第5話 『Smells Like Teen Spirit』

「こないだ転入してきた瀬戸先輩ってさあ……可愛くね?」

「瀬戸先輩ってあれだろ? 転入初日に重音の部長にKISSかました話題の転入生」


 カレーパンを貪りながらいやらしい笑みを浮かべる伊藤真人の儚い恋は、いちご牛乳を紙パックから直飲みする阿久津颯の一言で終焉を迎えたようだ。世界一スピーディーな失恋模様だが、この伊藤というクソ野郎は購買で手が触れ合った女子生徒に告白したこともあるクソ野郎なのである。目に見えて硬直している伊藤を鼻で笑い、加藤康一は肩まで伸ばした茶髪を掻き上げた。


「で、でもよォ、重音の部長って相澤パイセンだろ?」

「相澤パイセンだよ。こないだOLに絡んでた他校の不良3人ぶちのめしてOLに惚れられた相澤パイセンだよ。ブレーキ壊れて坂道爆走してきたチャリンコ片手で止めて幼稚園児とチャリ運転手救った相澤パイセンだよ」

「タイマン張ろうってんなら止めやしないけど、あのひと喧嘩クソ強いぜ。ボクシングやってたらしいし」

「んだよォ、シンプルに勝ち目ゼロじゃん!」

「まず同じ土俵にすら立ってないことを自覚しろや」

「でもおれ相澤パイセンよりギターうめえよ?」

「ギターがクソ上手くてもクソ野郎じゃしょうがねーよ」


 昼休みの教室は10月の終わりの怠惰に包まれていた。校舎2階にある1年生教室は地面の熱が伝わり、ほんの少し蒸し暑い。朝晩はぐっと冷え込むようになったが、まだ冬は遠くでまごついているような感じがする。それでも月の初めより昼間の気温は10度も下がり、過ごしやすい季節になった。


「ま、おまえは殴られれば殴られただけ強くなるタイプだろ? ならお誂え向きじゃない?」

「加藤おめー、おれに殴られろって言うのか?!」

「おうおう。骨は拾うぜ」

「阿久津まで! くそッ!」


 加藤は弁当臭い空気の匂いを嗅ぎながら、購買で買った握り飯の皮を剥く。美術部に所属している加藤は、11月の頭にある絵画展のため、ここのところ美術室に篭りきりだった。だが、その絵も完成に近づき、焦る心も少し落ち着いている。左指にできた筆のタコを爪で掻けば、阿久津が片眉を釣り上げた。


「加藤よォ、いい加減そのカーディガン洗えよ。汚えぞ」

「おまえはそのバンダナ洗おうぜ。めちゃめちゃ臭いよ」

「ぶはは、おめーら2人ともどっこいどっこいじゃん」


 愛用の深い緑色のカーディガンは、作業中にずっと羽織っているせいで絵の具まみれだ。一応たまに洗濯しているが、この絵の具は水では落ちない。苦言を呈してくる阿久津の赤いバンダナに包まれた額へデコピンを食らわせると、伊藤がニヤニヤ笑った。おまえこそ香水臭いと言い返しかけた加藤と阿久津だが、伊藤と同じ土台に立ちたくないので、軽く目配せして閉口する。


 この伊藤という男、勘違いが多く惚れっぽい上に打たれ弱いから、扱いが大変なのだ。数学居残り友達としてつるむようになって以降、加藤と阿久津は幾度となく拗ねた伊藤に手を焼いた。まあ、面倒な男モードを発動させている伊藤にちゃんと付き合ってやっているんだから、綺麗な友情といえるだろう。


「……つーかさ、相澤パイセンもよくやるよな。いくらアイオミが好きだからってボクシングまで習うか? 普通。せいぜい十字架ぶら下げるくらいだろ」


 ぼやく阿久津の遅刻癖は誰に似たのか。「得点パフォーマンスがアクセル・ローズ」という理由でサッカー部を追い出された阿久津の悪い癖は、自己分析ができないところである。そういう自分も似たようなものだが。

 そんな阿久津を鼻で笑いながら3個目のカレーパンの袋を開けた伊藤はイングヴェイ・マルムスティーンに憧れてギターを初め、コンテストで優勝した経験もある実力者だ。しかし、おまえこそ太るところまでインギーに似せなくて良いと思う。そんなことを考えながら齧った握り飯は、いつものチョコレートの味がした。


「加藤おめーまたチョコ握り? そんなん食ってんのおめーと葦原先輩くらいだろ」

「わかってないね。これ美味いんだよ。天下の谷蔵乳業謹製、おにぎりのラインナップは143フレーバーですよ。カロリーも高いスーパーフードだ」

「まずおにぎりの具のことフレーバーって言わねえよ」

「……谷蔵乳業の製品ってうちの購買以外で見かけたことねえんだけどよォ、企業として実在すんのか?」

「そこまでだ伊藤、その話題はこの高校のタブーだぜ」


 唇の前に人差し指を立てると、伊藤は素直に黙った。ちなみに同じメーカーの出している『チョコ明太子おにぎり』は地獄の釜が開いたかのような味がする。


 風が吹いて髪が乱れ、加藤は目を細めた。太陽の光で色の抜けやすい猫っ毛はカラーリング剤いらずといえば聞こえがいいが、それは天然パーマの人間に「パーマかけなくていいから楽だね」と言っているようなものだ。ちなみにこの髪型はカート・コバーンをリスペクトしたつもりだが、旧友たちからは「汚めのアバッキオ」と言われている。知ってるんだぞ。泣いてないぞ。


「そーいや伊藤よォ、おめー知ってる? 最近あの、隣の駅の近くの橋あんじゃん。あそこにさあ、幽霊出るってウワサあんだよね」

「ゆ、幽霊? なにそれ怖すぎんだけど。マジ?」

「ウワサだしマジなのかはわかんねーけどよ。なんか、制服着た女子高生の幽霊らしいぜ」

「女子高生の幽霊? それってただの存在感薄い奴とか、病弱でヒョロい奴が幽霊に見間違えられただけじゃね?」

「ぶっちゃけおれもそう思うんだよなァ。でも、このウワサのコト話してたのが吉良先輩と染井先輩でさ。しかも染井先輩は塾帰りに幽霊見ちゃったらしくて」

「えっ? 染井先輩が見たの? マジ?」

「マジ。葦原先輩とか寺嶋先輩とかのイロモノ系が言ってるんならまだアレだけどさ、染井先輩ってそーゆータイプじゃねーじゃん。だからガチ感あるな、って――」


 昼休みが終わるまではあと30分ある。美術準備室に置いた絵が気がかりだ。今すぐに弄れるわけではないから考えたって仕方がないけれど、あそこにあの色を置いてみたいとか、あの色は違ったかもしれないとか、あれこれ考えてしまう。そんな加藤の頭の中を覗き見たのか、阿久津が机の表面をトントンと指で叩いた。


「絵。気になるなら行ってくれば? 次の授業とかどーせビデオ観るだけだし。おめー美大志望だろ? 授業より絵描いてたほうが良くね?」

「……授業終わってから行くよ。課題たまんの嫌だし」

「カトゥーってそんな真面目ちゃんだったっけ?」

「少なくともおまえよりは真面目かな。ま、課題に追われたり怒られたりすることこそ時間の無駄じゃない? 先行投資ってやつだよ」

「はー、なるほどなあ。さすが加藤」

「おれたちよりテストの点高いだけあるぜ」

「高い、っても10点くらいの差だろ」

「は? なめてんのかてめー。おれら赤点だぞ?」

「あー、うん。それは正直すまんかった」


 たかが10点、されど10点。赤点回避ラインが30点なのだから、29点と39点じゃ大違い。他愛ないやりとりの中で握り飯を咀嚼し、ふと窓の外を見る。開け放たれた窓からは、秋風のカサカサとした音とともに、僅かなエレキギターの音色が聞こえてきていた。加藤は目を細め、数日前に見た瀬戸芽衣子の姿を思い出す。


 いつものように美術室で絵を描いていた放課後。絵筆を握る手の疲れを持て余し、なんとなく気に入らない背景の色彩と睨めっこしていたら聴こえた、吹奏楽部の演奏しているのとは違うクイーン。思わず椅子を蹴飛ばして階段を駆け上がったら、重音楽部の前には既に大きな人だかりができていて。 人波を泳ぐように最前へ躍り出れば、音のシャワーが全身を貫く。その恍惚とした瞬間に目眩を感じた途端、身体中の細胞が覚醒したような感覚があった。


 音楽の渦の中心にいた美しい少女の横顔は儚さに満ちて、けれど力強くて。しかしその姿を網膜に焼き付けるよりも前に、加藤は上級生の霜山に押し退けられ、伊藤に踏まれ、加藤に蹴られ、最終的には生徒会長の星野瑠璃に助け起こされ、3年生の葦原の豊満な胸に抱きしめられてシクシク泣いた。年柄年中シャツのボタンが全開な優しい葦原の胸は、母の胸より柔らかかった。


「……描かなきゃなあ」


 何の気なしに呟いた言葉は、この昼休みもギターを弾いているあの少女へ向けての淡い恋心かもしれない。自分はあの日、ギターを弾く瀬戸の姿を見て、何故だか「絵を描かなければ」という強迫観念に駆られたのだ。


 加藤は絵が得意だが、絵を描くことが好きなわけではない。絵を見せたら大人たちが喜ぶから、それが嬉しくて練習しただけだ。両親は「才能だ」と言って画塾へ通わせてくれたが、もともと情熱も何もないから、コンクールで落選しても、悔しさなど全く無かった。


 だから加藤は不思議だった。芽衣子の演奏を聞いた途端に生まれた強烈な想いは何だったのか。絵を描きたい。早く絵を描かねばいけない。ここままじゃいけない。もっとたくさん、絵を描きたい。これまで半ば惰性で絵を描いていた自分の中に湧いたその感情の出処を、加藤は未だに理解できずにいる。


「――あーあ、にしてもこの学校の奴らは見る目ねえよな。おれという超絶美技ギタリストがいんのによォ? 相澤パイセンみてえなスロー&ヘヴィに惹かれるなんて」


 思考の沼に溺れそうになっていると、唇を尖らせた伊藤が急に話題を変えた。加藤と阿久津は顔を見合わせ、やれやれと肩を竦める。この男は何かとつけて自分のギターの腕を自慢し、他人をこき下ろす。なりきりインギー選手権で優勝を逃したくせに、大した自信である。


「そりゃおめー、速さがあってもハートがねえからだろ。ギターとセックスは同じだぜ? だからモテないんだよおまえ」

「あんだとォ?! おめーらも童貞だろ?! つーかイングヴェイ馬鹿にすんなよ?! 速さばっかり注目されるけどなあ? めちゃめちゃ心込もってるんだからな!!」

「インギーに心がねえとは一言も言ってねえよ。おめーそれ遠回しにインギ批判してんじゃねーか」

「そーゆーとこだよ、そーゆーとこ」

「あ、ところでおめーら、映画どーする?公開日もう再来週じゃん」

「おっ忘れてたぜ。おれは公開初日に見るつもりだったから予定いれてねーけど、カトゥーは?」

「おれも画塾休むよ。阿久津こそどうなの」

「バイトのシフトやばかったけどなんとか休めた。いやー楽しみだな。もう4年くらい待ってるもんな――」


 悩みから目を背け、意味もないやり取りを繰り返す毎日。ぎゃいぎゃい吠える伊藤を横目に米粒のついた指先を舐めると、洗っても落ちない絵の具の匂いが微かにした。

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