが、腕についた甘い芽衣子の匂いのせいで、嫌でも彼女の存在を意識してしまう。どうしたものかとため息をつくと、なぜか寺嶋と目が合った。なんだその目は。こっち見んな。


「ところでさ、ずっと聞きたかったんだけど、重音楽部ってどんな部活なの? 軽音と何が違うの?」


 尾津に椅子を勧められ、使っていないドラム椅子にちょこんと腰掛けた芽衣子が、和田にそんなことを訊く。待ってましたとばかりに「それはな」と笑う面倒見のいい和田に、寺嶋が『重音楽部活動記録』と書かれた分厚いアルバムを手渡した。その一連の流れを傍観していた相澤はふと首を傾げる。あのアルバム、随分前から行方不明だったんじゃなかったっけ? なんで寺嶋が持ってるんだ? というかどこにあったんだ――?


「まず、重音楽部と軽音楽部の違いだが、端的に言えば何でも演奏できるのが軽音楽部、ハードロックとヘヴィメタルしか演奏できないのが重音楽部だ」

「質問! それだけなら、軽音楽部の中でHR/HM部門を作れば良かったんじゃないですか?」

「いい質問です。まず、この部名は今から30年も前、この部を立ち上げた初代部長の春藤悠太郎氏が、創部の際に『ヘヴィな音楽をやりたいのに軽音楽なんて名称は生っちょろい』という理由でつけたものです。ちなみにその頃、この学校にはまだ軽音楽部が存在していませんでした――」


――『重音楽部とはヘヴィな奴らがヘヴィな音楽をやるために作ったヘヴィな部活である』

 初代部長春藤悠太郎――ちなみに相澤のクラスの担任の双子の弟で、現在はジャズミュージシャン――の残したその言葉を、相澤たちは入部当初から心に刻みつけていた。


 軽音楽部がまだこの高校に存在していなかった1980年代、「軽」音楽という呼称が気に食わないメタル野郎どもが立ち上げたのが、この重音楽部だ。ただまあ実を言えば、当初のところはこの部活も、普通にポップスを演奏していた。要するに「軽音楽部を立ち上げようとした連中がたまたまメタル野郎どもだったせいで、変な名前の部活が誕生してしまった」というのが重音楽部の由来なのである。なんともつまらない理由だが、意外と世の中はそんなふうにできているのだ。


 創部からしばらくの間はそんな感じで上手いことやっていた重音楽部だが、1990年代に入ると校内にはオアシス・ブラー抗争の風が吹き荒れるようになり、同時に重音楽部内でも分断が起こるようになる。要するに、「重音楽部なんだからロックとメタルしか演奏したくない派」と「軽音楽部無いんだからポップス弾いても仕方ないじゃん派」がギターで殴り合うほどに対立してしまったのだ。


 進路希望調査票に「将来の夢:死んだ木」と書いていた当時の部長の小出川九郎は、その事態を重く見て、重音楽部をふたつに分けることを考えた。そして部員総員による話し合いと殴り合いの結果、この住川高校には軽音楽部と重音楽部というふたつの部活が存在することになったのである。


「――なんて言うが、実際のところは軽音楽部にもメタル専門のバンドがあってな」

「えっ?それじゃあ分けた意味無いじゃん?」


 長話を終えた和田が大あくびして、頭の後ろで腕を組む。床に座った尾津の頭の上にアルバムを広げていた芽衣子が眉を顰めたので、相澤は頬を掻いた。


「確かに最初は、そんな理由で重音と軽音とに分裂した。だがまあ今となっちゃ、それも20年前の話だからな」

「……と、いいますと?」

「早い話が、軽音楽部でやってけないクソ野郎どもの集まりなんだよ、ウチは」


 ぬるい室温に湿気った頬が、風に当たって冷えている。脚を組んだ相澤は不思議そうな芽衣子の視線を避け、天井を見上げて息を吐いた。


 和田の話の通り、重音楽部と軽音楽部の違いは、当初は「演奏する曲のジャンル」に過ぎない筈だった。それに、後から振り返れば、小出川が在籍していた当時の重音楽部の部員数は49人、バンド数は掛け持ちを含めて26もあって、分裂は必須だった。しかし、分裂の理由は人数の超過ではなく、あくまで部員たちの思想対立とされ、それが後の世代まで語り継がれてしまった。

 そして成り立ちからして対立していたふたつの部活は時が経つごとにその溝を深めて行き、特に選民思想の激しいメタル野郎ばかりが集まった重音楽部は、分裂以降、急激な勢いで閉鎖的になって行った。


 そう、重音楽部の「掟」は非常に閉鎖的だった。あのアルバムを持っていなければ入部禁止とか、この歌詞を覚えていなければ退部とか。ただし「実力があれば無条件で入部を許可する」という原則があったため、結果として実力はあるが協調性が無く、軽音楽部でやっていけないような厄介者揃いになった重音楽部は衰退の一途を辿った。


 ただ、今のどうしようもない惨状に至るまでには、幾つかの辛い事件もあった。しかしそれらは今日転入してきた芽衣子に話せるような、軽い話題ではない。ひとつだけ言えるのは、重音楽部の衰退の理由は、単なる分断や閉鎖的な空気だけではい、ということだけだ。


「――なるほどね。でもみんな、あんまり面倒くさそうな印象ないよ?」


 一通りの話を聞き終えて、無垢な芽衣子が小鳥のように首を傾げる。その仕草を見た尾津がウッと胸元を押さえた。相澤はため息をついて、複雑な想いを抱えたまま、唇の甘皮を舐めて湿らせる。


「そりゃそうさ。おれたちが入学する少し前くらいから『このままじゃ部が潰れる』ってことで、この部活もだいぶ緩くなったんだ。おれらが中学の頃なんて酷かったよな?リーダー」

「ん。クイーンすら演奏禁止だった」

「……今は演奏してもいいの?」

「今はな。前の部長は禁止派だったけど、相澤のゴリ押しで許可されたんだ。サバスを弾きたい、だからクイーンを弾かせろ、ってな」

「いみわかんねーよリーダー! つーかゴリ押したけど今までいちどもクイーンなんかやってねーじゃん!! ゴリ押し損だ!! 詐欺だぁ!!」


 ガァガァと喚く尾津と、部屋の隅に体育座りをしたままじっとこちらを見つめてくる寺嶋の視線が煩くて、相澤は唇を尖らせた。


「……ったりめえだろ。クイーンの曲ってのはなあ、ブライアン・メイじゃねえと弾けねえんだよ」


 幾度となく同じ台詞を言ってきたが、改めて言うとなんだか気恥ずかしい。「なんだそれ」と腹を抱えて笑いだした男どもを睨む相澤は、ふと芽衣子が思い詰めたような表情でセーラー服のスカートを掴んでいるのに気付いた。どうしたのだろう、どこか具合が悪いのか。心配になって相澤は腰を浮かしかけたが、立ち上がった尾津の背後に、芽衣子の華奢な姿は消えた。


「ま、そんな重音楽部も見ての通りの過疎状態で、ちょうど今朝めでたく廃部命令が下ったってわけだ」

「……そのことなんだが、朗報だ。副会長サマにかけあったところ、廃部まで猶予を頂けることになったぞ」


 一瞬の沈黙。後に「な、なんだってー!」の大絶叫。相澤は思わず両手で耳を塞ぐ。あんまりに大事を出すものだから、窓ガラスがビリビリ震えている。っていうかなぜ芽衣子まで叫ぶ。おまえは関係ないだろ。


「た、ただし条件付きだ」

「条件って?」

「……来週の月曜までに演奏できる部員を1人以上増やし、全員がテストで1教科も赤点を取らず、更に来年5月の春コンで体育館を満員にすれば、廃部まで無期限の猶予を与える、と」


 慌てて付け加えたその言葉を聞いて、芽衣子を除く3人が「無理だぁ」と床に崩れ落ちた。冷たい床の上を芋虫のように転げ回る男どもに戸惑う芽衣子は可哀想だが、ひとまず彼女のことは置いておいて、相澤は腕を組む。


「り、リーダー、そりゃ、あんまりだよぅ~」

「来週の月曜までって、今日もう水曜の放課後じゃねーか! ってことは実質あと2日?! 無理すぎねえ?!」

「……」

「テストも無理だぁ!! おれこないだのテストぜんぶ赤点だったもん!!」

「おれもだよ! つーかまず部員だろ! 誰に声かけりゃいいんだ? 1年の伊藤か? あの協調性ゼロのクソヤロー、重音候補だよな?!」

「……」

「無言で転がんなよ! なんか喋れよテリー!」


 阿鼻叫喚の地獄絵図。相澤は深いため息をつき、天井近くに飾られた『ブラックサバスを神と崇めよ』の古めかしい額縁を見上げる。助けて神様アイオミ様、もううちの部活はダメそうです。


 先ほど霜山に提示された3条件は、自分たちにとって厳しいにも程があるものだった。まあ百歩譲って、ひとつめの条件に関しては納得しよう。今の重音楽部は部活を構成できる最低人数の5名に達していないのだから。ただ、「演奏できる部員」っていうのは何なんだ。

 テストに関してもヤバい。相澤たちは揃いも揃ってみんな馬鹿で、4人合わせた偏差値は120に達しない。尾津なんか絶望的な成績だ。もちろん数学が一桁台の相澤も、人のことは言えないが。

 コンサートはもう論外。今年の観客、たったの5人。


「ま、そういうこった。重音楽部は廃部決定。みんなで仲良く首括ろうや」


 もうすでに達観している相澤がヒラヒラと片手を振れば、男どもはより一層転げ回って狂い悶えた。いい加減バカバカしくなって、相澤は脚を組み直す。

 夕方が近くなって風向きが変わったのか、窓から吹き込んだ涼しい風が、部室の中の淀んだ空気を掻き回していた。乱れた髪に指を通せば、なんとなく気持ちも落ち着く。


 いろいろ考えたって無駄だ。どうせこの世はlet it beだ。ポールマッカートニーは多くの場合において正しい。ここを片付けるのは骨が折れるだろうが、まあ、備品は僅かでほとんどは私物だ。いざとなれば生徒会にかけあって、引き取ってもらおう。あとはメルカリで売るとか。


「……ねえ」


 ぼうっとビートルズを口ずさんでいたら、不意に芽衣子が顔を上げて話しかけてきた。さっきからずっと話に入れず戸惑っていたようだが、どうしたのだろう。転入初日からこんな話に付き合わせて悪いなと思いつつ「どうした」と問えば、芽衣子は真っ直ぐな瞳を瞬かせ、つかつかとこちらへ歩み寄って来た。


「な、なに? 今朝みたいなことはちょっと勘弁――」

「そのアンプ、ちょっと貸して」


 両腕をクロスさせて自己防衛しようとする相澤の横をすり抜け、芽衣子は床に転がっている適当なシールドを拾い上げて、沈黙しているアンプへ、何の迷いも無く挿した。泣き止んだ尾津たちと相澤が呆気に取られながら眺めていると、芽衣子は部室の片隅の古ぼけたフェンダー・テレキャスターを当然のように持ち上げ、ストラップへ体を通す。慣れた手付きでシールドをギターに繋げ、アンプに電源を入れれば衝撃でノイズがしたが、それも一瞬で消えていく。髪をかき上げた芽衣子の指が軽く弦を撫で下ろすと、淡く金属質な音色がした。相澤は大きな目で何度も瞬きをして、芽衣子の一連の仕草を目に焼き付ける。


「ねえ。月曜までに1人入部って、あたしでもいいの?」

「え? ああ……だが、コードが弾けるくらいじゃ慣例的に入部は厳しくて……なあリーダー?」


 ぽかんと口を開けていた和田が、アンプのつまみを弄る芽衣子の問いかけになんとか言葉を返す。しかし相澤は和田に言葉を返さず、瞬きをするのも忘れて芽衣子を見詰めた。その相澤の視線に気付いたのか、芽衣子がふとこちらを見る。

 深い苔色の不思議な瞳。綺麗だ、と思った瞬間、芽衣子は下唇を軽く噛んで微笑む。どうしてこの少女の微笑みは、いつもどこか寂しげなのだろう。しかし「芽衣子」と呼びかけようとした声は、唸りを上げるギターの音に掻き消された。


――こいつは。

――こいつは、もしかして。


 スカートのポケットから手を出した芽衣子が、沈黙した弦の上に腕を振り下ろす。途端、鼓膜を突き刺したのは絹を裂くような轟音だ。その激しい音色に、校舎の中が一瞬、静寂に包まれる。1階の音楽室から聞こえていた吹奏楽部の練習の音色も、武道場から鳴り響く剣道部の掛け声も、演劇部の発声練習も。時が止まったような静寂と膠着の中、芽衣子が深く息を吸う。


 次の瞬間に空気を切り裂いたのは、弾丸のような音の洪水だった。淑やかな細長い指が指板を滑り、弦が打ち震え、アンプが雑音混じりの悲鳴を上げる。


「……『Brighton Rock』――」


 思わず呟いたその曲の名は、音の中心にいる芽衣子には届いていない。繊細な横顔は口笛でも吹いているような柔らかい瞳で指板を軽く睨み、音楽はますます加速していく。


 この曲は『Brighton Rock』。クイーンのギタリストが、自らの技巧を示すためにライブで演奏する曲だ。楽曲全体としては、声色の変化を駆使した遊び心に溢れるヴォーカル部分と、津軽三味線めいた16部音符の快速かつハードなギターソロ部分との対比が面白い。芽衣子が今弾いているのは、その、ハードなギターソロの場面である。


 本来はディレイを駆使し、複雑で知的な効果を狙った響きが特徴の楽曲だが、芽衣子はアンプに直繋ぎしたギターで簡易的に弾いているだけだ。校舎の中は静まり返っていて、芽衣子のギターの音だけが聞こえる。


 男どもは「速い」と呟きながら呆然と彼女の手元を見つめていた。しかし相澤が驚嘆しているのは、スタジオ盤の音源より、更にはブライアン・メイ本人によるどの演奏より速い芽衣子の指や、何のエフェクターもディレイも使っていないのに完璧な芽衣子の技術に関することではなかった。


――こいつ、弾きグセがブライアン・メイまんまだ。


 生身の演奏家ならば、誰でもある程度は演奏に癖が出る。演奏家による音色の違いは、この癖の差にも大きく左右されるのだ。それ故に、同じ楽器や同じ機材を使っているからといって、まったく同じ音は出ない。

 だが芽衣子のギターは、そういう意味で限りなく「本物」に近かった。近過ぎるほどに近かった。芽衣子は相当に「本物」研究しているし、ありえないほど練習している。手本となる音源を毎日聴き込み、何百、何千と動画で手元を確認し、何千、何万時間の練習をして、彼女はここまでになったのだ。

 それは馬鹿げた行為であるが、つまるところ芽衣子は――馬鹿みたいに、ブライアン・メイが好きなのだ。


――こいつだ。こいつだったんだ。

――ずっと探してた。こんなやつを、この部活に。

――いや、この人生に。こんなやつを。


 轟音は廊下に反響し、ディレイのような効果を伴って渦を巻く。最後の和音を派手に鳴らした芽衣子が静かに息を吐くと、窓から差し込む光に照らされた細かい埃が揺らめく。瞬きとともにこちらを仰いだ瞳は自信に満ちていて、けれどどこか寂しそうだ。

 胸がいっぱいで言葉に詰まり、拍手をしようと相澤が手を挙げたその途端、割れんばかりの歓声と拍手がどこからか聞こえてきた。


「わ、え、なんだ……?」


 見れば、いつの間にか集まっていた何十人もの生徒たちが、部室の出入り口にすし詰め状態で折り重なって、芽衣子へ喝采を送っている。開け放たれた窓の外からも、「誰だ?」「重音?」というざわめきと歓声が聞こえてくる。やがてその声は部室に流れ込んできた連中の声と混ざり、アンコールを求める巨大な叫びへと変わる。人混みの中には教師たちや霜山の姿もあって、相澤は困惑しつつ、ため息をついた。


「ほら言ったじゃん? リーダーの人生にはさ、ブライアン・メイが足りないって」


 和田に肩を小突かれる相澤の背後で、ピック代わりの10円玉を掲げた芽衣子が、「なんかリクエストある?」と群衆に問いかけた。その向日葵のように晴れやかな笑顔を見て、相澤は確信する。やはり重音楽部は終わらない。終わらせられない。彼女のために。


「……やっと……見つけた」


 やっぱり自分の人生に足りなかったのは、ブライアン・メイだったのだ。自然と綻ぶ口元は、爪先を自分のSGの方へと向かわせる。こうなったら今日は沈黙したままの愛機を存分に唸らせてやらねばならない。久々の観客試合だ。すれ違う芽衣子と視線がぶつかると、芽衣子は恥ずかしげに髪を掻き上げた。


「……で? 入部の許可は?」

「ああ――明日からは自分のギターを持ってこいよ?」


 そう声をかけた瞬間、芽衣子が浮かべたとびっきりの笑顔は、100万ドルなんていう安いものではなかった。

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